第八章 嫉妬と憎悪と困窮 その二
ハーシェリクはオランが駆ける馬の前に座り、振り落とされないよう鞍にしがみ付く。
もちろんオランはハーシェリクが落ちないよう片手で支えていてはくれるが、それ以上に最速のスピードで駆ける馬上は、ハーシェリクにとっては苦行であった。
やっと孤児院に付いた時は、馬上で魂が半分抜けた状態だった。
オランに降ろしてもらい、深呼吸をする。
「王子、急ごう。」
オランが急かす。ここまで初めて乗る馬を最速で駆けたのに彼は息切れ一つしていなかった。さすが元学院の優等生である。卒業時は卒業も危ういギリギリの劣等生だったが。
「うん。」
彼を伴い孤児院へと足を進める。
すでに時間は午後十時を回っていた。子供達は寝入っているのだろう明かりがほとんど消えている。
(なんとか証拠を押さえないと……)
すでに売人であるイグナーツの身柄は抑えられている。もし彼に何かあったと気が付かれたら、証拠も消され、薬の精製方法も機材も隠されてしまう可能性があるのだ。
予定ではあの場でイグナーツを締め上げ、黒幕を突き止め、根本的な解決をし、さらに薬に有効な中和薬の作成の為の資料を手に入れる手はずだったのだ。
すでにこの人体強化の薬の資料は国にはない。クロが苦労するような保管金庫から持ち出されていたからだ。ちなみにこの情報はマルクスが研究開発局の知り合いに依頼し、発覚したことである。
だからどうしても薬に関する資料が必要なのだ。孤児院に欲しい資料があるかわからない。だが、それでも可能性は皆無ではない。
「……オクタヴィアン君?」
孤児院の敷地内に入ると、アルミン男爵がいた。建物の陰になるような場所から顔をだす。
「それにリョーコ君も、どうしたんだい?」
「アルミン男爵……」
人のいい微笑みを浮かべる彼。普段のハーシェリクなら彼に微笑みを返しただろうが、今は一番警戒すべき男だ。
「王子、下がってくれ。」
オランが剣に手をかけ一歩前にでる。
「男爵、聞きたいことがある。あと建物の陰に隠れている三人も出てきてもらおう。」
「オクタヴィアン君!?」
驚きに目を見開く男爵に、オランは油断なく剣を鞘から抜く。
「……男爵、薬の件について聞きたいことがある。」
オランの言葉に反応するかのように、月夜になにかが光った。それをオランは冷静に叩き落とす。ハーシェリクが叩き落とされたソレを確認すると、普通のナイフよりも小さい投げナイフが転がっている。
「やはり、男爵が……ッ」
オランの悔しそうな、そして悲しそうな声が頭上から聞こえる。彼にとっては信頼していた人物だったのだろう。ハーシェリクも人のよさそうな彼に警戒心があまりわかなかった。
男爵を見やる。だが彼は慌てた様子で、ナイフを投げた人間に詰め寄っていた。
「彼らを傷つけないでくれ!」
「不可能だアルミン男爵。彼らは我らの存在を知ってしまった。」
声は男とも女ともとれる声だった。目深くフードを被り、闇に溶け込むような暗い色の服を着ていた。姿を現した他二人も同じような服装だった。違いは身長さくらいだろう。各々にナイフやダガー、投げナイフと握り、こちらへと向かってくる。
「つまり、貴方達の後ろの親玉がいるというわけ。」
ハーシェリクは確信する。そして自分が想像していた以上に、物事は複雑だった。
「オラン、殺さずに捕えて。」
「了解。」
短く返事をした次の瞬間、オランは武器を持つ三人の間合いを一瞬で詰める。
急な動きに反応に遅れた彼らに対し、オランは剣を一閃させた。だが一番大柄な者が二刀流のナイフで剣を受け止め、他二人がすぐにオランの間合いから跳躍して距離を取る。
不意を突いたにも関わらず、想像以上の彼らの動きにオランは眉を潜める。
(こいつら、訓練を受けている。)
そう考えつつ、オランは剣を受け止めていた男から間合いを取る。こちらは殺さないという条件があり、またハーシェリクを守るというハンデもある。
相手が素人ならまだしも、なかなかの玄人だ。
(だが、俺は負けない。)
オランは剣を利き手で持ち、空いた手で鞘をベルトから外すと構える。
騎士は滅多にしない二刀流だ。騎士が剣を使う時は、盾を持つことが多いからだ。だがオルディス家は家族そろって戦闘好きな為、強ければなんでも有りな所があり、オランも興味を持った戦闘方法は一通り習得をしている。
今回は殺さず捕える、王子を守るという二つの優先事項がある。王子を守ることが最優先だが、剣で殺さずに戦闘能力を奪うことはできるが容易くはない。だが頑丈な造りをした鞘なら、防御も牽制もでき、さらに鈍器にもなる。これで急所を叩き戦闘能力を奪うことは可能だ。
剣と鞘を構え敵と対峙するオランの心はとても静かだった。思考が澄みきり、一対三と数では圧倒的不利にも関わらず、さきほどイグナーツの前とは天地の差だ。
その一因がハーシェリクの存在だとオランは解っている。 彼の中にあった王族への嫌悪はいつの間にか消え、新たなる感情が芽生えつつあった。
ハーシェリクはオランの戦いに魅入っていた。
一対三という状況、生きたまま捕えるということと、足手まといの自分がいるという不利な条件下だというのに、オランの動きは見事だった。
ナイフ二刀流の相手をしつつ、投げられたナイフを叩き落とし、不意を突こうとする三人目の攻撃をかわしつつ、ハーシェリクに近づかせないよう立ち位置を調整し、鞘で防御と牽制しつつ急所を狙う。
言葉にするだけなら簡単だが、これはオランの戦闘能力が彼らを遥かに上回っているということだった。
焦りが見え始めた敵対者達に対し、オランはまだ余裕がある。彼は時間をかけ相手の集中力が切れるのを待っているようだった。
(私は私のできる事をしよう。)
ハーシェリクはアルミン男爵を見る。目の前で繰り広げられる戦闘に狼狽えていた。
「アルミン男爵!」
そんな彼にハーシェリクは声を投げた。こちらに男爵が向いたのを確認し、彼は言葉を続けた。
「なぜ、薬を売ったりしたんですか! しかも孤児院の子供たちを使うなんて!」
「……仕方がなかったんだ。」
ハーシェリクの言葉にアルミン男爵は反論する。だがそれはとても弱々しい声だった。剣戟の音の合間を縫い、彼の声は確かにハーシェリクに届いた。
「仕方がない?」
「金が、金が必要だったんだ。孤児院の為に、子供達の為にどうしても金が必要だったんだ!」
それは彼の心からの叫びだった。
妻が亡くなってすぐ、事業が傾き始めた。そのせいで孤児院の経営が危うくなる。
国に補助金を申請しても、焼け石に水にしかならない程度の金しか手に入らなかった。あと一歩で孤児院閉鎖という時、薬売買の仲介を持ちかけられたのだ。
「私に選択の余地なんてなかったんだ!」
断れば子供達の居場所はなくなり飢える。それだけは避けたかった。だから彼らと手を組んだのだ。
「この国の貴族達は、王族は決して下々の、苦労しているものを見ようとも助けようともしない! 今まで裕福な生活をしていたんだ、彼らは報いを受けたんだ!」
アルミン伯爵が言うとおり、貴族も王族も……ハーシェリク自身も孤児達がしたような苦労をしたことがないし、知らない。毎日城に戻れば食事が用意され、寝床があり、明日着る服にも困らない。きっと苦労している者には妬ましい生活だろう。
「……だけど、そんな彼らも誰かの子供で親だ! 他人が奪っていいものじゃない!」
それとこれとは別問題なのだ。死んだ者にも大切な人がいて、死んだ人間を思う人々がいるのだ。
今回の事件で子供を失った親は将来を悲観するだろう。親を失った子供達は、彼らと同じ孤児になってしまう可能性がある。もしかしたら彼らより苦労するかもしれない。
例え薬に手を出した報いだったとしても、死は貴賤関係なく平等に周りを不幸に突き落す。
それに彼らがいなくなったからといって、全てが好転するとは思えなかった。
ハーシェリクもこの国の貴族の現状を理解している。だから何とかしようと毎日もがいているのだ。
「世の中、理想や綺麗事だけじゃ生きていけない!」
アルミン男爵の悲痛な声が響く。世の中綺麗事だけでは生きていけない。それはハーシェリクも痛いほど理解している。
無意識にポケットにしまってある銀古美の懐中時計を、服の上から握りしめる。
(私もそう思う。だけど……)
伯爵がいなくなってしまったあの日から、ハーシェリクは心に刻んだことがある。
『弱いというだけで、正しい人間が、真面目な人間が、バカをみる世界なんて間違っている。』
誠心が報われる世界。悪が正される世界。全ての人々が幸せを分かち合える世界。
「理想を貫かなくちゃ、世界は変わらない。」
ハーシェリクは静かに、だが力強く言った。
決して自分が全て正しいと、ハーシェリクは思わない。
妥協しなくちゃいけないこともあるし、汚い事が必要な時だってある。
世の中、綺麗事だけでは生きていけない。
現にアルミン男爵はどうしようもない状況だったのだろう。
だから罪だとわかっていても、犯してしまった。
それが間違っていると解っていても、追い込まれてしまった彼は必要だと思ってしまったのだ。
真面目な人が、誠実な人が、馬鹿を見る世界を変えなくちゃいけない。
優しい人が悲しむ世界は、終わりにしなければいけない。
それが理想論であり、綺麗事だとハーシェリクは理解している。
人を、国を、世界を変えることは難しい。
それが千里の道、果てしなく続く道だとしても……それでもハーシェリクは求めずにはいられない。そんな理想的な世界を。
「誰が何と言おうと、理想を掲げなければ、求めなければ……貫かなければ始まらない!」
アルミン男爵に言いつつ、ハーシェリクは自分に言い聞かせる。
ハーシェリクは自分の矛盾に気が付いている。
理想の国を、世界を手に入れる為には手段を選ばない。ただそれを手に入れる為に、理想を覆さなければいけなかったら……アルミン男爵は未来の自分かもしれないのだ。
(だから……)
戦いを継続するオランを見る。今、確信した。
(私にはオランが必要なんだ。)
その場に崩れ落ちるアルミス男爵。
「私は、どうすればよかったんだ……」
ただ、子供達を助けたかった。男爵とって子供達は単なる孤児ではない。家族だったのだ。
「男爵、過去は変えられません。」
起こってしまったことは変えられない。時間は遡れない。
「だけど、未来は変えられます。」
その言葉に男爵が顔を上げる。その時、扉が開く音が微かに響いた。
ハーシェリクが視線を走らせると、扉から少女……コレットが顔をのぞかせていた。
「……先生?」
緊張感が錯綜する中、事態の呑み込めないコレットの呟きが響いた。
「コレット、来ちゃだめだ!」
アルミン男爵が声を上げる。だがすでに三人組の内一人……最初話しかけてきた者が、彼女に顔を向ける。
ハーシェリクは走り出す。彼らの位置より、自分の位置のほうが彼女に近かったからだ。
彼らと彼女を結ぶ線の上に立ちはだかる。
「失敗したな。」
ゆっくりと近づいてくる者に、ハーシェリク唇を噛む。
あの位置から動いては、オランが守れなくなることはハーシェリクもわかっていた。だが動かなければ、コレットは確実に彼らの人質になっていた。
(いざとなったら金的でもしてやる!)
ハーシェリクが身構える。相手が男か女かもわからないが、女であっても有効だ。なぜかは前世の経験である。
「王子!」
オランがハーシェリクを守ろうと動きだすが、ナイフ使いが割り込み行く手を阻む。
もったいぶる様にゆっくりと迫りくる魔の手に、ハーシェリクは身構えた。




