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(1) 終わらない世界

・・・

 

 神は死んだ。


 俺が、殺したからだ。

 この世界を終わらせるために。


 だが…世界は終わらなかった。


 何故だ?

 この世界は神が生み出し、神が在ればこそ成立していたのではなかったのか?


 俺は、神を殺したために血塗ちまみれになった両手を見下ろす。

 俺は、この世界を救いたかった。

 俺は、自分ではもう止まれなくなってしまっていた神を…救いたかった。


 だが…

 胸の高さに持ち上げた両手は、何かをすくう形に上向きに開かれているけれど…その掌にすくわれたものなど…黒ずんだ血以外には何もない。


・・・


 『お前は、世界を破壊したいか?』


 不意に…俺は背後から問いかけられる。

 知らない男。

 いや………知っている?…のか?

 思い出せないのに、猛烈な既視感に襲われて、俺は目と頭に強い痛みを覚える。


 それは、黒いアンダーウェアの上に、薄汚れた灰色のバトルスーツを羽織っている。

 バトルスーツの其処彼処そこかしこが、何か黒ずんだ液体が飛び散ったような跡に染められている。アレは…もしかして………血?

 髪型も顔つきも一見すると粗暴そうなその男。しかし、その目だけは何故か一切の感情を窺わせない静かなものだ。それが、かえって不気味さを増している。


 「…破壊じゃない。俺は、この世界を救いたかったんだ。そして神も…」


 この男は危険だ。

 俺の脳は、しきりに警告信号を発しているが、何故か俺は問いに答えていた。

 どうしても、その必要があるような気がして。


 『神?………あのコアのことか。アレは、お前がお前自身でたった今、滅したのではないか?』

 「………そうだ。俺が…」

 『…お前は、我が望む色とは異なるが…世界を破壊したいのであれば契約を結ぼう。核を失った今、我にも憑代よりしろは必要であるし…な』

 「ヨリ…し…ろ?…な、何を言っている?…俺は、世界を破壊したくなんか…」

 『契約は成った。お前の言葉に興味はない。お前の【心】が我が契約を受諾した。それが全てだ。今より、お前がこの世界の核となる。我は、我の存在理由として【世界の破壊】を果たそう。契約に基づき…』

 「ま、待て!…何を言っている…俺は、契約なんか…」


 しかし、俺の叫びにも似た言葉に耳をかそうともせず、そのバトルスーツの男は音も立てずに空中へと浮かんでいく。高度がますごとに、存在を希薄なものへと変えながら、俺が見上げた真っ暗闇の空へと吸い込まれていく。


 あいつは…

 あいつはいったい何なんだ?

 神か?…いや。神は、俺がこの手で今、滅ぼしたばかりだ。あいつの言うとおり。


 神が不在となってもなお存在し続けるこの世界を…あいつは、破壊すると言った。

 それが、あいつの存在理由であり、俺の願いでもあると…。

 どういうことだ?


 どういう………


・・・


 そして、俺は気づいた。

 そうだ。この世界は神が創った世界ではあるが…神によって生み出されたわけではなかったのだ…と。


 俺の両手は等しく神の流した血にまみれていたが、その左手が普通の人の肌の色であるのに対して、その右腕は…。


 それは、獣のように細く強靱でしなやかな…褐色をしていた。


 この世界を生み出した者。

 それは…


・・・

・・・

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ピッ!



   ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ティートゥ!




   ・・・・・・・・・・・・・ チチッ!



     ・・・・・・・・・・・ ツ…


     ・・・・・・・ ジージジッ!



       ・・・・・ カシュッ…



       ・・・ ポーゥ!



        ・・ ピィーーーーーーーーーーーーッ!


・・・

 

 「ジューク…ジューナナ…ジューサン………ジューイチ……ナナ…ゴ…サン…ニ」


 呪文の様に、何かを読み上げる声。

 闇の中。

 一筋の灯りが、僅かな隙間から細く伸びる。

 灯りは明度をユラユラと変え、その光源が明滅を繰り返していることを窺わせる。

 隙間から覗く者があれば、その向こう側には小さな部屋のような空間があるのを知るだろう。そう。隙間は薄く開いた扉のものだった。

 

 光源は、闇の中に浮かんだ小さな四角い光の板だった。

 その上に光る文字と記号の様なものが目まぐるしく表示され…消え…また表示される。

 それにより生み出される灯りの明滅に、時折、照らし出されるのは二人の男の影。

 何かから身を隠すかのように、小声で何かを囁きあっている。


 「まただ。19、17、13…何のパターンでしょうね…」

 「ソスーだな…」

 「そす…?」

 「そすう。素数だ…知らんのか、お前は?」

 「あ…。あの自然数とか…整数とかみたいな…アレですか?」

 「2、3、5、7、11、13、17、19…間違いないな。だが、何故か常に最大値が19…か。19。偶然の一致か?…それとも…」

 「それで、これは手がかりになりそうなんですか?」

 「…しっ!…誰か来る」


・・・

 

 フッ…と。

 掻き消えるように四角い板の光が落ちる。

 赤い黄緑色の残像が、隙間から中を窺っていた者の網膜に焼き付いて、灯りが途絶える直前にそこにあったものの輪郭だけを形取っている。

 おそらくは、その輪郭の主たちは既にその場所には居ないであろうが…。


 「大丈夫…私です。驚かせてすみません」


 残像と不安だけが蠢く闇の中に、穏やかな落ち着いたアルトヴォイスが響く。

 若い女性の声だ。

 それに応えるのは…沈黙。それによる静寂。

 そして疑うような…窺うような…視線。

 暫しの…間。


 「…あの…私です。慈…」


 ひょっとして、声の特徴だけでは自分が誰であるのかが伝わらなかったのか…?

 そう不安になって、女性が自分の名を名乗ろうとする。

 しかし、その瞬間。


 「シッ!…待って下さい。どこかにパラボラ集音センサーが配置されているかもしれません。迂闊に名を名乗ると、奴らのデータベースと照合されて、この場所の空間座標を算出される虞があります…」


・・・

 

 気配を消していた男のうちの一人が、その名乗りを制止する。

 それから、探るような短い間の後…


 「…間違いありません。彼女は本物です。私が保証します」


 何かの確信を得たのか、先ほどの影のうちの一人が、もう一人に向かって呼びかける。


 もう一つの影は、それでもまだ数秒、反応を返すのを躊躇したようだが、一人が口を開いてしまった以上、自分だけが声を潜めていても意味はないと悟り…口を開く。


 「脅かさないでくれ。私は、こう見えて、案外、気が小さいんだ」

 「ごめんなさい…」

 「そして、それ以上に慎重派でもある。だから、お互いに名乗るのは止めておこう。いま、コイツが言った理由だけではなく、名乗りを聴けば、それが暗示となって…本人だと思い込まされてしまう危険性がある」

 「…わ、わかりました」

 「悪いが、私はまだ君を信用できない。少しでも不審な点を感じたら…この空間ごと君を凍結して拘束させてもらう。…まぁ、コイツが君のことを見誤る可能性はゼロに近いが…しかし、そもそも何故?…お前が居ながら彼女の接近に気づかなかったんだ?…」


 自分を慎重派と称する男は、始めに女性に応答した男に向かって疑問を投げる。

 態度の大きさ、敬語使用の有無からすると、横柄な方が上司で、敬語を使う方が部下なのだと思われる。そして、部下の方と女性には何らかの深い繋がりがあるらしい。


・・・

 

 「申し訳ありません。【彼】を狙う例の一派が、どこでどのように目を光らせているか分かりませんので。念の為、互いの間の一切の情報の流れを断っていたんです」

 「なるほどな。奴らは間違いなく愚物だが、それでもシステムの上位権限を握られてしまうと…やはり厄介なものだ。そのぐらいの慎重さは必要なのかもしれないな…。全く。シムネット・オペレータどもが何かと嗅ぎ回っている最中だというのに…」


 そこで、不意にまた…闇の中に光が灯る。

 光が消える直前には2つだった人型の輪郭が、今度は3つに増えてユラユラと明滅する。

 2つが最初にいた男性たちの影。そして、新たな一つは女性のものだ。


 「しかし、不幸中の幸い…と言えなくはないかもしれません。【彼】の閉じ込められている幽閉用隔離サーバ内の仮想世界。あれの複製コピーを、シムネット・オペレータの目を欺くため、ダミー・サーバに展開することができたお陰で、こうして例の一派に知られることなく彼の居る世界を擬似的にですが…解析できているんですから」

 「そうだな。だが、ダミー・サーバ上の複製は所詮複製でしかない。例の『破壊の意思』による改変を受ける前の正常な仮想世界だ。基本的な世界設定については、解析によって知ることが可能だが、幽閉用隔離サーバの方のあの世界は間違いなく異常な状態に置かれていると考えた方が良い」

 「…シュラくんは…無事なの?…」


 男性2人の難解な用語が飛び交う会話に、不安を滲ませた女性の声が割り込む。


 「無事だ。…と答えてやりたいが…何とも言えないな」


・・・

 

 「ええ。あのお方には報告済みですが、シムネット・オペレータたちがこの世界に疑いの目を向けている理由は…おそらく、幽閉用隔離サーバの異常な振る舞いへの不審です。どうやら、この世界での【死】によりログアウトしたハズのプレイヤーたちが、現実世界へと復帰せずに…この幽閉用隔離サーバへと取り込まれている疑いがあります」

 「…それって…ログアウトできなくなってる…ってことかしら?」

 「信じたくはありませんが…その可能性は非常に高いのです。後からログアウトしたプレイヤーが、自分より先にログアウトしたハズの家族や恋人、知人などが目を覚まさない…と騒ぎ出しているようで…その噂が、ネット上で拡散したことによりシムネット・オペレータたちがステルス・モードでのアクセスを試みているんだと思います」


 それじゃ…まるで「デスゲーム」みたいじゃないの…と口にしかけて、女性はその言葉を呑み込む。

 この世界は、一人一人の見る夢に、それぞれの脳に取りついたナノマシーン(シミュレーション・タブレット。略称:シムタブ)が指向性を与えることで、参加者つまりプレイヤー全員の共通の夢として生み出された世界だ。

 基本的には、より多くの者が思い描き信じたとおりに世界は描かれる仕組みだが、たった一人の強い思念が、この世界での現実となって具現化されてしまう可能性も秘めている。…だから、迂闊に不吉なことを思い浮かべたり、ましてや口にするのは避けた方が良い。ましてや、口に出すということは周囲の者にそのイメージを伝染させてしまうことになるため、より具現化される可能性が高まってしまうのだ。

 そんな彼女の心境を読み取ったのか、部下の方の男が力強く言い切る。


 「大丈夫。これは、デスゲームではありません」


・・・

 

 この世界は、ある目的を持った社会実験として運営されているが、表向きはフルダイブ型のVRMMORPG…すなわちゲームとして存在している。

 奇しくもそのゲームとしてのパッケージに記載された謳い文句を、彼は無意識に口にしたことになる。


 「しかし…仮想世界の中に、もう一つの新たな世界を生み出してしまうほど強い思念を持つ【彼】にも驚かされたが、それをこんな風に…プレイヤーを閉じ込める檻と化してしまった『破壊の意思』にも…尋常成らざる脅威を感じざるを得んな」


 上司と思われる方の声が呻くように言う。

 夢に指向性を与えることにより新たな世界を生み出す…というVR技術の産みの親であるその男からみても、現在、発生している状況には驚きを禁じ得ないらしい。


 「…何を言っているんです。アナタだけが頼りなんですから…そんな他人事みたいな感想を漏らさないでください」

 「そう言うが…現在のところ幽閉用隔離サーバのアクセス権限は例の一派に完全に掌握されていて、我々には全く手が出せない。そんな状況で…出来ることと言えば…」

 「それじゃ、【彼】は…もう、戻ってこれないの?」

 「いや。【彼】なら…。そうだ。彼になら何とかできるかもしれない。あの幽閉用隔離サーバ内にいる【彼】と、何とか連絡を取る方法さえ見つけることができれば…」

 「そ、そうよ。【彼】なら、どんな不可能も可能に変えてくれるハズよ」

 「しかし、幽閉用隔離サーバには我々はアクセスできないんですよ?…いったいどうやって【彼】と連絡を?」


・・・

 

 「ふぅ…っ。やはり、それが問題だな」

 「このダーミーのサーバを解析すれば、【彼】と連絡がとれるんじゃないの?」

 「いえ、これはあくまでも複製に過ぎませんから…残念ながら」

 「いや。待て…。複製…コピーか。…もともとは同一の世界。ならば…もしや」


 部下の否定的な言葉を上司が遮る。可能性という名の希望の色が声に含まれている。

 残る二つの影は、期待に満ちた視線をその影に送るが、その思考を妨げてはいけないと考えて、どちらも喜びの声を上げるのを堪え、黙って見守る。

 やがて、上司風の男の口から落ち着いた静かな声が紡がれた。


 「…【彼】と連絡を取るだけなら、何とかできるかもしない。【彼】の閉じ込められている世界は『破壊の意思』によって変性してしまっているが、それでも基本設定にはこの複製世界とほぼ共通しているだろう。二つの世界を【共振】させることができれば、思念の伝達程度の弱いリンクなら結ぶことが可能なハズだ」

 「「きょ…きょうしん?」」

 「面倒臭いから…技術的な説明は勘弁してくれ。それとな。あまり過大な期待はするなよ。あくまでも弱いリンクしか結べないから。可能なのは【彼】にアドバイスを送ることぐらい。サポートやナビゲートといった程度が出来るに過ぎない」

 「何もできないより十分じゃないですか!…やりましょう。じゃんじゃんナビゲートして、さっさと【彼】に問題を解決して、帰ってきてもらいましょうよ」

 「馬鹿か、お前は?…。このダミー・サーバは、シムネット・オペレータどもが常に監視しているんだぞ?弱いリンクと雖も、そう頻繁に結んだら必ずバレる。そうなったら、こちらの世界ごと強制的に消滅させられてしまう可能性もあるんだぞ」


・・・

 

 「…そ、そうでした」

 「仮に、シムネット・オペレータどもの目を誤魔化せたにしても、例の一派に我々の居場所を嗅ぎつけられる恐れもある。今は、こうして奴らから身を隠すことができているが、間接的にとはいえ幽閉用隔離サーバに干渉を行えばサーチされる危険性は格段に高くなるんだからな」

 「…危険は承知しているわ。それで、【彼】を助けることができるなら、私は喜んでその危険に飛び込んでみせる」


 女性の影が、強い決意に揺れる。

 男性2人の影も、その決意を受けて頷く。


 「…あ。そうだ。私、2人に知らせることがあったのよ」

 「ほぅ。それは…【彼】を救うために有効な情報ということなのかな?」

 「当然よ。今の私には、それしかないもの」

 「うむ。で?」

 「あの危機的現象の跡地…の『穴』のことなんだけど…」

 「アレがどうかしましたか?」

 「結界の管理をしているハズの…第1位が姿を消しているらしいのよ」

 「第1位…彼が?」

 「そう。第2位の彼女と協力ギルドの4人が交替で見張りをしているのは確認できるんだけど、第1位だけが…どこにも姿を現さないのよ」

 「ふむ。では、ひょっとすると…」

 「ええ。きっとあの『穴』を通って、【彼】の居るあの世界へ入ったに違いないわ」


・・・

 

 会話の流れからも明かなとおり、あの世界とは…ログアウト後に行方不明となった多くのプレイヤーの思念が閉じ込められていると思われる幽閉用隔離サーバ内の世界だ。

 そんな原因不明の恐ろしい状態に陥っている世界に、わざわざ自分から好きこのんで飛び込んでいく者がいようとは…。


 「なるほど…確かに、アレは幽閉用隔離サーバにアクセスするための、もう一つの方法である可能性は高いな。そもそも、アレが【破壊の意思】騒動の始まりでもあるわけだし…ということは、第1位…奴は…」

 「そうですね。きっと、彼女を捜しに行ったのでしょう」

 「私もそう思うわ」

 「そうだとすると、向こうへ侵入した第1位ともぜひ連絡を取りたいものだな」

 「そうですね。協力者が多いほど、問題解決には有利ですから…。しかし、第1位は…私やアナタのことを激しく憎悪していますよ?…私なんて、殺されかけたこともあります。協力関係を結んでなどくれるでしょうか?」

 「ふん。第1位…などとシステム上では評価されているが、奴など私から見ればまだまだ…だ。それに、奴は案外、暗示にかかりやすい」


 にやっ…という笑みが想像できそうな…悪意を含んだ上司の声。

 部下が慌てて注意する。


 「…ま、またそういう不穏な発言を…。そんなことだから恨まれるですよ」

 「心外だな?…私は…まだ、何をするとは言っていないぞ?」

 「言わなくても…克明に想像がつきます。…とにかく、ほどほどにしてください」


・・・

 

 「そんなコトより、まずは【彼】とコンタクトを取る方が先だわ」


 本題から逸れて、意地の悪そうな悪巧みについて語り合う上司と部下を女性が窘める。

 まだ、【共振】というアイデアを思いついただけで、それに成功したわけではないのだ。


 「そうだったな。方針が決まればやることは山ほどある。コレまでは、例の一派の目を逃れるため拠点を転々と変えてきたが、さすがに腰を据えて取り組む必要がある。傍聴を恐れて互いの名を呼ぶことすらできないのも困ったものだしな」

 「そうね。【彼】とコンタクトがとれても、名乗れなかったら話がうまく繋がらないかもしれないわ。何とかなる?」

 「私が、パラボラ集音センサーを片っ端から潰して回りましょうか?」

 「馬鹿かお前は。…そんなことをすれば、いくらお前でも忽ち例の一派に捕まるぞ」

 「でも、それでお二人から目を逸らすことができるなら…喜んで囮に…」

 「そんなものは時間稼ぎにもならないぞ。他に、全く方法がないならば、まだしも」

 「…では?」

 「この空間の座標を、虚数座標へと改変した。この部屋ぐらいの極小空間なら、私の権限だけでそのぐらいのコトはできる。例の一派には、虚数表現された座標を通常空間上の座標にマッピングできるような技術を持った者は居なかったハズだ」

 「す、凄いじゃないですか?」

 「その代わり、我々も当分は、ここから出ることは出来なくなるし、外の情報も得られなくなるがな…やむを得まい」

 「…外に出られない…?」

 「心配するな。女性もいることだ。トイレぐらいは、こちら側に用意してやる」


・・・

 

 いや。他にも色々と困ることはあるのでは?…と部下の方の男は思ったが、もう、上司がその作業に取りかかり始めたのを知って口には出さなかった。

 抜かりのない上司のやることだ。

 少なくとも飢えて死ぬような事態にはなるまい。

 ただ、【彼】に関わる3人が、同時に3人とも完全に消息を絶つという不自然さが、例の一派に感知されないわけがない。

 上司の技術を信頼していないわけではないが、無限に時間的猶予が生まれたなどとは過信しない方が良いだろう。


 「お前の考えていることは分かっているよ。だが、現状ではこれが最善であることも間違いのないことだ。さぁ、まずはこの複製世界の方の解析を進めるぞ。中に入っている者には案外、気づきにくいような細かい仕様まで把握できれば、第1位と協力関係を結ぶ際にも、効果的な交渉材料となりうる」

 「分かりました」

 「私も…及ばずながら手伝うわ」

 「じゃぁ、そっちのホログラフィック・ディスプレイの左下に表示されている、その数値…そう、それだ。それを私が合図したら、順番に読み上げてくれ」

 「読み上げれば良いのね?」

 「そうだ。こっちの端末と接続できれば良いのだが…情報の流れを、例の一派やシムネット・オペレータどもに気取られるといけない」

 「では、私はこちらの端末の方に、読み上げられた数値の入力を?」

 「それは、音声入力で対応可能だから不要だ。お前は、この私がこの空間の座標を虚数座標へと切り替えるギリギリまで、『穴』の方の情報を探ってこい」


・・・

 

 「分かりました。座標の切替には…どのぐらいの時間が?」


 おおよそのタイムリミットを告げられ、部下の男は指示されたとおりの仕事をするために、その部屋から出て行く。

 いつの間にか、彼らを照らす四角い光は、その数を2枚に増やしていた。

 それぞれの四角い光を覗き込むようにして、男性一人と女性一人の影が揺れる。


 「11、7、5、3…2、19…7、11、13、5、13…19、17」


 上司風の男の合図があったのか、女性のアルトヴォイスが響き始める。


 「やはり…素数。ランダムに配置を変えてはいるが…間違いないな。これが、何らかのパス・コードを示しているのか?…それとも、単なるダミー・トラップか…」


 ・・・・・ ピポッ!

 ・・・・・・・・・・・ ジジジ…


     ・・・・・・・ ブーン。


     ・・ ギュギュギュギュ…。


 データの音声入力が完了し、女性の声が止まる。光源を見つめ、再び沈黙する二つの影。

 闇の中で、アナライザーの解析音だけが規則的に鳴り響いていた。


・・・

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