第二章 王子と黒犬と不良騎士 その三
翌日、オクタヴィアンは再度外宮へと足を運んだ。
その服装は前日のような夜会の貴公子ではなく、限りなく普段着に近いものだった。白い簡素なシャツに履きなれていて動きやすいズボン、癖毛ある金混じりの夕焼け色の髪は後頭部で簡単に結び、腰には長年愛用している剣を這いでいる。
居城へと続く道の門番がその服装に非難めいた視線を向けたが、自分よりも地位が高い筆頭騎士であるオクタヴィアンには文句は言えず、門番が黙って彼を通した。
(文句なら王子にいってくれよなぁ……)
そうオクタヴィアンは内心愚痴る。
昨日書類の片づけを終えたあと、ソファーに落ち着いた上司である王子は、とりあえず自己紹介を始めた。
「第七王子のハーシェリクです。こっちが筆頭執事のシュヴァルツ……私はクロって呼ぶけど」
「クロ……?」
(犬でクロなんてまんま黒犬じゃないか。)
つい先ほどの悪口そのままで、思わず吹くオクタヴィアン。
「黙れ。」
そんな彼に、クロが鋭い言葉を投げる。
「クロ、喧嘩しない。この間負けたのが悔しかったからって大人げないよ?」
注意するハーシェリクにクロはふてくされた顔をする。どうやら王子だけには素直らしいとオクタヴィアンは思う。
「えーとオタクヴィアンさん?」
「オクタヴィアンです、殿下。オクタで結構です。」
文字が入れ替わるだけで、なぜか不快になる名前になるのはなぜだろうかと思いつつ、オクタヴィアンは訂正する。
「私もハーシェでいいよ。殿下とか様とか公式の場じゃなかったらつけなくていいから。」
そうにっこりと微笑む彼に、オクタヴィアンは驚く。
本来なら不敬罪に問われても仕方がないことを推奨する王族がどこにいるだろうか。
(まあ目の前にいるんだけど。)
「んで、オタクさん。」
「オクタです。呼び捨てでどうぞ。」
間髪入れずに修正をいれるオクタヴィアン。その言葉にハーシェリクは申し訳なさそうに目を泳がした。
「えーとオクタ。そんな敬語も公の場合じゃなければ使わなくていいから。めんどくさいし。」
執事と同じこという主。逆にこの主にしてあの執事ありなのかもしれない。
「んでね……」
困ったように彼はオクタヴィアンの頭からつま先まで見る。
「明日からは、公の場に出る時以外は普段着でいいから。正直その恰好は似合っているし、かっこいいけど……」
執事と同じようなことを言おうとし迷っていたのだと、オクタヴィアンは察知する。ハーシェリクは口では語らずとも、目ははっきりと語っていたのだ。
だから翌日、オクタヴィアンはほぼ普段着で登城したのだった。
外宮に向かい三階の南区画にオクタヴィアンは向かう。途中、男性とすれ違いに会釈をしたが、それがハーシェリクの語学の先生だったと知るのが後である。
ノックし部屋に入ると王子が出迎えた。昨日の散乱した書類の部屋が嘘のように片付いていた。
「おはよう、オタク。」
「王子、おはよう。あとまた名前間違っている。」
昨日言われた通り敬語を取っ払ってオクタヴィアンは話しかける。鋭い突っ込みも敬語なしも、王子は気にも留めずごめんと謝った。
今日の予定は特にない。とハーシェリクはオクタヴィアンに告げる。いつもなら語学の勉強をするのだが、さきほど先生が急用で中止になったということだとハーシェリクは説明をする。
では自分が一日王子のお守りか、とオクタヴィアンが気を重くしていると、王子は城下町に出かけようと言った。
「でも今から申請を通すのは難しくないのか?」
本来、学院等決まった場所に行くならともかく、王族が外出するには申請が必要なのだ。
そこから警邏局と護衛の打ち合わせし、日にちを決め段取りを組む。最短でも一週間はかかる。と先日の顔合わせの時に言われている。
「大丈夫だよ。」
ハーシェリクはにやりと笑ってみせた。
目の前に広がる城下町にオクタヴィアンは頭を抱えたくなった。
(なぜ王子が……しかも五歳児がこんな抜け道を知っているんだ……)
彼に案内されついた先は、中庭を通った先の樹に隠れた古い枯れた水路だった。そこの鉄格子を器用に外し、水路のトンネルを抜けた先は城下町の外れだったのだ。
「町では僕のことはハーシェじゃなくてリョーコって読んでね。オタクは…」
「オクタ。」
どうやらこの王子は自分の名前をオタクと認識しているらしい。
じっと王子はオクタヴィアンを見つめる。
「最初に変に覚えちゃって抜けない……」
むむむと悩む王子。すでに刷り込まれた呼称は、変更は難しかった。少し悩んだ後、ハーシェリクは思いついたように手を叩く。
「僕も偽名だし、別の名前を使おう。オレンジ、オランジュ……うん、オランて呼ぶね。」
気軽に言うハーシェリクにオクタヴィアンは一瞬目を見開く。
貴人が与える名前とは絶対の信頼を意味する。出会って三日目にして名前を授けるなんて、普通の王族はしないのだ。
一瞬辞退を考えたがその新たな名前に、オクタヴィアンに不快感はない。間違った名前を何度も呼ばれ、訂正するほうがストレスを感じる。
「……意味は?」
だから拒否はせずに、聞きなれない響きについて問い返す。以前もこんなことがあったな、とハーシェリクは思い出し笑いをする。
「橙色っていう意味だよ。オランの髪って橙色でしょ。夕焼けみたいで綺麗だね。」
ハーシェリクの言葉に彼は目を細める。
それはかつて、最愛の人が言った言葉と一緒だった。またハーシェリクの微笑みが彼女と重なり、オクタヴィアン…オランの忘れていた、忘れていたかった過去を刺激したのだった。
本来なら苦痛を生じる過去の記憶。だがハーシェリクが言うと、なぜか温かく優しい思い出を甦らせた。