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こんな明日はいかが?

こんな明日はいかが?1~3

作者: ケット


1


 繭に照明ダイオード光がみち、目覚める。静かな音楽が一気に激しいリズム、寝ボケが吹っ飛んだ。気分もいい、酸素濃度が高いからか。

 壁のサブディスプレイを見ると……〇五四〇? 急がないと。

“わがまま、バカじゃ生きていけない、自由でなきゃ生きる価値はない”と、あのあと書いた繭の壁を空ける。

 風呂で中水で泡だてて海水で洗い、最後に中水で流して更衣室にいくと、もうみんな着替え終わっていた。着替えとかは個室のほうがいいかもしれないけど、ここ──食糧・エネルギー生産メガフロート居住区に、そんなスペースはないのもわかってる。

 本土でも繭が普及してるようだし。

 あ、二十一世紀初頭の読者がわかるように説明するんだ、面倒だな。繭、というのは一部持ち上がって安楽椅子のようにもなるベッドを中心にした、地上の──そう、昔のテレビで見たカプセルホテルのような個人のスペースだ。

 右手側の壁が全部棚。壁に折りたためる机板もあり、それを倒してベッドの背を起こすとちょっと懐古趣味のコタツに座椅子のようになる。左手の壁が開いて出入り口になる。

 右手側、棚の下にある長く大きなスペースに、昔はパソコン、ゲーム機、テレビ、ビデオ、ラジオ、有線、レコードプレイヤー、電話、時計などと分かれていたらしい総合端末が入ってる。

 それに全体で音響を計算されて7・1サラウンドと、最近は三次元ハイビジョン多目的接眼ディスプレイがついてる。昔は映画でいい映像を楽しんでいたらしいけど、今はいい繭を借りるのがいちばんだ。ライブが最高だけど、もちろん。

 天井は、背は大人並みのオレが背もたれを起こし、手を普通に挙げたら届く程度。

 容積が小さいから空調効率もよく、酸素濃度を高めれば勉強などの効率もいい、とのことだ。停電になったら自動的に窓が開き、外気が通るらしい。

 コンピュータも昔のパソコンより容積が大きいから安い。いくつも繭がある家や寮なら、まとめて一つの大型コンピュータで処理することもできる。

 問題は、上級生によれば女の子と寝るには不便だってこと。船や倉庫など色々苦労しているらしい。


 朝食はかわりばえしない七分づきご飯、蒸し魚、地元製ラクダベーコンと豆とトマトとチーズのスープ、ぬか漬けのヤシの新芽やビート、大根。

 もう飽きてるけど、本土の人にはおいしくて健康だ、ということらしい。

 明日は本土からインスタントラーメンが届いてるはずで、楽しみ。またハワイまで航海したら、あのおいしい料理が食べたい。

 朝ネットの暇は──まあ、学校に着いたらゆっくりやるか。


 家族区域から出ても、この居住、軽工業メガフロートは半透明の太陽電池で覆われて薄暗い。でも、港に出れば朝とはいえ強烈な回帰線の日光が刺さる。波の照り返しで海面がまぶしい。

 埠頭には、子供たちが集まっていた。

 見上げる大風車は相変わらず力強く回り、遠くには海鳥の群れが立ちのぼっている。昔は風車が鳥を殺すと問題になったが、レーダーで一定空域を見張り、動くものには自動的に死なない程度のレーザーを当てる防鳥器が解決した。

「今行くよ!」

「くるよ!」

 これって何か意味があるんだろうか。物心つく前からみんないうけど。

「由、今日は掌帆長ボースンお願い」

「ん」

 と答え、昔は大きく感じたブリッグに飛び乗った。

「ん、じゃないでしょ、今日はあたしが船長よ!」

「はい、わかりました! っ……」

 くそ、明日はオレが船長だから、そのとき何かミスったら覚えてろよ──

 ぐっと揺れが来る。いきなり外洋うねりがもろ──といっても、内陸の波なんて数回しか知らない。

 ここ、太平洋のど真ん中、硫黄島と南鳥島の間にある日本第七メガフロート群の4番、通称新緑ケ丘が故郷だから。

 少し動力を借りてしっかり畳まれた、強化蜘蛛蛋白・炭素複合繊維の帆を広げると、ぐっともやい綱が張り、水が滴る。

「全員そろった? 出港アヘッド!」

「ほら、しっかり持って。とも放しますレッコ、サー」

 と、小さい妹の美香にもやい綱をちょっといじらせ、離させた。ぐっと吐き気がくるけど、抑えこんで遠くを見て──酔うのは恥じゃない、仕事ができないのが恥なんだ──といっても恥ずかしいものは恥ずかしい。

 埠頭を離れて、美香がほっとしたように吐き、こっちもほっとする。困ったところが似たよ。

「酔うのは恥じゃない、仕事ができないのが恥なんだ」

「お兄ちゃんこそ、ちゃんとやってる?」

「通学船220─443─14、0623、硫黄島学園人工島に向けて、出港しまーす!」

 船長室から、葉波のよく通る、少しかすれた声が聞こえてどきっとした。吐いているのを見られたか──?

「気をつけて!」

 おっと、

「みっち、三番帆脚索シートを右に引いて。ハリー、もっとやさしくハンサムリィ──うん」

 裏帆を打とうとした帆が、うまく風をはらんでぱんと張り、ぐっと船が動き出す。

 船酔いはいやだけど、この感覚はたまらない。陸で生まれるか海で生まれるか選べるとしたら──って、吐いてるときは迷わず陸を選ぶけど。

 波と磨かれた甲板が、かっと照りつけてくる日光を照りかえす。今日は学校島に行けるので張り切ってる基礎準備校の子供たちが、鼻をつまみながら船底の水ビルジ・ウォーターをポンプで排水──するはずが水遊びを始めている。

 甲板を、洗うそばから湯気がたつ。

 基礎準備校も新しい学制だったな。四歳から十歳ぐらいまで、週六日で午前は読み書きそろばんと新素読と科学の初歩、午後は運動や音楽、色々な遊びを大体年齢別にやっている。落第したら合格まで補習学校。ストレートで卒業できるのは半分くらいで、オレも半年遅れた。葉波と峰はストレートなのが悔しい。

 地域が運営するからいつもはメガフロート内だけど、週に一度は学校と船に慣れるためこうして出かけている。

「こら!」

 また、葉波の声にどきっとして、裏帆を打ちかけた。


 行きは順風だから、まあ苦労はそんなにしない。

 海鳥が、まるで入道雲のように集まる人工マングローブ林メガフロートに近づく。その海鳥もあちこちに肥料分を散布してバランスよく広い海域の魚を増やしてくれる、大切な要素だ──けど──

 鳥たちが帆桁ヤードで休もうと、ざっと寄ってくる。航跡がなんともいえない緑褐色に染まり、独特のにおいがする。

 いい眺め? とんでもない。

「わあっ、ついた、」

「やーい、ふん、ふん、えんがぎゃっ!」

「みぃもやられた! ふってくる!」

「甲板洗いなさい!」

「刺された、虫がくる!」

「勝手に海に入るな!」

 特に基礎準備の子供たちがいると収拾がつかないもんだけど、葉波の一喝はきくな。

 海鳥が糞の雨を降らし、いろいろ汚れるし人を刺す虫も飛んでくる。

 まして、ここに汚水汚物を運ぶ生存公役は、二週間に一度だけどいやになる。

 食糧生産メガフロートの風呂やトイレ、それに農業や家畜、水産加工の排水を処理しているだけでこんななら、大都市の近くにあるという汚泥処理専門人工干潟メガフロートに汚水汚物を運んでいる大型タンカーなんて、どんなに大変だろう──間違ってもやりたくない仕事だ。誰かがやらなきゃいけないが。

 あと、ここは漁礁として珊瑚も含め水面下にいろいろ延びてきているから、注意しないと大変なことになる。まあ葉波は信頼できるし、いざというときはちゃんと大人がみていてくれてるから、大丈夫だろうけど。

 それにしても、今朝はなぜここに近づいたのだろう? なんか最近隠しごと多いな。

「エンジン始動します。出力──」

「了解!」

 音もなく、最近スクリューに本格的に取って代わった水素燃料電池の常温超伝導電磁推進機関が水を吐く。航跡に力強く押し出され、塩素臭がかすかに漂う澄んだ線ができ、微妙に帆の感じが変わる。

 といっても多くの船には安全のため、従来型のディーゼルエンジンとスクリューもついている。ディーゼルといっても、昔のように石油精製燃料なんて非常識なことはない。そんなことをしたらとんでもない再生不能産業税をとられる。再生可能な精製植物油だ。

 ぐっと船が加速され、また帆の感覚が変わる。燃料を節約できるよう、また予定外の方向変換を起こしたり、帆やマストを破損したりしないよう、推進と帆走を併用する際にはこっちも注意しなければならない。

 ローテで任されるようになって半年、最近やっとコツがつかめてきた──と思う。

 次は東で別の農場メガフロートに寄って、そこは子供が少ないから十人ほど乗せて──おっと、帆がばたついた。

「帆脚索引いて!」

 ちなみに水素燃料電池も実用化されたのは二〇一五年前後だったらしい。そのころにやっと、貴金属を使わず鉄とナトリウム、アルミニウムなど安価な元素素材を原子単位で制御して作る触媒と、同様に原子の網で水素を効率よく安全、安価に貯蔵するシステムができた、ということだ。

「予備スクリューも錆止め運転するから、ちょっと帆を絞って!」

 はいはい──きた!

 やはりオレも、このドドドドっていうディーゼルエンジンの音が好きだ。ガソリン車がいいという大人の気持ちもわかる。


 四十五分ぐらいで着いた学校も洋上のメガフロート。硫黄島周辺の生徒数六万を数え、三分の一程度が我々通学生、残りが寮生だ。

 通えないほど離れたメガフロートの子供も寮に入るし、本土からわざわざ入る子もいる。

 帆をたたんで、エンジンで港に滑りこむ。オレはもやい綱をつかんで埠頭に飛び移った、拍子に誰かにぶつかり、押し倒した。

 むにゅ、と頬に柔らかな感触──これは、このあったかくてやわらかくて──

「ヘンタイっ!!」

 叫び声と同時に、海に叩き込まれた。

 ちょ、ちょっと待て! 繋留されそこなって波に揺れる船と埠頭のサンドイッチ──なぜか、ケチャップいっぱいのハンバーガーにかぶりつくイメージ──

 迫る船が弾むようにずれ、オレのすぐ右手で埠頭にぶちあたった。

「もやい綱とって!」

「もやい綱ってなに?」

 もがくオレの上で、そんな言葉が──それどころじゃない、水が巨大な腕のように──引きずり込まれ──うわ──

 我に帰ると、なんとか、もやい綱が足に絡んでいたのが幸いして引き上げられたようだ。

「ちょっと、なに考えてるのよ! 海に冗談はないの、命に関わるのよ!」

「乙女を押し倒して、触ったヘンタイに、制裁を加えて、なにが悪いの!」

 ぐぇ、げほ、ぺっぺっ。うーっ──

「あ、生きてた……死んでればよかったのに」

「ヘンタイ! 死んでればよかったのに」

 二人の女の声がハモる。

 大柄で堂々とした印象の葉波とは対照的に、すごく華奢な女の子。

 真っ黒な髪と白い肌も、アメリカ人とのクオーターでブロンド、濃く潮焼けした葉波と対照的だ。

 こんな、日本人形みたいな女の子があんな極悪なことを?

 まあいいや、とにかく──間一髪助かった──

 あらためて震えがくる。もし今日の船長が葉波じゃなかったら──あ、結局悪いのは、安全確認せず飛び移って、大切な繋留作業をし損ねたオレか──

「……すまん、助かった」

「謝るのはわたしにでしょ!」

 ──海の危険をわかっていない、全身でおかものです! と叫んでるやつなんか知るか。多少可愛くても。やわらかかったけど。


 学校で、朝礼前にケーコ──ケーコも説明するか、まず腕時計、音楽を聴くウオークマンやラジオ、そして二十世紀末に携帯電話、ゲーム機、PDA、ノートパソコンと別々に発達したものが、二〇一〇年ごろ米軍と企業の共同研究から接眼ディスプレイ中心に革新されて統合、標準化された。

 3Dのヘルメット型、ヘッドホン+マイク+サングラス型、ゴーグル型、2Dのスカウター型、腕時計型、懐古的なノート型など色々はやりすたりがあって結構面白い。

 オレのは第二次大戦飛行帽型でグローブ入力。ちょっと古いしディスプレイを下ろさないと操作できないのが不便だけど、飽きのこないデザインで、ヘッドホンがかなりいいし3D映像もOK。本体も小さいの、大きいけど高性能なのと使い分けられる。

 それでネットをちょっと回っていると、朝礼が始まった。

 メールで転校生の噂が飛びかっている。

 もうすぐ夏休みなのに、いやそれより女か男か……げ、さっきのおかもの!

「埼玉から来た転校生の、岡野えまです。緑海寮に入ります。よろしくおねがいします」

 同じクラスかよ。といっても、オレたち十八歳までの高等義務教育では、クラスなんて行事と掃除と給食と朝礼、それにいくつかの生存公役ぐらいしか関係はない。必修は徹底して習得してはじめて上に行ける積み重ね式だし、選択は十一歳から四十過ぎの生涯教育受講生までなんでもあり、もちろん習得度別の単位制だ。

 昔は全部の授業を同い年だけの学級でやっていたそうだけど、それはめちゃくちゃだよ──先に行ける奴は時間と才能の浪費だし、ついていけない奴は必要な知識を習得できずに卒業することになる。

 それに、どうしても嫌な奴がいたらどうなるんだ? 最近読まされた『ソロモンの指環』という本によると、狼は降参ポーズをした仲間をかみ殺さないよう本能にプログラムされているけど、牙がないハトはそれがないからひとつの檻に入れると残酷につつき殺す。人間もハト同様、素手じゃ仲間を殺すのが難しいから抑制本能がないそうだ。

 その人間を一日中同じ教室に閉じこめるってのは、ハトたちを逃げ場のない檻に入れるのと同じことじゃないか。船と違って年齢も同じ、伝統やノウハウもないのに。

 ひそひそ、とまたおかものか、という会話が交わされる。ここもまあ、逃げ場がないというほどじゃないけど狭いしな。

 しかも、すぐ後ろの席ときている。

「よろしくね、あたしは相原葉波」

 さっき怒鳴り合ったのも忘れたのか、葉波がもう仲良く話しかけている。


「それで、第三次石油危機をきっかけに日本の年金と財政、アメリカのドル、中国の人口と共産党支配が破綻したとき、互いに争って世界を戦乱と飢餓と混乱に陥れ、文明の衰亡を招くか、それとも文明国が手を携えて本当の共通の敵、貧困と無知と環境破壊と抑圧と専制と戦うか、“人類文明の幸福な存続への総力戦”を旗印にした日本の──」

 退屈な講義に、ふと最近ネットで読んだりネット配信映画で見た、『北斗の拳』や《ウォーターワールド》の未来像を思い出す。本当に戦乱があったら、たしかに週に一日半と月一度の三連休は自由だけど、大人も子供も義務と面倒が多い世界ではなかったのだろう。

「──失業者や各国の余剰人口を吸収するため、大植林運動が起きました。さて、大植林運動の主な舞台はどこでしょう──長谷川くん、長谷川由くん!」

「由」

 隣の葉波の声に、びくっとした。

「は、ええと」

「中国」

「それだけじゃ不十分よ、皇太子が花粉症だったからその対策として、首都圏近郊の杉林を植え替えたのがきっかけでしょ」

 なぜか転校生が文句をいう。

「規模は中国、それにアフリカや南アジアでの世界的な運動のほうが大きいじゃない! グリーン・バイ・フード・トウ・ホープ運動で指導的な役割を果たしたのは、サー・ゲイレスとアフガニスタン出身の──」

「相原さん、岡野さん、討論は自由討論の授業でしてくださいね。長谷川くん、罰点1。これで現代史は罰点10、宿題としてチャーチルの『第二次世界大戦』を原文手で書き写し、自分なりに訳しなさい。できるまで現代史三の単位は認められません」

 ぷいっと、葉波と転校生の視線が頭上で切り結ぶのを感じる。

「復習に原くん、グリーン・バイ・フード・トウ・ホープ運動、GFHMとは?」

「あ、ええと──はい、先進国の再生不能産業税を財源に、植林と引きかえに最低限の食料と水、そして初等教育と医療を保障する運動です」

「よろしい。でもとっさにケーコで調べるのもいいですが、ちゃんと本で読んでおきなさい。みなさんもいいですね、その情報は本の目次程度でしかないですし、全文プラス動画があってもウェブでは本の十分の一も頭に入りませんよ」

 もちろんディスプレイで本のようにテキストを表示することもできるのだが、やはり紙のほうが便利だ。だが今世紀初めまで横行した原生林伐採のような狂気の沙汰はもうない──再生可能林業かケナフ、遺伝子改良麻・竹を原料にしている。

「さて、経済危機を解決するために各国と円卓は、まったく新しい分野で、しかも環境を破壊しない大きな公共事業の必要に迫られました。全地球規模の植林、食料増産の中心を耕地開発から海洋開発に移すこと、絶対的貧困の解消、石油から太陽・水素への第四次エネルギー革命、そして遅れていますが本格的宇宙開発です」

 その言葉に、オレは一気に目がさめた。

 軌道エレベーター計画がやっと再来年から始まるらしい。

 エネルギーも、軌道エレベーターと宇宙太陽発電が動き出せば事実上無限になる。うちのような食糧生産メガフロートも、海水淡水化のための太陽光発電に多くの面積をとられることなく、全面積を耕地に使えるかもしれない。

 そうだ、水素は単なるエネルギーを運ぶ電池でしかない。本当に新文明と言えるのはエネルギーが事実上無限になったらだ。いや、核融合も、でもまだ無理だってことは……ええと、エネルギーは今世界ではどうなってるんだっけ。来週の自由選択はそれにするか。

「そこで社会主義と新自由主義、福祉国家と開発独裁すべてのシステムが破綻した──」


「さて、これを見てごらん」

「これ、発泡コンクリート?」

「そう。今ここも支えている、メガフロートを本格的に始動させた革命的建築素材ですよ。

 みんなちょっとづつ手に取ってみなさい」

「なんか、やわらかい泥みたい」

「べたべたして、変」

「あったかい」

「うり」

 と、峰がオレの頬にそれをかぶせてきた。

「やったな!」

 と、仕返し。

「こぉら、基礎準備校生じゃないんだから。よく洗ってきなさい」

 実技室の水道で顔を洗って戻ると、先生がシャーレと顕微鏡を用意した。

「これは、発泡コンクリートの泡を出す、遺伝子改良真菌よ。

 嫌気性、酸素がないところで増え、生の特殊なコンクリートに含まれた特別な栄養を分解してガスを出すの。ちょうどパンと同じように、混ぜられた炭素繊維や結晶をうまくならべて、木材によく似た、無数の部屋のような──ほら、こっちの顕微鏡ものぞいてごらんなさい、こっちが薄く切った木材で、こっちが発泡コンクリートよ──」

「どうなってるんだろ」

「似てるけど、こっちは三角形だね」

「へんなの」

「うわ、ぶつぶついってる」

「ちょっと、割り込まないでよ!」

「由、いつまでも泡コンをいじってないで並ぼうよ」

 でもこれ、なんか気持ちいいんだ。ちょうど水田の泥みたいで。

「普通のコンクリートは骨材として砂利や砂を使うの。要するに、コンクリートは接着剤のようなもので、本当に建物を支えるのは骨材なんだけど」

「でも、発泡コンクリートの表面に、小さなぶつぶつが無数にあるんですけど、砂利や砂じゃないんですか?」

「砂利や砂を入れたら、いくらガスで泡構造ができても沈んじゃうわよ。

 それは別のところで作った密度の低い結晶を骨材として入れているのです。

 本質的には普通にある石と同じ酸素、ケイ素、アルミニウムなどの結晶だけど、軽く化学的に安定していてとても丈夫。それがセメントの結晶と絡んだ炭素繊維とうまくなじみ、泡を正四面体を集めた構造にして、全体を木材みたいに軽くて丈夫な構造にしているの。砂は炭素繊維やコンクリートの泡になじまなくて、うまくいかなかったのよ」

 ん?

「じゃあ、その結晶を自由に加工できれば、鉄のように強くて軽く、さびない素材になるんじゃないですか?」

「それはさすがに無理ね、単結晶の大きさは三ミリが限度で、しかも形も限られてるから。でもできたらすごいわ、将来やってみなさいな。

 あとこの実験もしてみましょう。これを配って」

 と、全員に何本か鉛筆ぐらいの木の棒と瞬間接着剤が配られた。

「正方形と正三角形を作って潰してごらんなさい」

 ナイフを出して角になる部分をちょっと削り、接着する。少し待って乾いたのを確認し、潰してみた。

「四角形は潰れやすいけど三角形はなかなか潰れないでしょ。四角形は、角の角度を変えれば潰れるけど、三角形は角自体が壊れるまで潰れないから。

 同じように正四面体は潰れにくいから、発泡コンクリートは比重〇・六八で鉄筋コンクリートに匹敵する強度があるのよ」

 あれ、なんか変だ……なんだろう。


 昼休み、学校の本屋で『第二次世界大戦』を手にして、オレは真っ白に崩れ落ちた。ただでさえ英語は苦手なのに──七カ月しかない──昔あったというゆとり教育とやらが羨ましい──

 何なんだこの分厚い本は、これ全部英語かよ──それを書き写して訳すのか──日本語訳もこの分厚さ、こっちを丸写ししろといわれてもきついんじゃないか? テキストを手で書き写したり暗誦したりは基礎準備校からやってるが、これは桁が違うだろ。

「うわ、海も結構きついのね。でも本土じゃもっとすごいこともあるわよ」

 と、なぜか転校生が話しかけてきた。葉波と意気投合しているようだが。

「るせ──」

「でも、これでもう英語も得意になるね。いやでも。それとも現代史捨てる?」

「じゃかあしい」

 葉波って、オレより九カ月先に生まれてストレートで基礎準を出たからって、やたら年上ぶるんだよな。


 月曜の午後は食糧生産メガフロートの立ち上げを学び手伝うため、八丈島沖まで行く。これで生存公役と授業単位の両方になるから便利だ。ついでに運動の義務も果たせる。

 オレの世代には当然だが義務が多い。生存公役、全世界と国の義務教育だけでなく、毎日最低十分の瞑想、最低週五日三十分の運動、要約を書かされる映画や読書などいろいろ。

 バス飛行艇で早速『第二次世界大戦』を機械的に手写ししはじめるが、もちろん同時にこっそりケーコで音楽を入れる。

 で、結局ゲームを始めてしまって、ほとんど手写しは進まなかった──『それが君の本当にやりたいことか』と、ケーコの文字。うるさいな、常駐ソクラテスは──それに大人にもまた言われるか、週三日の生存公役だけで配給、福祉に頼る側になるのか、嫌なら学べ、人生に背を向けるな、と。

 八丈島が見えるところまでくると、微妙に海の色が違う。

 ぼうぼうに草が生えた、緑のマットのようなメガフロートが大きな帆をつけていくつか漂っている。

 その横には白く輝く太陽電池メガフロートもいくつか並んでいる。

 風力でゆっくり自走しながら、一年近くかけて北回帰線にたどりつくのだ。真水さえあれば、回帰線前後の日射しでとても農業効率がいい。

 着水──このときのショックと、いきなり襲ってくる強烈な船酔いはいやだが、飛行艇のほうが気楽は気楽だ。

 小船でメガフロートに降り、着替えや道具を積んだ箱を引き上げて、早速作業服に着替える。

 といってもやることは実に単調だ。伸びた草を刈って土に混ぜるだけ。

 まあ、トラクターを扱ったりするのは楽しい。

 主にマメ科の雑草が、先週より緯度が低くなり、夏が近づいて強まった日差しの中、身長より高く茂っている。

 先週刈ったばかりのところも、もう膝まで伸びている。

 トラクターでは歯が立たないところは、手で刈るほかない。かなりの重労働だ。

 波風も強いからだいぶ塩しぶきが入っている。草の汁をなめたら辛い。

「だいぶ塩分が増えているから、全体を刈ったら水を増やして塩抜きをするぞ! 刈り終わったら集まれ」

 先生の声が遠くで聞こえる。とにかく広い。

「うりゃああああっ!」

 と、晴樹が大きな鎌を二刀流で振り回している──相変わらず元気な奴だ。

「今日は長谷川の番だな、」

 と、トラクターの補助席に乗った先生が招いた。このときを待っていた!

 授業の初めに簡単な講習は受けたけど、本気で動かすのは今回が初めて。

 ぐるぐる回る、バネかある種のパスタのような鋼の歯を確認する。のどが鳴る──人間が簡単にミンチになるし、うっかり点滴灌漑パイプを傷つけたらえらいことになる。

 スタートボタンを押すと、ディーゼルエンジンが精製植物油を食って力強く回り始める。ディスプレイに、エンジンからバッテリーに電力が流れ込んでいるのが表示される。

「離れて!」

「前方、右、左、後ろ、安全確認! はじめます」

「ストップ、ちゃんと指差し確認しろ」

「はい、」

 力強く、だいぶ刈り倒された草が切り刻まれ、土とかき混ぜられていく。むらがないよう何度も往復して──

 ものすごい力に、酔う──

「終わったぞ」

「は、はい」

「お疲れ」

 信じられないほど、草を刈っているとき以上に疲れてる。

「こら、暑いのはわかるがケーコを外すな。事故があったとき頼れるのは七つ道具だけなんだからな、去年のあれを思い出せ」

 かっと、オレと葉波の顔が熱くなり、みんなが注目する。

 ケーコだけじゃなく、海上生活者の海難七つ道具の常時着用は日本、アメリカ、EU、ベトナムでは義務だし、最低限の端末は世界全員に配られてる……はず。

 七つ道具も説明するのか、防水耐塩のケーコか非常用発信機、手鏡、浮きベルト、サメよけ剤、簡易釣具、蒸留器、氷砂糖、防水ライト、ロープ、チタン合金製MPT|(注:マルチ・パーパス・ツール。ナイフやドライバーなど工具がついたペンチ。折りたためるものが多い)など、海に落ちたり流されたりしたときの命綱だ。太い、ズボンとは別のごついベルトに、いくつかポウチがついた形が普通だ。

「さて、前も言ったとおり、特に西アフリカ沖や西太平洋、中国では、砂漠の不毛な土がまずメガフロートに入れられる。だが、マメ科の植物は窒素を固定できるから、窒素以外の燐酸カリ、微量の鉄硫黄を中心にした肥料をやっては草を茂らせ、それを土に混ぜていけば土の中の小さな生き物がそれを分解し、いい土に変えてくれる。

 だが、注意すべきなのは──山中」

「はい、土のpHと、塩です」

「そう、特に化学肥料を大量に与えていると、どうしても土が酸性になる。だからといって石灰で中和すると、土が固くなって土壌生物に害がある。だから農業をはじめる前に一年はかけて草を育てては混ぜて腐らせ、有機質の多い土にしなければならない。

 刈った草を処理して土を肥やしてくれる土壌生物は、長谷川」

「はい、ミミズと──」

「特に重要なのはほら、ここにもこんなにいるミミズだが、他にも多くいる。みんな、特にその温度、水分、pH、塩分濃度の限界を含めて調べてくるように。まとめてテストに出るぞ。

 さてキャラウェイ、pHというのは何のことだ?」

「え、ええと……ぼく、ケミカルはまだ、アシッド、酸とかアルカリ──」

「ウェブで調べるように、皆もだ」

 みなケーコで、少し遅い衛星回線でだけど学生にはフリーで開放されている大英百科事典日本語版|(アメリカ出身のジャン・キャラウェイは英語で)調べ出し、メモした。

「さて、そして塩は真水で抜く。といっても再来年ぐらいにやるか、土と塩はイオン関係でいろいろある、興味があれば今送ったのから予習すること。このようなメガフロートは、無限に地下がある大地の農場と違って、本質的には海に浮いたたらいでしかない──ここの底にも大きな排水スペースがあり、そこに排水を流し込む。

 だから今日は、これから真水を、土表面から多めに与える。普段の給水は地中のパイプからだがな。明後日には大雨が降るから、そんなにやる必要はないんだが。まあ、ホースとスプリンクラーを用意! 同時にやることは何かないか?」

「ええと、排水をくみ出す準備は必要ないでしょうか?」

「よし清水、正解だ。塩と肥料が混じった排水はどうする?」

「排水タンカーに汲み出して、栄養がない海に少しずつ流します」

「そう、実はもう呼んである。一時間後には着くはずだ、それまでに水をちゃんとまくぞ、班ごとに競争だ! ほら、ちゃんと自分でもう一歩進んで! ここで集めた排水は、どこの海にまくのが一番いい?」


 終わってからしばらく海で泳いで、余計疲れて帰ってくると、

「ただいま──」

 なぜか例の転校生と葉波がいた。

「……」

「おかえり」

「え?」

 なんでここにいるんだよ、寮だろ、というのを葉波が制し、オフクロと二人で説明をはじめた。

 要するに、寮がいっぱいで、こいつの親とオフクロが親しかったから、それで当分うちに住むことになった、ということらしい。

「男の子もいていやだと思うけど、変なことしないようわたしと葉波ちゃんで十分監視しますから、ごめんなさいね」

「いえ、どうも──」

「勘弁してくれ、オレは今朝こいつに殺されかけたんだぞ!」

 きっと転校生が目をむき、何か言おうとしたが、

「じゃあ去年のあれ、これで貸し借りなしにしたげる」

 と葉波が言ってきた。かっと頬が赤くなる──あの漂流はどっちも悪いけど、オレがミスしたせいで彼女も死ぬところだったんだ──

 ふと思う。あれ以前と今の一番の違いは、みなが安全のために子供に何もさせないのではなく、なんでもやって学ぶのが中心になったことだ、と。まあ七つ道具のおかげで、死者はそれほど出ていないが。

「じゃあ仲直り!」

 と、強引に葉波がオレと彼女の手をとり、握手させた。

 向こうも嫌そうだが、こっちも嫌だ──手はあったかくて柔らかだけど、葉波みたいにロープと海水で固まっていないってことだから──


 食事中、オフクロは努めて親しくしようとしていたのは、得意の合鴨のローストと潮汁、貝とパイナップルのココナッツミルクカレースパゲッティ+牛ラクダ合挽ハンバーグ、自家製ぬか漬けというメニューでわかる。

 彼女も、オフクロや美香には親しく話そうとしている。

「これ、なんですか?」

「敬語なんていいのよ、家族なんだから。これはバナナとヤシの成長点のぬか漬けで、ここではよく食べてる野菜なの」

「メガフロート農場でね、あちこちの食べ物と日本の知恵がうまく、ええと、おいしい食べ物がたくさんあるんだよ。

 それにね、昔日本軍が南洋で戦ったときも、色々な知恵があってね、それが」

 美香が彼女に夢中で話しかけている。

「本土ではお肉も高いんですって? 魚だけじゃなく、海藻を牛に食べさせたりマングローブの葉をラクダに食べさせたりしてるからお肉も安いのよ。たくさんおあがりなさい」

「特に内臓はね」

「こら由」

 どうせおかものだ、誰が百億に肉やメタンを、海水から作ってるのかも忘れてるに決まってる。自分で家畜の腹にナイフを入れたこともないだろう。

「ごちそうさま」

「こら由、まだ──」

 もういい──と、繭に飛びこんだ。音楽をつけた。海底光ファイバーとグローバル・サテライト・ブロードマルチネット|(GSBN)で、映像も音楽も情報も……昔の言い方をすればテレビ、ラジオ、有線、インターネットすべて本土の都市と変わらない環境はある。

 ボリュームを思い切り上げる。繭は防音、断熱も完全だから、ボリュームを上げても誰の迷惑にもならない。それも発泡コンクリートとかのおかげか。

「由」

 突然3Dディスプレイが点滅すると、峰のつらがキスしそうな至近距離に浮かんだ。

「バカヤロウ、心臓に悪いぞ」

「で、あの転校生がお前んちに同居だって?」

 この横五〇〇メートル、縦二キロの狭い居住メガフロートじゃ、なんでも即知れ渡るのは当然のことだ。

「喜んでかわってやるよ」

「すっごい可愛かったよなあの子! うらやましいぞこ」

 問答無用で切って、繭を出て風呂場に向かうと、何か声がする。

「塩水が、なんで」

「ここでは……真水は、限られた雨水をためたり、海水から太陽光発電の電力で作ったりする貴重品なの。水道は、ほら青で三角の雨水にミネラルや酸素を加えたおいしい飲料水、赤で十字の海水から作った中水と赤丸のそのお湯、黄色い四角が海水、長四角の海水の熱湯の五つに分かれてるの。しばらく何が出るか確かめて。

 海水は熱湯も含めて使い放題だから、お風呂はそれで入って、最後に中水のお湯で体を流すだけなのよ。ごめんなさいね、でも海での暮らしに慣れてもらわないと」

「そんな」

 むっ、

「いやならさっさとおかに帰れよ!」

「由!」

「……帰れるものなら帰るわよ!」

 と、何かをきょろきょろ探している。

「あ、ごめんなさい、もう遅いわね。今、空繭はあるんだけど、中身がないの。由、貸してあげなさい」

「ちょ、ちょっと待って」

「ケーコがあるでしょ?」

 家を買うとき、子供を見越して繭を余計に作ることもある。

 それは子供が育つまではいい収納になる。そこにコンピュータ──テレビや電話の機能も──を入れても、使われるようになるまでのバージョンアップを考えると無駄になるので、エアコンとシートコントロール、照明だけしかない。

 確かにケーコをホムコンにつなげば大抵のことはできるが、やはり繭のほうがいい。

「ちょっと待っててくれよ、いきなり言われても」

「あ、エッチなのがあるんだ!」

 妹の言葉に、背筋に冷たいものが流れる。

「由」

 だいじょうぶ、やばいのはパスワードをかけてある──

「でもいやです……匂いとか……」

 と、ものすごく小さい声で──

「ったく! ちょっと待ってろ」

 と、繭に戻ってパスワードを確認し、リビングでケーコとホムコンをつないで3D放送を見始めた。

 それで、全く意識していなかったのだが──

「最低」

 ん?

「由、レディの前でしょ」

「お兄ちゃん、レディの前で失礼でしょ」

「由、レディの前でなにしてんのよ」

 おい、ちょっと待て。いつの間に葉波も、じゃなくて、

「あのなあ、家族なんだろ? だったら家の中でも屁ぐらい普通にさせてくれよ。学校だったらトイレまで我慢してるんだから」

「でも、今はよ、女の子がいるんだから」

「そんなに邪魔なんだったら、わたし」

 転校生が、突然泣き出した。

「由!」

 と、いきなり葉波がオレの頬を張る。

 ──オレがわるいのかよ──

「じゃあオレは、今夜は船で寝るから」

「こら、七つ道具はもっていきなさい!」

 美香がロッカーに飛んでいく。

「あ、私もついていきます」

「大丈夫? こんなスケベと夜の船なんて」

 美香の言葉に葉波は笑い、

「大丈夫ですよ、あたしは。この子が落ち着いたらすぐ帰りますから」

 とオフクロに笑いかけた。

「気をつけてね」

 微笑みうなずく葉波の横顔が、なんだかいつもと違った。でも、誰がこの子だよ──

 振り返ると、岡野はまだ泣いている。


「明日、ちゃんと謝りなさいよ」

 船の簡易ベッドを整え、明日の朝食にと持ってきた非常食を枕元におき、ケーコを船上無線LANにして充電器につなぐと、軽く葉波がオレの頭に手を乗せた。

「子供扱いするなよ」

「すねてるのは子供よ、ちゃんと謝れる?」

「何でオレが! 何から何までオレが被害者だぞ!」

 ふう、と葉波は深くため息をつき、じっとオレの目を見ると──時間が止まったように、呼吸が詰まる──

 いきなり、目の前が覆われる。いっぱいになった葉波の顔──そして、歯に硬いものがあたる感覚。

 次の瞬間、唇を包む熱さ。

 え、と思うと、唇を離した葉波が、さっと埠頭に飛び乗る後ろ姿──月明かりにポニーテールが跳ねた。

2

 気がつくと繭だけが、見渡す限りの海に浮かんでいる。

 なぜか下が見通せる。水深三〇〇〇メートルの、深い深い深い海。

 そして、音もなく沈んでいく。闇に、そしてもっと深く。

 暮らしていた街ごと沈んでいき、いつしか光のない海底の街になる。

 そこでは、オフクロも自分も葉波も──みんな不気味な海の怪物になっている──


 はっ、と目が覚めた。小さい頃からよく見る夢だ。まだ夜は明けていない──

 昨日──そう、転校生──家を飛び出して船で──葉波と、キス?

 そんなはずはない。葉波には好きな人が……

 でも、あれは夢ではなかった。

「こら、そろそろ船の支度しなさい!」

 いきなりケーコが鳴ると、耳に葉波の声が飛び込んでくる。

 いつもどおりだ。

 そうだな、今日はオレが船長なんだから、ちゃんと船の点検をしておかないと。

 今日の掃除当番は花音と真とリックと──名簿をケーコで開いて確認し、ながら乾パンとカンヅメを腹に詰め込んだ。くそ、家に帰っていればご馳走の残りがあったかもしれないのに。

 でもあいつとは顔を合わせたくない。

 あいつ──あの、おかもの転校生とは。

 ふと気がつくと──ハンモックに寝ていて慣れていたが──横揺れローリングが非常に大きく、雨の音がとても強い。

 甲板に出てみると、顔がゆがむような強烈な風と、痛い雨が吹きつけて目をあけていられない。空がやばい色だ。

 キャビンに戻って気圧計を見ると九六四、ケーコで天気図を調べると、かなり強い熱帯低気圧が発生して──うっ、ちょうど学校への航路。

「どうするの?」と、葉波の声が聞こえた。「さっきはごめん」

 そうだ、葉波にも昨日の借りがあった──こき使われ、怒鳴られた恨みが葉波以外にも──人数も多いし上級生優先だから、次オレに学校船の船長が回ってくるのは十月、台風シーズンがすぎて夏休みが終わってからだ。今日がチャンスなんだ。

「長谷川、よく考えて決断しなさい」船を見てくれている大人の、萩原さんが来てくれた。大声なのに音にかき消される。「緊急事態にならない限り、決めるのは君だ」

『久々に荒天訓練か、楽しくなりそうだな。今日オレが船長だったらな』

『正気だったら行かないぞ』

『おねがい』

『やり、休みだ。行くな』

『“嵐の長谷川”なら、あの時だって、行こう』

『行くなら頑張るけど、まあ由なら大丈夫、よね』

 手袋型コントローラーを動かすとボイスメールやテキストメールが、気象情報と並んでケーコのディスプレイに浮かぶ。ちょっとした手術と練習で、普通使わない神経を利用して直接入力できる上級モデルも最近出たらしい。

 うーっ──天気図に航路図を重ねると、大きく迂回すれば──でも低気圧がもしついてきたら、そして低気圧から来る強風と波、第一迂回したりしたら午前中には着かない、マストを下ろして動力全開で突っ切るの──も危険だ。

 低気圧が通り過ぎるのを待つか? だがそれでも着くのは夕方、それにもし低気圧が留まったら帰れなくなる。

 第一危険だ。低気圧からはかなり離れていても強風と強烈なスコール、そして大波がある。それより、オレの肌が無理だと言っている。

「あのね、わたしは学校で色々な手続きがあるの。だから行かなきゃいけないんだけど」

 岡野が、あの怒った目でオレを見ている。赤い、眠れなかったようだ──当然か。

『おねがい──今日、大切な約束があるの』

 とメールが飛び込んできた。李の必死の目、そういえば彼女、今日寮の楊さんに告白すると決めてたっけ。

「ちょっと待ってくれ」

 と、今埠頭にいる他の船や飛行艇と連絡を取ってみる。

『やめとけ、今日外洋に出るのは無理だ』

『今日はうちも飛べないな』

『いかだを見にいかにゃならんのに……ジャマだから出んな』

『バカか、行くな』

『助ける身にもなってみろ』

『わしが君ならいかんね』

「臆病者! 嵐が怖いの? あ、酔うのがいやなんだ」

 え? 岡野──っ!!

「てめえ……だれが臆病だって? いって──」

 と言いながら甲板に出ると、もう日は出ているのに暗い空──遠くにいくつか青い筋は見えるけど──

 ありがたいマストはたたんである、でも、船は埠頭に固定されていても激しく揺れている。埠頭ののぼりが、ちぎれそうにうめいている。

 あの時も意地を張ったせいで、葉波も危険にさらしてしまった──海に出る時は、感情のままはいけない──

「──今日は出港できない、自宅でネット学習。整備するから花音、真、リックは残ってください……解散……」

 くそ、くそくそくそくそっ! だれが卑怯者、臆病者だって? こんな嵐ぐらい切り抜ける腕はある!

 オレは臆病者なのか? 吐くのも、船が沈むのも──死ぬのも怖いのか?

 ぽん、と肩を叩かれた。

『真の勇気よ』

 葉波のメールが浮かぶ。

『ごめん』

 そう、李に送った──

 彼女は顔を覆い、泣き出している。

「卑怯者、どうするのよ」

 言い捨てた岡野を、皆が──李も──軽蔑した目で見ている。

『安全最優先よね、ごめんなさい……命さえあれば。あんなのは気にしないで』と、李。

『気にするな、本当に出港していたら、どんな目にあっていたかわからないんだおかものは』

『出てたら裏表ひっくり返るまで吐いてたろうよ』

『海を知らないおかものの言葉なんて気にしなくていいよ』

 みんなのメールに少し救われたが、やはり悔しい。

「ケッ」

 と春日が嘲笑したが、いつものことだしこいつはわかってないから無視。

 オレは酔いながらでも仕事はできる──吐きながらでもちゃんと出力を調整して、大波を舳で切り裂いて進むのを見せてやりたかった。いや、おかものはそんなの、見ることもできずに酔ってるだけだ。

 上級生もいるし、その気になればこの嵐で帆走だってできるんだ──素材強度だって木と麻でできた昔の帆船とは違うし、コンピュータの力を借りれば──昔の帆船だって、これ以上の嵐でも──うう──

 船を片付け、あらためて繋留をしっかり確認すると、葉波が待っていた。

 同時にメールが入る。

「メール見た? 学校とお母さんから、今日は岡野さんを案内して、ここでの生活を教えてあげなさい、って。生存公役三時間分」

「冗談だろ?」

 しばらく無言。

「あたしも行くよ、それに──」

 ぐっと、なにか悔しそうな表情をしている。メールが浮かぶ、

『今日、もしあたしが船長でも』、「ごめん」

『葉波だったら、機械切って帆だけでもよかったよ』

 船のキーを埠頭事務局に返すと、家に戻った。


 オフクロはもう仕事に出ている。物流の仕事は、こうして海空路がふさがると非常に大変なことになる。それに、そういえば今日の午後は育児の生存公役があったんだ。

 みんなは繭で授業を受けてるはずだ。本来オンライン通信教育で十分だと思うが、やはり学校というシステムは必要らしい。

 リビングで岡野が待っていた。オレの顔を見ると表情が、まるで日本人形のように硬くなる。

「そういうことだから、ほら」

 と、葉波が明るい声で誘った。

 顔も見たくない──

「先に、運動しなきゃいけないからジムに行こうか。あ、由は今日休みだっけ?」

「いや、着がえるから待ってて」

 戻ってくると美香もいて、岡野の表情も柔らかくなっていた。何を話していたんだろう。

「両手に花ね、お兄ちゃん」

「まったくね」

 葉波も合わせて腕を組んでくるし、

「まったくだ」

 と、峰のやつがいきなりケーコの映話で顔を出してきた。

「るさい」

 もう、なんとかしてくれ。


 前をひらいたパーカーの上に七つ道具をつけ、飛行帽型ケーコをかぶって出る。

 風は人工的なそよ風だけ──居住メガフロート全体を覆う半透明太陽電池はやわじゃない。でも濃い雲で、余計に薄暗いのはわかるし雨音は激しい。見上げると、もう風力発電塔は強風仕様になっている。太陽電池が使えない分も、ってわけか。昔の風力発電は風が強くなると使えなかったそうだが、今は違う。

 あ、葉波のおばさんも、全メガフロートで雨水を受けるためにあちこち準備で大変だっただろうな、もしかしたら葉波──手伝いから逃げたのか。

 一応書いておくか、“うち”は今ゴビ砂漠の植林をしてるオヤジ、高速船物流の仕事をしているオフクロ、妹の美香、オレ──長谷川由。

 隣の相原葉波は年の離れた姉の百合子、妹に美香の同級生でとても男らしい麻美がいる。おじさんは腕利きの飛行艇操縦士、おばさんと百合姉は船と農企業で働いている。親同士仲がよく、葉波はよくうちに入り浸っている。

 家といっても、はっきり敷地が分かれて庭があるとかではなく、むしろ集合住宅に近い。ただし高層ではなくそれを倒した感じだ。配置はメガフロートの設計思想によってまちまちだ。一度見たことがあるが、沖縄近くの第二メガフロートは太陽電池屋根の下を全部ひとつながりの広い空間にし、地面を空けてすぐ天井のないエレベーターになって、それで水面下の居住スペースに降りるという代物だ。

 うち──新緑ケ丘は江戸時代の長屋と八〇年代日本の大規模集合住宅と手塚治虫をかけたようなちょっとやばいデザインだが、中身は案外暮らしやすい。

 各戸には繭がいくつかあり、更衣室兼用の大きなウオークインクロゼット、蓋を下ろしたらその上が洗い場になる省スペース型バスルーム、洗面所、トイレ、キッチンとリビングダイニング──といってもテレビなどは繭かケーコで見ることが多いので大きなテレビなどはなく、壁全体が本棚になっている──、倉庫、それになぜか和室がある。

 数戸に一つ大きめのガレージと簡易トレーニングルームがある。大人が義務をこなすため朝か夜に近所で集まり、体操などをする。

「本土じゃみんな、公園か学校でやってるけどね」

「じゃあここが公園みたいなもんなんだろうな」

「それに、プランターとかも置いてないし庭もなくて、寂しくない?」

 わかってないな、

「熱帯で下手に屋内に緑を置いたら、虫やトカゲでえらいことになる。庭なら農業用メガフロートに確保されてるし、私的営利農業希望者はヘクタール単位で持ってる」

「日本人には、虫と共存する熱帯生活は耐えられないのよ──ほらここがトレーニングスペース。ついでに運動して、義務消化しようか?」

 葉波が指差した。囲まれ、引き戸で隔離されたちょっと広い空間にいくつかトレーニングマシン、総合ウエイトトレーニングベンチ、各種鉄棒、サンドバッグ、鉄砲用柱、棒や木刀で打ちこむ十字柱などが並ぶちょっと殺風景なスペースだ。

 広いジムもあるにはあるけど、オンライン通貨を取られるか予約で待つことになる。

「勘弁してくれ、一周してから」

「あとにしよ」

「自転車とか車はないの?」

「車を持っている人はほとんどいないな。こっちじゃ使えないし。船か飛行艇を」

「あなたに聞いてないわよ」

 つっけんどんな口調、可愛くない。顔と違って。

「ほら、これ」

 玄関近くの小ガレージを開けると、いくつかの自転車や原付三輪自転車が立体的に収納されている。

「うわ、最新の都市用ハイブリッド三輪じゃない。本土の都市でも流行ってるんだ──結構積めるし狭い道で楽だし、税金優遇がすごいしね」

 見た目は、透明な卵形の殻におおわれた自転車。後ろが膨らんだ三輪、シャフトに燃料電池とモーターが入っている。空荷なら脚でこげるし、荷物が重ければ動力を使う。それに動力つき荷車を増設すれば、三トンまで牽引できる。

「ここではみんなの足なんだけど、今日は歩いていこうよ。どうせ外の道も、この台風じゃ走れないし」


「よう! どうしたんだ」

 と、峰の兄貴が話し掛けてきた。

「生存公役?」

「そう、一番楽だよな」

「その代わり来週でしょ、下水は」

「ああ──わかってるよ!」

 配給・生存公役制度──これこそ超恐慌・円卓騎士団事件後世界中がやっている、メガフロートや太陽水素以上の革命だ。

 国家地方問わず財政は破綻した。日米中欧がいくら支えあっても、破綻したものは破綻していた。公務員の人件費も支えようがなく、借金がふくれあがっていた。

 少子高齢化で、高齢者の介護にはロボット技術がいくら進んでも大量の労働力が必要だ。その給料の財源もない。市場まかせでも財政破綻した国も。

 同時にグローバル化で平均賃金は下がり、そのくせ海外の労働力は介護など必要なところでは役に立たない。希望をなくした若者の多くが労働市場から退出し、特に欧州や中国では失業がどうしようもなくなっていた。

 世界全体では金融が混乱し各種資源需要も暴走、生態系も崩壊して極度の貧困も増え、最悪の場合は世界の大半が経済崩壊で秩序を失い、飢餓戦乱疫病で未曾有の破局──十億単位の大量死ギガデスが起き、近代文明自体が崩壊する。

 さあどうする?

 大きい政府、増税は無理でも、全員の労働力を半強制的に引き出して、そのかわり最低の生存は世界中で保障する。借金は世界全体が“大きすぎて潰せない”状態になる──経済学の博士号をもつもうじいさんで、生涯学習のために現代史で同級の神谷さんに言わせれば、狂った悪魔の発想だ。神谷さんの、マルな師は邪道だと大著を遺して怒り死んだそうだ。

 十歳から死ぬまで、誰もが最低週十時間か年に三カ月か四年につき一年、他の仕事に使っている時間が少なければそれ以上──全く仕事がなければ週三十時間か年に七カ月か五年につき三年の労働時間を提供せよ。正規の公務員を減らした代わりに全員がパートタイムの公務員だ、ともいう。

 同時に世界全体で、水や食料など最低の生存、他の現実経済、そして情報世界の三つの経済を切り離した。

 最低の生存──“皆で皆を食わせ、介護し、育て教え、文明と自由を保つ”は全人類に無条件配給。

 他の現実経済──旧来の資本主義部分──は厳しく持続可能なよう国際管理され、生存保障の分が取られる以外は原則自由。

 情報や特に著作権は、これまでのようにソフトを記録した媒体を車やパン同様物として売買するのではなく、コピーや再生をカウントしてその評価に比例する報酬を、主により高い情報アクセス権や名誉の形で与えるようになった。

 生存公役を怠ると人気雑誌の最新号や新曲の──もちろんオンライン──入手が“発売日”ではなく遅れてしまう。義務を拒絶する者は、事実上あらゆる情報から切り離され、名誉も奪われるのだ──もちろん電話、メール、ネットを使えない以上、働いて金だけ稼ぐこともまず不可能になる。生きているだけに耐えられる者は、予想されたほど多くはなかったそうだ。

 また、社会主義の弊害がないよう時間だけではなく、奉仕の質も評価される。時間を満たせば情報アクセス権を奪われることはないが、意欲的に頑張っていい結果を出したり、積極的に求められる以上の奉仕をしたり、新しいコンテンツを作って人気を集めたりしたら加点され、より多くのコンテンツをより早くダウンロードできる。加点は電子貨幣にもなりオンラインゲームなどでの通貨としても使え、制限があるが現実の金にも交換できる。

 逆に金を出して生存公役を免除してもらうのは制限がある。

 忙しい人の反対も多かった。だが週十時間の色々な仕事はそれなりのリフレッシュになることがはっきりしたし、ワークシェアリングとしての効果もあった。また地域を生かす効果も大きい──もちろん、いまだに反対者は多い。さらにその義務には、日米ではついでに毎日の運動や読書、義務教育を通り越した生涯学習までついているのだから。

 ああ、日本では在日統一朝鮮人|(といっても統一は建前だけで、むしろ米韓中露占領軍によるにらみ合いで統治されている)が強く反対したそうだが、元々生存公役は国単位ではなく、地域と国際社会が主になっている。朝鮮半島北部の植林事業をしているようだ。

 この生存公役は学生であっても、全身麻痺でも老人でも例外はない──誰にでも何かできることはある、というのがたてまえだ。峰の兄貴も今、それを果たすために数時間パトロールをしている。ちなみに来週は下水処理か、大変だな。

 まあ、昨日の草刈りのように授業単位として認められる生存公役も多い。

 本当にいろいろなことを、時にはいきなりやらされることになる。おかげでいろいろな大人とも仕事できるから楽しいことも多い。それは地域を機能させて人民の支配を容易にしている、とも神谷さんが言ってた。宗教が強いところでは宗教が労働力を振り分けている、総力戦と同じく仕事と仕事仲間を与えることでアノミーを防いでいる、とも。

 オレも明後日は、予定では何人かの乳幼児を見なければならない──ああ、二十一世紀初頭は虐待ヒステリーがあったっけ。もちろんモニターで監視される部屋だ。まあ、ほぼ隅々までいつも監視されている上、テレビ電話機能があり、しかも近くの人間のIDまで把握できて緊急ボタン一つで全部警察に送信できるケーコをみんなが持っている以上、現実世界で犯罪を犯して逃げ切るのは無理だが。第一基礎準備校から全員護身術をやってるから、相手が子供でも危険だ。


 いくつかの、長屋を思わせる戸に囲まれた道からより大きな道に入ると、すぐにコンビニとそのそばの路面電車が見えた。金さんの焼肉など店も開いている。何しろ都市全体に屋根があるのだ。

 この往復二車線で台車ごと乗れる路面電車が、ここでの生活の中心だ。

「結構広い、というか長いのね」

 広い道がメガフロートを縦に貫き、ハイブリッド三輪が忙しく動き回っている。

「全体は──ちょっと図を出して、URLは」

 ケーコから図を表示し、北端の埠頭から解説する。

「ここが出入り口の港なの。そのすぐわきに市場があって、こっち側は中小の工場が集まっているわ」

「食肉処理とか魚の内臓処理とかは離れたとこでやるんだけど、より細かな加工は小さいところが競争してやったほうがいいんだ」

 路面電車でまず市場に向かう。もちろん無料だ。

「どうやって乗るの? 路面電車なんて、修学旅行以来始めて」

「はぁ? どうなってんだよ本土は……こんな便利なもの」

「うるさい、ハナにきいてんの!」

 マーケットは本土の、モールとはいかないがスーパーぐらいはある。水面下が雑貨や道具、一階が食料、二階が衣類、本、おもちゃ、家電消耗品だ。ただし、農林水産社員が多いので、食料の多くは自給するか近所の交換でいい。他の買い物もネット通販が多いから、それほど混んではいない。

 むしろ一階にある吉野家、MKD|(注:十三年前に史上最高額で合併したマクドナルド・ケンタッキーフライドチキン・ドミノピザ)、FnJファスト・ノット・ジャンクフード|(注:ファストフード同様早く安いがヨーグルト、野菜ジュース、粥、煮豆、握り飯、芋などが中心。近年支配力を強めているチェーン)、|ディズ(ディズニー・ワールド・ファスト・ノット・ジャンクフード)、そしてサーティーワンなどのファーストフード店に人気がある。もちろんどれも配達してくれるが、やはりその雰囲気を好む子が多いのだ。

 軽く店内を案内し、ディズでジャスミン茶とミニークレープ──オレは女の子同士の話に入れず、ケーコで新曲を聞いていた。

 港では、今は嵐で中止されているが普段はクレーンが活発に動き、色々なものを出し入れしている。海を見るとやはりすごく荒れている。

 マーケットの一階は後ろに体育館ぐらいの広さで開き、港直通の卸売市場になっている。ちゃんと選別、小分けして陳列されている棚は少し高くなるが、そのほうが便利ではある。

 やばい、オフクロが向こうを通った──気づかれてなければいいが──

「由!」

 うわ、気づかれた。勘弁してくれよ──

「ちゃんと案内してる?」

「はい」

 岡野ってオフクロには猫かぶってるんだな。

 頼むから女同士の話はやめてくれよ。何でオレがいるんだ、葉波とオフクロでいいよ。


 港、市場から多くの店が並んでいる。

 その裏は大体小さな工場がある。

 まっすぐ大通りが通って港の反対側に、大きな庁舎と図書館などの総合施設がある。

 その前は噴水などがある、やや大きな広場になっている。

「海はどっちにあるの?」

 と、彼女が聞いて、鼻を鳴らした。そのしぐさに変な感じがした。

「そういえば、ここは全体空調だから海の臭いはあまりしないわね」

 と、広場を少し引き返し、カフェコンビニの角から横に出た。

 表通りから入ると、このあたりは広めの家が多く、そのための少ししゃれた店がちらほらある。

 美容院と岡野に葉波がふっと、不思議な視線を向けた。

「どうせこんなとこじゃ」

 と、岡野の小声がなぜか耳に、ウニの刺のように刺さる。

 すぐにドームの一番外の壁に出る。発泡コンクリートの壁に頑丈な鉄扉。

「フードとか上げとけ、ケーコは防水耐塩だろうな?」

「最新型よ!」

 と、額に上げたサングラスにしか見えないそれを指差す。しっかり手入れされた長い爪が光っている。あれ、グローブは? それ──それに最新型ってのは時々──まあいい、

 閉鎖されたシャッターの横の、普通より数段重い鉄ドアを開けると、猛烈な風と雨が叩きつけてきた。よかった、出なくて。

 きっと目を強めた岡野が、そのまま飛び出す。

 大丈夫だろう、海面上六メートルの防波堤があるし、波力発電ユニットや他のメガフロートがかなり波を軽減しているはずだ。

 こちら側も見上げるような防波堤と、高い内側の壁に囲まれた幅三メートルほどの道。排水溝があふれそうなほど、雨水と──もしかしたら入ってきた波か──勢いよく流れている。

「海は? この向こう?」

 と、防波堤を触った。

「そうだけど、今は危ないわ。この風だと外は」

「見る!」

 と、近くの階段から防波堤に登り始めた。

「よせ、危険だ!」

「大丈夫よ、泳げるもの」

 呆れてものも言えない──

 追って登ると、やはりすごかった。バランスを失いそうなほど強い風が、直接吹きつけてきた。

 近くの農場や公園もろくに見えない。内側を見ると、補助翼を出した大風車がすさまじい勢いで回っている。

 現金なことに、かなたを見ると青空がかすかにある。

「すげえな」

「ちょっとつかまらせて」

 と、葉波がオレの腕をつかんだ。なぜか体が熱くなる。

「えま、つかまらなきゃ」

「わよ!」

 声が風に吹き飛ばされる。

 防波堤の上の、防風林も激しく揺れている。

 あ、この木は五年前にオレたちが植えたんだったな。

「覚えてる?」

「うん」

 と、もう声が届かないのでケーコで会話していた。

「岡野?」

 一瞬ネットの情報を交えた嵐の海、そして思い出と葉波にぼうっとしていたが、見ると、彼女の姿がない──まさか、風か波に足を取られて──

 こっちの堤防には波力発電施設がある。巻きこまれたら命がないし、巻きこまれ防止柵に引っかかったらこれまた命がない。さらにその影響で、洗濯機の中よりひどい水流がある。さらにこの嵐だ。それに、おかものは着衣水泳など──。

 やはり落ちたのか!

 嵐に吹き飛ばされた悲鳴がかすかに届いた。

 オレは一声叫んで跳び、地を蹴ってから後悔した。

 散々習っていただろう、人を助けるために飛び込むのはやめろ──危険すぎる、死人が増えるだけだから──。バカだオレは──

 妙に冷静に、もう跳んでしまったのだから仕方がない、とケーコのゴーグルを水中眼鏡がわりに下ろし、息を大きく吸って、足から着水して一気に潜った。

 水面で一瞬すごい力を感じたが、水中にある程度潜るとかなり穏やかだ──もちろん、波力発電の水流に上下の感覚がなくなるが。

 手を動かして衣服の抵抗に慣れ──着衣水泳は二週間に一度はやっている──鼻をつまんで明るいほうを向くと、少し離れて白い縄つき浮輪──葉波が追って放ったのだろう、あいつはバカじゃない──と、その脇にもがく影!

 ぎりぎりまで潜水で近づくが、流れに離されていく。必死で浮上して息継ぎをしては潜る。そのたびに大波にもまれ、何度か水を飲みそうになった。

 流れが、たまたま影のほうにオレを押しやってくれた──どれだけ経ったか、間に合うか──もう沈み始めている──強く水を蹴ってそれに体当たりし、手に絡んだものを──海藻とサメか髪か服か知るか──つかんで、ぐちゃぐちゃの水面に手を振り回されながら力を振り絞り、指に触れた浮輪を追う。それを一度失い、また水中に引き込まれ──とっさに右手に絡んだものを引き寄せた。

 とにかく引き寄せ、水中で頭を探り、鼻を探り当てて口を口に合わせ、あごをこじ開けるように強引に残る息を吹き込んだ。

 もつか──自分用にも残せばよかった──とにかく上だと思われるほうに、水面の波をかきわけて──運良く谷が来たところで息を吸い、また息を吹き込む。

 とにかく一秒でも早く、一回でも多く吹き込む──一人で安定した海中に潜りたい、を抑え、すさまじい波に上からのしかかられて一瞬水を呑み、痛みに体が裂かれそうになり、振り回した足に触れた浮輪に足でしがみついた。

 浮輪に腕をかけ、波にぐっと持ち上げられ、なんとか頭を水面に出して息を吸い、髪のお化けに吹き込み──いきなり、何かが頭を叩き、絡みついてくる。

 狂気の化け物が、オレを水中に引きずりこもうとしている──オレも恐怖に総毛だった。

 だが、波をかぶって冷静さが戻った──当然の反応だ。海に逆らうな──オレは女とは思えぬ力でしがみつき、体を砕こうとするかのようにからみついてくるその首に手を回して気管を探り、その両脇の動脈を締めた。1、2、3──十五数え動きが止まった、離れそうになっていた浮輪を引き寄せて彼女を──激しい波で一度失敗してから、浮輪につっこんで自分も隙間に腕をねじ込んだ。今度はとんでもない波の上下動と、頭にかぶさってくるのが遠慮なくくる。いっそ全てを捨てて潜ってしまいたい──水中は嘘のように楽だった──

 が、腕がちぎれそうなほどしがみつき、また岡野のあごをこじ開け、波をかぶって咳き込みながら必死で吸った息を吹き込み、やっと救助ベルトのトリガーを引いて自分の浮きも膨らませる。

 それから──はっきりと、ロープに機械的な力が加わる。オレも余裕が出て、縄をオレと彼女の体に絡めるともう一度息を吹き込み、少女の頬を叩いた。

 目を覚ました彼女が暴れようとするが、波をかぶって叩けないので頭突きをした。

「波をよく見て、息と浮輪にしがみつくことだけ、ぶ……っ」

 また波をかぶったので、彼女の口を押さえた。

 オレも、もう──何かに思い切り叩きつけられる。それはそれで、体がちぎれるかと思った。ロープで引かれ、救助用階段に打ち上げられたのだ。

 なんとかオレはもがいて手すりにしがみつき、彼女が浮輪ごと引きずり上げられるのを確認した。

 そしてオレも、ものすごい大人の力で引きずり上げられ、頬をひっぱたかれた──その熱さでやっと意識が鮮明になり、波に一度抵抗してから腕を引く力を借りて階段をよじのぼった。

「ばかっ、殺す気? 首締めた! それに何回キス奪ったの、この変態! 最低!」

 ──悪口がいえるのは生きているからだ、このおかものが──反論は口には出なかった。なぜなら、

「助けに飛び込むなと生まれたときから何度も何度も習っていただろうがこのドアホウ!」

「おかものじゃないのよ! 自分の命を大切にしなさい!」

 と、大人に怒鳴られっぱなしだったからである。

 その通りです──ごめんなさい──体を制御できませんでした──


『バカ、でもそこが好きなんだけどね』という葉波のテキストメールに気がついたのは、家で熱いシャワーを浴びて夜ゆっくりくつろいでからだった。

 どうしていいかわからず、とりあえずオフクロに

「大丈夫?」

「大変だったわ、痙攣して……頭に埋め込んだケーコが、海水にやられたみたい」

「脳に直接接続? 最新型ってそういうことか──それで、生きてる?」

 確か入力と音声は頭に直接、確かに羨ましいけど危険だよな、やっぱり。

「気になる?」

 一瞬絶句したが、

「まあ死なれたらバカやっただけになるからね」

「十分バカよ、この親不孝者。ちゃんと元気だから心配しないで、すぐ帰ってくるから」

 と、頭を叩かれた。かなり強く。

 今夜も眠れそうにないな、いろいろな意味で。ゆっくり『第二次世界大戦』でも写すか、音楽は何にするかな──まあ繭が開いたのはありがたい。

3

 喉が渇いた。一面の水面、飲みたい。

「海水飲んじゃだめ。飲めば飲むほど苦しくて、もっと悲惨な死」

 ──欲は海水のようなもの。飲めば飲むほど渇く──

 ──人類は本来ジャングルで進化しサバンナで暮らす群れサルで、人間の体も心もそれが生きて子孫を残すためにできている。人間の欲はそれに都合がいいように──


「由、起きて」

 肩が温かい……葉波に寄りかかって居眠りしてたか。妙な目で岡野がにらんでる。

 思い出した、飛行艇の中だ。

「腕がいいから寝てたんだろ、ゆー坊」

 パイロットの、葉波の父ちゃんが声をかける。

「人工巨大浮体構造物有機廃水および生ごみなど生処理施設熱帯洋上型、通称人工マングローブ、略してジロブって呼ぶ奴もいる。とりあえず上空から見てみるか?」

 何度も見てはいるが、やはりいい眺めだ。上から見えるのなんて、その壮大さの半分だけど。

 後ろはるかに見える日本第七メガフロート群……五つの鈍く輝く太陽電池、それぞれから白くそびえる風力発電塔。中心の生命線、海水淡水化総合プラントが二つ。

 十七基、二十キロ×五〇〇メートルから三キロ×二〇〇メートルまで色々な大きさの、水田や麦、休耕牧草など多様な緑に風力発電塔もまぶしい農場メガフロートが風も波も無駄にしないように並ぶ。その中に、深緑の小さい帯、可動式の用水路が数基守られ、農場同士つなげたり水を貯めたりしている。

 やや遠くに、四キロ×二〇〇メートルの塩生植物海水灌漑メガフロートが二十基。

 ちょっと変わっているのがドーナツ型の畜舎。ドーナツの中の海面に、牛が泳いでいるのがゴマのように見える。遠くにはラクダ畜舎も見える。

 そしてオレたちが暮らす居住、軽工場メガフロート。上に張られた半透明太陽電池幕が鈍い光沢を放ち、その下のまっすぐなメインストリートと路上電車が見える。煙突兼用の大風車が雄大で、埠頭に集まるたくさんの船や飛行艇がまぶしい。

 隣接して一回り小さい、緑の短冊がある。島の生態系を直線的に再現し、南国果樹を多めに植えた公園だ。ついでにうちの埠頭を波の直撃から守ってくれている。

 その群れから離れて、長さ一三キロの濃い緑が帯になって迫る。そのそばにある水畜産処理工場が白くまぶしい。

「あれがマングローブ」

 指差すと、さすがに岡野も驚いたように見ている。

「大きいね……すごく濃い緑、それに広いね」

「広い、で勘違いしてると思うけど、幅は見た目では二キロだけど実は五・五キロあるんだ」と指で宙に、同時にケーコの描画ソフトで透視図を表示しつつ線を引き、送る。「あっち、東側に、壁が二重にあるだろ? 外側のすきまだらけのやつが第一防波堤。あそこから水面下数メートルに人口海底が広がってる。その壁、第二防波堤からこっちに土砂が入ってて、壁からしばらく浅い干潟、そしてマングローブ。西側の壁は五メートルの崖になっていて、海鳥が繁殖する巣箱と波浪発電設備。そして真ん中西側の塔に汚水をためて、パイプでこっちのほうに流す」

「しかし、たった十六年でここまで育つとはな。一番高い木はもう二〇メートルを超えてるよ。もう毎年安定した木材やラクダ飼料がとれる」

 葉波の父ちゃんが、感慨深げにいいながら高度を下げ、

「海を見てごらん。向こうまでずっと」

 マングローブから海流に乗って、水平線まで大きな刷毛ですっと流したように、海の色が微妙に違う。

 そのまま、メガフロート群から離れた広い海域まで海藻と貝が養殖されているのがかすかにわかる。中央の海藻プラントが小さく見える。

「こんなに広く、海に肥料をやっているんだ。それに多くの魚の故郷にもなっている」

「いっぱい魚がとれるの?」

「まあな。あ、マングローブの周囲は原則禁漁なんだ。稚魚を保護するために。

 念のために言うが、漁業は主権や経済的自由という名の無法が横行していた二〇世紀とは違い、持続可能な漁獲のための国際管理、総量増加のための貧栄養温暖海域への施肥や人工珊瑚礁、産卵稚魚の保護、トロールや刺し網などの漁法制限、管理捕鯨の解禁など生態網の──」

「均等収穫原則、捕鯨を禁止しても同じオキアミを食べるアザラシやミンククジラが先に増えてしまっていて繁殖が遅いシロナガスクジラはなかなか回復しなかった、また魚の乱獲で生態系に空いた空白をクラゲが埋めてしまって魚が増えない、せっかくイワシの産卵を保護し、育つ暖海に肥料をやってもクジラが食べ尽くしてしまって漁獲が増えなかった、ってことを繰り返さないように、全体からまんべんなく獲るようにする」

 葉波の父ちゃんのフォローがなんだか情けなかった。黙っててくれれば思い出せたのに──

「と、……混獲の投棄禁止、が明記されている」

「じゃあ、混獲されたものはどうする?」

 葉波が意地悪く突っ込んできた。

「えっと……極力死なないようにするか、死んだのはすりつぶして肥料や飼料にするか、海が消費できるよう少しずつ投棄するかだ。あと、マングローブの周囲が禁漁なのは僕らのトイレ直通だからだよ」

 岡野の表情が凍った。

「そんな露骨に言わないでよ」

 葉波の肘が、脇腹に食い込んだ。

「……マングローブでとれた魚介や海藻を、何も知らないところに流してるってうわさもあるけどね」

「はっはっはっ、大丈夫だ死にはしないよ安全基準は満たしてるから」

「ちゃん、やってる?」

 機体を揺らしてごまかした──岡野が倒れこんできて、なぜか葉波もすごい目でにらみつけてきた──葉波の父ちゃんが、マングローブの東側を指差す。緑濃い海に、いかだが約八キロにわたって、規則正しく並んでいる。

「あのいかだで貝を養殖しているんだ。富栄養化しすぎた海域からはどんどん、栄養が深海に失われるからね。少しでも回収しないと」

 いって、大きく高度を下げる。

「すごい鳥」

「あと、マングローブやその下からも貝やエビ、カニがたっくさんとれる。主に肥料や飼料、貝殻は建材などにも使われるね」

「人の食用にする貝などは他のメガフロートの下や、公園でとることになってるのよ」

「僕らが食べる貝はね。おかものは知らぬが花さ」

「こらゆー坊、はっきりいうなよ。さて、降りて上から順に見てみるか……」

「え、降りるの……」

「やだなあ」

 オレと葉波はげんなりしている。岡野は嬉しそうだけど──実態知らないから──

 ま、今日はオレたちが生存公役で下水処理をやらなきゃいけないから、どっちみち行かなきゃいけないんだけど。

 この間の事故の罰として、下水処理の仕事が岡野の案内もかねて前倒しになったのだ。それにしても、なぜここまで岡野にメガフロートについて、色々教えなければならないのだろう?

「さて、タンカーに合流するぞ。2248、タンカーどうぞ! こちら15786─22、これから着水し、長谷川たちを連れて第二埠頭につける。こいつらは今日新入生の案内が主になるな、どうぞ」

「こちら2248─667、15786─22、7─4─01第二埠頭進入よし、接舷よし、どうぞ」

 無線の声を聞くと大きく旋回し、安全海域を指差し確認、ゆっくりと降下して着水。

「うおっと」

 う──揺れた──まあ、今日はタンカーじゃないだけよかっ──いや、帰りはタンカーか──うぷ。でもやっぱり腕はいいよ。

「ほら、上にこれ着ろ」

「なにこれ、宇宙服?」

「いっそ宇宙服がほしいよ」

「ごめんね、すぐわかると思うから」

 脚から胸まで覆う特殊合成ゴム引きのつなぎに、肩までしっかり覆う蚊帳つき帽子。分厚い作業着を隙間なく着込み、腕もしっかりカバーで覆い、分厚く長いゴム手袋を着ける。

 そして蚊帳の下から飲める水筒と七つ道具を防水袋に入れてくくりつけ、ケーコの防虫防水を確認する。つなぎのポケットにモンキレンチと太いL字の六角レンチ、錆の浮いた大型ペンチ、やや大ぶりのチタン合金ナイフをつっこむ。

「大丈夫か見て」

 葉波の全身をチェックし、オレもしてもらう。葉波が岡野もチェックし

「ここ、隙間が開いているわ。ふさいで」

「宇宙服?」

「そんなもんよ、これは──実際ひどい目にあってもらって納得してもらう、ってわけにはいかないの。いくら予防接種は受けててもね」

 ゆっくりと飛行艇は海を航り、第二埠頭にぴたりとつけた。

「フェンダー用意!」

「フェンダー用意します!」

「もやい用意!」

「もやい用意OKです!」

「よし、3──2──」

 蚊帳をくぐり出て飛び移り、すばやくもやい綱を杭に固定する。

「よし、じゃあ行くか」

「行って来い」

 葉波の父ちゃんの声、岡野と葉波が出て、出入り口の蚊帳をくぐると、さっそくおいでなすった──数限りない虫がぶわっと押し寄せてくる。

「きゃああああっ!」

 岡野が悲鳴をあげてうずくまった。

「う、なにこの臭い──」

 気持ちはわかる。これが初体験だというのなら──さぞ大変だろう。

「元気出して、行きましょ」

 と葉波が岡野を引き起こした。

「う──」

「吐くなら汚水に吐いてくれ、栄養がもったいないし蚊帳帽子が汚れるから」

「ばかぁっ!」

「元気出たみたいね、いこ」

「もやい外します! ありがとうございました!」


 大人たちに合流し、少し岡野を任せて、まあ形だけ手伝った。もうタンカーの接続は終わっていたし。

「説明してやれ、復習にもなるから」

 またこれだ、大人のめんどくさがりめ──なんでも子供にやらせるんだから。

「そのタンカーに集められた、風呂やトイレ洗濯などの海水とか粉砕した生ごみとか入った生活排水、工業排水」

「から重金属や非生分解合成物を除いた」

 と、葉波がいちいちフォローを入れる──バカにされてるな──

「排水、それと農業の塩や肥料が……ええと」

「海から入った塩分や肥料からの硝酸塩、農薬などがたまって再利用しにくくなった農業廃水、あと廃棄物から糞など肥料やエネルギー源にしやすいもの以外、そして加工の」

「肉魚の排水は海中パイプライン直結だろ。だからそっちに工場があるんだよ」

 と、比較的近くに見える工場を指差す。

「うっさいわね、わかってるわよ」

「その言葉そのまま返す」

 太陽電池に覆われた加工場本体、大型のクレーンなどがついた水揚げ用の埠頭がこっちから見えている。

 そこからここまで、深さ八メートルにあるパイプラインでつながっている。

「それより、暑いんだけど……」

「じゃあ帽子取ってみろよ、死ねるから」

「あの人は平気じゃない!」

 と、岡野が軽装のアブドルさんを指差した。

「こら指差すな、あの人は天然マングローブ育ちで、出稼ぎでここを管理してくれている人で、こういう環境に慣れているから──でも大量の虫に刺されるのは普通の環境で生まれ育った人間には耐えられないんだ」

「なんで、タンカーなんて使わないで生活も農場も、全部パイプラインにしないの! 自動に!」

「パイプラインはあまり長くできない、船にとってもジャマ。そして、この虫や鳥が生活の場や農場に入ってきてもいいのか? 距離をとらなきゃいけないんだ」

「で、タンカーからあのパイプで──どこに流し込まれてるの?」

 うながして、崖になった埠頭面の堤防を登る。

「この防波堤の下に波力発電ユニットがある。で、ほら──この崖」

「いっぱい鳥がいる」

「この海鳥の卵と糞も、適度に回収できるようにしてるのよ。卵は食用に、糞は良質の肥料になるの」

「今朝も食べたろ?」

「あ、道理で大きな卵だと思った。それにすごくおいしかったね」

 あ、今の声ちょっと可愛い。

「なに鼻の下伸ばしてるの、由。汚水はこの塔、中が空っぽで、そこに汲み上げられ、貯められるの。その高さが圧力になって、この人工島の地下に広がるパイプ網で、できるだけ均等に汚水や砕かれた汚物を流しだすの」

「それをこのマングローブが処理して栄養に変えていくんだ」

「その栄養はどこに行くの? それに農薬が混じってるって」

「遺伝子組み替え作物や天敵農薬、アイガモ農法を使っているから農薬はほとんどないし、タンカーや塔、泥の中で完全に分解されるわ。大丈夫よ」

「これから順に見ていこうか。西岸がこの崖で、そこから順に……」

 手を振ると、今日の責任者である春おじさんが、空気を抜いたゴムボートのトランクやステンレス製のククリ|(注:ネパールで伝統的に用いられる、前に湾曲した重厚で幅広い片手用の山刀。彼らが英軍グルカ傭兵となっても愛用することで知られる)、オールを持ってきてくれた。

 防波堤から降りると、そこにはやや固い泥と、

「これは? ススキみたい、ずっと大きいし葉はヤシみたいだけど」

 硬い葉が、炎のように広がる。

「ニッパヤシ。陸側で半ば栽培している。これはとても利用価値の高い植物で、栄養をかなり回収できる」

 春おじさんがいとおしげに鋭い葉をなでた。おじさんといっても従姉妹のダンナで、まだ三十そこそこ。

 ちょっと線が細いけど、中身は筋金入りの海人だ。あの伝説のカジキは──おっと、

「東南アジアの天然マングローブ地帯では、衣食住これでできるんだぜ。焼けば塩までとれるんだ」

「砂糖もね」

「塩なんてタダじゃない?」

 岡野の言うとおり──経済危機を解決するため、特に日米欧が過剰な生産力の行き先を探した結果、自然エネルギーが豊富な砂漠沿岸や亜熱帯の海などに、多くの海水淡水化プラントができた。

 海水を淡水化したり電気分解して水素を得たりしたら、当然塩が出る。昔はその濃い塩水をそのまま海に捨てて自然を破壊していたそうだが、それはもう禁じられ──というか割に合わない環境税。

 というわけで、今はもう塩……塩素とナトリウムはタダ以下であり、塩を工業原料として使う工場は安全に埋めるより安いと金がもらえるぐらいだ。

 昔の中国で、塩で反乱があったりしたのはオレたちには信じられない話だ。“敵に塩を送る”という言葉もわかりゃしない。

「成長点は毎日食べてるし、実は今朝も食べたけど……あ、あたしたちが食べるのは、別に個人の畑で作ったものだから」

「ちょっと抵抗があるんだよ、さすがに。たぶん安全だけど。そして樹液から砂糖や酒が作れるし、葉は家の壁や屋根にもなり、繊維もとれる。この硬いところはちょっとした木材代わりにもなる、とね。こっちは近代生活をしているから、低品位パルプ用の繊維と樹液からアルコールが主な用途だな」

 さて、いくらか樹液を採取し、葉を刈って──書けば簡単だが、暑いのに虫除けに厚着をしているしニッパヤシの葉は十メートル近いから大変なんだ──タンカーに運んでから生い茂るニッパヤシを抜け、小道を出ると──ほらさっそく、足が泥に沈んだ。

 あちこちで、春おじさんが持ってきたたくさんの細いパイプを地面に挿し、抜いては端をふさいでいる。泥や水のサンプルを分析するためだ。

「塔がいっぱいになって、ちょっと潮位が上がってるね」

「満潮だし。でもそろそろ枝や海藻を刈って、少し泥を出さないと」

 ふふ、気がつかないか──そりゃそうだな。

「さて、お待ちかねのマングローブ」

 いつもの探検ルートの入り口を、大きなサキシマスオウノキの板根が出迎えてくれる。

「うわあ……」

 岡野の声があきれていた。

 入り組んだ屏風のような根。そして太い幹と、濃い緑。

 木漏れ日がほぼ真上から突き刺さってくる。

「木の種類には関心ある?」

「あんまり……」

「じゃあ説明はしないね。気をつけて!」

 といいながら、棍棒根に足を取られた葉波が春おじさんにぶつかり、受け止めてもらった。

 わざとだろ? あ、そうか。時々葉波が船長のときマングローブに近づくのは──

 そして水が腿まできたところで、ボートを出して空気を入れ、かついでいたオールでこぎ始めた。

 無数の支柱根を抜け、時にボートを担いで根を越え、鳥の鳴き声を聞き、──

「すごいね」

「ああ」

「いっぱい魚がいるね」

「魚もカニもエビもなんでもたくさんとれるさ。ついでにトカゲもカエルも──ヘビも」と、目の前にぶら下がってきたヘビをオールに乗せた。

「きゃあああっ!」

「あああっもう、早く捨ててよ!」

「ばーか」

 春おじさんにそういわれるとなんかすごくいやだ。

 ぽい、と放ると、ヘビはそのまま泳ぎ去っていった。毒はない種類だから大丈夫。

「魚も」と、泥に手を突っ込んで変な顔のハゼをつかみあげ、「大丈夫なんだよ、この泥にはすごい量の貝やカニ、虫などがいる。パイプから押し出されて、この魚の中まで生きのびられるばい菌なんていやしない」魚を放した。

「由」

 と、葉波がオレの目の前で手を開く。そこには大きなクモ、

「きしゃーっ!!」

「けーっ!!」

 オレと春おじさんが、自分と互いの悲鳴に驚いた。

「あ、春おじさんもだめだったっけ。まあ──ここは自然に返すところなのよ」

 葉波がクモを下がってくる気根に返しながら、使い古された言葉を──岡野が引いてる──

「てめ……違うだろ、人間には再利用しにくい排水汚物を自然を利用して浄化し、海に利用されやすい形でばらまいて、あとで回収するためだろ。バイオマスの絶対量をふやしてさ」

「ロマンのないこといわないでよ!」

 と、枝を払いのけた棒が頭を直撃した。

「嘘でも女の子にはロマンを語ってやらなきゃな。それだから彼女ができないんだぞ」

 と、さっきの醜態をなかったことにした春おじさんが、水のサンプルを取りつつ苦笑いをした。

「春おじさんが長いこと結婚しそこねてたのは」

 皆まで言わせず舵オールがオレの頭を直撃、

「泥の無数の生き物が、汚水汚物を食べて浄化し、いい栄養にしているんだ。その栄養はマングローブの肥料にもなり、また海に流れ込む。あそこまでが、ちょうど土を入れた洗面器を水に、ちょっと傾けて一方から波だけが入るように浮かせたようなもので、周りの海から仕切られてる」

 と、手振りを入れて講義が続いた。

「うあ、え」

 ラクダの群れが歩いてくるのを見て岡野が驚く。

「ラクダだよ」

「塩分が多いマングローブでも育つからね」

 葉波が当然のようにいい、ホイッスルでラクダを追い払った。

「淡水より圧倒的に多い海水から肉を作るのが、百億に肉を食わせる方法」

 また岡野のやつ、言われもしないのに先走って調べてる。便利だけどなあ。


 少しずつ水が深くなり、ヤエヤマヒルギがまばらになって、森を出るとかっと日光が突き刺さる。

 元々この緯度でこの季節は日光がすごいけど──あ、そうか。

「な、なにこの日光!」

「今日は日光増強日だな。宇宙に浮かべた紙より薄い鏡で、あちこちの汚れた海や汚染処理の人工湿地、農場、太陽発電所に日光を少し追加するんだ。今日の午後はここだったね」

「暑いよ、のどが」

「背中に水筒があるでしょ、少しずつ飲んで──」

「もっと薄着になれないの?」

「こんなに虫がいたら無理なんだ、虫除けも限界があるから」

 元々人間に適した場所じゃないんだよな、こういう熱帯の湿地は。

 オレも暑いし、汗で防水防虫作業服がますます重くなる。

 我慢して、ごく浅い栄養豊富で濁った内海を一キロ近く横切っていく。多くの水鳥が海面をすくってえさをこし取っている。

 そして、第二防波堤につくと、

「ここが、実はさっき言った洗面器のふちなんだ。満潮になるとこの上まで海水が来て、栄養や生き物と一緒に出入りするから──」

「おかしいと思わない?」

 と、葉波がヒントを出した。

「え──そう、満潮!? ちょっと、メガフロートでしょ? 浮いてるのに何で満潮なんてあるの?」

「ふふ、やっと気づいたか」

「うるさいわね」

「もうひとつ──この人工島、幅が広すぎると思わないか? 人工浮島、メガフロートの幅は、ほかは六〇〇メートル以下だろ」

「あ! なんで──ちょっと待って、作るのが厄介だから」

「ブー。作るのはどんな大きさでも簡単だ。ブロックをつなげるんだから。

 でも、幅がある限度より広くなると、その底の下で水の酸素がなくなる──日光がなくて光合成が起きない、空気とも接してないから。その腐った水はいろいろ害がある。

 だから幅を制限するか、魚を飼う水槽みたいに空気を入れるか、光を入れなければならないんだ」

「新しいのは海中の浮きから、柱で海面より上に板を支えるから大丈夫よね」

「まあね。続けるよ、アメリカやアフリカでは、幅制限より空気や光を入れることを選ぶみたいだね。マングローブは幅が必要だから、あの波力発電のエネルギーで底に空気を入れている。その空気を調節することで、擬似的に潮汐を作っているんだ──実際の潮汐に合わせて。潮汐がないと、マングローブはうまく育ってくれないしね」と、春おじさんが鳥が群がる空気抜きの塔を指差し、

「そして浮力を得るため底にためた空気は、干潮の時間にあの塔から抜いてるんだ。中のタービンでエネルギーを回収して」

 ゴムボートを持ち上げて第二防波堤を乗り越えると、

「ここからは単に、擬似的な海底として板が沈んで固定されているだけだ。いくつか島もあるけど。それがここから約二・三キロ沖まで続いて、最終的な端がほら、あの隙間があって出入り自由な第一防波堤で、ここを波穏やかな内海にしているんだ──それで全体の幅は五・五キロ、ってわけ」

 春おじさんが指差した向こうに、隙間だらけの歯並びのような第一防波堤が、互いに隙間をカバーして二重に並んでいる。その上にずらりと白い海鳥が並んでいる。

「その外も、数キロ貝と海藻を養殖するいかだとかがあって進入、網入れ禁止なの。珊瑚礁ができちゃうから、危険もあるしね」

「あと、ここの底も空気を供給されてて、相当なバイオマスがあるけど、それは利用しにくいのよ」

「そこまで見に行く?」

「それとも、ほら」

 と、春おじさんが水のぞき──単に、底をガラス張りにした箱──を海につけ、岡野に示した。

「すっごい」

 まあ、そりゃこれだけたくさん魚とかがいればな──海藻が多いから、あまりよく見えないと思うけど。

 ここで多くの魚が産卵し、食べ、食べられる。

 直接流したら海を殺しかねない汚水が、このマングローブでゆっくり浄化されていい栄養になる。

 肥料分は日光と暖かい海水で膨大なプランクトンになり、卵からかえった魚を育てていく。それが回遊しながら大きくなったのを、人間がたっぷりいただくというわけだ。

 もし何も考えず、汚水汚物全部流したらメガフロート地帯周辺は汚染されて漁業は不可能になり、肥料分の大半は急速に三〇〇〇メートルの海底に沈んでいくことになるが、この形ならほとんど何らかの形で再利用できる。

 マングローブから直接は、増えただけの木材やラクダの飼料になる葉、ニッパヤシの樹液、海藻、貝、海鳥の卵や糞をいただいて──といっても、あまりここには入りたくないんだけどな。

 この無数の虫も、結局は魚や鳥、トカゲ、カエル──クモに食べられる。食ったのも何かに食べられて──食うだけで、死体は焼かれるのは人間だけか。


 さて、いいかげん漕ぎ疲れてるんですけど──またあのマングローブを縫って帰るのか……はあ、まあこれで今日の分の運動は──必要量の五倍はやってるぞ、くそ、明日はバスケだよ……でも、春おじさんと葉波の前で弱音は吐けないからなあ……

「次のタンカーが来るまであちこち探検しようか」

 勘弁してくれよ、クモが──。

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