【4】
翌日は休みで、ひどく怠かった。
うだるような暑さとは、と聞かれたら、今の事だと説明するのにうってつけの陽気だった。
窓を開けても、風はそよとも吹かず、安月給では、断熱も充分ではないアパートを心地よく冷やすまでエアコンをつけることも躊躇われる。このまま家にいたら、命に係わる。汗でしっとり濡れた髪をガリガリ掻きながら、わりと真剣にそう思って家を出た。
小さな最寄り駅から電車に乗り、比較的大きな一駅先まで足を延ばし、駅前のソバ屋で遅めの昼食を済ませ、書店をうろついた。
目についた本を一冊買い、たまにはいいか、と、コーヒーショップでアイスコーヒーを注文し、ゆったりとした一人掛けのソファに身を沈めて買ったばかりの本を読んだ。
思いがけず、充実したいい休日になった。学生時代は当たり前に思っていた、文化的というか、知性的な行動をしたのが、とても新鮮に感じた。
帰路につこうとしたとき、空はまだ明るかった。夕暮れの風が吹く。やっと、ほっと呼吸ができる気温になった。アパートは、きっとまだ熱がこもったままだろう。踏みしめる畳の、触れる押入れのふすまの熱までもが、ありありと感じられるようだった。あの部屋には、まだ帰りたくない。
駅ビルの2階部分にある通路からロータリーを見下ろすと、バスが数台、入ってきては乗客を降ろし、乗せ、出ていく。それを自分がここから見ている。不思議な優越感と、疎外感。
ここから、枕森はそう遠くない、と思った。あの横道を歩いてみるのは、今日しかない、と。
15分ほど歩き、あの、ひっきりなしに左折車が入っていく横道に足を踏み入れた。
なんという事はない通りだった。周囲にはビルが立ち並び、街路樹が等間隔に植えられ、ブティックやコンビニ、雑貨屋が並ぶ。道路案内の青い看板を見上げると、この先で国道に合流するようだ。幹線道路に抜ける、ちょっとした裏道といったものなのだろう。それで、この道を通ろうとする車が多いのか。
横道から、角を折れ、バス通りに出た。
来た道を歩いて戻ってもいいが、タイミングが合えば、乗客としてバスに乗り、帰ってもいい。多少足も疲れてきたし、他人の運転するバスに、知らん顔で乗るのも面白いかもしれない。
最寄りのバス停は、枕森前。時刻表を見ると、少し前にバスが通過したばかりのようで、次までは時間がある。
振り向くと、細い石畳の路地があった。
こんな小路があったのか。乗務中、気付くこともなかった入り口には、石造りの鳥居。路地の奥には、広葉樹の巨木がこんもりと濃い色の葉を茂らせているのが見えた。
これが、枕森か。
完全に日が沈むのには、もう少し余裕がありそうだ。ちらりとバス停を見て、細く薄暗い路地を進んでみることにした。
石畳の路地は、ヒンヤリとしていた。
ビルの合間に、ぽっかりとそれはあった。
手水場、賽銭箱、古びた小さな社。その裏手に、名前は知らないけれど、どこかで見たことのある種類の大きな木。
石畳の広場も、その周辺の土の地面も、きれいに掃き清められ、少し前まで子供たちが遊んでいたであろう気配が残っていた。
蝉の声が降り頻る。
かつては、一帯が森だったのだろう。今は市街地に切り取られて。
財布から百円玉を取り出し、賽銭箱に投げて柏手を打った。
違和感に、気付いた。
違和感? いや。不穏な気配、といった方がいいか。
誰かの視線、の、ような。息遣い、の、ような。
巨木の枝が、ざあ、と、大きく風に揺すられた。
ぞわりと鳥肌が立った。ここに、居たくない。逃げ出すように足早に、来た道を戻った。
バス停に着くと、ちょうど、バスが近づいて来たところ。
あの、俺に手を挙げてみせる、他社の。知り合いの運転する自社のバスに乗るのは、なんとなく気まずい。ほっとして、乗車の意思を伝えるために軽く手を挙げた。
近付くごとに、心臓がどくどくと鳴った。
フロントガラスは光を反射して、ちょうど運転手の顔はよく見えない。
あの、運転手が、手を挙げている。
俺に、挨拶をして見せるように。
気付いたら、駆け出していた。
走って、走って。人の流れを躱しながら、駅まで戻った。雑踏の中、立ち止まり、詰まってうまく入ってこない空気に苛立ちながら振り向いた。ロータリーでは、相変わらず、のんびりした様子でバスが人を吐き出し、飲み込み、発車していく。
大きく息をして、気分を落ち着けて、凹んだ。
あの、バスの運転手が手を挙げたのは、たまたまかもしれない。ただ、俺が手を挙げたから、返しただけ。それなのに、勝手にビビッて逃げ出すなんて。最近、ナーバスになりすぎている気がする。