【2】
休みの日は、最低限の家事をして、だらだら過ごす。
乗務のある前日は、早く寝る。深酒はしない。生活の全てに、運転手という職業が侵食している。意識上の拘束時間は、24時間といってもいい。制服と制帽を脱いだら、逃げるように仕事の事は忘れる。
運転中、ふいの気配に振り向くと、制服姿の女子高生がこちらをじっと覗き込んで立っていた。距離は、30cmと離れていない。
ぞくり、と、鳥肌が立った。声を立てなかったのは、奇跡的と言っていい。
「どうしたの、危ないから、席に座って」
「回数券を、ください」
車内は空いていて、席はほとんど埋まっていなかった。走行中に立ち上がり、歩き回られては危険だし、なにより、この事がバレたら、俺が怒られる。
「次に停車した時に、販売します。今は、すぐ席に座って」
女子高生は返事代わりにすうっと口角を上げてさがっていった。
ミラーで確認すると、乗降口側の比較的後方の席に着いた。
ほっとして、再びフロントガラスを見つめて運転を続けた。
ミラー越しにじっとみられている気配は、気になったが。
― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ― ◆ ―
真っ黒で長い髪の女子高生は、6番路線を担当する度、毎回、俺の運転するバスに乗っていた。
毎日この路線を担当しているわけではないし、発車時刻もまちまちだったが、気付けば必ず、路肩側の席に座っている。
あの横道で左折する車は多く、その後も度々、左折車が通り過ぎるのを待った。そのたび、「この先には何があるのだろう、時間ができたら、行ってみようか」と、思った。
18時13分、枕森前バス停を通過。ほぼ定刻通り。
この少し先で、他社のバスとすれ違う。これもいつも通り。だったが。
あれ、と思いながら、遠ざかっていくバスをサイドミラー越しに見送った。
なんでだろう、どうしてだろう。運転しながら、しばらく、不信感のままに考えていた。あの、他社のバス運転手が、俺に挨拶の手を挙げたので。
一人暮らしをしているアパートの風呂で、そのことを思い出した。
余所の地区はわからないが、俺が知る限り、普通、他社のバスとすれ違っても、手を挙げて挨拶をしたりはしない。敵対意識というより、知り合いでもないし。
多分、漫然と運転していて、自社のバスとすれ違った時のクセで、つい、手を挙げてしまったのだろう。そう結論付けて、湯船のお湯を両手ですくってばしゃりと顔にかけた。
水滴ににじむ目を開けて、慌てて、少し体を浮かせた。
両手を見ても、湯船の中を見ても、なにもない。
気のせいか。そりゃ、そうだ。単なる錯覚だ。
お湯いっぱいに広がり、両手に絡みつく長い黒髪や、胸元のすぐ前に沈み、こちらを見上げる人の顔なんて、あるわけがない。
世間は盆休みの時期になったが、バスはいつもと変わらずに走り続ける。
妻帯者が休みを取る分、逆に、俺のシフトはきつくなった。まあ、大した問題じゃない。どうせ実家に帰るつもりもないし。
その日は、最終に近い時間の6番路線を担当することになっていた。
いつも通り、乗務するバスの点検を済ませ、チェック表を提出するために営業所の中に入っていくと、同僚の一人が白い長方形の紙の箱を差し出した。日帰りの旅行に行ってきたおみやげだといい、箱の中には5cm四方のカラフルなビニール袋が並んでいた。
周りに倣ってひとつ取り出してみると、とある観光名所の名前が小さくプリントされ、透き通る袋の中に、数粒の金平糖が入っていた。
「名産らしいんだよ。梶宮のそれは……うん、イチゴとサクランボ味だな」
小さな紙片に目を落とし、真剣な表情でそう話す同僚は、黙っていれば思わず目を逸らしたくなるような強面で、パステルカラーの可愛らしい金平糖とのギャップに吹き出すのを堪えるのがやっとだった。
金平糖なんて、見るのも久しぶりなら、こうして自分のものにするのなんて、年単位でなかった。礼を言って、制服の胸ポケットに入れ、バスへ向かった。
6番路線は、通勤、通学に使用している乗客が多い。
駅前通りとはいえ、お盆休み時期のこの時間はさすがに人通りもまばらで、客は少ない。
ふと気が付くと、驚いたことに、あの女子高生が今日も乗っていた。昼間に見る時とは違う、どこかけだるげな表情で夜の街をみている。
とあるバス停でまとめて客を降ろすと、乗客は彼女一人になった。バスの後部が、寒々しく感じるほどに広く、遠い。
「部活?」
ルームミラー越しにちらりとみて声をかけると、はっとして顔をこちらに向けた。
「それとも、塾? こんな遅い時間まで、大変だね」
田舎者の気安さで、声をかけずにはいられなかった。彼女は、運転手に急に話しかけられて、戸惑った表情を見せたのも束の間、にこりと笑って頷いた。
「運転手さん、こんな時間もお仕事なんだ?」
「まあね、当番だから」
「おなか空かない?」
「慣れたよ」
「そう。私は、ぺこぺこ」
あどけない様子が、微笑ましかった。いくら食べてもおなかが空いてしまう年頃なのだろう。
目前の信号が、黄色に変わった。早めにバスを停車させて、彼女を手招きで呼んだ。不審そうにおずおずと立ち上がるのを、早く、と急かして。隣に立った彼女に、胸ポケットから、出発前にもらった金平糖の包みを差し出した。
「さっき、お土産にもらって。イチゴとサクランボ味だって。
あ、一応、内緒ね」
「ありがとうございます……」
そんなに? というくらい驚いた表情を浮かべて立っている彼女がおかしくて、軽く笑いながら、席について、と促した。
信号は赤から青へと変わり、軽やかな気持ちでブレーキからアクセルへ足を移動させた。