【1】
夕暮れの町は、いつもと変わらず混みはじめていた。
帰社のためか、納品を急ぐためか、車線を変えて前に出ようとする営業車らしい白のライトバン、助手席に制服姿の学生を乗せた主婦の運転する軽自動車、判で押したように点在する、白いハイブリットカー。
ひっきりなしに点滅を繰り返すテールランプを、思考のカーテン越しにみる。
新鮮だったこの通りも、すでに慣れて飽きはじめていた。
「梶宮、来週から、6番追加な」
一か月ほど前、営業所の配車担当からそう告げられた。
6番。枕森前経由か。新しい路線を任されるようになるのは、レベルが上がったみたいで、なんとなくうれしい。今回は、多少事情があるから、だろうけれど。
6番は、少し前まで深沢さんがよく担当していた路線。
物静かで、穏やかな目をした人だった。なんとなく、心のどこかで、いつか仲良くなれたらいいなと思っていた。なぜ急にいなくなってしまったのだろう。
ク、という癇に障る笑い声に視線を移すと、名越さんがパイプ椅子に背を預けてこちらを見ていた。椅子がぎいぎいと、軋んだ音を立てる。
「梶宮君も、もう6番を担当するようになったんだねえ」
にやにやと笑いながら言う。何が言いたいんだ。俺が6番路線じゃ不満だとでもいうのか。いや、きっと、どこの担当になったとしても、彼はそんな風に、挑発的にいうのだろう。
路線バスは、同じルートを何度も辿る。何度も、何度も。
新しい路線は、危険個所など覚えることも多く、緊張感もあり、慣れるまでは大変だけれど、新鮮なわくわく感がある。
たった一か月でそれにもすっかり慣れてしまった。
この先、何十年とバスの運転手を続けるとして、新しい路線がなくなった後は、この倦怠に延々と耐え続けるしかないのだろうか。
路線バスのハンドルを握るようになって、もうすぐ二年目になる。
俗にいう、「いい大学」を出た。けれど、就職先はなく、周囲の勧めもあって、いろんな資格を取った。その一つが、大型二種免許。
芸は身を助ける。大学の研究レポートのためにした苦労が、全く役に立たない分野だったとして、住む場所と明日の食事を確保するためには働かなければならない。学生時代、先生に期待され、テストのたびに優越感に浸り、周囲から一目置かれているという自負があった。小学生から、ずっと。職人とか、肉体労働とかいう職業に就く未来は、全く予想もしていなかった。
いきなりの方向転換。人生に違和感を持つようになった。現実味のない、ふわふわと足元の覚束ないような毎日。これは、本当に俺の人生なのだろうか、と。こんな例えは適切じゃないかもしれないが、性同一性障害の人が、自分の性別に違和感を持っているというのは、こんな風なのかもしれない、なんて思う。
市街地を通る枕森前経由の路線は、難所が少なく、やたらと長いためか、比較的若い運転手が担当することが多い。
深沢さんは、みた感じ、三十代半ばくらいだった。家族はいたのだろうか。結婚は? 子供は? 両親や兄弟は? 何も知らない。プライベートなことを話したことはなかったので。
つらつらと、そんなことを考えながら、漫然とブレーキを踏む。降車ボタンが押され、次、止まります、と、機械音のような女性の声が社内に響く。わずかに意識を戻して、30mほど先に見えるバス停に、徐々に寄せるようにハンドルを廻した。
陽は、急速に暮れて行った。
夏の街には自由が溢れている。居酒屋の前には小さな屋台が設えられ、手書きのポスターには、焼き鳥、枝豆、生ビールの文字が読み取れる。
その少し先で、止まった。
いつもは真っ直ぐ、淀みなく通り過ぎる場所。2台前の、左折のウインカーを出した車を追い越せないのが原因。
運転をする人ならわかるだろうが、対向車が途切れるまで右折できずに待つことはあっても、左折車を待つことは、あまりない。ちょうど歩行者が立て続けに横切っていたので、その列が切れるのを待っているらしい。
原因がわかれば、なんということはない。再びぼんやりした頭で、左折する車が向かう先の様子を窺った。
建物に遮られ、ほとんどみえない。どこにつながる道なのだろう。この先に、何があるのだろう。好奇心が気分を高揚させたが、前の車が動き出すのと同時に、忘れることにした。
もし、ここで急にハンドルを切ったら、乗客はおどろくだろうな、と思うと、少し楽しい気持ちにはなるが、業務中に路線を外れるなんてできるはずもなく。
自分は、いつも決まった道しか走れない。
通り過ぎる時、ちらりと横道を見た。なんということはない、どこにでもありそうな街道。休みの日にでも、時間があったら歩いてみようか。実はそんな道がいくつかあって、けれど、実際に歩いたことは一度もなく、思うだけで忘れてしまっている場所もたくさん、ある。