表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/27

第八章 嫉妬と憎悪と困窮 その一



目の前に突き出された剣に、イグナーツ・ネイビーは絶望よりも嫉妬の炎で、その持ち手を睨みつける。


「なぜ、おまえばかり……!」


 その言葉を正面から受け止めたのは一人の騎士。かつて友であった者を冷めた瞳でオランは見返した。

 冷静に見える彼だが、彼の主であるハーシェリクは彼の中にある復讐という名の憎悪の炎を感じ取っていた。彼は主の許可さえあれば、イグナーツの頭と胴を二つに分断していただろう。今、オランを押しとどめているのは、主であるハーシェリクの指示に従っているに過ぎない。


「思った以上にちょろかったねぇ。」


 そう言ったのは、ハーシェリクの隣に座り出された紅茶を優雅に飲んでいるマルクスだ。

 先ほどまでは、この世の絶望を一身に集めたような憂鬱な表情だったが、現在はその欠片もなく物足りないという風にイグナーツを見ている。


(うん、自分の長兄は思った以上にすごかった。)


 ハーシェリクが先ほどまでのことを思い返す。


 マルクスはイグナーツが部屋に現れると、まるで傾国のような表情で彼を陥落させたのだ。もちろん色気で落としたわけではない。最初はさも胡散臭そうな表情で彼を疑い、イグナーツがなんとか王子の心を掴もうと心を砕き、段々とマルクスが信頼していくという、傍から見たら「兄ちゃん、本気じゃないよね、本気じゃないよね!?」と心配してしまうくらいの演技力だったのだ。


 最初から演技だと知る者さえ騙せそうなマルクスの演技がなければ、イグナーツに途中疑われていたかもしれない。彼は決して馬鹿ではない。少しでも違和感があれば誤魔化される可能性もあったのだ。

 そしてに彼が恭しく差し出した、一つずつ丁寧に包装された飴がつまった硝子の瓶……薬を取り出した瞬間、ハーシェリクの合図と共にオランが部屋に飛び込み彼を拘束したのだ。


「これは、単なる飴です! 王子、これは不当な拘束ですよ!」


 この期に及んでまだ悪あがきをするイグナーツに、ハーシェリクは呆れ深くため息を漏らす。


「さっきまで、これを食べれば嫌なことも忘れられる、気持ちよくなれる、もう手放せません、なんて薬の中毒的ことを言っていたじゃない。」

「薬だなんて言ってない!」


 そう怒鳴る彼にハーシェリクは再度ため息を漏らした。なんという悪あがきだろう。


「いい加減にしろよ。」


 オランの低い、危険の含んだ声が響いた。


「お前が薬を売っていたということも、過去に嫌がる彼女に迫っていたことも全て事実だ。」

「……おいおい、いい加減にするのはお前だろう?」


 イグナーツが挑発するようにオランを真っ向から睨みつける。


「彼女を追い込んだのはお前だ、俺じゃない。」


 その言葉にオランの表情が、まるでスイッチをきったかのように抜けた。その表情にハーシェリクとマルクスは危険を感じとったが、イグナーツは言葉をやめない。


「お前が彼女の苦悩を知らず、彼女を顧みず、自分だけしか見てなかった結果、彼女は薬に逃げたんだ! 俺はなにもしていない!」


 そう言い切る彼に、オランは向けていた剣を力なく下げる。その動作にイグナーツは勝利の笑みを浮かべた。だが次の瞬間、オランが剣を振り上げその凶刃を憎き彼に食い込ませようと振り上げる。


「やめろ、オラン。」


 それは決して荒げた声ではなかった。静かな、だが絶対的な命令に彼は動きを止める。


「……王子。」


 オランは縋るような視線を声の主、ハーシェリクに向ける。そこには悠然としたハーシェリクが彼を見据えていた。


「イグナーツ、これは薬じゃないんだよね?」


 動きを止めたオランを確認し、ハーシェリクはイグナーツに硝子の瓶を指さす。


「あ、ああ。それはただの飴でございます。」

「そう、なら……」


 ハーシェリクはニコリと笑った。笑っているはずなのに、隣に座っていたマルクスは彼の微笑みに底知れないものをかんじ、背筋がぞくりとする。


「今、全部食べてみせて?」


 微笑みはそのまま、ハーシェリクはソファから立ち上がると硝子の瓶に手を伸ばす。そして、中からそれを出し、彼に渡そうと差し出した。


「飴なら全部食べられるよね。お茶も用意してもらおうか?」


 有無を言わさないハーシェリクに、イグナーツは距離を取ろうと後退する。だがすかさず背後にオランが回り込み彼の行く手を阻んだ。


「なぜ逃げる? これがただの飴なら、食べられるはずだよね?」

「それは……」

「ねえ、なんで食べないの?」


 ハーシェリクがイグナーツに迫る。無言になる彼にハーシェリクは微笑みをやめる。

 包装紙をとると本当に飴のような薬だった。


「やっぱ死にたくないよね、彼らみたいに。」


 薬に嵌った人間は、薬をやめるとほとんどが死亡していると、その後の調べでわかったのだ。つい先日、ハーシェリクとオランの活躍により捕えた貴族も、その後中毒症状から脱せずに二週間後死亡している。


「やめれば死ぬ可能性があるにも関わらず、これを売っていたこと自体、許されることじゃない。それに……」


 ハーシェリクは言葉を続ける。薬と同じくらい彼はこの事について怒っていた。


「オランの婚約者が彼のせいで死んだって? ふざけるのはおまえの妄想の中だけにしろ。オランは自分の為に、そして彼女の為に努力をしたんだ。行き違いが悲しい結末になっただけ。」


 努力が報われないことは多々あることだ。ハーシェリクはそう思う。人間誰しも思うようにいかない。思うように事が進むのは物語と妄想の中だけだ。


 ハーシェリクはオランをちらりと見る。


「……これは、オランには言わないでおこうと思ったんだけどね。イグナーツが彼女を狙っていたのは、彼女の家名や名声、取引先とかの伝手を狙っていたんだ。だからオランに近づいて友人になり、彼女にも近づいた。最初からそれが目的だった。」


 そして冷たくハーシェリクはイグナーツを見る。


「友人として、彼女はあなたに相談したらしいね。それをあなたは不安を煽るようなことを言い、その後彼女は薬に手を出してしまった。」


 それはクロに調査してもらった結果だった。


 彼らの同級生達は、イグナーツがオランを妬み婚約者を狙っていたことを知っていた。だがオランと婚約者は傍から見ても相思相愛だったし、貴族としても格上の彼らをイグナーツがどうにかできるとは思っていなかった。それに少なからずオランにも婚約者にも嫉妬していた周囲の人間は、あえて本人達に忠告はしなかった。

 だが事件が起こり、婚約者は表向き病死となり、オランの成績は急降下した。


 彼らは面白可笑しくクロに話してくれたそうだ。貴族達にとって他人の不幸ほど甘い蜜はないのだ。


 人間は様々な感情を持つ。喜び、愛、憧憬等明るい感情。嫉妬や憎悪、恐怖等暗い感情。その全てが人間の心を形成する。

 だから同級生達やイグナーツの嫉妬も決して悪いものではない。ただイグナーツは嫉妬を糧に己を高めるのではなく、人を貶めるという行動をとってしまった。


「別に私は全てあなたが悪いなんて言わない。だけど……」


 ハーシェリクは素早く手に持った薬を、油断し半開きだったイグナーツの口に入れる。

 イグナーツは一瞬目を白黒させたあと、慌てて薬を吐き出した。むしろ胃の中の物をはきだそうと、咳込んでいるようだった。

 もちろん、ハーシェリクはイグナーツが薬を吐き出すことを見通して、口の中に入れている。


「私の騎士と、その婚約者を侮辱することは許さない。」


 四つん這いになった彼を見下ろしたハーシェリクは宣言する。


「……王子。」


 オランは王子を見つめた。ハーシェリクの体は小さいのに、なぜかその存在が大きく感じたのだ。


(これが末の王子……?)


 その異様な光景にマルクスが絶句する。

 数週間前までは、彼の中でハーシェリクは一番末の小さな弟だった。父が寵愛する彼は兄弟達と比べ地味だったが温和な性格で、年齢の割に頭がいいという印象だった。今回の協力要請がなければ、一生その印象を変えることはなかっただろう。


(本当のハーシェリク……)


 父の横で微笑む彼


 あらぬ誤解をして動揺する彼


 事件を解決するため奔走する彼


 そして自分の騎士を守ろうとする彼


 どれが本当の彼か。きっと全てが本当なのだろうとマルクスは思う。


 今もイグナーツを追い詰めるハーシェリクは、決して彼を追い詰めることだけが目的ではない。

 彼の一番の目的は彼の騎士の心を助ける為。その証拠にイグナーツの言葉に感情を消し去っていたオランが、今や普段の彼に戻りつつある。

 二年前にマルクスにできなかったことを、ハーシェリクはいとも簡単にやってしまったのだ。


「さて、イグナーツ。」


 足元で蹲るイグナーツを見下ろしつつ、ハーシェリクは言う。


「この薬、どこで買った?」

「えっ? ハーシェ、どういうことだ?」


 想定外の言葉にマルクスが疑問符を浮かべる。


「この男に、この薬を精製できるほどの能力はありません。この薬は国の研究機関で作られていた高価で緻密な薬です。」


 きっぱりとハーシェリクは言い切った。

 そもそも本来は人体強化するための薬だと記録には残っていた。普通の兵士を屈強な人間兵器にするためのドーピング薬。人体強化と同時に恐怖心を無くすのがこの薬の神髄であり正体だった。ただ非人道的だった為、研究は中止を検討されていたところを、二年前の犯人が持ち去ったのだ。その持ち去った犯人である役人も二年前に死亡している。


「二年前、薬の情報を役人が外部に売った。そして短期間出回った薬は、数か月でなくなり犯人と関わった人物はほぼ全て消えた。」


 大体、なぜ人体強化の薬が持ち出されたのか。当時の研究局ではそれよりも万病に効く薬や回復薬等々価値のある薬品があったのだ。だがその薬の情報ではなく、あえて人体強化の薬が流出したのか。


(あえてこの薬を選んだ。そのほうが納得いく。)


 目的はこの薬の情報であり、金などその副産物でしかなかったのではないだろうか。そしてあえて時間を置き、国との関わりが薄れた頃、薬が再度出回り始める。まるで実験をしているかのように。


 ハーシェリクは彼を見下ろす。


「上にいる人間は誰? 協力してくれればいくらか罪は軽くなるかもよ?」


 にこりと笑うハーシェリク。だが内心彼を許しはしないだろうとオランもマルクスもわかったが口には出さなかった。

 イグナーツは口を固く結ぶ。唇が変色するほど結ばれ無言を貫く彼に、オランがわざと見えるよう剣を見せる。磨かれた剣が、蒼くなった彼を鏡のように映していた。


 イグナーツの唇が微かに動く。だがあまりにも小さな声で、近くにいた二人にさえ聞こえなかった。


「はっきり言え。」

「……知らない!」


 オランの言葉に、彼はまるで駄々をこねる子供のように床を叩きながら叫ぶ。


「俺は……俺は、子供から買っていただけだ! 誰が上かなんて知らない!」

「子供……?」


 ハーシェリクは彼の言葉を復唱し思考する。彼が嘘をついているように見えなかった。

そしてふと硝子の瓶につまった包装された薬を見る。どの絵柄はどこかでみた覚えがあった。


(……まさか!)


 想定外の事態にハーシェリクは言葉を失う。否、一応可能性はあったが、一番低く実際には考えられないものだったのだ。


「マーク兄様、ここを頼みます。オラン、すぐに馬の用意を!」


 ハーシェリクが慌てた。その様子にオランが首を傾げる。


「王子、なにかわかったのか?」

「オラン、落ち着いて聞いてほしい。」


 そう言いつつ、一番落ち着いていないのはハーシェリク自身だったが。


「きっと彼のいう子供というのは、孤児院の子供達のことだ。」


 ハーシェリクの言葉に、オランの思考が停止したのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ