第8話 契約書の盾
わたくしは、静かに玄関ホールの扉を開けました。
「……何の騒ぎですの? ここはわたくしの私有地。事前のアポイントメントもない訪問者は、マナー違反ですわ」
目の前には、土足で踏み込んできたカシアン様とセシリア。
その後ろには、気まずそうに目を逸らす父の姿がありました。
カシアン様は、豪華な絨毯の上で傲慢に顎を突き出します。
「オリビア! お遊びは終わりだ。この領地をアステリア公爵家に返還しろ。不当に奪った資産を、王族の名において没収する!」
(……没収? 法的根拠がガバガバすぎるっすね)
心中で冷ややかな溜息をつきました。
わたくしは、背後に控えるリュカに視線で合図を送ります。
彼はいつでも剣を抜けるよう、鋭い眼光でカシアン様を射抜いていました。
「返還、とはおかしなことを。ここはあの卒業パーティーの夜に交わした契約により、わたくし個人が『永久所有権』を持つ土地ですわ」
「黙れ! あれはあくまで、お前に管理を任せただけに過ぎない! 情けで貸してやっていたものを、私物化するとは卑劣な女だ!」
カシアン様は、叫びながら父を促しました。
父はおどおどとしながら、声を絞り出します。
「そ、そうだオリビア。今までお前を育てた養育費と、この領地を相殺することにした。今すぐ権利書を渡せ」
(相殺、ですって? 笑わせないでほしいわ)
わたくしは、懐から一枚の羊皮紙を取り出しました。
あの断罪の場で、カシアン様が自ら証人となり、王印を押したあの公文書です。
「お言葉ですが、相殺は成立いたしませんわ。この契約書には『一切の扶養を断ち、公爵家との絶縁を認める』と明記されております。この条項が意味するのは、過去の養育費を含むすべての債権を、公爵家側が完全に放棄したという事実です。絶縁とは、これまでの貸し借りをすべて清算し、関係を『ゼロ』に戻すということ。今の貴方様方は、わたくしに対して何ら請求を立てる法的根拠を持たない、ただの『赤の他人』ですのよ?」
わたくしは、カシアン様の目の前で契約書の「王印」を指し示しました。
「これは国家の象徴である公的な権威物によって証明された、確定済みの権利です。これを覆すということは、貴方がた自身の署名と、王家の信頼を自ら汚すことになりますわよ?」
「くっ……! そ、それは……」
カシアン様の顔が、みるみるうちに青ざめていきます。
彼は、自分がどれほど重い「法」の盾をわたくしに与えたのか、ようやく理解したようです。
「お姉様! そんなのずるいわ! その紙なんて破り捨ててしまえば……」
「セシリア。これは知的成果物として、王都の鑑定士ギルドと法務局にも写しが保管されていますわ。原本を破ったところで、わたくしの所有権は揺らぎません」
わたくしは一歩、前に踏み出しました。
「現在、貴方がたが行っているのは『不法侵入』です。今すぐ立ち去らないのであれば、領主としての権利を行使し、警備隊を呼びますわ。……リュカ?」
「……いつでもいける」
リュカが低く応じ、わずかに魔圧を放ちました。
彼の「呪い」の影響か、カシアン様たちが身につけていた高価な魔導具が、一斉に機能を停止して明滅します。
「ひっ……! お、覚えていろよ、オリビア! こんな呪われた土地など、こちらから願い下げだ!」
カシアン様は、吐き捨てるようにして逃げ出しました。
セシリアも、泥だらけになったドレスの裾を掴んで後を追います。
(勝負あり、っすね。法を制する者が商売を制する。基本中の基本だわ)
嵐が去った後の静かなホールで、わたくしは契約書を大切に畳みました。
リュカが、隣で静かに息を吐きます。
「……見事だった。あんたは、自分の足で立つと決めたんだな」
「ええ。わたくしの資産は、誰にも奪わせませんわ」
わたくしは、勝利の余韻に浸りながら、次なる「商談」へと頭を切り替えるのでした。




