(3) 輪転の刻
・・・
町外れの酒場
・・・
「あぁ。どうして、俺がこんな目に?」
酒場内の他のテーブルから、殺気の籠もった複数の視線をぶつけられて、頭を抱え込むアーシュ・タロット。
そんな彼の様子などお構いなく、チユとイコの2人は目の前の料理を美味しそうに、モグモグと一心不乱ともいえる真剣さで食べていた。
道具屋を後にした3人は、記憶の欠損のため疑問だらけのアーシュ・タロットに、取りあえずチユとイコが知っていることだけでも説明するというコトになって、立ち話も何だからと町外れの酒場へとやって来たのだ。
しかし、酒場の入り口のウエスタンドアを押して店内に足を踏み入れた瞬間、3人に向かって鋭い視線が向けられて…
「あぁ!!…その女、『私は、そんじょそこらのオトコには扱えない。レベルを10億倍引き上げてから出直せ!』…とか言ってた…」
「おぅ!?…ほ、ホントだ、俺には『低能には到底使いこなせない。帰ってイージーチューニングから勉強しなおせ!』とか罵倒しやがったぜ!」
「むむ、そう言やぁ、そっちの派手なネェちゃんも、俺のコト散々『センスが無い』だの、『地味』だのこき下ろしてくれたような…」
「そうだ。俺のダチなんざ、あの派手な女に散々言われて、自信喪失で未だに家で寝込んでるんだぜ。俺だって…くすん」
「誰にも買われる気はないとか言ってたのに。誰だ、あの真ん中に居る野郎は!?」
・・・
一瞬にして、話題の中心にされてしまったアーシュ・タロット。
それも、自分のせいではなく、両腕のそれぞれにガッシリと腕をまわして寄りそう2人の美少女(の所業)の巻き添えを食って。
アーシュ・タロットは、今の一瞬で、左右の腕にそれぞれの胸を押しつけてくる2人が、何故、あの道具屋で「売れ残り」と呼ばれていたのか…少しだけ…理解した。
要するに2人は、「買われよう」という意志がなかったのだ。
(…って、「買われよう」って何だよ。や、やっぱりあの道具屋…じ、人身売買の店だったのか?)
右腕に身を寄せるのは、白地に黒いデザインをあしらったナース風コスチュームのチユ。
左腕にぎゅうぎゅう柔らかな何かを押しつけてくるのは、カラフルではあるが単純に派手と言うわけでもなく、先鋭的なセンスに満ちあふれた美少女…イコ。
2人に順番に視線を送ったアーシュは、それから憎悪の視線を投げてくる酒場の男たちの方へと改めて視線を向け直す。
どの顔も、それほどの極悪人には見えないが…しかし、この美少女2人を平気で買おうとする、人身売買になんの後ろめたさも感じないような連中だ。
「…奴らに、買われないでいて…良かった。…下がっていて」
アーシュ・タロットは、2人の腕から腕を外し、その腕を広げて2人の美少女を自らの背後へと隠すように下がらせる。
・・・
そして、よせば良いのに格好をつけて宣言する。
「…俺が誰かと訊いたか?…俺の名は、アーシュ・タロット。この娘たちは俺のモノだ。下劣な視線を向けるのは、もう止めてもらおう」
2人の美少女が何者で、そして自分が誰なのかの記憶も欠損しているくせに、取りあえず、その場の雰囲気で大見得を切ってしまう辺りが、このアーシュ・タロットという男のお銚子者な一面を物語っている。
事情も良く分からないまま、取りあえずは女性の方の味方に立候補してしまうのは、男全般に見られる悲しい性であるとも言えるが…。
しかし、そんなお銚子者アーシュ・タロットに対する、酒場の男たちの反応は予想を大きく上回るほどに激しいものだった。
「…な…何だと?…今、何と言った?」
「あ…ア………タロトこ、コイツが…ま、まさか?」
「う、うわぁ…マジかよ!?…た、助けてくれ…」
「ひぃ…」
悲鳴じみた呻きとともに弾けるように後退った男が、壁から飛び出していた柱に後頭部を打ち付けて、白目を剥いて泡を吹く。
幾人かが、よろめきながらも酒場の裏木戸から逃げていく。
残った男たちも、自分たちのテーブルを引きずるようにしてアーシュから距離を取る。
・・・
「…待て。だが、あんなマヌケ面をした奴が…ほ、本当にあの…アレなのか?」
「いや。た、確かにアホ面をしているが、あ、アレは狡猾だと言うぞ」
「そ、そうだ。あの馬鹿面で俺たちを油断させて…一気に…という魂胆かもしれぬ」
「うぅ。だとしたら…見事なカモフラージュだ。ただのスケベ面にしか見えない…」
散々な言われようだ。
アーシュ・タロットとしては、「この娘たちは、俺のモノだ」的な決めゼリフに反応を示して欲しかったところだが、またしても自分の名前を聞き間違えられて、それだけで場の空気を決定づけてしまった。
恐怖しながらも逃げ出さない男たちは、勇敢だと言えるだろう。
いや。もし、アーシュが本当に『例のアレ』だとしたら…背中を見せて逃げ出す方が危ない…と判断しただけなのかもしれない。
さっき、裏木戸から逃げ出せた男は幸運だったのだ。自分たちの位置からでは、アーシュ・タロットの背後の入り口は勿論のこと、裏木戸まで辿り着くまでに背中から襲われかねない…と怯えているようだ。
恐怖の対象ではあるが、すぐに襲いかかるでもないアーシュ・タロットに、酒場の男たちはどう対処してよいのか図りかねているようで、遠巻きにアーシュの一挙手一投足を窺っている。
ゆっくりと酒場で食事をしながら話をする…という雰囲気にはほど遠くなってしまった。
けれど、アーシュ・タロットの身に降りかかった不幸は、酒場の男たちから理不尽に恐怖される…などということではなく、もっと身近なところで発生した。
・・・
「あはん。お兄ぃ…アタシ、胸がキュンキュンしてるんよぉ!…分かるぅ?…なぁ、触ってみて、触ってみて!…な。格好良かったわぁ。お兄ぃが、アタシのコト『俺のモン』だって言ってくれたんな。ホント、嬉しかったんよ!!」
「イコ。だから離れなさいっ!…そんなコトしたら、この人のバイタル・ステータスに、どんどんダメージが蓄積されちゃうでしょ!…私の大切な人に勝手なことしないで!…ね。私のア・ナ・タ…」
俺のモノだ…という、ある意味、人格を無視するような言い草にも関わらず、どうやら2人の美少女の胸をズキューンと見事に打ち抜いてしまったようだ。
さっきよりも、より体を密着させた2人の美少女の丸くて柔らかな感触に、アーシュ・タロットのMAXハート・レートは再び新記録を更新。鼻の下も、溶けかけた砂糖菓子のように自然と垂れ下がってしまう。
周りの男たちが恐怖と戸惑いで立ち尽くしているというのに、その視線を一身に浴びている恐怖の対象は美少女2人といちゃついている。
怯える男たちに、いちゃつく男女。
デレデレ男女に、ビクビク野郎ども…。
何ともシュールな絵面である。
当然のことながら、そんなシュールで間抜けな絵面の中で、極度の緊張を強いられる恐怖心を維持できる者など居はしない。周りの男たちの恐怖心が、理不尽な状況を与えたアーシュへの殺気へと変わるのに、それほど時間を要しなかった。
・・・
というわけで、腹が立つから殺気の籠もった視線を投げてはくるものの、かといって万が一、アーシュ・タロットが本当に『例のアレ』だった場合、迂闊にちょっかいを出したら恐ろしいことになるので、周りの男たちは酒場の空気をどんよりと淀ませたまま睨み続けてくるのであった。
その空気の淀みだけでもアーシュ・タロットの気分をウンザリとさせるのに、テーブルに着いた途端、人格が豹変したかと目を疑うような勢いで、美少女2人が大量の料理を注文し、モノも言わずにガツガツ、むしゃむしゃと一心不乱に料理を食べあさっているのだ。アーシュ・タロットとしては、口をあんぐりと開けて呆然とするしかない。
この世界での料金の支払いは、注文と同時にウォレットからその商品の金額が即座にマイナスされていく。
楽で良いのだが…
どうして、一口も料理を食べていない俺のウォレットからマイナスされていくんだろう?…アーシュ・タロットは、見る見るうちに値を減らしていくウォレットの残高に溜め息をつきながら、一口コップの水を飲む。
「あぁ。どうして、俺がこんな目に?」
「むぐぅふぐ。…ねぇ、お兄ぃも食べなよ。あ意外とイケるよコレ!」
「そうね。この白身のムニエルの柔らかさと香ばしさは…きっと、バイタル・ステータスにも良い影響を…もぐもぐ」
「あ。いや。その食べたいけど…君たちが、余りにも凄まじい勢いで食べるから…あの。あぁ…ムニエルが…ステーキが…パエリアがぁ…」
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怒濤のような美少女2人の箸捌きに、アーシュ・タロットは料理への到達コースを見いだすことが出来ずに、構えた箸をただプルプルと震わせている。
あ。ちなみに、この世界は基本、箸文化です。ナイフやフォークも無いことは無いけど。
「って、どうして俺のウォレットばかりから!?」
「ん~。だって、アタシ、ウォレット持ってないんよねぇ」
「違うわよ。イコ。私たちは、そもそもウォレットなんて持てないでしょ」
「あは。そうだっけ。うん、そうそう。チユの言うとおりなんよ」
「???…ウォレットを持てない?」
「「うん!」」
「それって…どういう…?…もぐもぐもぐ」
やっと2人が話に耳を傾けてくれた…その隙に、アーシュは唐揚げをやっと一つ抓んで口の中に放り込むことができた。骨付きで、衣はサクサクのふわふわ、一噛みすると肉汁が口の中いっぱいに広がって、仄かに香草の風味が利いたアッサリ塩味の逸品だ。
「そりゃぁ…アタシたちが【エフェクター】だからじゃんよね?」
「ええ。ウォレットって…【プレイヤー】属性のあるヒトにしか、持てないのよね」
「あぅ。また【エフェクター】って?…それに【プレイヤー】…?…何それ?」
記憶の一部を欠損しているアーシュ・タロットには、この世界での生活に必要な最低限の記憶はあるものの、その記憶の中には【エフェクター】や【プレイヤー】という言葉は残されていなかった。
・・・
困惑のために、僅かにバイタル・ステータスにダメージを負ったアーシュ・タロット。
それに気づいたチユが、自分の手をアーシュの腕にそっと添えて、そのダメージを回復しながら答える。
「ゴメンね。私たちも、良くは知らないのよ。でも、この世界には、アナタのような【プレイヤー】属性を持ったヒトと、私たちのようなそれ以外の存在がいるの」
「そ…それじゃぁ…その【プレイヤー】属性…っていうのが無いヒトを【エフェクター】って呼ぶってこと?」
「あはははは。お兄ぃ…面白いコトいうんね。違うんよ。そんなコト言ったら、周りで震えてるむさ苦しいオッチャンたちのうちの何人かも【エフェクター】ってことになっちゃうじゃんね。ウェッ気持ち悪~ぃ。お兄ぃは、あんなオッチャンたちと繋がりたいと思うん?」
「つ…繋がりたい?…って??…いや。思わないけど」
「イコの言うとおりよ。男タイプのヒトに【エフェクター】は居ないわ。何故だかは分からないけれど…」
「へぇ…じゃ、女の人のことを【エフェクター】って呼ぶんだ」
「違うわ。【プレイヤー】にも女はいるし、女でも【エフェクター】じゃないヒトも沢山いるもの」
「そ…そうなんだ。む、難しいんだね」
決して説明の上手い方ではない美少女2人。
当然、アーシュ・タロットに、その説明が良く理解できるわけもなく…仕方ないから、彼は皿の上に一つ残った最後の唐揚げに手を伸ばす…が…
・・・
ひょい、ぱく、もぐもぐ、くちゃ、くちゃ…ゴックン。
「ぁぁあ…」
情けない呻きを漏らすアーシュ・タロットの目の前を、一瞬早く唐揚げを抓んだ手が横切り、最後の唐揚げを咀嚼し…呑み込む。
咀嚼した主は、アーシュの対面に座った男性。
満足気に口元を拭う、その男は…
「ふん。何度食っても相変わらず、代わり映えしない味ですね」
「「て、店長!?」」
「…あ。さっきの道具屋の…」
「どうせ、コイツ等にはろくな説明が出来ないだろうと思って。まぁ、アフターケアーの一環で俺が少しだけ解説に来てあげた…というわけです」
「い、いや。あ、有り難いけど…。それなら、さっき店でそのまま教えてくれればよかったのに…」
「店は…駄目です。お前等は…壊しますから」
肉を囓り終えた唐揚げの骨をアーシュたちの方へ向けて睨んでから、道具屋の店主は骨を皿の上に放る。
そして、近くを通りかかった酒場のウェイトレスにその皿を押しつけながら…
「あぁ。お姉さん。唐揚げおかわり。それとエールも」
・・・
「ちょ、ちょっと道具屋のオッチャン。な、何、勝手に追加注文してんだ!」
そろそろウォレットの残額が気になり始めていたアーシュ・タロットは、いきなりの道具屋店主の乱行に慌てて抗議の声を上げる。
道具屋の店主。
もう、この物語のストーリーには登場しないかと思われたので、容姿の詳細な描写が行われていなかったのだが…どうやら髪型や衣服ぐらいの特徴は記述しなければならないようだ。
美少女では無いので、あまり書いて楽しい描写ではないのだが…
年齢は不詳。アーシュ・タロットと同じぐらいのようにも見えるし、もっと上の年齢のようにも見える。おそらく、その立ち居振る舞いがアーシュよりも随分と落ち着いて見えるからだろう。
先ほどは道具屋の店内、レジ・カウンターの中に座っていたから、彼が道具屋の店主であると当然のように受け止めたのだが、こうして酒場のテーブルに腰掛けているところをみると、あまり道具屋の店主という感じの見た目ではない。
髪は真っ黒で、ヘアスタイルはツーブロックのマッシュウェーブ。
黒いサングラスを掛けているため、どのような目をしているのかは分からないが、中性的で鼻筋がスッキリと通った整った顔つきをしている。
そして、洋服は、これまた真っ黒な上下のスーツ。スーツの中のシャツの色も真っ黒なため、それほど日に焼けていない肌の色がやけに白く見える。
そんな格好なのに、背中には大きな剣を背負っていたりするから妙な感じだ。
・・・
「心配するな。そいつら【エフェクター】と違って、俺はちゃんとウォレットを持っている。今、注文した分は、お前が心配なくても自動的に俺のウォレットから支払われる」
「ほっ。…そ、そうなんだ」
「はっ。本当にお前は…。何も憶えて無いんですね…」
「いや。何もってワケじゃないけど。…まぁ…ほとんど憶えて無いです…はい」
「ふん。その分では、この後始まる【輪転の刻】にも満足に闘えないでしょう。別にお前がどうなろうと知ったことではありませんが、何が起こったのかすら知らないうちに命を落とすようでは、この娘たちも気の毒だ…」
【輪転の刻】…?
「ま、また…知らない言葉が出て来た…な、何、そ…」
【しゃりきゃりぴゃりぎゃりびゃりがりぎりごりぐり…ぐりん!!】
「え?」
道具屋の店主に問い返すアーシュの言葉が終わらぬうちに、世界の空気が変わる。
何かが捲り返るような嫌な感覚。
酒場の中に残っていた男たちも、もはやアーシュに殺意を向けている場合ではないと悟り、何かが始まるの予感に体を緊張させて身構えている。
いや。何人かは、腰にぶら下げていたそれぞれの武器を取り出している。これから何が始まるのか知っているのだろう。
・・・
いつの間にか酒場の床も、壁も、天井にも…黒い染みのようなモノが浮き上がり、どんどんとその範囲を広げていく。
いや。酒場の中だけではない。ウエスタンドアの下の隙間から覗き見える外の地面にも、同じように黒い染みが広がっていく。
そして、その染みの中心の真っ黒い穴から、何かが這い出てくる。
何体も。何体も。
黒く細長い触手のようなもの。
ウネウネと動きながら、その一本がアーシュ・タロットの足へと巻き付いてくる。
「わっ。わっ…な、なんだコレ?…え。え?…うわ。足を…」
「取りあえず、店の外に出ますか。俺の注文した唐揚げやエールがまだ出て来ていないのが残念ですが、【輪転の刻】が始まったのならしかたありません」
「こ、これが?…うわぁ…ひ、引っ張るなよ…」
「その足。早く、振り解かないと…火傷しますよ?」
「えっ?…うわ…て、てぃっ!」
道具屋の店主に脅かされて、アーシュは足を蹴るように引き剥がす。
握られていた部分のズボンの生地が…ほんの僅かの時間にボロボロになっている。
「お兄ぃ!…こっち!」
「足は後で私が治癒して上げるから…今は、外へ!早く!」
・・・
アーシュ・タロットたちは、比較的入り口に近いテーブルに座っていたのでなんとかすぐに酒場の外へと出ることができたが、アーシュを避けて店の奥の方に陣取っていた男たちは、逃げることも叶わず、穴から這い出てきた黒い何かに体中纏わり付かれて苦しげな悲鳴を上げている。
何人かは裏木戸から逃れることが出来たかもしれないが…
「な、何だコレ!?…外も真っ黒けだよ。さっきまでこんなんじゃ無かったのに!」
余りにも様相が変わってしまった外の景色に、思わず叫び声を上げるアーシュ。
見上げれば、空までもが真っ黒に変じている。
「そんな風に驚いている場合ではありませんよ。間も無く奴が来ます。俺が奴を引きつけて時間を稼いであげますから、お前も早く武具を出してください」
「え?…え?…ぶ、武具って…」
「む。記憶だけでなく、武具までをも失ったとでも?…本気か冗談か分かりませんが、もう時間がありません。とにかく、自分のコトは自分で守ってください。来ますよ!」
【ぶぐぉぅわぁうああぁぁあああああっしゅ!!!】
道具屋の店主が見上げていた虚空から、湿り気を帯びた炸裂音が鳴り響き、一瞬遅れて黒い光の球が弾けるように広がる。
その黒い光の球は、空中で不気味に脈動しながら回転していたが、次の瞬間、その球を内側から引き裂くようにして、禍々しい何かが這い出てくる。
・・・
【にゅじゅぅるるぅんんんっ!!!!!】
吸盤のようなモノが無数につき、粘液を纏わりつかせた黒光り沢山の触手を大きく展開させて空を覆ったそれは…
「…た…タコ!?」
「くそっ!…この間までと、奴のタイプがまるで変わっている!?」
アーシュ・タロットはマヌケな声を上げ、道具屋の店主も何やら想定外の事態に戸惑うように疑問の声を上げる。
アーシュ・タロットがマヌケな声で形容したように、虚空に生じた球体から弾けるように這い出てきたのは、真っ黒な巨大なタコ…のようなモノ。…のような…と付けたのは、しかし、その足の数は決して8本どころでは無かったかったからだ。
ウネウネとうねりながら人々へとその吸盤付きの触手を伸ばしていく黒いタコ擬き。
道具屋の店主は背負っていた一振りの剣を左手で抜き取り、体の正面に構えながら冷静にその巨大なタコを観察している。
いや。冷静そうに見えるが、その頬から顎を伝う冷や汗が、想定外の事態に内心を乱していることを物語っていた。
「…今まで、奴らは超高熱と極低温を交互に振りまく巨大な山の姿をしていたハズなのに…。はっ!…そうか…お前が!…」
「へっ?」
・・・
道具屋の店主が迫り来る黒い触手を剣で振り払いながら、険しい視線をアーシュ・タロットに向ける。
何やら非難がましい目で見られているような気がするが、何の心当たりもないアーシュは、困惑しながら愛想笑いを浮かべるしかない。
「危ない。下がって!」
「お兄ぃ。笑ってる場合じゃないんよ!」
チユとイコに手を引かれ、もんどり打つように後方へとよろけるアーシュ・タロット。
その残像を切り裂きながら、黒い触手が横様に薙いでいく。
一瞬でも遅れていたら、一撃死していたかもしれない。
「あ…ありがとう…」
幸い、黒い触手は狙いを定めるまでの動作が緩慢なので、自分を狙っている触手にさえ気を付けていれば、避けるのはそう難しくはない。
しかし、黒タコ擬きが出現前から現れている地面や壁の黒い染みから這い出てくる何か…よく見るとコレも吸盤付きの黒い触手のようだが、それらは今も思わぬところから染み出てきて腕や脚に巻き付こうとするから油断できない。
染みからの触手に動きを束縛されてしまえば、巨大な黒タコ擬きの触手の一撃を回避することが不可能になってしまう。
ダンスのステップを踏むかのように、地面の染みから這い出てくる小さな触手の束縛を逃れるアーシュたち4人。
・・・
アーシュは、道具屋の店主が建物から外へと待避した理由をやっと理解した。
小さな黒い触手は、地面の染みからだけではなく壁の染みからも這い出てくるので、足下からの触手だけを避けていればよい外と違い、建物の中では上下左右全ての方向からの触手を避けなければならなくなるのだ。
「ぎゃぁ…!!…た、助けて、助けてくれ…うわぁ!!!」
「…むぐぅふぐぅ…ぐぅえぇえぇ…く、腐る…くさくさぁ…ぁあぁああ」
「ぶぐぅっ!!…べぼぼぼぼ…えろえろえろぉぉ…」
案の定、酒場の中からはさっきまでアーシュ・タロットに殺意の籠もった視線を投げていた連中の苦痛に満ちた悲鳴や…そもそもどんな目にあわされているのか想像すらできないような呻きが聞こえてくる。
いや。酒場の中どころか、屋外でも建物の近くに位置していた者は、やはり軒や壁から染み出てきた黒い触手に巻き付かれて、必死に逃れようとしている。
「た、助けなきゃ!」
アーシュが、駆け寄ろうとする。が…
【バシッ!】
「うぐぅ…」
「馬鹿ですか?お前は…」
・・・
駆け寄ろうとするアーシュ・タロットの腹を、道具屋の店主が、手にした剣の柄の部分で強か打ち付けて制止する。
次の瞬間、アーシュが駆け寄ろうとしていた男の上に巨大な黒い触手が振り下ろされ、男とその後の建物の壁ごと爆発したかのように吹き飛ぶ。
【ずぅぅううううん!!】
「あぁ………。な、なんで邪魔するんだよ!?」
「素手で、駆け寄って…お前に何が出来るというんですか?」
「うぅ…」
「心配しなくても、彼らは死にませんから…手助けする必要はありません」
「な!?…何言ってるんだよ?…あんな風にやられて、死なないわけないだろう!」
「くそ。面倒臭いですね。さっさと記憶を取り戻して下さい。そうすれば、全てが分かる。さぁ、その為にも、早く、お前の武具を…」
道具屋の店主の言葉の途中で、2人の間を巨大な黒い触手が割って裂く。
空気を唸らせ、粘液を撒き散らしながら駆け抜けていく触手の突きを、すんでの所で避けて左右へと飛び分かれる2人。
チユとイコは、必死にアーシュ・タロットの方へと付いてくる。
イコが小石に足を取られてよろけるが、チユがその腕をとって支え、引っ張る。
「イコ。何やってるの!私たちは、このヒトと一緒にいないと意味がないでしょ!」
「う、うん。ご、ごめん。ありがとうなんよ。チユ」
・・・
アーシュ・タロットは、その美少女2人の会話を聞いて申し訳なく思った。
この状況では、どこへ逃げれば良いのかも分からないから、自分もこの2人を何が何でも守ってやりたいとは思う。
しかし、今、道具屋の店主から叱られたとおり、素手の上に襲い来る謎の巨大黒ダコ擬きについて何の知識も持っていない自分が、どうやってこの2人を守れるというのか?
何故、今日出逢ったばかりの2人が、こんなにも自分のことを慕ってくれるのかは不明だけれど、健気に自分に寄り添い、それどころか時には自分を助けようとしてくれている姿を目にして、アーシュは思わず2人の美少女に向かってこう言った。
「お、俺じゃ、2人を守れないよ。く、悔しいけど…道具屋のオッチャンなら武器も持ってるし…あっちに付いていったほうが安全だよ?…何とかして、もう一度、あのオッチャンの方へ近づくから…そうしたら…」
「アナタ…馬鹿?」
「お兄ぃ…アタシたちは一緒にいないと駄目なんよぅ!!」
しかし、間髪入れず2人の美少女に拒否される。
何時止むかもしれない黒い触手の蹂躙。
ソーシャルダンスのクイックステップをペアではなく、トリオで踊るかのような変則的な足運びと体捌きで避け続け、さすがに呼吸が乱れてきたアーシュ・タロット。
ペアの女性を頻繁に入れ替えるように踊りながら、彼女たちに必死に伝える。
「で、でも…俺、はぁはぁ…も、もう…体力が…君たちを…守りたい…ぜぃぜぃ…気持ちは…はぁ…あるけど…」
・・・
こんな…いつ終わるかも分からない、得たいの知れない触手の蹂躙。
道具屋の店主や何人かの者たちは武器を手にして触手からの攻撃を避けてはいるが、その武器は触手を振り払う防御の手段となっても、黒い巨大タコ擬きを撃退する攻撃の手段となっているようには思えない。
これが、モンスターやヒト同士の闘いであるなら、どれだけ強い相手だろうとそのうちに相手も疲労して動きが衰えてくるハズだ。その場合には、有効な攻撃手段がなかろうと、相手が疲れ切り倒れるまで回避し続けることができればこちらの勝ち。
しかし、相手は正体不明の巨大黒ダコ擬き。
アレが果たして疲労するなどということがあるのか…いや、そもそも、アレが殺すことの可能な命ある相手なのかすらも分からない。
そんな何もかも分からないことだらけの化け物の暴虐に、体以上にまず心が深いダメージを負っていく。
「じ…地獄だ…」
思わず言葉を漏らしたアーシュ・タロット。
その瞬間、顔がどこにあるのか…いや、顔が在るのかも分からない黒い巨大タコ擬きが、ニヤッと笑ったような気がした。
それに怯んで、一瞬、イコの足の動きが鈍る。そのイコに触手が狙いを定める。
「だ、駄目よ!止まらないで…」
「あぁ…お兄ぃ…アタシもう…駄目!」
・・・
【ぶべっぐぁっし!】
咄嗟に体を捻ってイコの前に体を投げ出したアーシュ・タロット。
そのアーシュの右腕を、黒い触手の鋭い突きが襲う。
直撃こそは避けることができたが、スクリューの如く捻りながら突き込まれた触手の回転力に巻き込まれ、錐揉み状態となりながら斜め後方へと吹き飛んでゆく。
「がぁぁぁぁぁぁああああああっ!!!」
【ごろごろごろごろ…ぐわぁっしゃぁっ!】
激しく転がった勢いのまま、アーシュ・タロットが激突したのは、奇しくもチユやイコと出逢ったあの道具屋の壁。染み出し駆けていた小さい黒触手を押しつぶし、それだけでは衝撃を吸収しきれず、道具屋の壁をぶち破って店内へと転げ込む。
「お兄ぃ!!!」
「アナタ!!」
アーシュが来ていたデニム地のつなぎのバトルスーツの切れ端が舞い散るのを、絶望的な表情で見守るしかないチユとイコ。
道具屋の店主が怒鳴る声が、半壊した壁の穴の中へと虚しく響いた。
「馬鹿野郎!…何をしてる。早く武具を出し、その娘たちと早く繋がるんです!」
・・・