【5】
なんとなく、電車に乗る気になれず、線路沿いの道を歩いた。
ほぼ無意識に歩き続け、ふと気が付くと、バスの営業所の前だった。営業所は電気がついていて、裏手には、眠るように駐車中のバスが並んでいる。
ひどく疲れを感じて、その様子をぼんやりとみていた。
営業所から誰かが出てきて、俺を不審そうに見た。逆光で一瞬わからなかったが、こちらに近付いてきてだんだん顔がよく見えるようになった。
名越さん。
気まずさと警戒心を示すメーターの針が振り切れる。
「今日は休みだろう?」
「ええ、まあ」
失礼します、と、踵を返そうとしたとき、呼び止められた。
「晩飯は?」
「え、いえ」
「うちで食っていけ」
は? こんな風に、プライベートで自宅へ招かれるような付き合いをしていたつもりはなかったから、かなり驚いた。何を考えているのだろう。
「遠慮するようなものを出すつもりはねえよ。いいから」
そう言い捨てて、さっさと自転車置き場から古びた自転車を押してきて、そのままスタスタと歩き始めてしまった。
親愛から誘ってくれているわけではなさそうだ。例えるなら、重要な話があるから、仕方がなく、とでもいうような。その有無を言わせぬ様子に、断ることもできずに自転車を押して先を歩く名越さんの後をついて行った。
名越さんのアパートは、営業所から歩いて20分くらいのところにあった。
いかにも家賃が安そうで、お世辞にも、きれいとは言い難いが、自分のアパートも似たようなものだ。
ここに来るまでも、自転車を駐輪場に置き、部屋のかぎを開ける間も、名越さんはずっと無言だった。ドアを開け、玄関のドアを押さえて、入りな、というように待っていてくれたので、
「失礼します」
と、小さくつぶやいたのが、営業所を出てから二人の間にあった初めての言葉だった。
名越さんは、無言でキッチンに立ち、料理を始めた。
手伝った方がいいのか? とも思ったが、一人でもやっとという程度の狭いキッチンで、男二人で並んで作業をするのも変な気がして、やめた。仕方がないので、座卓の前に正座をして待っていた。
気まずい無言の時間が過ぎて、おい、と呼ばれた。
「持って行け」
キッチンに入ると、同じ柄のどんぶりが二つ、同じように、インスタントラーメンが入っていた。
汁をこぼさないように、熱いのを我慢して運び、座卓の、名越さんが座ったのと反対側にどんぶりを置くと、割り箸をテーブルの上においてくれた。割り箸を用意する間に、名越さんは早速音を立ててラーメンをすすり始めていた。
「いただき、ます」
スープは味噌ベースで、具が、たくさん入っていた。ネギ、もやし、キャベツ、豚肉。
うまい。
一人暮らしは長いけれど、インスタントラーメンには抵抗があって、自分で買って食べたことはなかった。なぜか無性に懐かしく、思っていたよりずっと、安心できる味だった。
お互いに一言も話さず、ラーメンを啜る音だけ響いているのは、妙にシュールだった。でも、そんなことも気にならないくらい、夢中でラーメンを口に運んだ。
食べ終えて、名越さんは空になったどんぶりを無造作に重ねてキッチンに下げてくれた。
ごちそうさま、といったけれど、それには応えず、窓際に座り、タバコに火を点した。しっとりとした夜気が、カーテンを静かに膨らませて部屋に入ってくる。
手持無沙汰に座っていると、
「なんで、バスの運転手なんて、やっているんだ?」
と、聞かれた。口籠っていると、続けて、俺の出身大学と、生まれ育った町の名を口にした。
「あんないい大学を出て。こっちに仕事がなければ、田舎に帰ったってよかったじゃねえか。そっちの方が、まだ違った仕事があっただろうよ。ここに残ってまで、やりたかったわけじゃねえだろ」
子供の頃、バスの運転手を、格好いいなと思っていた。けれどそれは、電車の運転手だって、飛行機のパイロットだって同じだったし、だいたい、男の子なら一度くらい、なってみたい、運転してみたいと思ったりするものだろう。そこまで熱心に憧れていたわけでもない。
都会の、ある程度名の通った大学に進学したというのは、自分だけじゃなく、親や、担任教師にとってもステータスのようなものだった。仕事がなくて田舎に帰るしかなかった、というのは、負けのような気がした。バカにされる気がした。どうせ田舎で就職するのなら、初めから田舎にいればよかったじゃないかと、見下される気がした。
この町に残ることにしがみ付いていた理由を強いてあげるなら、それくらいだ。
俺は、人生の分岐点で進む先を決める時、何を基準にしてきたのだろう。
大学を選ぶ基準さえも。勉強して、勉強して、テストでいい点数をとって、この成績ならいけそうだと、誰かに言われて。そこなら、バカにされないだろうと誇らしい気分になって。
自分がそうしたいから、選んだわけじゃない。
俺の人生は、俺のモノじゃない。
俺をバカにするやつらのモノだったんだ。
選択権はいつも、あいつらにあって、俺は、やつらに媚び、阿る選択をしてきただけだった。
その事に唐突に気付いて、動揺した。
名越さんは、窓の外を見たまま、タバコの煙を吐き出した。何か言わなくちゃ、と思いばかりがぐるぐるして、なかなか言葉が出てこない。
「名越さんだって、バスの運転手なんて、しているでしょう」
自分の動揺を隠すための、八つ当たりだ。
こんな言い方。聞き流してくれるといいけれど。
「別に、落そうと思って言ったんじゃねえよ。世間話だよ」
名越さんは、ク、と笑って、再びタバコを口に運んだ。
「枕森に、行ってきたのか」
ぎくりとした。なぜ、それを知っているのだろう。
俺の顔を見て、小さく、そうか、と言った。
「なぜ、わかったんですか。あの神社に、なにがあるんですか」
「神社?」
眉を寄せて俺を見ていた名越さんの声色が変わった。
「梶宮、お前、明日は?」
「え、えっと、中番です」
中番、とは、うちの会社では、朝7時出勤、夕方18時半までの乗務を指す。ある意味、一番ポピュラーなシフトだ。名越さんは、イライラと何かを考え込むようにしていて、厳しい表情を向けてきた。
「今日はもう、帰った方がいい。
さっき歩いてきた道を、戻るんじゃなく、線路沿いの道をさらに先に歩けば駅がある。
一本道だから、すぐにわかるはずだ。そっちの方が早い」
いきなり、なんなんだ。話があったんじゃなかったのか。
そんなに遅い時間っていうわけでもないし、ラーメンを作ってくれて、食べた途端帰れ、だなんて。
けれど、名越さんの家がくつろげるかといえばそうじゃないし、ずっといたいわけでもない。帰れと言われれば、居る理由もない。いろいろ気になることはあったが、追われるように立ち上がり、アパートを後にした。