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その翌朝、私はハナコの異変に気が付いた。
いつもなら勝手に私を抱き枕化して安らかに眠っている彼女が、ベッドの反対に身を丸めて苦しそうな呼吸をしていたのだ。
浅く繰り返される息継ぎと、小刻みに震える小さな身体。目を瞑ってはいるが悪夢にうなされているわけではない。
「どうしたの、ハナコ! ハナコ!?」
「はっ……はあっ」
私を見て何か言おうとしたものの、上手く言葉にならないようだ。私は彼女の身体に触れ、すぐさま手を引っ込めた。熱い。室温が高いから身体が熱くなっているわけではない。これは内側からの熱だ。
正確な熱を計るため、救急箱にしまっていた電子体温計を使う。表示された数字に驚いた。四十度。過去にかかった風邪でもこんな異常な数値は出さなかった。
「び、病院に行こう!」
部屋に常備している解熱剤は無い。そもそもこんな高熱を出している人間なんてまずは病院に行かせるのが常識だ。
「……っだめ……です……!」
ハナコが慌てて支度をする私の腕を弱々しく引き留めた。触れた肌の熱さにくらりとする。
「……ワタシ、ちゃんとした保険証とか……ないですし、……正体、不明の、人間なので……」
保険証とかそんなこと言ってる場合じゃない。正体が不明だからといって患者を診ない医者なんて医者じゃない。
父が村八分も覚悟の上で医者がいなかった頃の民間療法などの迷信を排し、正しい医療行為を理解させるために文句を言う村人に耐えながら献身的に人々の治療をしていたのを私は知っている。
「……はっ……はっ……」
苦悶の表情を浮かべ荒い呼吸が続き、それは全く落ち着く気配がない。私の腕を掴んだ手は既にぐったりと力無く落ちている。
私は救急車を呼ぶことにした。これでは起きあがるのも辛いだろう。大事になるとは分かっていたがハナコがこのままの状態を放っておくことなどできない。私は携帯を掴みとった。
けたたましいサイレン音がアパートの前までやってくる。何人かが慌ただしく階段を上る音が聞こえた。
「急病人の方はどちらですか!?」
ドアを開け放つと白いヘルメットの白衣に似た姿の男性が入ってきた。私はすぐさま奥の部屋へ案内し、ベッドに横たわるハナコを指さす。
「あの子です! 起きたら急に高熱が出て、すごく苦しそうで……」
「…………どちらですか!?」
耳を疑った。思わず救急隊員の男性を振り返ると、向こうも困惑した顔で「こちらの部屋ではないんですか?」などとよく分からないことを言った。
これは、いったい。
「なに、言ってるんですか。ほら、そこのベッドにいるでしょ? 早く――」
「すみませんが……」
救急隊員が急に冷めたような口調で私に向き直った。後続に控えていた他の救急隊員は溜め息までついている。
「イタズラはやめていただけますか。こっちも緊急で救急車両出しているので……」
「は? 何言ってるの、だからあの子だって……!」
「あんたいい加減にしろよ」
今度は後ろの救急隊員が語気荒く私に近寄る。それを制するように手前の救急隊員が押さえた。
「――あなた、そういう症状が出てるんならちゃんと服薬してくださいね。こういうことで呼び出されるのは困るんですよ」
「うちは精神科はやってないんだよ」
吐き捨てるように言った隊員を宥めながら最初に対応した救急隊員が部屋を出ていく。私は呆気にとられるようにその場から動けなかった。ようやく反論をすべきだと身体が動いたときには玄関のドアが閉まりきった後だった。
「あの人たちに……見えてなかったの……?」
私は恐る恐る振り返り、やはりそこに苦しそうにふせっているハナコを認識する。
ちゃんと、いるのに。私にしか、見えていない。
「……弥生さん……」
苦しげな呼吸の間にハナコの声がぽつりと聞こえた。意識が朦朧としているようで、先ほどの救急隊員とのやりとりを理解しているのかも怪しい。
「……ごめんなさい…………弥生さん……ごめんなさい……」
うなされるように私の名を呼びながら謝っている。
なぜ謝るのか、なぜハナコが私以外に見えていないのか。何もかも分からない。
彼女は人間に生まれ変わったのではないのか?
なにかの間違いが起きて、不完全な転生をしてしまったのか?
そもそも、これは私だけが見ている幻覚?
混乱する私は何も答えが得られないまま、ただハナコを見つめる。
「……はっ……はぁ……」
依然としてハナコの容態は悪いままだ。私は我に返り、弾かれたように立ち上がった。急いで冷蔵庫から氷と水を用意した。
「私、何やってるんだ……!」
自分を叱咤しながら氷枕を作る。こんなに苦しんでいるハナコを前にぼーっとしてるなんて、馬鹿だ。
自分にしか見えないのなら、自分がなんとかしなければならないのだ。手を伸ばしたら触れられるのに、幻覚なわけがない。
すぐ近くの薬局へ行き、解熱剤と冷えピタ、パックのお粥とスポーツドリンクを買った。風邪の症状に似ているがそうでない場合もあるからとりあえずは現状を回復できそうなものだけ揃えておく。
帰ってきて様子を見ると氷枕が少し効いているのか、先ほどよりは呼吸が和らいでいた。念のため、額に冷えピタを張る。
薬を飲ませるために、お粥を温めて食べさせた。弱々しくも租借して飲み込む力は残っているようで、意識がまだはっきりとしないハナコに付きっきりでスプーンを口に運ぶ。
「……んっ……けほっ、げほっ!」
だがスポーツドリンクを飲む前に、すべて吐き出してしまった。
涙目で胸を抑えながら、ハナコが再び謝る。床を汚してしまっただの、迷惑をかけているだのそんなことはどうでもいい。
「……お水、なら飲めると、おもいます……」
そういう彼女に答えて少しずつミネラルウォーターを飲ませた。解熱剤を飲むのも嫌がってしまったため、また氷枕を作り直し、毛布を身体にかける。
ハナコはようやく落ち着き始めたのか、気が付いたら穏やかに目を瞑っていた。
「……ふう」
やっと私も一息つく。予備校に行く予定だったが、そんなことは二の次だ。ハナコを看ながらでも勉強は出来る。
そうして、ハナコは実に三日間も寝込むことになった。
三日目の夜には大分回復して、ベッドから少し起きがることも出来るようになった。
不思議なことに、その間彼女は水しか口にしなかったのに、体調が悪くなることも空腹を訴えることも無かった。
それは私以外にハナコが見えないという事と関係していると確信できた。普通の人間は、三日間水のみで生きていられたとしても病気が回復することはないのだ。
「弥生さんの手、冷たくて気持ちいいです……」
「さっきまで氷枕作ってたからね」
ハナコの頬に手を当ててまだ熱っぽい体温を感じる。そう、体温はこんなにちゃんと感じられるのに。
「……三十七度二分、か。まだ微熱だけどようやく落ち着いたわね」
「ご迷惑を、おかけしました……」
私はこの三日で何度聞いたか分からない謝罪の言葉に首を振った。
「ハナコが良くなって、私は嬉しいの。だから、そんな顔してそんな事言わないでよ」
「……はい」
「さ、汗かいたでしょ。身体拭くから脱いで」
最初に全裸で現れたせいか、着替えを手伝う度に彼女の素肌も見慣れたものになってしまった。
小柄ですらりとした肢体、自分が中学生くらいだったときよりは少しボリュームが少な目な胸周りと対照的によく括れた腰。どちらかというと白人種に近いくらいに思える透き通った白い肌。
まさしく、年頃の少女そのものなのだ。
「……ぅ……んっ」
「ごめん、痛かった?」
「いえ、その、……ちょっとくすぐったくて」
その言葉に私の中でむくむくとイタズラ心が首をもたげてきた。以前、耳を舐められた仕返しをしてやろう。
私は気づかれないようにそっとハナコのふわふわの髪の毛を手で避けて耳朶の裏側に舌で触れた。
「……ひゃっ」
思った以上に可愛い声を上げてハナコは肩を震わせた。その反応が面白くて、更に追撃を試みる。
「……やっ、だ、ダメです……んっ」
くすぐったそうに身を捩るハナコの肩を捕まえて、私はなおも耳朶の周りを舐めた。昔犬のハナコがやったような感じだ。流石に人間になると耳は敏感になるのかな、と思っていると段々とハナコの様子が変わっていくことに気づいた。
私のくすぐりから逃れようと手で押し返していたのに、いつの間にか弱々しい力になっている。背けた顔はぎゅうっと目を閉じて、呼吸が少し乱れていた。頬が、また熱が上がってしまったように上気している。
「んっ……はぁっ……んんぅ……っ」
私の舌が触れる度漏れる、どこか艶っぽい声。
慌てて身を引いた。
「……ご、ごめ、やりすぎた……」
私は今まで自分がやっていたことを冷静に振り返って、とんでもなく恥ずかしい行為をしていたことに気が付いた。犬相手じゃないのに、なにをしていたんだ私は。
今度は私が赤くなる番で、まともにハナコを直視できない。
一方のハナコは殆ど裸同然で同じく顔を赤くしたまま困惑していた。
「あの……えっと……」
「は、裸じゃ寒いわよね! ほんとごめん、ふざけすぎたわ」
私は素早く彼女に服を着せるとそのまま布団をかぶせてぽんぽんと叩いた。
「もう少し寝てなさい。あとで冷えピタも替えるから。今晩もゆっくり休んで」
「……はい……」
まだ頬に赤みが残っているハナコの顔を見ないように、私はコンビニへ頭を冷やしに出掛けた。
結局、ハナコにはまだ訊けないことが沢山ある。
高熱からすっかり回復したハナコはまた以前のようにはりきって家事をこなしてくれている。相変わらず食事は一緒にとらなかったし、外には出ないから私以外の人と話すことがない。いや、ハナコが他の人に見えていることを確認できていない。
そもそも、ハナコの言う転生はなぜ私が願っただけで叶ったのか、それすらも分からずじまいだ。
訊きたいと思うのに、私は怖かった。
知ってしまったら今のままではいられなくなるような気がする。私が知ってはいけないことが、ハナコの身に起きているのではないか。
もし、私もハナコのことが見えなくなってしまったら。
大好きな友達と二度も別れるなんて耐えられない。それは姿形は変わったとしてもだ。
だから私は、なるべくそれらのことを意識からはずしてハナコと接している。それが一番いいのだ。それが、ハナコとこれからも一緒にいられる条件なのだ。私にしか見えなくても、それでいい。
「弥生さん、志望校変えられるんですか?」
ふとハナコが私の机をのぞき込んできて訊いた。
「うん。前は大した理由も考えないで、東京の大学だったら成績に合うところでいいと思ってたんだけど」
「予備校にも、ちゃんと毎日通っていますもんね」
「……まあ、この夏が勝負って感じね。サボってた分を取り戻さないと」
「弥生さんならきっと合格できますよ!」
ハナコは顔の前で拳を作ってうんうんと頷いている。私がちゃんと勉強に励んでいるのがとても嬉しいらしい。
「ワタシあとでお夜食作りますね、なにがいいですか?」
「もう、私を太らせるつもり?」
「ワタシはどんな弥生さんでも大好きですよ!」
臆面もなく恥ずかしい台詞を言うハナコに私はたじたじとした。思わず視線を泳がせて困っていると、ふと昔の思い出が脳裏をよぎった。そういえば、ハナコが来てから『あれ』は作ったことも食べたこともない。
「そうだ、あれがいいわ。犬のハナコが初めてうちに来たとき、母さんが作ってくれたやつ」
「えっと……」
するとハナコは困ったように天を仰いだ。なんだろうか、あんなに思い出深い食べ物だったのに本人は都合良く忘れてしまっているらしい。
ハナコが父に連れられてきた休日、母がおやつにとホットケーキを作ってくれた。当時まだやんちゃ盛りな子犬だったハナコは、私のお皿にあるホットケーキを見た途端その子犬とは思えない巨躯を駆使して突撃してきた。結果お皿のホットケーキは床にぶちまけられ、ハナコは落ちたケーキを行儀悪くむしゃむしゃと食べ始めた。当然私は大きな犬が急に迫ってきた恐怖とホットケーキを食べられてしまった悔しさで大泣きしてしまった。
いつまでも泣きやまない私を無視してホットケーキを食べていたハナコも段々と私の悲壮な様子が気になったのだろう。振りっぱなしだった尻尾を納め、申し訳なさそうにぺろりと涙でぐしゃぐしゃの私の顔を舐めた。何度も何度も涙を拭うように舐めたので、私も流石に泣きやんで落ち着きを取り戻した。
見かねた父が、自分の分であるホットケーキのお皿を私に差し出してくれた。私は途端に機嫌を取り戻し、早速ホカホカのホットケーキにフォークを刺した。刺したところで妙な視線を感じて振り返ると、床までついてしまうんじゃないかと思うほど涎を口の端から垂らしたハナコが私をじっと見ていた。
泣かせてしまった手前、不用意にまた近づくとホットケーキを食べてしまうかもしれないからじっと我慢している、そんな風に見えた。賢い子犬は端から見て可哀想なくらいぷるぷると震えていた。
私はくすりと笑ってハナコを手元に呼んだ。もしかしたら、その時から私たちの関係がやっと始まったのかもしれない。
「忘れたの? ほら、あの二人で半分こした……」
「えっと、ああ、ドーナツですかっ?」
「違うわよ」
私は呆れ半分で否定する。確かにドーナツも半分こして食べたが、それはもっと後の話だ。もしかして私を初めて泣かせてしまった気まずかった記憶をわざと忘れているとか?
それにしたって、大事な思い出を忘れられているのは少し悲しい。私は口を尖らせながら、「……ホットケーキ」と思った以上に冷たくなった声色で言った。
「あ、ああ! そうでした、ごめんなさい」
思い出した、とでも言うようにハナコがポンと手を叩く。なんだか帰ってきた反応が軽い気がする。それに、先ほどから感じている違和感のようなものが気持ち悪い。なにか、私は見落としているような気がしてならない。
「いっぱい焼きますね!」
張り切ったハナコの声に思考を止めた。まあ、昔のことくらい多少忘れていてもしょうがないかもしれない。なにしろ、ハナコは生まれ変わりなのだから。
休日。予備校もバイトもない私は部屋で黙々と勉強をしていた。
私が目指している学部は、開設している大学が少ない為恐ろしいほどの狭き門なのだ。去年まで私が受けようとしていた大学の比じゃない。それでも、私はめげずに受験勉強を続けている。
そう決意させたのはハナコがうちにやってきてからで、私の心境の変化は彼女によるものが大きい。廃人のような人生を送ろうとしていた私を救いあげて、前を向かせてくれた。
ピンポーン
不意に来客を告げるチャイムが聞こえて私は顔を上げた。とくに頼んだ覚えはないが宅配便だろうか。それとも勧誘か。
いつもなら率先して「ワタシ、出ます!」といって飛び出そうとするも「アンタ私以外に見えないんだから意味ないでしょ!」と私が突っ込みを入れるハナコは今シャワーを浴びている。いい加減お風呂拒否三日目に突入しそうだったので無理矢理入れた。
「はいはい。誰ですか」
私は重い腰を上げてドアを開ける。すると、真っ裸の小学生くらいの少女がそこにいた。
なにも身につけていない。なにも身につけていないのだ、人の家の玄関の前で。
どうしてこう最近は意味の分からない展開に突然放り込まれるのか、私は真剣に一瞬だけ悩んだ。
「貴方ですか。ウチの天使を匿ってる人間は」
歳に似合わないキビキビとした口調で少女が口を開いた。全裸であることに羞恥心を一切感じていないようで、まるで自然な動作で腰に手を当て、はぁとこれ見よがしに溜め息をつく。
私はもう全裸の少女を咎めるとか、こんな現場を誰かに見られたら、とかそんなことを考える余裕がなくなってしまった。少女の一言が私を混乱に陥れたのだ。
「天使……?」
「失礼しますね」
私の言葉を無視して少女はすたすたと部屋の中へ勝手に入っていく。止める間もなく、浴室のドアを開けられた。
「ふぇっ、や、や、弥生さんっ? ワタシいまシャンプー中で……」
目をしっかり瞑って頭から爪先まで泡まみれのハナコが慌てたように体の向きをくるくると変えた。その様子を見て、少女があからさまに眉を顰め舌打ちをする。
「馬鹿が。なにをやってる!」
少女は出力を最大にしたシャワーをハナコに容赦なくかけた。見る見るうちに泡が流され、ほんのり桃色の香りが残るハナコが姿を現す。
「あっ! せ、先輩……っ!?」
ハナコは視界が開けた途端目の前にいた全裸の少女に驚いた。別に裸だから驚いているわけじゃない。二人が既知の仲だという事が、ハナコの一言で分かってしまった。
「仕事を放棄して下界に来ていると聞いていたら……お前は自殺願望でもあるのか?」
少女は鋭い声でハナコを責め立てる。すると、おもむろに濡れ鼠のハナコの肩を抱き、その顔を首筋に埋めた。
端から見ると裸の少女が抱き合っているような光景に私は目眩がしそうになる。どこか、胸の奥がむずむずした。
「……ふむ。髪の毛に多少の毒素が溜まっているがすぐに洗い流せたのは良かったな。
人間の作ったものに体を侵されると知ってなお、こんな愚行を続けているのなら救いがたいぞ」
どういうことだ。
私は少女の言うことが理解できない。
ハナコは人間で、犬の生まれ変わりで、私にしか見えなくて、食事を必要としなくて。
――そんな存在、人間ではないだろう。
「転生課は今、お前がいなくて大混乱だ。他の天使が兼任してくれているがいつまでもそういうわけにはいかない」
「……はい」
ハナコは俯きがちにただ返事をする。時折、私の方に視線を寄越し居たたまれない顔になってすぐに俯く。
「すぐに『後処理』を済ませて、戻ってこい。今なら私の権限で多少の裁量は図れる」
最後の言葉だけ、少女の声色が優しくなった。言いたいことは済ませたのか、少女はきびすを返すと再び私を無視して玄関ドアを開けた。
待って、その格好で出ていくなと止めようとしたのに、そこにはもう誰もいなかった。消えてしまったのだ。
私は振り返り、ぽたぽたと髪から水を滴らせているハナコを見た。
「説明、してくれるわよね?」
ハナコ――少女はただ静かに頷いた。