(10) アーシュ・タロット
・・・
軒下での一晩は、決して寝心地の良いものではなかった。
けれど、アーシュ・タロットの目覚めは不思議とスッキリとしていて、体にも疲労による倦怠を感じることはなかった。
目覚める直前まで、クスクスと笑いあっていた記憶があり、こうして目覚めるまでの時間的経過を全く感じなかった。
上半身だけを起こして、左右を見回せば、子猫や子犬のように体を丸めて身を寄せ合う美少女たち3人の安らかな寝顔が目に入る。
その身を寄せ合う中に、アーシュ・タロットも挟まれているから、朝方の肌寒さを彼女たちの温もりのお陰で感じずに済んだようだ。
せっかくの爽やかな寝覚めを、モヤモヤした気分に変えないように、彼女たちの体へと移ろうとする視線を無理矢理意思の力で押しとどめる。
胸やら太ももやらの肌色に本能的に視線が誘導されるのは、男の悲しい性ではあるが、彼女たちとはまだ出逢ったばかりで、そういう視線で見ていいような仲になったというワケではないのだ。
彼女たちの幸せそうな寝顔を見て、アーシュは確信する。
眠りに落ちる直前の笑顔…アレは夢では無い。そして、次の瞬間に自分は目覚めた。
…ということは、つまり…熟睡していたのだろう。
・・・・
彼女たちは、まだ暫くは目を覚ましそうにない。
だから、アーシュ・タロットは彼女たちを起こさないように、そっと美少女たちの身を寄せ合う中から抜け出した。
アーシュが抜けたために、朝の冷たい空気が少女たちの肌を撫でる。
もぞもぞと無意識に蠢き、3人の美少女はアーシュの抜けた穴を埋めるように3人で身を寄せ合う形へとフォーメーションをチェンジさせる。
やがて、もっとも心地よくシックリとくる位置をそれぞれが見つけたのか、3人仲良く動きを止めて、スヤスヤと寝息を立て始める。
アーシュ・タロットは、そんな彼女たちの見事な連携を微笑ましく眺めながら、開け始めた空を見上げる。
薄く黄色や赤に濁った空の色は、一箇所だけを取り出せば決して綺麗な色というわけではなかったが、その奇跡的なグラデーションが生み出す総合的な色合いが、どこか胸の奥に迫るものがあって、アーシュは深く息を吸い込んだ。
美少女たちが目をさますまで特にすることもなく、アーシュ・タロットは昨日このタウンに辿り着くまでのことを何とはなしに思い浮かべていた。
記憶の大半を欠損したまま、どこなのかも分からない場所で覚醒してから、どのぐらいの時が経過したのだろう。何日か?…それとも何週間か?
曖昧な時間感覚に苦笑しつつ、アーシュ・タロットは回想する。
あの時も、さっき目が覚めた時と同じように、妙にスッキリした目覚めだった…。
・・・
・・・
ぱっ…と、目の前が明るくなった。
夜、一人暮らしの真っ暗な部屋に帰宅して、手探りで電気のスイッチをONにした時のように。もちろん大昔のようあったグロー管がついた照明器具みたいに、完全に点灯するまでのタイムラグなんていうものも当然のことながら無い。
眠っているところを急に揺り起こされて目を開けた時のように、彼の視界には一斉に色鮮やかな世界が飛び込んできた。
目覚める直前までに夢を見たり、微睡んだという記憶はいっさい無い。
…ということは、つまり、熟睡していたのだろう…
そう彼は納得しかけて…固まった。
いや。確かに熟睡後の目覚めに今の感覚は似ている。
似ているけれど…しかし、全く異なることが一つあって、彼を愕然とさせる。
「熟睡前…何してたっけ?」
自分はどこかに大の字になって横たわっているようだ。
ゴツゴツとした地面の感触が背中に伝わってくるし、鮮やかに飛び込んでくる景色はどこまでも深く青に染まる大空のようだったから、自分が寝転がった状態であることは間違いがない。
・・・
でも、そのことと、直前まで自分が眠っていたのかどうかは別の話だ。
「ここ…どこ?」
余りにも深い青が目に染みるから、彼は眩しそうに目を細めて体を起こす。
仮に眠っていたのだとしても…見上げた先に青い大空があるということは、ここは外だ…何故、自分は屋根どころか壁も、いや、それどころか何もない青空の下で眠ったりしたのだろうか?…という疑問に首を傾げざるを得ない。
「で…何で、はだか?」
肌寒い…ということは幸いにして無かったが、どうやら自分は衣服を身にまとっていないような気がする。時々そよぐ風に撫でられた肌がくすぐったい。
しかも、生まれたままの素っ裸…というわけでもなく、所々には申し訳程度に布の切れ端が引っかかり、或いは巻き付きしているから、ますます良く分からない。
いや。裸云々、衣服云々…の前に、全身が酷く汚れている。
或いは黒く煤け、或いは白い埃をかぶり…痛みを感じることもなどないのだが、全身が血塗れになっている。起きあがろうとして体を支えるために地面についた手が、ぬるっと滑ってしまうほどの出血量。これだけの血が体から失われたら…普通は生きていられないのではないだろうか?
…これが自分の血であれば…だが。
「何だ…これ?」
・・・
目を開けた時に最初に目に飛び込んできた澄み渡る青と違って、体を起こしてから見回した周りの景色は全く対照的な…凄惨なものだった。
何が暴れたらこのような状態になるのか?
そう首を捻らざるを得ないような凄まじい【破壊】の痕跡。
土が焼け焦げて一度溶けてからまた固まったような不自然な滑らかさを見せているかと思うと、所々えぐれて瓦礫が散らばり、砂礫が散乱している。
こんな状態の中にあって、平然と熟睡していられたとしたらよほどの大物だ。
はて?…ところで自分は、そんな大物だったろうか?
「ちょっと…待ってよ。え?…でも…」
どれだけ思いだそうとしても、今、目を開く以前の記憶が一つも思い浮かばない。
こんな唐突な目覚めによる、思考の開始などあり得るのだろうか?
それは、くどいようだが深い熟睡後の目覚めとも違う。
それは、何らかの手術のため、全身麻酔の施術を受けた後の覚醒とも全然違う。
何かの弾みで後頭部を強打して、意識を刈り取られる…という経験をしたことがないから比べようがないが…そうだとしたら、それほどの強打なのに後頭部に全く痛みが無いことの説明もつかない…。
えっと、えっと。何か…他にないかな?
今の状態をうまく例えることができるような…そんな状況。う~ん?
見回しても自分以外には誰の姿もないから、別に誰かの共感を得たい…というわけでもないが、せめて自分がスッキリと納得のいくような説明が何か欲しい。
・・・
必死に考えて…やっと、もう二つほど、仮説的なものを考えてみた。
その1つ目…
「…えっと。俺は、今、この瞬間に誕生した?」
あは…。さすがに無いよな。それは。
物心ついた瞬間…なんてものは誰も覚えていないだろうし、そんな瞬間的に訪れることもないだろう。そもそも、生まれた直後から、こんな風に自問自答を始める赤ん坊って…ちょっとねぇ。天上天下唯我独尊…とか、試しに口に出してみるか?…いや。止めておこう。絶対違うし…。
何よりも、記憶…は無くても、何故か知識はある。
これが、今、この瞬間に誕生したのではないことの証だろう。
まぁ、前世とか…そういのから引き継いだのかもしれないけど…なら、前世の記憶というのがあっても良さそうだしなぁ…。
ということで、2つ目が本命。
「何か、全てを忘れたくなるほど、すっごく嫌なことか、悲しいことがあった?」
お?これ…どうよ、これ!?
もちろん、さっき目を開く以前の記憶がまるでない自分には、そんな悲しみとかショックだとかで全てを忘れた経験なんて無いけれど…この理屈なら、記憶が全くないけど知識だけがある…っていう状態を、一番、無理無く説明できてるんじゃないの?
うん。
・・・
様々な検証を加えても、この説明には綻びがない。
わーい、やったね。
へへへへ…。
「…って、喜んでいいのかな?」
もし、そうだとしたら、今の自分は、記憶を失う前の自分の望みどおり、見事に「何もかも忘れた」状態になったわけだ。
ここに、記憶を失う前の自分がいれば、さぞ喜んだことだろう。
しかし、今、ここにいるのは、その結果として記憶を失った自分だけだ。
そして、失った記憶の中には「何もかも忘れてしまいたい」という気持ちや、そう思う原因となった出来事の記憶も全て含まれている。
つまり…喜ぶ理由すらも失われたということに他ならない。
だいたい…これってさ。もう。同じ自分…っていう感じじゃなく、全くの別人に近い感覚だよね?…だってさ、正直、こんな全裸に近い状態で、事情も分からずに青空の下に放りだされた側からすれば、迷惑以外の何ものでも無いじゃん!?
おい、てめぇ…何を勝手に「何もかも忘れたい」とか思っちゃってくれちゃってんのよ?…ってか、思うだけならまだしも、俺の許しもなくいきなり「何もかも忘れて」くれちゃったりしたら…その後の自分が、普通、困るって分かるだろぅがよっ!!
責任者出てこい!!
…自分なんだけどね。…もう、出てきてますってか?…フザケんなよ、ゴルァ!!
・・・
…と心の中で一人で興奮して、ぜいぜいはぁはぁ…と呼吸を荒くする自分は、やっぱり軽くパニックを起こしている?
落ち着け、落ち着け、自分。
仮に、責任者=もう一人の自分?が目の前に出てきたところで…
「記憶にございません!」
…とか、大昔の政治家おオッサンの決め台詞的なことしか言わないに決まってる。
だから、そんな奴の登場に期待していたってしょうがないのだ。
そんな無駄なことに時間を費やすぐらいなら、前向きに記憶探しのインナートリップを開始しよう。自分探しの旅…ってやつだね。うん。なかなか素敵な響きだね。
大丈夫、大丈夫。いくら何でも、全く全部思い出せないなんてことは無いはずだ。
今だって、こうやって色々と思考できてるってことは、その為の材料としての知識は残ってるんだから。
でも、記憶と知識…とか、自分の中でさっきから勝手に区別をつけて言っているけど…その2つの違いって何なんだろう?
何かをとにかく覚えるってのも記憶って言うことがあるけど、自分の行動を伴う…「経験」とかって言い換えられるような…そういうのが記憶だよね?
で、今、自分が思考の材料として使っている知識は、それをイメージする時に、全然、自分の体験的な映像が思い浮かばないんだよ。
ただ、知っている。ただ、そういうものだ…と感じる…だけで。
いや。知識だけで…こんな風にものを考えたりは…できないよね。
・・・
そう。全く記憶が無い…っていうのとも、ちょっと違うような気がする。
ほら!今、考えた「全く記憶がないっていうのとも、ちょっと違う」っていう比較自体が、知識だけの思考だったら絶対に成立しない思考だもの。
何か…ないかな。自分が、覚えている…記憶として持っている何か。
彼は、目を閉じて自分の内側にあるものを必死に引きずりだそうと試みる。
そして、今更ではあるが、経験を伴う記憶というものを呼び出すために、最も重要なキーワードがあるということに気づいた。そう…自分の「名前」だ。
知識としてではなく、生まれてから何度も呼ばれたそれは…経験を伴うハズだ。
しかし、額に汗が噴き出すほどに長考した彼の口から出た言葉…それは…
「…えっと…俺…誰?」
空はどこまでも深く青く、周りの景色はそれと対極的に【破壊】で混沌とした色に塗り尽くされている。
風はそよぐ程度で、肌寒くもなく、ただし、体にまとったベットリとした液体に埃や煤が付着していて決して爽快とはいえず、でも頭だけは妙にスッキリと冴えている。
「で?…だから、俺…誰?」
彼の声は、滑稽なほどに空しく、そよぐ風に乗って瓦礫の山に吸い込まれていった。
・・・
・・・
空腹はまだ我慢ができたが、喉の乾きだけはどうにも耐えられるものではない。
そうなると、5感が研ぎ澄まされ、嗅覚は水の臭いをかぎ分け、聴覚はせせらぎの音を聴き分けられるようになるらしい。
記憶は失っても、幸い生存本能が失われることは無かったようだ。
まぁ、本能なんだから…失おうったって失われたりはしないんだろうけど。
「はぁ…すっきりした」
冷たい水が体の表面を荒い流していく。
研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚によって探り当てたのは、樹木の生い茂る岩場の奥に隠された滝…とその滝壺だった。
滝といってもそれほどの落差はなく、水音も不思議なほどに小さく静かだ。
そのくせ、不釣り合いなほどに滝壺を含む水場は広く、イメージ的には50メートルプールを貸し切りにしたような贅沢な景色である。
静かに落ちる滝をシャワー代わりにして、体を覆う煤や埃、そしてべっとりとこびり付く血のようなものを荒い流す。
自分の周囲の水が、あっという間に茶褐色に濁る。
しかし、絶えることなく落ちてくる滝の勢いに流され、その茶褐色の濁りはすぐに下流のせせらぎへと吸い込まれるように流れていき、その流れている間にも薄められて水場を汚すようなことは無かった。
「…傷が…無い?」
・・・
アレほどに全身が血塗れであったのに関わらず、水で洗い流した後の体には傷一つ見あたらなかった。いや、かすり傷ぐらいはあったかもしれないけど…
とにかく、体に痛むところが全くない理由がこれで明らかとなった。
しかし…
「じゃぁ…アレは…いったい誰の?…う…ぅ…思い出すのが怖いなぁ…」
確かに赤いというより黒に近い色だったが…でも、あの匂いは…。
考えても記憶が戻ることは無い。それは、もう何度も試してみたから証明済み。
だから、もう、洗い流してしまったあの赤黒いものが何であったか考えることは止めることにした。どうせ、「何もかも忘れたくなる」ほどの状況の中で浴びたものだ。何であるかが分かったところでロクでもないものであることは間違いない。わざわざ、嫌なことを自分から思い出す必要もないだろう。
彼は時間の経過とともに、だんだん…そのように考えるようになっていた。
「くっそぅ。何でだよ、コレ?…右腕だけ血の色が落ちない…?」
血のようなものや煤や埃を洗い流した彼の肌は、どちらかというと女性的なきめ細やかさを持った色白。その男性にしては少々色っぽく生っ白い左腕でゴシゴシと力をこめて擦るのだが、どういうわけか右腕だけが褐色に染まったままで白くならない。
痛くなるぐらいに強く擦っているのに、ちっとも痛くない時点でもう不思議なのだけれど、それだけでなく、その褐色は一様に滑らかで深みを帯びており、とても血や煤が染み着いた程度で生み出されるような色合いではないような気がする。
・・・
左右の手でそれぞれに澄んだ水を掬い、交互に持ち上げては自分の両手を見比べる。
指と指の間からこぼれ落ちていく水の様子は、左右の手で違いはない。
考えれども…考えれども…なお、我が記憶、戻る兆し無し。ジッと…手を見る。
…などと、古典詩歌の大名作を捩ったりしてみるが、自分の左右の手に、どうしてこのような差があるのかについては、まったく思い出すことができない。
でも、本来の自分の手が、生まれつきこんな風に左右で色や太さが違っているのだとはどうしても思えなかった。どう考えても、この褐色の右腕は………
「…ぅ…っつ…痛ぅ…」
目と目の間。鼻の上。眉間と呼ばれる辺りが、突然、強く指を押しつけられでもしたかのような圧迫感を伴う痛みに襲われる。
「くっ…まただ。何だよ…コレ?」
何度目かの激痛を必死に耐える。
痛みで思考を続けることができなくなり、彼はそれ以上、褐色の右腕について思い出そうとするのを諦めざるを得なかった。
不思議なことに、諦めた瞬間に、痛みは嘘のように引いていく。
間違いない。
この痛みは、記憶を取り戻そうとするのを妨げようとしている。
「何だよ?…腕のことぐらい、思い出したって良いだろぅに…」
・・・
まるで、西遊記という古代の旅日記に出てくるやんちゃな猿が、飼い主の僧侶から首輪代わりに金のヘアバンドを装着されたように、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる痛み。
どうやら、自分の過去に繋がる重要な記憶に触れようとすると、何らかの機構が働いて激しい頭痛に襲われるらしい。
それは、自分の名前を思い出そうとする度に、もう何度も何度も頭痛でのたうち回ったことから間違いない事実だと思われた。
「くそっ。こうなったら、やっぱり名前だけでも…思い出してみせる。もう意地だ」
自分には名前がある。
そのこと自体は、別に頭痛に邪魔されることなく確信できる。
知識としても、モノや人には名前があるということは間違いない。
そして、彼がこの後、自分以外の誰かと出会った時には、当然に互いの名前を名乗り合う必要がある…ということも知っている。
長年連れ添った相手とであれば、「お前」やら「アンタ」やらの二人称代名詞で呼び合うことも可能かもしれないが…
この先、出逢う相手はそんな関係の者ばかりとは限らない。
この滝壺のお陰で、取りあえず体の汚れを落とし喉の渇きを潤すことは出来たが、さすがに水だけでは空腹を満たすことはできない。これ以上無理…というぐらいタップンタップンに飲めば、違う意味で満腹にはなるかもしれないが…それは嫌だ。
だから、とりあえず彼はこの後、どこかにある人里まで降りていって、何とかして食料を確保しようと考えていた。
その時に、名前すら名乗れない…というのでは、あまりに失礼というものだろう。
・・・
そう考えた瞬間。
一瞬。サブリミナル効果を狙った画像のように、彼の思考の全面を塗りつぶすような…あるイメージが強烈にフラッシュした。
『ひとに名前を尋ねる時は~、まず自分から…』
妙に癖のある抑揚で自分に向かって語りかけてくる…何者かのイメージ。
これは…知識ではない。こんな意味の無い知識など存在しない。
…だとすれば…これは記憶だ。
彼は思わず両手を打ち鳴らし、拝むような形になった両手を口元へと寄せる。
両手の人差し指に触れる上下の唇は、何か言葉を言おうとして出てこない時のもどかしさを表すように半開き。
やっと掴んだ記憶の切れ端を取りこぼさないように、彼は必死でその記憶に連なる周囲の景色や相手の顔、そしてその相手の目に映る自分も含めた記憶の全てをたぐり寄せようと、唇の前で合わせた両の手をぐにゅぐにゅと蠢かせながら、虚空を見上げる。
しかし…残念ながら、その記憶につらなる情景の中には、彼の名を呼ぶようなシーンを見つけることはできなかった。
もやもやとする気分のままに、彼は口元で組み合わせた両手を解き、目元から額を覆う形にしてゴシゴシと顔を擦る。
目をあけて、深いため息をつき…そして、気持ちを切り替える。
がっかりすることなどないんだ。記憶は…自分の中に隠れて…残されている。
・・・
全てを思い出せないわけではなく、失われていない記憶がちゃんとあって、そしてそれは、何かの切っ掛けで不意にイメージとして浮かび上がってくることがあるのだ。
彼は、それを前向きに捉えることにした。
「…そうか。直接、核心に迫るような記憶を探ろうとしちゃ駄目なんだ。うん。今の感じ。良く覚えておこう。出来るだけ…どうでも良いような…ありふれた日常の風景を思い浮かべるようにすれば…きっと…」
小さく…しかし力強く…彼は頷いて、そして空を見上げる。
木々の葉の隙間から見える青空の底を覗くように目を細め、それから大きく息を吸い込んで水の中へと潜る。
幾重もの波紋だけを残して完全に水中へと沈んだ彼は、数秒後には最初の場所から何メートルも離れた場所へ頭を浮かび上がらせて、滑るようになめらかな平泳ぎで一直線に岸辺へと向かった。
あの岸へと上がれば、その向こうの岩場を越えて、谷を下ろう。
焦る気持ちから、まだ少し水深の深いところで立ち上がってしまい、足を取られて前のめりに転びそうになったが、からだ全体を大きく使って無理矢理バランスを回復し、彼は駆けるように岩場の岸へと這い上がる。
岩場の岸へと登った彼は、まるで水に濡れた獣がするように全身を細かく振るわせて水滴を振り落とす。
そして、後はもう滝壺を振り返ることもなく、ほぼ全裸のままで谷へと身を躍らせた。
・・・
・・・
そこは、箱庭のようにコンパクトな集落だった。
滝壺のあった高原を出て、彼は全く迷うこともなくこの集落へと辿り着いた。
何故なら、ここに集落があることを知識として知っていたからだ。
それは、とても不思議な感覚だった。
この集落へ来た記憶は無い。…にも関わらず、ここに集落があるということだけは妙に確信を持つことができたし、ここに至るまでの山道は何本もの分かれ道があったにもかかわらず一度も道を違えることが無かった。
まるで、頭の中に高性能のナビゲーション・システムでも入っているかのようだった。
集落辿り着いた彼は、まず空を見上げる。
いつの間にか霞の掛かったような薄曇りとなってはいたが、その雲の上、遙か空の彼方には太陽があるのだろう。村は十分に明るく、そして暖かだった。
お陰で、ほとんど全裸に近い状態の彼も、鳥肌を立てることもなしにいられた。
空気には若干、土の匂いが混じり…草や花の香りも感じることができる。
人影がチラホラと見えるが、彼の方に近づいてこようとする者はいない。
この集落に訪問者が現れることなど滅多にないからだろう、誰も外部からの訪問者を警戒したり、気に掛けたりしてはいないのだ。彼の来訪に気づいてすらいないようだ。
アッチの爺さんは、さっきから同じ場所を行ったり来たりしている。あのペースで、もし一日中歩き回っていたら、さぞかし足腰の強い健康な体になっていることだろう。
・・・
記憶は無いが、既視感はある。
不思議な感覚につつまれて、彼は集落を見回した。
集落には、民家が数軒の他に、武器と防具を売っていると思われるピクトグラムが表示された看板のプレハブが1軒。それから、宿屋と覚しきピクトグラムの2階建てが1軒。後は…あれが集落の役場かな?ひょっとしたら単に長老の屋敷かもしれない。
民家の庭先には、「それっぽっちじゃ、一人の分すら採取できて無いのでは?」と思わせるぐらいの小さな家庭菜園よりもさらに小規模な畑。
その作物の畝の間を縫って、鶏っぽい小動物が、さっきから行ったり来たりしている。
「ああゆーのって、追いかけても絶対捕まえられないんだよね。」
小動物の滑稽な姿に、思わず声に出してしまう。
そして、その自分の声、自分のセリフに、またしても既視感を覚える。
その既視感の中の擬似的な記憶に従い、右手と左手を交互にグッパグッパし、ジッと自分の手をみる。
それから、ピョンピョンとジャンプもしてみる。
風の流れ、日の光の圧力、世界の音のざわめき…この集落へと入ってから彼の感覚野に送り込まれてくる情報は圧倒的に多くなった。
荒々しい…というよりは、単に粗く見えていた世界が、この集落へと入ってから不思議なほどに鮮明なものへと代わり、変な言い方だが…リアルさを増したようだ。
・・・
武器と防具の店の暖簾?をくぐると、そこにはちゃんと店員がいた。
店内は左右に分かれてカウンターが設置されおり、左のカウンターには武器のピクトサインが、右のカウンターには防具のピクトサインが表示されている。
全くの全裸…スッポンポンの彼としては、取りあえず身を包むモノを一刻も早く手に入れたいワケなのだが、しかし、スッポンポンであるが故に、堂々と店員の前へと出て行くことが躊躇われ…結局、彼は一旦店の外へと出る。
外は、相変わらず薄曇りのくせに妙な明るさで…しかも長閑だ。
この集落へ入るまで、彼は自分がほぼ全裸の状態であることについて何の感想も抱いていなかったのだが…時折、アチラの方を行き来する若い娘のような人影を目にするに至り、何か突然、恥ずかしい…という感覚が芽生えてきた。
うわ。ちょっと、ヤバイよね。
真っ昼間から、若い娘のいる往来で…スッポンポンでウロウロしてる自分…って。
へ、へ、変態じゃん!?
わ。わわ。わわわわ…あ、あの娘…こ、こっちに来る?
ま、ま、まずいじゃん。
ま、まだ、下を向いているからコチラに気づいてはいないようだけど…。
き、気づかれた瞬間に…お、終わる?…何もかもが終わっちゃう?
接近してくる娘の姿に、軽くパニックを引き起こす彼。武器と防具の店の陰にでも隠れれば良いものを、慌てて足を縺れさせ尻餅をついてしまう。
・・・
その結果、彼は今、とても恥ずかしい格好をしいる。
まるで、ゆったりとバスタブにでも浸かっているかのような姿勢…いわゆるM字開脚の状態で地面に座りこみ、後方へと仰け反った体を後についた両腕で必死に支えている。
しかも、素っ裸に申し訳程度の布を股間につけただけ…というマニアックな性癖のオジサンみたいな…とても人前に出られる格好ではなかった。
そして…だらしなくおっ広げた両足の間には、こちらを向いて無表情で立っている可愛らしい女性の姿が見える。
幸いというか…不幸にもというか…パニックによって彼が男性であることを示す最有力証拠物件は縮み上がり…僅かな布の切れ端に何とか秘匿された状態にある。
だからと言って、このままの状態で見つめ合っているわけにもいかない。
彼は、必死にこの状況からの打開策を考えた。
えっと…えっと。そ、そうだ。今が絶体絶命のピンチなのは、自分が衣服を身につけていないせいだ。
…と言うことは、この危機的状況から脱するためには、何とかして衣服を手に入れれば良いわけで…その最も手っ取り早く確実な方法は…あ。この娘さんに頼んで衣服になりそうなものを分けてもらえれば…
で、でも、突然、見ず知らずの男に「服を貸してくれ」とか言われたらビックリするだろうな…。えっと、どうしよう。あ。そうか。見ず知らずじゃなくなれば…
そんな、彼の中では極めて理論的な思考の帰結により発せられた言葉は…しかし、彼以外の者にとっては、全くもって唐突で支離滅裂な次のようなセリフだった。
「あ、怪しいものでは…あ、ありません…と、友だちからお付き合いしませんか?」
・・・
彼の懇願に、無表情すぎてひょっとして彼が見えていないのかな?…と淡い期待を抱き始めた頃…その少女が、視線だけを彼の左方向にずらして、吐き捨てる。
「拒否します。私はもっと普通の趣味の相手を希望します…」
普通の趣味って…やめてよ、俺が危ない趣味の人みたいじゃないか…と思った…その瞬間。又しても、瞬間的にあのサブリミナル効果を狙った画像のような…彼の思考の全面を塗りつぶすイメージが強烈にフラッシュする。
『…ロ…トくんは………が守るん…もん!』
目眩のような強い感覚。
目の前のこれと言って特徴の無い平凡な娘の顔に、別の顔が滲むように重なる。
少し怒ったような、それでいて明るさと活発さが滲み出た生命力溢れる顔。
10人が見れば、10人が漏れなく美少女だと評するであろう美しい顔。
それまでの既視感とは比較にならないほどの強烈なイメージ。
時々、電気的なノイズに似た乱れが、そのイメージの映像と音声の両方に混入するが、確かに今、彼にとって重要な何かが思い出されようとしている。
「ロ…ロ…ト…?…!!!…うぅぅああぁぁぁぁあああっ!!…痛っっ!!」
が…そのイメージをしっかりと捕まえて記憶に繋げよう…そう思った瞬間に、またしても強烈に頭を締め付けるあの痛みが襲いかかって来た。
・・・
眉間をビリヤードのキューでブレイクショットされた?
…としか思えない、そんな突き込まれるような痛み。
褐色の右腕について思い出そうとしたときと比べても、数倍激しい苦痛に襲われ思わずその場でのたうち回る。
「…あ…あの…だ、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込む娘の顔は、もうすでに特徴の無い平凡な村娘…と言った顔立ちに戻っており、一瞬重なり見えた快活な美少女のイメージは霧消してしまっている。
だが、それを残念がっていられぬほどの猛烈な痛みで、彼は頭を両手で押さえたまま返事もできずに転げ回るしかない。
「わわわ。な、何か…た、大変。へ、変態が大変。変態が大変。ど、どうしましょう。あ!そ、そうだわ。お、お婆々を呼んでこよう。お婆々なら…」
苦しそうに呻き、頭を押さえた姿には心配されるものの、ほぼ全裸で転げ回る男の肌に触れることは、やはり若い娘には抵抗があるのだろう。
もしかしたら、変態が自分を油断させて、心配して伸ばした手を掴んで引き倒そうとしている罠かもしれない。
だから彼女は、転げ回る彼をそのままにして、集落の奥へと駆け去って行く。
まぁ…賭け去る…と言っても、そこは箱庭のような小集落。
1分とかからずに、娘は彼の元へ戻って来た。
黒いローブを羽織った、呪い師風の小柄な老婆を連れて。
・・・
「なんじゃ?なんじゃ?…粋なり婆ぁの手を引っ張って。そんなに強く引っ張ったら、婆ぁの手が、得たいの知れない実を食べたという伝説の海賊王みたいに伸びてしまいそうじゃじゃ。痛いぞぃ。痛いぞぇ!?」
慌てた娘は、理由も告げずに老婆を引っ張ってきたのだろう。老婆はワケが分からず、娘の顔の方を見て抗議の言葉を投げかけている。
娘は、彼の所まで戻ると、引っ張ってきた老婆を自分の前へと押し出し、自分はその背後へと身を隠すようにして、老婆に事情を告げる。
「こ、この変態さんが、突然、頭を押さえて苦しみ出したの」
「んんん?…なんじゃと?…へ、変態さんとじゃとな…」
それで、老婆はやっと地面にほぼ全裸で転がる彼の姿に気づく。
娘が老婆を呼びに行っている僅かな合間に、既に頭痛はだいぶ収まりつつあるようで、先ほどのようにのたうち回ってはいなかったが、頭を押さえたままグッタリとして力なく体を横たえている彼。
「じゃじゃ!?じゃじゃじゃ!!?何じゃ?真っ裸じゃないかぇ?どうしたのじゃ?」
「し、知らないわよ。山の方へ山菜を採りに行こうとしたら、ここに転がってたのよ」
「ふ、ふむふむ。では、山の方から来たんじゃな?」
「そ、そうかも知れない。…き、きっとそうだわ」
「では、山賊にでも襲われて身ぐるみを剥がれたのかのぅ?…じゃがじゃが…こっちの山は、山賊も寄りつかぬような険しい山じゃが?…」
・・・
不思議そうに首を傾げながらも、老婆は彼の横に跪いて手を翳す。
翳したその手をスキャナのように彼の肌から数センチ離した距離を維持して、隈無く彼の全身に沿わせて動かす。
「ふむむ?…特段、傷を負っているようにも見えぬのじゃがじゃが?…これは…襲われた恐怖から来る精神的な後遺症かもしれぬのぅ…」
触れていなくても感じるものはある。
痛みで朦朧としながらも、彼は自分に向かって差し伸べられる手があることを感じる。
眉間を押さえるように覆っていた手をずらし、彼はその手の主の方へ視線を向ける。
しかし、痛む眉間を手で強く押さえつけていたために目の焦点が上手く結ばれず、彼の目には黒いローブだけがぼんやりと映るだけだ。
だが…
『…ア…タロ…ト…。本当…困っ…奴だ…君は。仕方…い。私が…守っ…や…』
再び、フラッシュするサブリミナル画像。
黒いローブを纏い、凛とした美しい顔の女魔導師。
その黒い衣服を内側から押し上げる豊かな胸。
「ぐぅ…ぐあぁ…痛っっっぅ…」
胸を意識したことを咎められるかのように、再び強烈な頭痛が彼を襲う。
・・・
再びのたうち回る彼。
「おぉおぉ可哀想に。取りあえず婆ぁの呪いで痛みだけでも和らげてやろうぞ」
老婆は、彼の頭に手を翳すと「キルザペイン…」と呪文のようなものを唱える。
念のために補足するが、もちろん婆ぁの「呪い」は「のろい」と読んではいけない。まぁ、黒いローブを羽織った見た目は「のろい」をかけてきそうな雰囲気であるが、この場合は善意をもって「まじない」と読むのが正解である。
「わわわ。女の子が…老婆に変わってる!?…の、呪いだぁ!!」
その痛みが嘘のように消え、不思議そうに目を開いた彼は、目の前の老婆を見て思わず失礼なことを口走る。しかし、老婆は気にした風もなく問いかける。
「おぉ。そんな戯言が吐けるほど回復したかぃ?…どうじゃ、婆ぁの呪いは凄いじゃろじゃろ?」
「ま、まじない?…あぁ…ご、ごめんなさい。あ、ありがとう」
「ところで、御主は何でそんな格好をしておるんじゃじゃ?」
「あぅ…」
彼自身が誰かに教えてもらいたい、その問いの答え。
しかし、ここで老婆にまで見放されたら、ずっと全裸のままでいなければならなくなる。
だから彼は、言葉に詰まりながらも必死に目覚めてからの経緯を老婆に説明する。
・・・
「ふむむ。記憶が欠けておるのか…。それは難儀じゃのぅ。しかし、この険しい山の上で、そんな【破壊】され尽くしたような場所で目覚めるとは…」
幸い老婆は、彼のしどろもどろの説明を疑うこともなく信じてくれた。
時折、目を閉じて、彼の言葉を頭の中で再生し、表情を大きく変えながら驚きの声を上げたりもした。そして、全てを聴き終えると…
「…ふぅ。聴けば聞くほど…まるで、修羅場のような有様じゃのじゃのぅ?」
と大きく息を吐きながら呟いた。
その呟きを耳にして…彼は、驚いたような顔をする。
「…いま…なんて?」
「んん?…いや。修羅場のようじゃじゃとな」
再び頭痛が…起きたりはしなかった。が…その「修羅場」という言葉に…なにか引っかかるものを感じる彼。自分の内面から引きずり出したキーワードでないことから、記憶のロック機構が過剰に反応することがなかったようだが…。
先ほど、立て続けにフラッシュした二つのイメージ。
明るく快活な美少女と、黒いローブの女魔導師のイメージがそれぞれ口にした、二つのキーワードと合わせると…。
(あ…あ…ア…タロ…ト?…修羅場…シュラバロト…アタロトシュ?…アシュ…)
・・・
何か…大事なコトを思い出せそうな気がして、彼は眉根を寄せて自分の内側を覗きこもうと目を閉じる。
しかし、中々に届きそうで届かない…もどかしい思い。
そんな彼に、ついに想定していた例の質問が出される時が訪れる。
「…ふむ。まぁ…取りあえずは、何か着るものを用意せねばじゃじゃ。婆ぁ…とこの娘の家は女だけの暮らしじゃで、男の着る服はなぃしの。そこの防具屋に頼んでみるかのぅ。ほれ、立つんじゃじゃ。ところで、御主。名は何というんじゃじゃ?」
さぁ来た。
こ、こ、ココが大事なところだよね。ま、間違っても「さぁ?」とか答えちゃ駄目。
名前は円滑なコミュニケーションにとって不可欠なものだって、自分の中に残された知識にちゃんと示されているもの。
こ、答えなきゃ。だ、大丈夫。な、なんか、思い出せそうだし…
素直にそれも思い出せない…と言う選択肢は、何故か彼の中には無かった。
記憶に欠損があること自体は、既に老婆は疑いもなく受け入れてくれているのだから、今更、名前が思い出せないことなど何の不思議もないであろうに。
つまり、彼は意味もなく軽いパニックになっていて、正常な思考ではなかった。
「お、俺…えっっと、俺の名前は……アー…アー…アシュタロ…ト?…です」
まだ固まりきっていないイメージを頼りに、無理矢理に名前らしきものを言う。
・・・
「あん?…なんじゃと?良く聞こえんが…アー?シュ?タロー…あぁ。タロットかの?…婆ぁの占い用のアイテムと一緒の名前じゃのじゃの」
「アーシュ・タロット?」
老婆が彼のぶつ切れの自己紹介を翻訳すると、それを老婆の背中に隠れるようにして聞いていた娘が繰り返す。
リピート・アフタミー…という奴だ。
「アーシュ・タロット…」と老婆。
「アーシュ・タロット!」と彼も嬉しそうに口にしてみる。今度は淀みなく。
こうして、アーシュ・タロットは名前を獲得した。
彼が、この世界で目覚めてから初めて手に入れた大切な宝。それが、この名前。
少し、違和感の覚え無いこともなかったが、口の中で2、3回、確かめるように呟いてみると…もう、何だかこの名前以外には正解は無いという気がしてくる。
しかし、こんな箱庭のような小さな集落。
それも辿り着いて僅かの時間で、これほどまでに名前を思い出すヒントとなるような出来事が「偶然に」連続して起こったりするものなのだろうか?
まるで…誰かが、ここで彼が名前を問われることを予期していて仕組んだような…
…などという疑念を彼は思い浮かべたりはしない。
だから、その疑念を抱かないことへの疑念…も当然に感じることなく、彼は老婆に誘われて、先ほどの道具屋へと入っていった。
・・・