3
バスタオルで体を簡単に拭いたハナコを名乗る少女は、やはり薄手のシャツだけを羽織って私の対面に座った。
私の中で、目の前の少女はもうハナコではないだろうと思っていた。小学生くらいの少女がやって来たとき、彼女を天使と呼んだのだ。例えば先ほどの少女が天国からやってきた天使だったとしても、生まれ変わりのハナコを天使なんて呼ばない。
それに、前にハナコが私をさして「ちゃんと予備校に通うようになった」と言った。最近この部屋にやってきたのに、どうして私がそれまでサボっていたことを知っているのか。生まれ変わった瞬間があの晩であるなら知りようがない。
私とハナコとの強い思い出を忘れていたのも気になった。初めてやってきた日のことなのに、まるで誰かから聞いてなかったかのような反応だったのだ。
薄々理解していたが、やはり私はこの少女から真実を聞きたかった。
なぜハナコのふりをしてうちにきたのか。
不思議と怒りよりも悲しみの方が大きかった。やはり、あのハナコは生まれ変わってなんかなかった。私のくだらない願いは、やっぱり届いてなかったのだ。
「ワタシは、…………その、」
少女は意を決して口を開いたものの、なかなか次の言葉を出せずにいた。親に叱られた子供のように、ちらちらと私を見ては二の句を継げずにいる。だが、ようやく言葉より先の行動から彼女は動いた。
「ごめんなさい」
深々と、殆ど土下座に近い角度で頭を下げると少女は心の底から出したような謝罪の言葉を述べた。
「ワタシ、ハナコさんじゃありません。弥生さんを、ずっと騙してました。天使なのに、酷いことをしました」
なおも床に頭をすり付けながら少女は自分がやはり天使だと言うことも告げる。
度々不思議な現象に見舞われた私としては、天使や天国の存在を案外すんなりと受け入れられるほどになっていた。天使という割には背中に羽根もなく光るわっかもないが、今はそれぐらいの方が現実味があった。しかし、ということは天使というのは常に全裸での生活を強いられているのだろうかと先ほどの少女を思い出しながら考える。
ようやく顔を上げた少女は居住まいを正して、
「ワタシの名前は、キルシィ。天国の市役所に勤めている天使の一人です」
と名乗った。キルシィはやっと背負っていた荷物を置けたように、ほっとした表情をしていた。それでも私をなんとか見据え直し、訥々と語り始めた。
「……ワタシのいる転生課は、亡くなった生き物たちを導いて次の生きとし生けるものに生まれ変わってもらうことを担当する課です。この世界は生命のリサイクル……といったら言葉は悪いのですが、存在できる生命の数が決まっているので一度死んだものはまた再び生命を与えられて下界へ送り出されます。一つの魂が外見を変えながら下界と天国の行ったり来たりを繰り返しているんです。もちろん、前世の記憶は引き継ぎません」
にわかには信じがたい話だったが、これまでの経緯を考えれば理解は出来ることで私は反論を挟むことなく続きを促した。
「転生課にはいろいろと係りが分かれていまして……ワタシは動物係でした。亡くなった動物のみなさんにお話を聞いて、生前の行いから判断して次の転生先を指定するのです」
もちろん、生存本能だけで生きている思考能力の低い方もいるので、その場合は抽選で決めた生き物へ転生させるんですけど、とキルシィは注釈する。結構思ったより大ざっぱだ。
「ワタシは、その、あんまり真面目な天使ではなかったので、よく中央広場の噴水で下界を覗き見していたんです」
キルシィは恥ずかしそうに俯いた。そのあと、「あ、広場の噴水は下界が見渡せるんです」と少し自慢げに言った。
「ワタシがいつものように下界のいろんな場所を眺めていたら、ある一人の少女とわんこさんがいました」
「……それが、私?」
はい、と頷きキルシィは懐かしむように中空を見上げる。
「弥生さんとハナコさんはとっても仲良しで、ワタシは毎日のように噴水から楽しげな生活を眺めていました」
そうだ。楽しく暮らしていた。あの頃は、本当に幸せだったのだ。
「ある日、ハナコさんが車に轢かれて亡くなりました。そして転生課にやってきたハナコさんをワタシが担当したんです」
では、きっとハナコは転生してどこかで違う命となって生きているのだろう。私は落胆しそうになって、それは違うと言い聞かせた。だってそれは生命のサイクルとして自然で幸せなことなんだろう。だが、私の心を読んだかのようにすぐにキルシィが続けた。
「ハナコさんは転生していません」
「どうして!?」
思わず声を上げた。生き物を転生させるのがキルシィたちの仕事だろう。
「ハナコさんは突然自分が亡くったことに驚いていましたが、それ以上に悲しんでいました。弥生さんと離れることがとても辛かったんです」
「……ハナコ……」
犬の感情の機微なんて、流石に理解は出来ないかもしれないがそれでも私はハナコと通じ合っていたと思った。それだけに、私と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。
「だから、天国に来てもずっと悩んでいました。噴水から毎日弥生さんを眺めて」
「じゃあ、今も? 今もハナコは転生しないで天国にいるの?」
私はキルシィに詰め寄る。だが、反して彼女は視線を右へ逸らした。何か都合が悪いことがあるとそうなることを彼女との生活で私は知っている。ハナコではない、キルシィ生来の癖なのだ。
「……月日が経って、ハナコさんはワタシに言いました。転生はしませんと」
ではやはり天国にいるんじゃないのか、私がそう口を挟もうとしたときキルシィはそっと頭を振った。
「転生課に来た生き物には、二つの選択肢が与えられます。ひとつは面談を受け別の命として生まれ変わるか。
もうひとつは、転生をせず、その代わりその生き物に対して一つだけ下界への干渉を許すことです」
キルシィは一呼吸おいてから口を開いた。本当は聞いてはいけないことを、聞いてしまうんじゃないかと予感した私はとっさに耳を塞ごうとした。だが、手は全く動かず生唾だけが嚥下される。
「ハナコさんが望んだのは自分の首輪が入ったバッグを消すこと、そして――」
続きの言葉に私は目を見開いた。
「下界に干渉した生き物は、転生することなくこの世界から消えて無くなります」
「……ハナコは……」
もう、世界から消えてしまった。今度こそ、本当に魂ごと。
うなだれた私の肩にキルシィの手が触れようとして、途中で引っ込められる。しばらく無言のままの時間が過ぎ、再びぽつりぽつりとキルシィが語り始めた。
「ハナコさんを失って、自暴自棄になっている弥生さんを見てハナコさんは自分が弥生さんの枷になっていると気づいたんです。だから、安寧のときを生きるよりも、たった一つの干渉に賭けて弥生さんを立ち直らせたかったんです」
ハナコは、私を忘れろと言いたかったのだろう。
優しいあの子は死んでなお、私のために自分の命を使ったのだ。
「……それなのに、私は最低だったわけね」
「弥生さん……」
「首輪が無くなって、私はもっと世界から目を閉ざした。あんな、馬鹿みたいなお祈りをしてたんだから」
キルシィがこの部屋にハナコとしてやってくる前の晩。
私はベッドの中で疲れた体を横たえていた。毎日毎日、死んだように感情を殺して楽しくもない勉強とバイトを続ける日々に嫌気がさした。
私はただ生きる為だけに生きているのに疲れてしまった。縋るものもなにもない、こんな都会の真ん中で寝っ転がっている自分が酷く滑稽に思えたのだ。
だから、いもしない神様に向かって子供のように祈ってみることにした。たとえ朝目覚めて昨日と同じ日々が続くと分かっていても。
神様、ハナコを返してください。そうじゃないと私は今すぐ自殺をしてハナコのところへ行きます。
言ってから、吹き出した。神様へ脅し文句を言ってしまった。そもそも、神様なんて信じていないのに。
それでも寂しい気持ちを紛らわすくらいにはなったのか、疲れが私の体をすぐに眠りへと誘っていった。
「それで私のところにハナコのふりをしてアンタが来たのね」
「ハナコさんの想いを無駄にしたくなかったんです。それに――」
キルシィは目を伏せる。
「弥生さんが苦しんでいるのを、ワタシも見ていられませんでした。ずっと、二人を見ていたワタシは弥生さんに立ち直って欲しくて、なら、弥生さんのお願いを聞いてみようと思ったんです。ワタシがハナコさんのふりをして、弥生さんを元気に出来れば――前を向いて歩いてもらえるようになれば……でも、そんなのワタシの傲慢なんです」
キルシィは俯きながら膝の上で拳を作る。
「ワタシは、卑怯なんです。ハナコさんの名前を借りて、都合よく弥生さんに取り入って、」
作った拳が小刻みに震えた。
「ワタシは弥生さんが立ち直ってくれればいいと思ってました。ハナコさんの想いを引き継げると自分勝手に思っていました。でも、ワタシは……弥生さんといるこの生活が楽しくて――」
キルシィが顔を上げる。まるで断罪を待つかのような、迷子の子供のような、そんな縋るような瞳が私を見つめる。
「ワタシは人間じゃないのに、ハナコさんでもないのに、弥生さんを騙しているのに、ずっとここにいたいと思ってしまいました。弥生さんが前を向いてくれたから、ワタシはもういなくならなきゃいけないのに、ワタシは――」
ぱたぱたと大粒の涙がキルシィの頬を伝って握った拳へ落ちる。
「――弥生さんのことを大好きになってしまいました」
ごめんなさい、と謝るとキルシィはまた顔を伏せた。
前に聞いた大好きですとはきっと意味合いが違う。ハナコとしての演技も含まれていただろう。
私は静かに涙を流し続けるキルシィに手を伸ばした。だが、肩に触れそうなくらいの距離にきてキルシィが後ろへよける。私は拒絶されたような気持ちになって、ずきりと胸が痛むのを感じた。
「勝手なことばかり言って、ごめんなさい……ワタシは、人間じゃないからこんなこと言っちゃいけないんです。人間と一緒に暮らしちゃ、いけないんです」
そう、彼女は天使だ。先ほどの少女が言ったことを急に思い出して、私は今までの自分の行動を深く後悔した。
「天使は、人間の作ったものが体に毒なの?」
キルシィは躊躇いがちに頷く。下界に降りた時点で人間の世界全てが天使の体を蝕むように出来ていると。
ならば。
私がやったことはキルシィを殺しかねないことだったのか。
「じゃあ、洋服を着るのも、食事も、全部毒だったんだ」
「で、でも!」
まだ涙跡が残る顔を上げて彼女は否定する。
「弥生さんのお洋服も、弥生さんの作ってくれたスパゲティも! ワタシは嬉しかったし、すごく美味しかったのは本当なんです! 溜まった毒素で熱を出してしまったワタシを懸命に看病してくれたことも! 全部、全部、ワタシは幸せだったんです!」
勢いだけで詰め寄ったキルシィの顔が思ったよりも近くて、私は赤面した。と、同時にキルシィの頬も赤く染まる。
だがそれは一瞬のことで、もう彼女の顔は曇ってしまった。
「でも、……それはワタシがハナコさんだったから弥生さんが親切にしてくれたんですよね。身の程を知らずに一人で舞い上がってるのはワタシひとりで、」
キルシィはぶつぶつと呟きながら自己完結を始める。
ちょっと待て。
私は、まだなにも。
まだなにも、彼女に、キルシィに対して伝えていない。どうして、そう勝手に決めつけようとするんだ。
「……なに、言ってんのよ」
私が発した声は低かった。怒っているのかと勘違いしたキルシィがびくりと肩を震わせる。
「私はアンタがハナコの生まれ変わりだって知って、嬉しかった。私は大切な友達を取り戻すことが出来たって、喜んだ。でも。それとは別に、私はアンタ自身を知っていった。だって、ハナコは犬で、アンタは人間だったんだもの。たとえハナコのふりをしていても、私は今ここにいるアンタのことを――」
そこまで言って喉が詰まる。私はなにを言おうとしているのだろう。
私が彼女に感じていた気持ちは。
ハナコへの想いとハナコを名乗る彼女への想い。どこからか境界は曖昧になっていて、混ざってしまっていたけれど、彼女がキルシィとして名乗りを上げたことで私の中でいつの間にか答えは出ていたのだ。
「私は、……キルシィ、アンタのことを好きになっちゃってたってこと」
初めて彼女の名前を呼ぶ。
言ってから、ものすごく恥ずかしくなった。
「弥生さん……」
頬が熱くて真っ赤になっているであろう私をキルシィは信じられないものでも見るかのように見つめてくる。
「……初めての告白が、天使相手だとは思わなかったわ」
私は彼女の視線に耐えられず、ぷいとそっぽを向いて文句を言った。
「ワタシも、初めての告白が人間だと思いませんでした」
すっかり涙が引いて笑顔を取り戻したキルシィが私の皮肉に返しを入れる。
「なによ。別にいいじゃない。人間を舐めないでよね」
「いえその、別にそういう意味ではっ」
焦ったキルシィがわたわたと手を振りながら否定しようと頑張る。なんていうか、別にハナコの生まれ変わりではなかったのにキルシィはどこか素直な犬っぽい。天使になる前は、従順な犬だったのではないかと思ってしまうくらいだ。
「いいわよ。これからはちゃんと、人間のよさをもっと教えてあげる」
「それは……楽しみですね!」
無邪気に微笑む。私はその笑顔が無性に愛しくなった。
私はさっきは延ばせなかった手を彼女の肩へとかけた。キルシィはほんの少し驚いたが、今度は逃げなかった。
そっと自分の方へ引き寄せ、額がくっつくような距離でお互いの顔が近づく。
間近で見ると、キルシィの髪は最初に見た時より精彩が欠けたような色をしていた。私が無理矢理頭を洗ったせいだ。透き通った肌は、健康的な白色というよりかは血の気が薄くなっているように見えた。私が毒のご飯を与えたせいだ。
私がキルシィを、天使を下界に下ろして汚してしまったのだ。
だから私は、彼女を汚してしまった以上の想いを込めて愛しさだけが伝わるように、キルシィの唇を自身のそれと重ねた。
どれくらい経ったのか。
彼女の温もりを惜しむように体を離した。
たった一度のファーストキスは触れるだけだったのに、そこからお互いの熱が全身に伝わってくるようだった。あまりに離れがたく、愛しさがこみ上げてくるたび角度を変えて触れあう。漏れた吐息が女の子のそれで、改めて私は女の子とキスしたんだなぁと実感してしまった。
感慨深く改めてキルシィを見ると、彼女はまたぽろぽろと涙を流していた。
「ちょ、……な、泣くほどいやだった?」
「ちがい、ます……」
キルシィは両手で涙を拭いながら微笑む。
「……ワタシ、嬉しくて、幸せで、でも少しだけ悲しいから泣いてしまったんです」
「もしかして、私変なことしちゃった……?」
不安になって尋ねても、彼女は優しく首を振る。私はどうして彼女が悲しむのか分からなくて答えを求めた。
「ね、弥生さん」
だがキルシィはやんわりと私の疑問を退けて、離した体を再びくっつけた。
「……もう一度だけ、キスしてくれますか?」
「え……」
それはもちろん大歓迎だが、なにかキルシィの態度に引っかかった。私を見つめる瞳は悲しみを精一杯隠したような揺らぎを湛えている。
どうして、そんなに悲しそうなの?
私たちはお互いを分かり合って、想いを伝え合った。
これからは、ずっと一緒に――
「お願い、します」
彼女の顔が今にもくしゃりと歪んで泣いてしまいそうになっている。私の肩に触れる手が震えている。
――すぐに『後処理』を済ませて、戻ってこい。
不意に、先ほどの少女天使の言葉が蘇った。
私の嫌な予感はここのところ全て的中している。
はっとして、私はキルシィを見た。私の表情で何かを悟ったのか、キルシィは小さく「ごめんなさい」と言った。
「んんっ……」
私が声を上げようとした瞬間、彼女の唇に阻まれた。
「んぁっ……んんんっ」
開いた口からキルシィの舌が進入してくる。二度目の口づけが、ディープキスだなんて聞いていない。私は精一杯押し返そうと自分の舌を突き出したが、それは余計にキルシィの舌と絡まることを意味していた。キルシィが右手を私の後頭部に回してより一層密着する。
上手く鼻から呼吸が出来なくて段々と息が苦しくなっていく。絡まった舌の感触にしびれるような、酸素が足りなくて意識がふわふわするような不思議な気持ちになる。
「んく……っ」
流されるまま、彼女と私の唾液が混ざったものを飲み込んだ。苦しい呼吸の中での行為なのに、なぜか融けるように甘く感じた。
「……ぁ…………」
一瞬、私の意識がふわりと空へ投げ出されるような感覚。いつの間にかキルシィの唇は離れていた。
嘘、キスするとこんな風になっちゃうの?
私は朦朧としながら手を伸ばす。白いもやのようなものに思考を浸食されながら私は必死にキルシィの姿を探した。倒れそうな私を抱き抱えるキルシィの腕。霞みがかった視界に彼女の顔が映る。
やっぱり泣いていた彼女が、唇を動かした。もうその声は耳に届かない。だが私は理解した。
「さようなら」
その悲しい言葉に私は答えることが出来ず、意識を手放した。
*
大勢の人間が広場に集まりざわめいていた。
誰もが彼らの目の前に大きく掲げられている掲示板を見つめている。私もその中の一人だった。
「…………あった」
手元の紙と掲示板を交互に確認する。やはり同じ番号。
私は念願かなって、東京の私立大学、その獣医学部に合格したのだ。
すぐさま両親に連絡を入れた。向こうは本格的に吹雪いているらしく、窓を打ちつける雪の音が微かに電話越しに聞こえる。両親は二人とも大喜びで、私も自然と微笑んだ。
一年間暮らしたこのアパートとも今日でお別れだ。去年の初夏までは殆ど予備校に通っていなかったが、ある時を境に私は猛烈に勉強に打ち込んだ。予備校のない日は朝から晩まで、季節が巡ってもこの部屋の机にかじりついていたのだ。
「どうして、あんなに勉強する気になったんだろう」
ある時と言ってもぼんやりとした記憶でしかなくて、いつの間にか自分は獣医を志そうと志望校を変更していた。もちろんその気持ちは嘘ではないし、いつか田舎の村に戻って獣医を開業しようと思っている。最愛の友達――ハナコを亡くしてしまった後悔がいつしか私の中で動物を救いたいという想いに変わっていったんだろう。
そう、今はもう寂しくない。前を向いている。
それなのに、私は言いようのない寂しさを心に抱えていた。
両親と離れて寂しいわけじゃない。ハナコがいないのが悲しいわけじゃない。
それなのに、私は失くしものをしている感覚に陥るのだ。とても、大切ななにか。
「それがわかればいいのに」
「ん、なにが分かんないって?」
引っ越しする私の荷造りを手伝ってくれている友人の一人が振り返った。予備校で一緒に勉強するうちに同じ志望校ということもあり、仲良くなった子だ。私はあんなに人付き合いが苦手で嫌がっていたのに、いつの間にか他人を受け入れる気持ちを持つようになっていた。
「こっちの話」
「えー冷たいー。弥生ちゃん、ちょー冷たいー」
なぜだかすり寄ってきて私の腕をぶんぶんと回す。私の性格は昔から大して変わっていないはずなのに、彼女のようなちょっとうざい――いや、人なつっこい性格の友人ばかりが集まってしまった。
「あーもーうるさい!」
「つーめーたーいー」
なんとも騒々しい荷造りに私はすっかり辟易とする。だが、嫌ではなかった。そう、友達ってこんなに楽しいものなんだ。
ハナコと過ごしたあの頃は確かに幸せだった。だが、今の私の世界はこんなに広い。前を向くことで、足下の地面しか見えなかったのが地平線の果てまで見渡せるようになった気分だった。
「お荷物、これで全部ですか?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
引っ越し業者がトラックを発進させる。私が春から通う大学の、学生寮へ向けて。
「じゃあ、あたしらも行くわ」
「ん、ありがとう。今度ちゃんと美味しいもの奢るから」
「弥生ちゃんの手料理でもいいよー?」
調子に乗った友人を私はデコピンして見送った。部屋もあらかた綺麗にしたのであとは不動産屋に鍵の明け渡しと荷物の引っ越し先での積み卸しだ。
忙しくなるなあと春うららかな空を仰いで、私は部屋を後にした。
大学の入学式を終えて、私は学生寮への帰路についていた。
結局まだ開けられていない段ボールがいくつもあり、加えて必要な参考書や学術書を大量に買い込んだら更に部屋は片づかないまま放置されてしまった。これから授業が始まり本格的に忙しくなる。その前になんとか部屋の整理をしようと私は浮かれる友人たちの誘いを断り部屋に帰ってきた。
玄関を入るとすぐさま段ボールが道を塞ぐ。普段は使わない日用品類を部屋の外にとりあえず積んでいたらこの有様だ。私は妙に段ボールを避けて歩くのに慣れてしまいながら部屋へ続くガラス戸に手をかけた。
すると、中から物音が聞こえ私の戸にかかる指が硬直する。
恐る恐る耳を澄ますと、確かに何者かが私の部屋の中にいることが伺えた。まさか、学生寮に泥棒?
私は動揺しながらも真偽を確かめようと、勇気を振り絞って指に力を入れた。もしかしたら、こっそり猫を飼っている部屋があって、ベランダ伝いに私の部屋に入ってきたのかも、などと夢みたいなことを考えて私は恐怖を取り払う。
がらり、と勢いよく戸を開けるとそこには猫はいなかった。
ただ、全裸の少女が段ボールの山の中にうずくまっているのが見えた。
全裸。あれは全裸だ。この季節に何の布も身につけずにいる。私は開ける扉を間違えたのかと思った。ここは私の部屋ではなく、近くの銭湯の脱衣場で――
「ごめんなさいっ!」
私が混乱していると少女は伏せたまま、大声で謝った。その言葉にあれはうずくまっているのではなく、土下座をしているのだと分かった。日本人の謝罪姿勢では最終手段に用いられるものだ。
「ごめんなさい、ワタシ……」
全裸の少女は土下座の姿勢から立ち直る。
「堕天してきちゃいました」
ふっと私の中で光が灯った。
その犬のような笑顔が失くしものの在処を示してくれる。それはとても懐かしくて、愛おしくて、暖かな気持ちに包まれた。
だが、その思いと裏腹に私の胸の中には最後に伝えられなかった言葉が沸いてきた。
「馬鹿」
――私は冷えきった彼女の体を、抱きしめた。
<了>




