【3】
「回数券を、ください」
あの女子高生がまた、そういって俺に話しかけた。
彼女の手に乗せられている数枚の硬貨に、一瞬ぎょっとしてしまった。
どんな保管をしていたのか、もしくは、どこかで拾い集めてきたのか、やっと文字が読める程度に変色しているものも多く、泥とも、古い落ち葉ともつかないこげ茶色の何かがこびり付いている。
前回は確か、普通の千円札だったはずだが。
まあ、しかし、汚れていても金には違いない。断ることもできず、指定された金額の回数券の冊子を渡しながら、ふと思いついた事を言葉にした。
「定期券を購入した方が、いいんじゃない?」
俺が知る限り、ほぼ毎日この路線のバスを利用しているようだし、学生ならなおの事、割引の大きな定期券の方がずっと得だ。わざわざ定額の料金を、回数券で支払う必要もない。
「定期券を買っちゃったら――でしょう?
でも、運転手さんのおうちまでって定期券があるのなら、買っちゃおうかな」
以前と同じ笑みで、彼女はそう言った。
確かに日本語で何かを言ったはずなのに、理由の部分がうまく聞き取れなかった。妙に大人びて、どこか媚びるような笑みに咄嗟に返す言葉をなくしている間に、ローファーの靴底をこつこつ鳴らしながら通路を歩き、路肩側、前から3番目の席に着く。
まったく。
最近の女子高生は、大人をからかうのになんの躊躇いも見せない。
言われっぱなしも癪に障るが、いつまでもバスを停めておくわけにはいかない。すぐに発車の操作をした。
― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ―
今日も夕暮れの6番路線を走る。混雑し始めた街道を、漫然と。
そして、唐突に我に返る。
また、あの運転手だ。
他社のバスの運転席から、対向車線の俺に手を挙げる。
実際目にするまで、すっかり意識にはなくて、手を挙げ返すどころか、顔を確認する間もなく、バスのリアウインドウは遠ざかっていく。
二度目、ということは。
湯船に浸かっていると、だいたい、どうでもいい事を延々と考えてしまう。
その日は風呂から出て、脱衣所で下着をつけ、髪を乾かしている間まで思考は続いていた。
偶然、うっかり挨拶をしてしまった? 二度も? ドジなヤツなんだろうか。もしくは、知り合いと勘違いしている、とか。もしかして、実は、知り合い? いや、同じ会社ならまだしも、この業界に、知り合いはいない。ここは、俺の地元でもないし。うちのバス会社から転職した、とか。俺が入社した後に辞めた人がいたのだとしたら、可能性はある。けれど、そんな人、いたっけ。
俺が入社してから、辞めていった人、といえば。
背筋が、ぞくりと冷たくなった。
あの手の挙げ方には、覚えがある気がする。一瞬だけみえた、痩せた顎の輪郭も。
まさか。
自分の手を見下ろしたとき、視界ギリギリの鏡の中に、何か、黒いモノが映り込んでいるのに気付いた。
ばっと顔を上げ、正面から見たけれど。
そこに映っていたのは、いつもの景色。驚きに目を見開き、蛍光灯の光の中、青白い顔をした、濡れたままの髪の自分の姿だけ。
疲れて、いるのかもしれない。
一人暮らしのアパートの脱衣所に、俺以外の誰かがいるはずなんて、ない。
― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ―
「深沢さんって、なんで辞めちゃったんですか」
勤務前、営業所で雑談をしていた先輩に聞いてみると、年配の二人は、ぎょっとしたように口をつぐみ、俺を見て、視線を逸らした。
「一身上の都合、だよ」
「病気とかですか」
「プライベートな事だから」
「どこか、引っ越したんですか。もしかして、他のバス会社に、転職とか」
「そんなことを聞いて、どうするんだ」
背後から掛けられた、嘲笑を含んだ声に振り向いた。バカにしたように口の端を釣り上げた名越さん。
「他人の事をあれこれ詮索する前に、道の一本も覚えたらどうだ?
それとも、他に条件のいい会社があったら、転職希望か?
なんなら、こんな仕事辞めて、探偵にでもなるか? ああ?」
なんの挨拶もなく、事情も知らされず、いきなりいなくなった同僚を気にするのは、そんなにおかしいか? なぜ、俺が辞める話にまでなる? むっとしたが、他の誰も、俺の質問には答えたくないらしいことは察しがついていた。話を切り上げるしかなかった。