(4) D・レイ
・・・・
「馬鹿野郎!…何をしてる。早く武具を出し、その娘たちと早く繋がるんです!」
怒鳴ったのは道具屋の店主。
怒鳴られたのは、その道具屋の建物を半壊させながら転がり込んだアーシュ・タロット。
恐怖で足を止めてしまったイコが、黒い触手に襲われそうになったところを身代わりになって吹き飛んでいったのだ。
「…………ゃぁ…」
イコが声にならない悲鳴を上げながら、半壊した道具屋を見つめる。
チユは、再び足を止めてしまったイコの腕を引いて、小さな触手たちから避けさせる。
舌打ちをしながら、再度、道具屋の店主は怒鳴る。
「聞こえないんですか!?…さぁ、早く、武具をだして、その娘たちと!」
・・・
しかし、怒鳴られたアーシュから返る声はない。
完全に道具屋の中に体が突っ込んでしまっているので、外側からは中の様子を窺うことができないが、ひょっとすると失神してしまったか…或いは…。
道具屋の店主が、自分の目の前の巨大な触手を剣で切り裂きながら救出に向かおうとするが、他の触手がその行く手を遮って近寄ることができない。
舌打ちをしながら歯噛みする道具屋の店主。
それでも何とか、触手に薙ぎ払われようとするチユとイコを、剣を盾にして寸前で守ってやる。
そして、悲愴な面持ちで震える2人に力強く告げる。
「あの程度でやられるような奴じゃありません。心配は不要です!」
「あ、ありがとう店長…」
「て、店長。でも…お兄ぃが…お兄ぃが…」
「あぁ…。だが、距離がありすぎます。何とか店の方へ行きたいとは思いますが…。もう、何本かの触手が店に狙いを定め始めている…。せめて、今のショックで、アイツの記憶が少しでも戻ってくれていると…いいんですが。残念ながら…この熱エネルギーを奪う剣では、あの黒い奴は倒せません」
そう言いながら、道具屋の店主は自分の手にする剣に目を落とす。
一見、何の変哲もない剣。だが、実際は途轍もない魔力を秘めている…ハズだった。
・・・
「この剣は、これまでの化け物用に調整したものです。あの超高熱と極低温を交互に撒き散らしていた化け物になら…この剣で十分闘えたハズなんですが…」
「店長。ねぇ…どうして。どうして…今日は、急にそんな違う奴が出てくるん?」
「そうよ。いつもなら店長が、あっと言う間に退治して…私たちは店の陳列棚から出る必要すら無かったのに…」
「うん。あんな化け物と店長が闘ってたなんて、知らんかったんよぉ!」
「俺の店の中は、【輪転の刻】の影響を受けないように結界を張ってあったんです。…しかし、それも今、アイツが壁を壊してくれたために破れてしまいましたが…くっ。触手が…狙いを定め終わりました」
ぐぐぐ…と縮むようにして如何にも力を貯めたという感じで、何本もの触手が半壊した道具屋の店舗を狙って震える。
「嫌ぁゃ…アタシのせいなん。アタシが足を止めたりしたから…」
「馬鹿。イコ。立ち止まっちゃ駄目。せっかくあの人に助けてもらったのに、アナタがやられちゃったら…あの人の気持ちが無駄になるでしょ!」
「あぁん…チユ。アタシ…どうしたら良いん!?」
悲鳴を上げるイコ。
宥め、叱るチユ。
その横で、道具屋の店主が…呟く。
「…店が喰われる…」
・・・
次の瞬間…
【ぴしゅわっずごっっしゅ!!】
空気を切り裂く音が響き、小さな道具屋は木っ端微塵に…
…ならない。
触手の先端が店の壁を突き破らんとする…その寸前でピタリと動きを止めている。
静寂。
いつの間にか、酒場や他の家々を蹂躙していた触手までもが動きを止めている。
すんでの所で触手からの難を逃れた人々が、怪訝な面持ちで…しかし、疲労と恐怖に顔を歪めながら…道具屋の方に顔を向ける。
何故なら、直前まで自分たちに襲いかかってきていた触手たちの先端が、全て道具屋の方へと首を傾げるような感じに向きを変えて静止していたから。
「…て、店長…あれ…」
最初に違和感に気づいたのはチユ。
指さすその先を、道具屋の店主が目を細めてみる。
「触手が…怯えている?」
・・・
道具屋の店主の言葉を証明するかのように、触手が一本、また一本と後退していく。
【ぬぶじゅぐるぅりぃ…ずびゅぐぶりゅぃり…】
静寂の中を、触手が蠕動しながら後退すると、それまでは破壊音と恐怖と絶望の喧噪の中に埋もれていた、粘液を纏った触手が放つ気味の悪い音が辺りに響く。
あまりの不気味さに、何人かが耳を塞ぎ、俯いて視線を逸らす。
次々と音を立てながら、黒い巨大なタコ擬きの本体へと引き戻されていく触手たち。
その触手のうち、何故か一本、道具屋から後退しないものがある。
それは、アーシュ・タロットがぶつかって破壊された壁の穴から店内に侵入していた一本だ。その一本だけが、まるで凍り付きでもしたかのように蠕動どころか微動だにせず、真っ直ぐに店内へと先端をくぐらせている。
「…何があった?」
「「店長?」」
この恐ろしい現象【輪転の刻】について一番詳しいはずの道具屋の店主までもが、状況を把握できずに眉を顰めるのだから、これまで店外に出たことのなかったチユとイコは何が何だか分かるはずもなく、ただただ困惑した顔で店長の方を見る。
その店長の顔がピクリと反応する。その瞬間…
【ぴしっ…】
・・・
黒い触手に一筋の光の線が浮かぶ。
そして…その光はすぐに消え去り…次の瞬間。
【ずぶしゃはっ…】
光の消えたそのラインから触手が真っ二つに裂けて広がる。
あの真っ黒な飛沫はひょっとすると血液なのだろうか。
その飛沫が飛び散った後につづき、粉々になって触手の先端が崩壊する。
「ギリギリで、アイツが何か武具を振るったのか…」
「店長…それじゃ、あの人…無事なんですね?」
「よかった。良かったんよぅ…」
「まだ喜ぶのは早いですよ。破壊したのは触手一本。それも先端だけです。あの化け物の本体はまだ…あ…」
用心深く警戒心を解かない道具屋の店主。だが、言葉の語尾がやや力の抜けた呟きへと変わる。
何故なら、その警戒心が直後に無用のものになったと分かったから。
黒い染みの中から這い出てきていた小さな触手たちが、みるみるうちに染みの中へと還っていく。
そして、人々や家々に矛先を向けていた大黒ダコ擬きの巨大な触手たちは、するすると音もなく本体の方へと引き戻されていった。
・・・
「…【輪転の刻】が…終わるのか…」
道具屋の店主が、手にした剣の先端を下げて呟く。
店主の見上げる先には、未だ大黒ダコ擬きが巨体を浮かべてはいるが、触手を縮めたその姿には先ほどまでのように力を貯めているという様子はない。
「!?…て、店長。じゃぁ、アタシたち、助かったんね!?」
「ということは…あの人も無事なのね!」
振り返る2人の目には、半壊した道具屋の店舗。
あの人、すなわちアーシュ・タロットが無事かどうか、その店舗の破壊されっぷりを見る限りとても無事とは思えないのだが、チユは期待と願いを込めてそう言葉にした。
命さえ潰えていなければ、自分の能力で必ず治癒してみせる。
そういう決意も籠もっているのだろう。
だから、チユはその治癒を実際に行うため、半壊した道具屋へと向けて駆け出した。
「…その必要はありません」
いや。駆け出そうとした…ところを、道具屋の店主に肩をつかまれ引き留められた。
想いを邪魔されて、店主へと顔を向け、抗議の視線を向けるチユ。
しかし、その抗議の視線を意にも介せず、道具屋の店主は目線を周囲に向けることで、チユに「周りを見てみろ」という意志を伝える。
仕方なく周囲に目を遣るチユ。イコもそれに倣って周りを見る。
・・・
視線を向けた先では、信じられないことが起きていた。
先ほどまで触手に散々なまでに蹂躙され、その命の炎を今にも絶やさんとしていた者たちが、まるで最上級の広範囲型治癒魔法でもかけられたたかのように、体中に淡く輝く青い光を纏いながら回復していく。
傷が癒え、痣が消えるだけならまだしも、腕や脚などの部位欠損どころか首に致命的な損傷を受けたと思わしき者たちまでもが…みるみるうちに元へと戻っていく。
「…う、嘘…あの女の人…、ま、間違いなく死んじゃってたんように見えたんに…」
「わ、私の治癒能力でも…あんなことは…出来ないわ。そ、そんな…」
「お前たちは、これまで結界に守られた俺の店の中にしかいませんでしたから、知らないのも無理はありませんが…これが、この現象を【輪転の刻】と呼ぶ…理由です」
「…これが?…【輪転…】の?…どういうことですか?…店長」
驚きを隠せないチユ。
イコも、別の意味の気味の悪さに右手で可愛らしく下唇をつまんだ仕草で、キョロキョロと異様な回復シーンを見回している。
「さっき、お前たちの主人が…呟いていたでしょう。さっきまでの状況を『地獄だ』…と。その通りなんですよ。ここは、紛れもなく【地獄】なんです。…ただ、それを普段は誰も覚えていない」
そう言って、道具屋の店主が再び空中の大黒ダコ擬きへと視線を送る…が。
気持ちの悪い粘膜を纏っていたハズのそれは、今、淡く輝く青い光に包まれている。
・・・
ゆっくりと明滅を繰り返している青い光。
どうやら、人々を癒していく青い光と、大黒ダコ擬きを包む青い光とはリンクしているようで、まったく同じタイミングで明滅を繰り返す。
「あの化け物は…これまでの奴とはタイプが違いますが、しかし、この薄淡い治癒の光は、どうやらいつもと同じようですね。この光を放っているのは、あの化け物です…奴は、散々…破壊を撒き散らしておきながら、ほとんどの者を【死】かそれを目前とした状態にまで追い遣ると、一点してああやって完全に元通りに回復させていくんです」
「完全な………回復。それで…【輪転】…」
「いいえ。違います。もう少し、見ていてれば分かります」
「で、でもお兄ぃが…」
「は、そ、そうよ、あの人が…」
「だから、アイツは大丈夫だと言っているでしょう。ほら、今、終わります」
道具屋の店主が顎で大黒ダコ擬きの方を見るように促す。
チユとイコが、それに従ってそちらをみると…
【ぽぉうっ…ふっ!】
一際明るく青い光を放つ巨大黒ダコ擬き。
そして、その光が輝きを失うのと共に、微かな残像だけを残して跡形もなく消え去った。
それと同時に、人々や街を覆っていた光も…消える。
後にのこったのは…………何事も無かったように無傷の人々と同じく無傷の街並み。
・・・
アーシュ・タロットが壁を半壊させた道具屋も、元通りに復元している。
チユとイコは、何が何だか分からないといった顔でキョロキョロとするばかりだ。
「…どういうことなの?…まるで…何も無かったみたいに…」
「で、でも、何も無かったなんてことないんよぅ。だって、アタシたちは間違いなく酒場から逃げ出してきたんだし、お兄ぃだって…」
まるで狐につままれたような気持になる2人
既に黒い染みなど跡形もなく消え去り、街には長閑な陽差しとそよ風が吹いている。
やがて、通りに倒れていた者たちも1人…また1人と体を起こし、後頭部や額をさすりながら頭を振っている。
そして…
「…んんん?…あれ?…俺ぁ、どうしてこんな所で寝てたんだぁ?…あぁ…また、ちょっと深酒しちまったかな。やべぇ…母ちゃんにおこられちまう」
「あら。私、こんなところで転んじゃったのかしら?…きっと、打ち所が悪くて…少し気を失っていたのね。よかったわ。大きな傷ができなくって…」
「はっ。…あぁ。僕また立ったまま眠っちゃってたみたいだ。夕べ夜更かししちゃったからかなぁ…」
「ふあぁぁ…よく寝た」
何と言うことだろう。あれ程の恐怖と苦痛に晒されていたというのに、皆、何も無かったかのように起き上がり、それぞれの元居た場所へと戻っていく。
・・・
そして、皆、口々に小さな声で囁くのだ。
「あぁ…しかし、怖い夢だったなぁ…」
「ほっ。夢で良かったよ。あ…怖かった」
「くわばら。くわばら…」
自らの体を掻き抱くようにしながら身を震わせると、もう、今あった出来事のことも、何故、自分が倒れていたのかについても、誰も話題にすらしなくなる。
何やら出来の悪い三文芝居を見ているようで、チユもイコも唖然として文字通り開いた口が塞がらない状態で固まってしまう。
「…う、嘘でしょ?」
「何なん…これ?…て、店長」
「…分かったでしょう。これが【輪転】と呼ばれる理由です。一度【死】して…そして、また生き返る。人の生死の繰り返しを輪廻転生と言いますが、それよりも…今見た現象は、まるで輪転機のドラムが一周回ってすぐ元に戻るかのようなイメージに近いかもしれません。実際のところ、誰がどういう意図で名付けたのかは知りませんが…」
そこで、言葉を切った道具屋の店主は、思い出したように自分の店の方へと歩き始める。
歩きながら、さらに付け加える。
「一つだけ間違いなく言えることは、この名を付けたのは、今の現象を生き延びた者だということです。生き延びた者だけが…何があったかを覚えていられる」
・・・
「…で、でも店長…。何人かのヒトは、私たちと同じように…致命傷を負わずに済んでいたハズよ?」
「彼らは…皆、【プレイヤー】属性を持たない者たちでした」
「え?」
「化け物どもの目的は、【プレイヤー】属性のある人々の精神に【破壊】による恐怖を与えることなんです」
「…【破壊】による…恐怖…」
怯えるように訊き返すチユに、道具屋の店主は大きく頷く。
「そうです。【破壊】による恐怖です。それを感じることができるのは【プレイヤー】属性を持った者だけ…だと、少なくともあの化け物は信じている」
「じゃ、じゃぁ…アイツが青い光で大怪我を負った人たちや街を治すのって…」
「ええ。あの化け物が、こうして青い光による完全治癒・完全回復を行うのは、殺してしまっては【破壊】による恐怖を感じる者がいなくなってしまい…自分たちの存在意義が無くなってしまうから…という理由なんです」
「…な、何の為に…そ、そんな…」
「さぁ…それは、俺にも分かりません。どうして、あんな化け物がこの世界に生まれたのか…。何故、その化け物が、【破壊】による恐怖を与える…などということだけを目的に街やヒトを破壊して回るのか。それを知るのは…きっと…」
何を言いかけたのか、道具屋の店主はそこで言葉をきって半壊した自分の店の方へと顔を向ける。そして…
・・・
呆然とする美少女2人にはお構いなしで、道具屋の店主はスタスタと店の方へ歩く。
後に残ったチユとイコは、しばらく互いの顔を見つめ合っていたが、すぐにあることに思い至って、慌てて店主の背中を追いかけた。
「…じゃ、じゃぁ店長。あの人も…何もかも忘れちゃってるってコト?」
「も、もしかして…お兄ぃが記憶の一部を失ってるって言ってたのは…前にコレと同じ目にあったからって言うん?」
「は。アイツが?…馬鹿を言ってはいけません。アイツが、今程度のことで致命傷を負うことなどありえませんし、【輪転の刻】で再生した者たちは、アイツのように元々の記憶の一部を欠損するなどいうことはありません。ただ、単に自分の身を襲った悪夢を忘れてしまうだけです」
そう言いながら店の入り口まで帰り着いた店主は、勢い良く店の扉を開きながら…
「そうでしょ?…アス…いや、アーシュ・タロットでしたか」
…と、道具屋の店内に向かって声をかける。
しかし、店内からは返る声はない。
店主の後から不安げに店内を覗き込むチユとイコ。
「「……ん…あ!!」」
可愛らしいユニゾンで驚きの声を上げる2人。
・・・
店内を見回した2人が発見したもの。
それは…
エフェクター・コーナーの陳列棚に頭をぶつけたのか、頭に大きなタンコブをこしらえて、目を回して大の字に横たわるアーシュ・タロットの姿。
「あ、アンタ、何してるの…ディー!!…」
「ちょ、ちょっと、レイ!!そのお兄ぃはアタシのお兄ぃなんだよぅ!!」
…と、その目を回したアーシュ・タロットに膝枕をしながら、優しくタンコブを撫でさすっているこれまた美少女だ。
3人目の美少女の名は、D・レイ…こと、ディスティニア・レイ。
チユはファースト・ネームの相性「D」で、イコはセカンド・ネームでその3人目の美少女の名を呼んで抗議する。
D・レイの歳の頃は、これまたアーシュ・タロットと同じか、若干、上に見える十代後半。トロン…とした眠そうにも見える目は、彼女の魅力の一つと言えるだろう。
ヘアスタイルは、内巻き主体のユルふわミディアム。キャラメル色の艶のあるカールは、もしそこに子猫がいたら、いつまででも肉球でじゃれついてしまうんじゃないか…と思うような…誰もが触れてみたくなるような柔らかな質感を見せている。
白いブラウスの上にベージュがかったグレーのVネックセーターを重ね着し、白・紺・グレーのチェック柄ボックスプリーツキュロットが可愛らしい。
足には膝上丈のロングソックスと、少し濃いめのベージュ色をしたローカットスニーカーを履いている。
僅かに覗いた柔らかそうな白いももの上に、アーシュの頭を載せている。
・・・
何とも羨ましいシチューエーションの中、注目の主であるアーシュ・タロットは格好悪く気絶中だというのが、何とも間抜けな様である。
そんなシチューエーションの描写をゆっくりとできてしまうほどの時間が経過した後、結構強い調子でチユとイコから苦情の声を投げかけられたハズのD・レイが、やっと気づいた…といった感じで、ゆっくりと2人の方に顔を向ける。
そして、トロンとした眠そうな目をさらに嬉しそうに細めて微笑み…
「わぁ。チユちゃんと、イコちゃんだぁ…。どこ行ってたのぉ?ディー心配したんだよぉ、二人して急にいなくなるから…」
…と、やっと2人の存在に気づいたかのように言う。
お、遅っ!…と、ツッコミを入れたくなるようなタイムラグだ。
チユとイコがズッコケそうに姿勢を崩し、道具屋の店主も苦笑を浮かべる。
「れ、レイ、アンタ…アタシたちが、あんなに賑やかにしながら、お兄ぃに買われていったのに…全く、気づいてなかったん?」
「そ、そうよ。そりゃ、アナタにちゃんとお別れを告げないで、嬉々として買われていった私たちも薄情だったことは…認めるけど…」
「…俺は一銭も代金を受け取っていません。売れたわけではありませんが…」
「そんなことはどうでもいいのよ。ディー。事情を知らないなら仕方がないけど、アナタが膝枕しているその人は、私のご主人様なのよ。悪いけど、その人の介抱は私に任せてちょうだい。何と言っても治癒は私の十八番なんだし」
「あぁ…チユ!…ず、ズルイいんよぉ!…お兄ぃはアタシのご主人様なんよぉ!」
・・・
アーシュ・タロットの頭を自分の膝の方へ移そうと、D・レイの隣に横様に座るチユ。
イコも、それに遅れてアーシュの方へと駆け寄った。
アッサリとアーシュ・タロットの頭の膝載せ権をチユに奪われたD・レイは、特に表情を変えることなく、オットリと語りだす。
「んー?何してるって、この男の子が、急にお店の壁を壊して飛び込んできたんだよぉ。それでね。ぐるんぐるんって回って、それからディーたちの居るこの棚の角にぃ、どぉ~~~んっ…ってなったの。それで、ディー、棚から落ちちゃったの」
「あぁ、それで…こんな床に座り込んでいたのね」
「じゃぁ、偶然、お兄ぃの頭を膝枕する形になっちゃったんね…」
「んー?気が付かなかったなぁ。2人がいつものように仲良くおしゃべりしていたのは知ってたけど、そうなんだぁ。買われていったんだぁ…」
「「???」」
微妙に会話が成立しているようで…成立していない?
チユとイコは、2人で顔を見合わせて黙ってしまう。
「えぇ!!…この男の子が、チユちゃんのご主人様だったの…え?…えぇぇえええ!?…い、イコちゃんのお兄さんで、それで…ご主人様でもあるの…え、え、え…て、いうことは………二股?」
「「遅っ!!」」
どうやら、D・レイの答えは、少し前の会話に対するもののようだ。
・・・
「おい。アス…いや…アーシュ・タロット。いつまで目を回して寝ているつもりですか。お前がこの娘の遅延時間を早く適正値にしてやらないと、会話が面倒です。いい加減に起きるんです!」
美少女3人が、寄って集って甲斐甲斐しくアーシュ・タロットの介抱をしようと身を寄せている間に割って入り、道具屋の店主がアーシュの額を踵で蹴りつける。
【がすっ!】
結構、痛そうな音を立てて踵がヒットする。
チユとイコが、店主に抗議の視線を送る。
D・レイは、店主の踵が離れた後のアーシュの額を、よしよし…と撫でる。どうやら、さっきまで撫でていたタンコブを撫でているつもりらしいのだが。
とにもかくにも、道具屋の店主のやや乱暴な荒療治で、アーシュ・タロットの意識はやっとこの世界へと復帰した。
「い、痛ってぇ…な、何するんだよ!…はっ。あ、あぁ、皆、まだ無事なんだね。よかった。いや、良くない。止まってたら触手に掴まっちゃう。早く逃げなきゃ!」
「何を寝ぼけているんです。触手など、もうとっくの昔に消えました。早く、目をさますんです」
目をさましたものの、修羅場の中で気絶したアーシュ・タロットは未だ危機がさったことを知らずに慌ててしまう。
・・・
しかし、アーシュを別の意味での修羅場に送り込んだのは、過ぎ去った本当の修羅場を知らないD・レイの次の一言だった。
「ん~?偶然じゃないよぉ。ディーは、この男の子にキスされて、押し倒されちゃったから床に座っちゃったんだよぉ」
空気というものは、本当に凍り付くことがあるのだ。
それを、アーシュ・タロットは初めて体感した。
チユが眉根を寄せて「んん?」という表情で固まる。
イコは目も、口も…まん丸に大きく開いた驚きの表情でやはり固まる。
道具屋の店主も「あん?…何をやっていたんですか?お前は」…とでも言いたげな冷たい表情でアーシュを見下ろしている。
気絶から覚醒したばかりで、突然、そんな状況に置かれたアーシュ・タロット自身も、その凍り付いた空気に縛られたように静止する以外ない。
そんな状況の中、当の発言の主…D・レイだけが、ほんのりと頬を染めて柔らかに微笑み、一人言葉を続ける。
「…えっとね。だから、この男の子がどーんってぶつかったショックで、ディーは棚から落ちちゃったんだけど、何とか転ばずには済んだのね。で、この男の子も頭を強く打ったみたいだけど立ち上がって…でも…やっぱりよろけて…で、ディーにチュッ!ってして。それから、二人してバターンってなっちゃったんだ」
かなり大雑把な説明をして、D・レイは「えへっ」と人差し指で唇を撫でる。
・・・
なるほど、先ほどの店主の話によると、D・レイは会話2つ分ぐらい話のテンポがずれてしまっているのだ…と、チユとイコは思い出す。
さしずめ、先ほどの爆弾発言は、少し前にイコが問いかけた「偶然、お兄ぃの頭を膝枕する形になっちゃたんだね…」というものへの答えのようであり、その後に続いた解説は、会話のズレに違和感を覚えて「「???」」となった2人へのフォローだったようだ。
つまりあれだ。D・レイの話を整理すると、こういうことだろう。
まず、アーシュ・タロットは、大黒ダコ擬きの触手に突き飛ばされ、グルグルと回転しながら道具屋の壁を半壊させて、D・レイの載っていたエフェクターの陳列棚へと頭から激突した。そして、その弾みで彼女は陳列棚から落ちてしまったものの、その段階では転ぶこともなく自分の足で着地した。
そこへ、頭をぶつけたせいなのか、壁を半壊させた時のダメージか、それともグルグルと回転しながら吹き飛んだために目を回していたからなのか…若しくは、その全てが原因で、ふらふらになったアーシュ・タロットが倒れ込み…
狙ってやった…ということもないだろうが、倒れたはずみでD・レイの唇を奪いつつ、覆い被さるように倒れた…と。
しかし、それが何故、最終的に膝枕の形になっていたのだろうか?
…という疑問は、続くD・レイの言葉ですぐに明らかになった。
「おそ?…ん~?襲われたっていう感じはしなかったな…。だって、唇が触れた瞬間にね、ディー、電気が走ったような…なんていうか…あ…運命的な?…ものを感じちゃったんの。うふ。だから、ゴメンね。チユちゃん、イコちゃん。この男の子は、ディーの運命の人だと思うのよ。あは。二股じゃなくてぇ…三股になっちゃうねぇ。きゃは」
・・・
う~む…
眠そうなおっとり顔の割に、どうやらD・レイはなかなかの魔性の女のようだ。
うふ…とか、あは…とか、きゃは…とか可愛らしい笑い声を混ぜながら、ちゃっかりチユとイコの二人へ宣戦布告をしてみせる。
「なるほど。接吻で繋がったというわけですか。それで、その時にこの娘の遅延時間が妙な長さにセットされてしまったんですね」
D・レイの予想外の宣戦布告に口をパクパクとさせているチユやイコとは違い、別にアーシュ・タロットの所有権が誰のものになろうと興味のない道具屋の店主は、一人で腕を組んで頷き、なにやら納得している。
「遅延時間?…っていうか…この子は誰?」
「お兄ぃ!お兄ぃは相手が誰かも分からずにキスできちゃったりするんの!?」
「…そ、その歪んだ性癖を、私が正しく導いてあげます。そこへ正座しなさい!」
「い、いや。せ、正座って…なんでさ。痛っ…た、叩かないでよ!」
「お兄ぃのバカバカ馬鹿ぁ~!」
「いいえ。こんなヒトを、心配した私たちの方が馬鹿だったのよ。イコ」
「し、心配…って…あ!…そうか。俺、あの黒い巨大なタコの触手みたいな奴に吹き飛ばされて…。アイツはどこへ?…街の皆は?」
何やかんやと自分に詰め寄ってくる美少女たちの輪を抜けて、やっとのことで立ち上がるアーシュ・タロット。キョロキョロと辺りを見回しながら店主に尋ねる。
・・・
やっとまともに会話できる状況になったか…というような、ややウンザリした面持ちでアーシュ・タロットを冷たく見つめる道具屋の店主。
ふぅ…っと息を吐き出しながら、静かに語り出す。
「…お前が知りたい事も、知るべき事も…俺が知っていることは全て教えてあげます。それが、俺の目的の為にも必要ですから。だが、その前に…一つ答えて下さい。お前は…さっき、あの黒い触手に何をしたんです?」
「え?…俺が?…触手に?」
「むぅ。その反応は、覚えていない…とでも言いそうな反応ですね」
「…あはは…ゴメン。覚えて…ない…んだよね」
「………まぁ…そんなところだろうとは予測していました。すると、やはりお前を介抱していたその娘に尋ねたほうが良さそうですね。恐らく、その瞬間を目撃したハズですから。だが、しかし…今のように遅延時間の設定が長いままでは会話もままなりません」
「…遅延時間?…って、さっきも言ってたよね?…それ…どういう?」
「細かいことは後でまとめて説明します。とにかく、その娘の遅延を補正しなければ話になりませんから、さっさともう一度、その娘と繋がるんです」
「つ、繋がる…って?」
「繋がり方などいくらでもあるでしょう。一々、俺に訊かずに好きなように繋がって下さい。確か、さっきは接吻という手段を用いて唇で繋がったと言っていましたね。なら、また接吻で構いませんから、さぁ、早く」
「うぇ!?…せ、接吻って…き、キスしろってこと?…え?…え?…いいの!?…じゃなかった…そ、そんなの人前で、きゅ、急に言われたって…」
・・・
訳も分からずおっとり美少女D・レイと繋がれ…とか、接吻しろ…とか言われて喜び…いや、困惑するアーシュ・タロット。
チユとイコの殺気の籠もった視線を背中に受けて、冷や汗を掻きながら首を捻る。
「何を恥ずかしがっているんです。【エフェクター】は繋がなければ何の効果も得られないし、パラメータも弄れないのは当たり前でしょう。この娘たちは、お前としか繋がろうとしませんし、お前は嘗て最強の【エフェクター使い】と呼ばれるほど、その使い方に長けていたんでしょう?…なら、勿体ぶらずにさっさとその技を見せてください」
「…さ、最強の?…エフェクター…使い?…え?…いつ?…どこで?…俺がぁ?」
「むぅ。この娘の対話遅延もやっかいですが、お前のその記憶欠損も早く回復してもらわなければ面倒臭いですね。俺が、思いっきり殴れば記憶は戻るでしょうか?」
「な、殴らないで!…た、ただでさえ、たんこぶが痛いんだから!…って、何故だろう…たんこぶの位置が額に移動しているような気が…」
「それは…きっと…店長の踵で蹴られた跡だわ…」
アーシュと店主のやりとりを黙って見守っていたチユが、思わずツッコミを入れる。
「仕方ない。【エフェクター】の使い方については、簡単に俺が教えてあげましょう。ただ、俺自身は、【エフェクター】の扱いがそれほど得意ではありませんから、マニュアルを読めば記載してある程度のことしか教えられませんが…」
道具屋の店主は、不承不承という感じで、そう呟いた。
・・・