三欲の儀
私が高校生の時に友人のユキコから聞いた話だ。暇つぶしの怪談話の産物で、実話だとか助けを求めているだとかそんな真面目なものじゃない。
ユキコ自身もこれは嘘だと言っていた。それをわかって聞いて欲しい。
「これは私が小学校に上がるよりも前の話」
ユキコの家には毎月16日の夜になると、和寿さんが来るのだという。
親しく呼んでいるが、親戚の叔父さんというわけでも、父の会社の人というわけでもない。ユキコの家族にとって全くの赤の他人。それなのに、父も母も16日は決まって上機嫌になる。
「ねえ、今日はどこかに食べに行こうよ」
不機嫌なのはユキコだけだった。物心がついたその時から和寿さんは毎月欠かさず同じ日に来ていたが、それでも到底受け入れられるものではなかった。
「ダメよ。今日は和寿さんが来るんだから」
そう言って普段は食べない豪勢な料理を作る母。
「そうだぞ。なんたって和寿さんが来るんだからな」
嬉しそうにワインセラーから一本のボトルを取り出す父。
何を言っても無駄だというのはわかっていた。それでも言わなければならない。ユキコにとって和寿さんは悪魔のような存在だったのだから。
——ピンポーン。
「ねえ出ないで。お願い出ないでよ」
「はいはい。頑張ったらケーキ買ってあげるからね」
腕にしがみつくユキコを宥めながら、母は受話器を手に取った。
「はーい。あら、和寿さん。お待ちしてました」
「今晩は。奥さん。今日もお綺麗ですね」
「あらやだ和寿さんったら。インターホン越しですよ?」
まるで新婚のように名前を呼び、楽しげに笑う母が怖くてしかたなかった。普段優しい母が、普段通りに振る舞っているだけだというのに、ユキコの胸には縛り付けられたような苦しさがあった。まるでパラレルワールドに飛び込んだような、自分だけが正常でいられない恐怖。
それでも逃げずに、母親の側を離れようとしないのは、ユキコにとって頼れる存在が家族しかいないから。
建て付けの悪い門がガシャんと音を立て、砂を踏む足音が聞こえてくる。やがて、すりガラスの中に腰の曲がった男の姿が映る。母は意気揚々と玄関の扉を開けた。
「いらっしゃいませ和寿さん」
「どうもです。奥さん。今日も楽しみにしています」
「おお、よく来てくださいました。和寿さん。ささ、こちらへ。この日のためのとっておきがあるんですよ」
「どうもです。旦那さん。今日も楽しみにしています」
ですがその前に。そう付け加えて和寿さんはゆっくりとユキコを覗き込んだ。
和寿さんは、優しい顔をしている。黄金比の面長で、よく整えられた白い髪。垂れ下がった眉。穏やかな目つき。凛々しい鼻。和やかに歪む口。そこから奏でられるゆったりとした口調。シミも出来物もない艶のある肌。美形というわけではないが、微笑まれたらつい微笑み返してしまう、そんな顔をしている。
そのせいか、前傾の背中が異様に映る。
まるで常にお辞儀をしているような角度。首だけが前に垂れ下がっているのではなく、腰の辺りから丸みを帯びてており、それでも顎を上げているためか、その姿に汚いといった悪印象は受けない。むしろ人間離れした姿勢にはどこか神秘性を感じさせる。
そんな和寿さんだから、目と目を合わせると異様に近く感じる。膝を曲げて、ユキコと同じ高さに顔を持ってくると、大きな手のひらがあたまに触れた。
「どうもです。ユキコちゃん」
「……どうも」
挨拶を返さなくては母に怒られた。それでも幼稚園で習うキチンとした挨拶までは要求されない。それは子どもだったからなのか、和寿さんを否定する言葉でもあるからか。
貼り付けた優しい笑顔を見せる和寿さんに、ユキコの内心は色んな感情がごちゃ混ぜになっていた。両親に対する哀しみと怒り。和寿さんへの恐怖。これから起こることの不安。断言できるのは、それらが決して楽しいものではないことだった。
「ユキコちゃん。何歳?」
「……六歳」
「ならまだまだだねー」
このやり取りを毎月する。それが一つの儀式であるような決まり文句。
「それでは、『三欲の儀』を始めます」
和寿さんは徐に立ち上がると、ユキコの手を掴んだ。
「痛い! 離して!」
さっきまでの穏やかな雰囲気が嘘のように、腕に痕が残るほど強い力で引っ張られる。玄関からズリズリと、抵抗しようと後ろに倒れてもまるで意味はない。
そしてユキコは家の外に放り出された。
「『三欲の儀』の間、子どもは家にいてはいけない」
およそ七時から翌日の七時まで。ユキコは家に入ることを禁じられる。無情に閉じられた玄関は、ガチャリと音が鳴り、叩こうが蹴ろうが誰も反応しない。
聞こえてくるのは和寿さんの柔らかい声。それが規則を押し付けてくる。
「欲望を抑えるのです。ユキコちゃん」
食欲。睡眠欲。性欲。人の持つ三大欲求。
「一食を抜き、一晩を明かし、一人を過ごす。それこそが『三欲の儀』」
それが、夏ならまだマシだった。蚊が気になるところではあったが、死ぬわけでもない。一人で過ごす夜の寂しささえ凌げれば苦はほとんどない。
今日みたいな冬は最悪だった。凍え死ぬ寒さの中、飲まず食わずで一晩を過ごすのはとても耐えられるものではない。人肌を恋しくは感じても、寂しさなんて感じる余裕すらないのだ。
とはいえ成長するにつれて悪知恵が働いてくる。一階のリビングとは別の部屋の窓の鍵を開けて、家に入ろうとしたこともあった。庭の物置に毛布や食品を隠したこともあった。
「実に悪い子。悲しいですね。悲しいですね」
だが、その全てをお見通しだと言わんばかりに和寿さんが邪魔をする。そして両親に怒られるのだ。悲しまれるのだ。ああ、どうしてと。
だから耐えるしかなかった。
その日も耐えていた。町内を走り体を温め、喉が渇いたら公園の水飲み場を利用する。生きるのに必死になって、編み出した16日の過ごし方。
それでも家族の温もりを忘れられず、時折家の前を歩く。そんな時だった。
リビングのカーテンから光が漏れていた。
僅かな隙間、そこから中を覗けたのだ。
子どもを家の外に追い出して、大人たちは何をしているのか。どうして父も母もあんなに上機嫌になれるのか。
ユキコは両親の顔が見たくて覗き込んだ。
目に飛び込んできたのは母だった。エプロン姿のまま、髪を解いていた。食卓に手をついて、片付けをしているように見えた。表情は笑顔にも見えたし、苦しそうにも見えた。
その背中に裸の和寿さんがいた。あの特有の猫背が母の体にピッタリと寄り添って、前後にゆっくりと動いている。
父は、その真横で眠っていた。机に顔を突っ伏して、母は揺れ動きながら父の寝顔を時より見ていた。
見てはいけない。けれど目を離すことができなかった。異様な家庭を、知らない家庭を、ユキコの脳は処理できなかった。
「子どもが欲望を抑えるのなら、大人たちはその反対。欲望を解放するの。豪勢な食卓。豪快に眠る父。豪……肌を重ね合う母と和寿さん。これこそが、『三欲の儀』」
話終えたユキコは私たちの表情をクスリと笑って、全部作り話だと言った。
この話をユキコが語った日が、ちょうど16日だった。私はそれをオチにしても良いかと思ったのだ。
例えば——
「それじゃあそろそろ帰るね」
「なんで? ユキコ、木曜は塾とか行ってないじゃない」
「だって……今日は16日だから」
——という風に。
というよりも、その後のやり取りで実際にそんなことを言い合っていたはずだ。
だけど、思い出したのだ。私たちはその時高校生だった。最後の女子高生、LJKとも言われる高校最後の年だったのだ。
18歳。ユキコはもうすっかり大人の女になっていたのだ。
母親が食を、父親が睡眠を担当するのなら、ユキコは何を担当するのか。……考えたくもない。
そんな思考に行き着いてから16日が近づくと、久しぶりにユキコに連絡を取ってみようかと思うことが何度もある。
しかし、LINEの既読は未だにつかない。
あの日、ユキコが最後にどんな表情をしていたのか、私はどうしても思い出すことができない。もし、この話がSOSだったなら。それがずっと気がかりでならない。
でも、それなら、だって、おかしいじゃないか。
6歳の子どもが夜中外にいて、警察に相談されないなんてことがあるのか?
なんで16日なんて中途半端な日付なんだ?
それ以外の日、和寿さんは何をしているんだ?
疑問がつきない。創作色が強いんだ。
だから、きっと、この話は嘘なんだ。
そう願っている。




