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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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怪物の館

作者: 不死猫

 鬱蒼と木々がひしめき、奥には常に濃い霧が立ち込めている……不気味で、おどろおどろしい気配を感じさせる森の前には、緑に塗れ、朽ちかけた立て札が置かれている。

 長い間雨風にさらされ、所々削れて読みにくいが、そこには「ここより先、死が棲む。踏み入る者、帰らず」と言う文字が刻まれていた。

 Fluchwald (フルーフヴァルト)der (・デア)Totenbrut(・トーテンブルート)……死の子らと呪われた森、と古い文献にそう記された森があった。

 トーテンブルートの森とも呼ばれ、近隣の村々の人々は決してそこに立ち入ろうとはしない。

 なぜか?

 その理由は誰も知らない。

 この森には怪物が住まうと言うものもいる、魔女の棲家という者も、呪いだなんだと騒ぐものもいた。

 しかし、真実は未だにはっきりとはしていない。

 ただ一つわかっていることは……この森に入り、生きて戻った者はいないという事実だけである。 


 森に潜むナニカは、決して侵入者を許さないだろう。


 ◇


 ひとかけの人間の痕跡すらもない、植物と獣の世界が広がる森の奥深くで、一つ。その屋敷は、ポツンとそこに建っていた。

 ザーザーと、外で雨粒が木を、草を、花を、屋根を打つ音が絶え間なく響き渡る中。

 まるで生活感のない屋敷の一室で、蝋燭の火がぼうっと灯る。

 止まっていた時間が動き出し……時計の針は、終わりの始りを刻々と刻み始めるのだ。

 永久を望む……あなたの手によって。


 ………

 ……

 …


「ん……」


 ひんやりとした隙間風とくすぐったい束ねた糸のような何かが男の顔を撫でた。

 意識がぼんやりとした微睡から覚めれば、夕日色に燃える蝋燭の灯りに照らされ、うっすらと赤みを帯びた金髪の少女の真っ赤な瞳が目に映る。


「気が付きましたか?」

「……ここは」

「すみません……ここがどこなのかは、私たちもよく分かってないんです。気がついたらここにいたので」


 覗き込むように男を見ていた少女は、そう言って顔を伏せ、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 しかしそんなの気にもせずに呑気な事で、人生初の膝枕への興奮からか……頭、柔らかくて幸せだな……と男は思った。

 少し顔を傾ければ、壁際に座る高級そうな服装の貴族風の男女二人と、腰に剣を佩た黒い服の男が一人、そして、ハイカラな姿の少女が一人いる。

 それはこの場所、いやこの国でも珍しい、この金髪の少女と同じ、まるで一枚の長い布を身体に巻いているだけのようにも見える風変わりな格好……おそらく鎖国を謳う極東からの密輸品か、はたまた出身がそちらなのかは定かでないが一言、動きにくそうだとしか言いようがない。

 しかしその色模様は見事なもので、暗く渋い赤紫色の布地……男の知識にはないが、彼の国では二人静と呼ばれるそれは、艶やかな黒髪にはよく映える。

 彼女は白い布を巻かれた細長い棒状の何かを肩に抱え、はだける裾を気にする事なく胡座をかく。そして硝子玉の如く空虚な紅の瞳でじっと自分を睨みつけているのを男は飄々とした様子で笑うのである。


「ところで、美しい金髪のお嬢さんこの後一緒にティーブレイクなんていかがかですか?」


 いまいち状況は掴めなかったが、男はとりあえずのナンパを決める。


「えっと、その……お気持ちだけで」

 そして振られる。いつものことだ。

 通算108回目の玉砕に顔色ひとつ変えず、男はさらなる微笑みを少女に返した。


「おい、変態野郎……若い女のひざぁ堪能する余裕あんだったら、さっさと起きたらどうだ? それとも力ずくで起こされたいか?」

「黒髪のお嬢さん、この後––––」

「死ね」

「……」


 起き上がった。胸を押さえながら。

 男は襟を正すと、膝枕をしてくれていた少女の隣に座し、懐から取り出した細長い煙管(キセル)をふかし始めた。

 黒い娘と違って、彼女は特に嫌な顔をすることはないが、気まずげに視線を右往左往とさせているのが少々申し訳なく感じる。それでも先程から鋭いガンを飛ばす娘の近くに座る勇気はなかった。

 煙管の先から、揺らぐ紫煙をくゆらせながら、部屋全体を視界に納め、そして最後に少女たちへと視線を戻す。


「フー……此処がどことか、どうして此処に、とかは一先ず置いておいて、私はジャック。ジャック・ダニエル。お嬢さん方、良ければ名前を教えてください……あと友達からお願いします」

「変態の名前とか興味ねーよ、気持ち悪い」

「ちょっと姉さん……!」

「……………………」

「な、なんだよ」


 若い娘の素直な言葉の刃の滅多刺しに、ジャックは何も言わずに、ただ”見る”で応えた。

 目から決して少なくない量の涙を垂れ流し、血走った眼球はじっと彼女たちを見つめている。


「お、おい、なんとか言えよ」

「……………………」

「ね、姉さん、名前くらいいいじゃないですか」

「でも」

「……………………」

「分かったよ! いいよ名前くらい! でも友達からとかはないからな、そこは履き違えんなよ!!」

「分かってますよ」


 恥を重ね、大人としての尊厳を多分に失った、しかし、それでもその甲斐はあった。

 黒髪の彼女が折れたのを確認し、二人から見えないように顔を背け、ジャックは「計画通り」と静かに口角を吊り上げる。


「……黒」

「私は白です」

「……それが名前、ですか?」

「名前、と言うわけでもないのですが……まぁ、あだ名ですね。姉さんは髪が黒いから黒、私は金髪ですが、黒と一緒にいるから白といった感じです」

「俺らは、名前なんてのを持ってないんだ……昔はちゃんとしたのがあったんだけどな」

「そうですか……」


 ジャックは言葉を失った。

 自分の生まれた月日を忘れるものもいる故、百歩千歩と譲って、名前を忘れたと言うならありえないと思うがまだわかる。

 しかし、彼女達の表情が、それは違うと言っている。

 ……奴隷制の廃止が宣言されて久しいと言うのに、そんな奴隷の真似事をどこのどいつが、と一瞬考えたが、すぐにジャックは自分がどうにかできるものでもないかと結論づけた。

 どうしようもないことにいちいち頭を使わないのが数少ないジャックの美徳である。


「お二人とも大変な事情をお持ちだと言うことは分かりました。 それで、そちらのお三方は何者ですかい?」


 少し声を張り上げて尋ねると、三人は同様に不快感を隠しもせず、眉間に皺を寄せジャックを睨む。

 睨んだまま何も言わない……。


「……あ、無視ですか、そうですか」

「あいつらは最初からあんな感じだ……平民にしか見えない俺たちを見下してる、典型的なお貴族様さ」

「あー私の大嫌いなタイプですね」

「気が合うな、俺もだ。まぁ、あんな奴らの事なんざ気にするこたぁねーだろ」

「ええ、ですが……一人」

「あぁ、あの黒装束……なんかヤバそうな雰囲気してやがる」


 腰に剣を佩たその男は、二人の貴族の男女と同じように、不快感を含んだ目でジャック達を見ているが、その瞳には、別の感情も同居している。それはただの、格下への哀れみか……それとも、ドス黒い悪意の塊か……。


「まぁ……どっちでもいいですがね」

「え?」


 黒がジャックを見ると、彼は、どこまでも虚な瞳をその黒装束の男へと向けていた。その時のジャックがどんなことを考えているのかを黒には……読み取ることはできなかった。

 だが、理解のできない、得体の知れない何かを感じ取り、今まさにジャックが、自分たちが、累卵の危うさの渦中にあるのではないかという恐怖が、黒の身体を震わせた。 願わくば、それが、気のせいでありますようにと、黒は白を見つめながら、懐の十字架を握りしめるのだった。


「それで、どうします? 屋敷の出口でも探しますか?」

「あー言ってなかったが、お前が目覚める前に屋敷は調べ終わったんだ。この大部屋の外には長い通路があって、いくつかの部屋もあった。通路の終わりの下りの階段で階下に降りたら、出口も見つけた……だけどなんでか知らねーが外には出られなかったんだ」

「どういうことです? 鍵でも閉まってましたか?」

「いや、鍵は空いてたんだ。信じられるか? 鍵は空いてるはずなのに、扉は開かねーんだよ……外から釘でも打ってんなら分かるが、そんな様子はどこにもねー。それに、釘を打ってたとしても、鍵が空いてんなら多少は動くはずなのに、ぴくりともしやがらねー」

「なるほど……それは不思議ですね。他に、何か変わったこと、不思議に思ったことはありましたか?」

「えっと……この部屋と屋敷の全部の部屋の扉が開けられてたことと–––––––––––誰もいないはずなのに、屋敷のどこにも、埃一つ落ちていなかったこと、くらいだな」

「誰もいないのに……?」


 ……埃一つない、それは人の手によって手入れが行き届いているということ。

 つまりは、手入れを行う人間がいることの証左である。

 ジャックと黒は、チラリと貴族の男女、そして黒装束に視線をやったが、すぐに戻した。

 たった一人二人でこの広い屋敷に手入れをすることなんて不可能であると結論づけた。


「まぁ、考えても仕方がないか……とりあえず俺たちはこの後、この部屋を出て別の部屋に移るつもりだ」

「あれ、そうなんですか? 一体どうして……」

「こんな危険そうな奴らと一緒にいられるわけがねーだろうが」

「それもそうですね、危険な香りがぷんぷんと匂ってきます……」


 正直な黒の言葉に、ジャックはこりゃ一本取られたと、笑い声をあげた。


「ですが、人数が多いのは一応メリットでは?」

「デメリットがデカすぎるわっ。メリットのがあると思うならお前もここに残ればいいだろ。俺たちはもういくよ」

「そうですか……ま、私も行きますけども」

「そうかよ……あ、お前は俺たちと別の部屋使えよ?」

「………………分かってますよ」

「間がなげーよ」


 そうして三人は扉の外に出る。

 そこには話の通り、開け放たれた6つの部屋が、左右に3つずつ並んでいた。

 黒はその部屋の中でも、この大部屋から最も遠い左の部屋に目をつけた。

 三番目の部屋の扉をくぐり、その後を白とジャックが続く。


「おい」

「なんでしょう?」

「なんで付いてくんだよ! お前は向こうに行けばいいだろ?」

 黒は向かいの部屋を指差した。


「女性二人だけなんて危険すぎますよ、ここはひとつ、男の私がお二人をお守りしようと」

「お前がいる方が危険だわ! いいからどっか行けよ、お前と一緒に夜を明かすとか死んでも嫌だわ」

「そんな……なら、これでどうにかなりませんか!!」


 ジャックが取った行動は土下座。だが、普通の土下座と違う点が一つある、それは……相手に逃げられないよう、両手で足を掴んでいる点である。


「おい、まじでやめろ! おい、ちょ、はな、離せって」

「ダメですか?」

「ダメだ」

「靴を舐めます」

「いらんわ! いいから離せ変態!」

「嫌だ、私は絶対諦めません!」

「いったい何がお前をそこまで突き動かすんだよ!」

「恥ずかしながら性欲です」

「本当に恥ずかしいなっ!」

「あー良いではないか良いではないか〜」

「あーれーじゃねーよ! 帯び引っ張んなアホ! ってなんでそれ知ってんだよお前ぇ–––––––ッ」


 色々あって、ジャックも部屋に入ることができた……すみっこだが。

 ジャックのすぐ目の前には白線が引かれ、超えたら殺すと黒に言われている。

「シクシク……シクシク……」

 信用を得られなかった悲しみに、ジャックは枕を濡らして夜を明かすのだった……。

「やかましいわ!」


 ………

 ……

 …


「なぁ……あんた、混ざり物って知ってるかい?」

 うつらうつらと夢の彼方に飛び立ちかけていたジャックは、黒の唐突な問いかけで目を覚ました。


「聞いたことはありますね……確か、人間とも動物とも異なる怪物ー陰者。彼らと人間の間に産まれた子供のことでしたっけ? その子供は怪物でも人間でもない半端者であることで双方から疎まれ、そして人間には見つかったら即殺されちまうとか……数十年前の怪物狩りで陰者も混ざり物も大量に殺されて、巷じゃ絶滅したんじゃ? って言われてますねー」

「あの貴族の男女、覚えてるか?」

「ええ」

「俺はあの二人を前に見たことがある……昔、ここみたいな森の中を歩いてた時だ。あいつらは、奴隷として違法に手に入れた混ざり物達を森に放ち、獲物として狩りんでやがった……私は、あの光景が、奴らの笑い声が忘れられない。噂によるとあいつら、人間も狩に使うことがあるらしい。こんな状況だ、あいつら……もしかしたら」

「タラレバの話はやめましょう……襲ってきたら––––––殺せばいいでしょう。それで? その話と混ざり物、なんの関係があるんです?」


 あっさりと、同じ人間を殺すというジャックの言葉に、驚き、二人は伏せかけていた顔を上げた。


「あんた……混ざり物に偏見はあるか?」

「いーえ……? 私にゃぁ混ざり物も人間も対して変わりません……襲ってきたら両方殺す、同じことです」

「そうか……」


 ジャックの返答のどの部分からか、二人は、先刻より幾分か表情が明るい。


「俺たちは鼻がいいんだ。あの黒装束……鼻が曲がりそうなほど、怪物、混ざり物の血の匂いを漂わせてやがった。多分、怪物狩りだと思う。それとお前からも、そんな匂いがする」

「……まぁ、人も怪物も、殺してきましたから」

「そうか……」


 部屋にはしばしの沈黙が訪れた。

 ジャックは、殺してきた彼らを思ってか……煙管に口をつけ、静かに目を閉じる。


「ふー……6人中4人が怪物と関わりがある、この流れじゃぁ」

「あぁ……俺たちは人と怪物、どちらでもあり、どちらでもない半端な者…………混ざり物だ」

「なるほど……これは、偶然って言えますかね」

「……無理があるだろ」

「はぁ、つまりは何者かが意図的に怪物と関わりのある者を集めた……か」

「ああ」


 彼女達の正体は、会話の内容から予想していたため、ジャックには特に驚きはなかった。

 しかし、やはり腑に落ちなかった。

 その何者かは、どうして自分たちを、怪物に関わりのある人間を集めているのか……。


 三人は知らない……この場所がどんな場所なのか。

 この場所が、どれほど夥しい怪物、混ざり物、人間の屍の上に成り立っているのかを。


 ◇


 悲鳴は突然轟いた。

 それは会話を終えて少し、夜もふけ、みな眠気を感じ始めた時分。


「なんだ……!?」

 飛び起きた三人はすぐに、そして慎重に大部屋の様子を確認する。

 部屋の中まで見通せるようになっていたはずのそこは、いつの間にか頑丈な扉によって締め切られており中の様子を確認できない。


「閉まってる?」

「誰かが扉を閉めたんでしょうかね……」

「姉さん、どうします?」

「……行くしかねーだろ」


 黒は、今までずっと抱えていた棒状のそれから、白い布を取り払う。


「それって……マスケット銃ですか?」

 それは白銀のマスケット銃。

 一昔前から戦争歩兵の主要武器であり、その意匠からかなりの


「そ、俺の愛用」

「いいもん持ってますね、じゃ私はこれで」


 ジャックが取り出したのは、なんの変哲もない錆びたナイフを一本だけ。


「きったねーな、ガラクタかよ」

「失敬なっ、長年苦楽を共にしてきた相棒ですよ! それで、白さんは……」

 ジャックが白を見ると、白の手にはいつの間にか黒のマスケット銃と同じ白銀の細剣が握られていた。

 どこに持っていたんですか……? なんて、ジャックは聞かない。

 仲間でもない人間に手の内を晒す馬鹿はいないのだから。


「それじゃあ、いきましょうか……」


 扉の外から、中が見えるくらいの隙間があればと期待していたが……扉の前に着いてその期待は砕かれた。ネズミ一匹どころか、どんな小さな隙間からでも家に侵入してくる黒いあんちくしょーすらも通さない程に扉は閉まっていた。

 少し押してみれば蝶番がキィと音を立てた、鍵はかかっていない。

 三人は目配せの後、ジャックは一気に力を込め、黒が勢いよく扉を蹴破った。


「……ッ」

 扉の先には……”死”が広がっていた。

 部屋に充満するむせかえるような鉄の匂い。

 床、壁、天井……四方八方上下左右関係ない。綺麗な場所を探す方が難しい、血と臓物の飛び散った凄惨さに、ジャックは笑い、黒は嫌悪し、白は恐怖した。

 ……見つけた三人の死体は全て心臓を貫かれて死んでいる。

 争った形跡は見られず、皆、気づく間もない即死であったのだと見てとれた……だが、その下手人の姿はどこにもない。壁にも天井にも、隠れる場所なんてありはしない。

 このような、人間の理解を超えた”現象”を引き起こせる者など決まっている……。


「確定だな……この屋敷のどこかに何かが潜んでやがる……クソ、どこだ、出てこいよ!!」


 ーーダァン!

 弾丸が、天井に小さな穴を開け、パラパラと砕けた木屑が落ちる。


「出てきませんねー……弾の無駄では?」

「黙ってろ!」

「姉さん……それ一発いくらすると思ってるんですか?」

「うっ」


 ダラダラと滝のように額に夥しい量の汗を流す黒……その背後に、ディアブルのごとき禍々しい何かを幻視させる白の笑顔。

 黒は振り返らない、いや振り返れない。


「姉さん……今は非常時なので何も言いませんが、何発も無駄遣いできるほど私たちはお金持ちではありませんからね?」

「う、うん、わかったよ」


 黒は背を向けたまま何度も何度も頷いていた。

 その様子を盛大に笑っていたジャックは、その後すぐにマスケット銃で殴られた。


「で、どう思う?」

「この惨状を見るに、敵は人間でないのはほぼ確定……あとは、どうやってこの部屋から消えたのか、それとも本当に消えたのか」

「ん? どういう意味だ」

「この三人の中に混ざり物がいて、死んだふりでもしているんじゃって話です」

「えぇ……でも三人とも心臓貫かれてんだぜ? 俺たちはこれまで何人も怪物、混ざり物を見てきたが、心臓潰されて無事な奴はいなかった」

「ええ……そうですよね。考えすぎでした」


 ジャックは、ただ一人心臓を潰されても、頭を砕かれても無事だった混ざり物の彼女のことを思い浮かべた……だが、すぐに頭を振り、その考えを払拭した。

 だって……彼女がここにいるなんて事は、絶対にあり得ないとわかっていたから。


「じゃあ、なんらかの能力で逃走したってことになるな……」


 人外の怪物達は、稀に摩訶不思議な能力を持つ者達がいる。獣系の怪物は五感と身体能力に優れているとか、火の玉を操るなんて奴……脳裏によぎる今まで出会ってきたそんな怪物達に、黒は顔を顰めた。


「物体をすり抜けるタイプか……いや、それだと三人を殺せた理由にはならないし。透明化か?」

「いや、この方達の死に方的に、杭かなんかで心臓を貫かれてますよ……確か透明化みたいな特殊なタイプは基本非力なはずでしょう」

「いや、例外もあるぜ?」

「それだったら、もうこの瞬間に私たちが殺されてなきゃおかしいでしょ……どちらかというと、何か、物を操ったと考えたら辻褄が合いませんか? ほら、あの黒装束とか剣持ってますし」

「物体操作ってーと有名どころは幽霊、あとは妖精……か? どちらも人を殺せるほどの操作能力はなかったと思うが……っ」


 一瞬、黒の思考の端で何かが引っかかった。


(確か……極東の国じゃあ、なんらかの縛りを作ることで能力を向上させるなんて術があったな。陰陽道……呪術……縛り……この部屋に入った時、何か違和感があったはずだ。いや、この屋敷を調べてから、ずっと……)


「……あ」

「どうしました?」

「扉、扉だよ! 今、扉は空いてるか!」


 ギィ––––ッと、錆びた金属の擦れる音が部屋に響いた。

 黒達がそれに気づき、扉に手を伸ばした時にはもう、手遅れだった。

 もうすでに、『密室』は完成していた。完成してしまったのだ。


 突如として部屋に響く、屋敷が軋むような音と振動。


「一体、何が起––––––ぐぁッ!?」


 ジャックが言い終わる前に、その体は側面からの強い衝撃に耐えられず、錐揉みして吹き飛び、部屋の端っこの壁へぶつかり止まる。

 全身から夥しい量の血を流し、右腕があらぬ方へ曲がっていた。

 自分を攻撃したものへ視線をむけると、南国のヤシの木のように細長く垂れ下がった”天井”……。

 全員が理解した……さっきの音は、屋敷が作り替えられた音であり、この部屋にいた三人がどのようにして殺されたのかを。


「「「––––––ッ」」」


 死に体となったジャックに対し、黒と白だけでなくジャック本人ですらも自分の体に配慮する余裕はなかった。

 皆、突然、部屋の中央に現れたそれに釘付けになっていた。

 それは白いワンピースを着た半透明の少女。

 それは確かに人ではなかった。

 それは怪物の中でも妖精と呼ばれる類の、か弱い存在。

 能力といえば、小石を浮かせる程度のものであり、決して、屋敷そのものを操り、人間を殺せるような代物ではない。

 だが、黒の予想は概ね正しかった。

 それは、自分に縛りを課していた。この広い屋敷に人間が侵入すれば、たちまち屋敷の出口を閉ざし……その後、締め切られた屋敷の中で、誰かが扉を閉じた二重の締切による『密室』という条件でのみ、それは完成するのだ。

 そうして、全ての条件が満たされた。

 今この瞬間、解き放たれた”死”が、侵入者を駆逐せんという理不尽なまでの絶対的な”死”が、舞い降りたのである。


「出てって……出てってよ……なんで、また……嫌、私のうちに入って来ないでよ!!!」


 少女の絶叫と共に、部屋がうねる。

 攻撃が飛んでくるまで数秒とないが、二人の行動は迅速だった。


 ーードン! ドン! ドン!


 マスケット銃、それも珍しい後装填式。

 装填の早い後装填式とは言え、一度に一発しか打てないというマスケット銃では考えられないほどの速度で装填を繰り返し、白銀の銃口から放たれた銃弾が三条の軌跡を描く。

 銃弾は怪物特攻の純銀製であり、通常の怪物であれば当たればその部位を破壊し、再生能力を持つ怪物ですら一時的に再生を阻害できる。屋敷そのものを操る能力は脅威であるが、見た目は人間の少女のようにしか見えない。弾丸が当たれば容易くその部位を粉々に砕くだろうと予想できた。


 ……しかし。


「……チッ」


 跳ね上がった床板が、少女の前で壁となり、三発の弾丸はあっけなく防がれるという結果に終わる。


「来ないで……来ないで……」

「何が来ないでだ、ふざけた事抜かしやがって……俺たちをこの家に閉じ込めてんのはテメーじゃねーかよ! 出ていってほしーなら扉開けやがれ!」

「早く出てってよぉおおおお!!」


 天井、壁、床が木の根のように盛り上がると、黒の体を蜂の巣にせん勢いで矢のように殺到する。

 まるで話が通じないことに苛立ちを覚えつつも、黒は走り続けることでなんとかそれを回避すると、打ち終わった銃に再度弾を装填するため弾丸を取り出すと、間髪入れずに進行方向から回り込むように攻撃がやってきた。

 後方と左側面には、既に放たれた攻撃が迫る。唯一の突破口としては攻撃の無い右へと飛び込むことだが、倒れているジャックを横目に、すぐにその案を取りやめた。

 絶対絶命……だけど黒は慌てなかった。


「白!」

「はい!」


 右に飛び退いた黒と入れ替わるように、白が前に出る。

 細剣を水平に構えた次の瞬間、迫る攻撃は全て横に外れ、白の顔の横を通り過ぎた。


「”あ”ぁッ!?」

 同時に、攻撃の隙をつき放たれた銃弾が少女の右肩を砕いた。


(さすがは双子……息ぴったりです)


 一瞬で攻撃の腹に剣を当て受け流す神技、そして二人の見事な連携にジャックは身体の痛みも忘れて感嘆の息を漏らした。


「痛い……なんで……」


 少女が抑える肩から血は出ていない……。


「やっぱり実体がないタイプですか……」

「あぁ、妖精、しかも家妖精だな。生息域はイングランド方面だろーになんで……って、もう歩けんのか?」

「えぇ、おかげさまで。もっとも、右はもうダメですがねー」


 ジャックは反対を向いた右腕をぷらぷらと振ってみせる。

 それを見て、黒は口元をおさえるようにして顔を背けた。


「どーせ足手纏いだし寝てろよ」

「寝たままじゃーもっと足手纏いでしょう? さっきみたいに」

「……勝手にしろ」

「ええ、そうします」


 戦闘中にも関わらず隙だらけの彼らに、少女は攻撃どころか未だに動きを見せない。

 彼女は肩を抑え、ボロボロと大粒の涙を溢れさせながら血走った目で三人を睨む。

 力は大きいが、思考は見た目通り子供のそれだ……と、ジャックと黒は思い、その戦闘経験の未熟さに全員、少女は初見時ほどの脅威ではないと判断していた。

 同時に安堵……油断していたのだ、脅威は目の前の少女だけであると。今この瞬間、自分たちが累卵の危うさの渦中にいることをこの時はまだ誰も気づいてはいなかった。


 その後の戦闘は順調に進んだ。

 狭い部屋を縦横無尽に駆け、攻撃の隙に必殺の銀の弾丸を打ち込む黒と援護に徹する白。二人の連携によって、少女は次第に防戦一方へと追い込まれていった。


「やぁ!」


 そして、遂に今、攻めに転じた白の刃の切先が、少女の喉元へと迫る。


(死んじゃう……死んじゃう……これじゃあ、約束、守れないよ)


 喉を切り裂く刹那。

 少女の脳裏には懐かしいあの日記憶がフラッシュバックとして流れ込んだ。

 それは時の流れが曖昧になるほど昔、留守を任せると言って出ていった、愛しい彼の顔。

 今日までずっと、少女は彼の帰りを待っていた。だけど……心の底では、もう分かっていた。人間の寿命は短く、彼がもう戻ってこないということには。でも、諦められなかった。だって彼は約束してくれたのだから、「絶対に帰ってくる」と。だから、彼がいつかまた、戻ってくる時のために、少女は守ってきたこの屋敷を、この森を。

 だが、その苦しみも、今終わる。


(……ジョン先生……ジョン先生……大好きなジョン・ディー先生……結局、最後まで……帰ってこないし……あぁ、最後くらい、会いたいなぁ)


「––––––ッ」


 一瞬、心に生じた迷いが、白の剣を鈍らせた。

 その瞬間。


 ーーどす。


 白の腹に何かが生えた。

 それは少女の胸を突き破るようにして現れた一本の剣。


「……白?」

「うっ……ぁ」


 血と肉と臓物がそこいら中に散って弾ける。


 白の悲鳴は小さかった。口からダラダラと粘り気のある血が溢れて、白の声は小さくなった。


「しろぉおおおおおおおお!!」 


 ◇ 

 突然の出来事に誰もが動きを止めた。

 先刻までの戦闘の喧騒とは一転して、この部屋は刺すような圧迫感と静寂に包まれている。

 敵だった少女と白、二人の身体は今、一本の剣に刺されて宙にある。


「ククク……はははははははは!!」

 誰かの笑い声が、二人の方から聞こえてくる。

 誰のかなんて、聞くまでもない。それは剣を突き刺した張本人の笑い声。


 そいつが徐に剣を振ると、刺さっていた二人の体はさらに血を吹き出しながら地面に叩きつけられた。


「白!」

 白へと駆け寄る黒と違い、ジャックは顕になった敵の正体に目を見開いた。

 奴の正体顕は……。


「…………は?」

 死んだはずの黒装束の男であった。


「ぁ……かふッ」 

「白! 白!」

 白は口から血を吐き出して、か細い呼吸を繰り返している。

 そして今、黒は冷静さを欠いていた。

 自分の後ろに立つ、敵の存在すら認識できないほどに。


「ふん……まだ生きていたか。穢らわしい混ざり物め」

 男は剣を振って、滴っていた血と油を地面に散らした。

 剣を納め、懐から取り出したそれを見た時には、ジャックはすでに二人のそばへと駆け出していた。


 ーーダァーン!

 響き渡る銃声と同時に、真っ赤な鮮血が辺りに散った。


「うぐぁッ」

 銃弾は、黒にも白にも当たらず、二人と男の間に飛び込んだジャックの左目を貫いた。


「ジャック?」

 倒れ込むジャックと銃を持つ黒装束の男……。


「邪魔が入ったか……。おい、女。そこをどけ、うまく狙えん」


 その言葉で、ようやく、黒は理解した。

 自分たちの敵が誰なのかを。


「……ぶっ殺してやる」


 泥沼のように心を侵す。深い黒い感情が、さらに……さらに……さらに濃く、黒の心を染め上げた。

 頭の中で、何度も誰かが「殺せ」と叫ぶ。

 もう、彼女は止まれない。

 もう彼女の耳に、仲間の静止なんて聞こえない。

 ◇ 


「ハァ……ハァ……」


 半分になった視界の端で、ジャックはマスケット銃と、細剣を握り締め駆ける黒を見ていた。


 相対する男は空の銃を投げ捨て、武器は剣一本のみ。


 銃と剣では勝負にならないと思うかもしれないが……ジャックは黒が男に殺されると確信していた。 


 腹を貫かれ死んでいたはずの男がそこにいた時、ジャックの頭の中は、どうして生きているのかではなく、やはり生きていたかという思いに満たされていた。


 なぜなら、ジャックは男の正体を知っていたから。

 悪魔のような怪物狩りの集団ーコラルム……その構成員の一人。

 元混ざり物だったジャックは、数年前、奴らに襲われ、恋人と混ざり物の力を失ったのだ。

 力を失い、復讐もできず、逃げ出した。

 ジャックの心の奥深くには、ずっと奴らへの恐怖が根付いていた。


 だから、油断していた。

 恐怖の根源が死んだのかもしれない……その一瞬の期待が、全ての恐怖を過去に変え、筆舌に尽くしがたい油断を生んだ。


(それでこの体たらく……か、これじゃあ、あの世であいつに笑われちまうな)

 自由奔放、天真爛漫を地で行く彼女の馬鹿笑いが聞こえた気がして、ジャックは小さく口角をあげた。

 どくどくと血が流れ出し、手指の先から少しづつ全身が寒くなっていくのが分かったが、もう、ジャックには死への恐怖はない。


(もうすぐ死ぬな……、もうすぐ、彼女に会える……。でも、心残りがあるとしたら……まだ若いあの二人を死なせてしまうことか)

 そんな心残りを果たそうにも、瀕死のジャックでは、もはや肉の盾となることもできない。


 なんとか動こうともがいても、体に力が入らず、刻々と迫る死を待つばかりだ。


「ぁ……ぅ、ジャッ……さん」

 諦めて死を受け入れかけたジャックに声をかけたのは、生きていることが不思議と言える重体の白であった。 


「お、おいおい白さん……動けるなら、逃げなよ……」

「いぇ、私には、まだ、やることが……ありますから」


 白は、体を引きづり、地面に血の線を描きながら少しづつジャックの方へと向かい、やがて互いに息が触れるほどの近くまでやってきた。


「白、さん……?」

「ごめんなさい……もう、これしかないんです」

「……!?」


 そう言って、白はジャックの首に噛みついた。その瞬間、何かがジャックの体に流れ込み、傷ついた肉体が再生、いや再構成され始めた。

 彼女は、陰者の血を引く混ざり物……それも、他人を意思なき化け物に変える、希少なパンデミック型の能力を持つ怪物であった。

 たった一体で、国を滅ぼしうる力をもつ伝説級の存在。

 しかし、彼女がこの力を使うのは、これが初めてであった。

 彼女は優しかった……自分のために、他者の命を、人生を歪めることを好まなかった。


 混ざり物と呼ばれる彼らと、人間との違いはたった一つだけ……それは、怪物の因子に適合できる器を持っているかどうか。

 この世界には、怪物狩りによって多く数を減らしたが、それでも人間に紛れて暮らしている陰者の数は少なくとも数十万は下らない。それなのに、怪物狩りの討伐数は近年では減少の一途を辿っている。

 それは、彼らが人間に見つかっていないという事と、陰者と人間の間に子ができても、器を持ち、混ざり物として生まれる可能性は限りなく低いという事実が関係しているのである。


 そして……彼女の使用するこの能力の本質は、自分の陰者の因子の一部をウィルスのように変質し、それを他者に移植すること。器を持たない人間が因子を移植されれば、当然拒絶反応を起こすが……その後、因子は肉体を、人格を破壊し、作り変える……その結果、超人的な力を持った操り人形の完成である。

 しかし……、器を持っていれば別である。肉体は因子に適合し、ただただ強靭な肉体を持った新しい混ざり物の怪物が誕生する。

 ジャックは器を持っていた。

 昔、怪物狩りに襲われ、因子の核となる臓器を破壊され、ただの人間となったが、今でも器は、彼の肉体に宿っている。


 だから……彼女は力を使ったのだ。

 自身に宿る因子を、一部と言わず……全てを。ただ、姉を救って欲しい……ただ、その願いのために……彼女は、命も、力も、魂も全てをジャックに託したのだ。


「どうか……姉さんを」


 潰れた左目も、折れていた腕も、全て元通りとなったジャックは、腕の中で、まるで老婆のように弱々しく、小さく震える白を見つめる。


「分かりました。……白さん、俺に任せて、後はゆっくり休んでいてください」

「ちょっと……眠いですね」

「大丈夫ですよ。起きたら全部……全部綺麗さっぱり解決していますから」

「ふふ……楽しみです」


 彼女は安心したように、瞼を閉じた。

 そうして、とても穏やかな表情で……深い深い眠りに落ちた。


(あぁ……いつもこうだ。いつも……俺の両手から、誰かの命が溢れていく。あぁ……ダメだ、絶望するな、もう散々してきたんだ。散々他人の命を奪ってきたお前に、誰かの死を悼む資格はないんだから……笑おう、笑おう、あぁ……笑え。最後まで、狂ったように道化を演じろ)


 ジャックは立ち上がる。

 湿った煙管を咥え、薄く笑う。


「…………クソが」

 ◇

 黒は距離を詰め、銃剣の間合い……そして奴の喉元へと肉薄した刃は虚しく甲高い音を立てて防がれた。

 鋭い刃と銃口がぶつかり合い、激しい火花を散らしている。

 数合の撃ち合いの末、男の拳銃の銃身にピシリという音が響き、大きな亀裂が走る。


「ちっ」

「うぐっ」

 男は一瞬の判断で黒の腹部に鋭い蹴りを放ち、距離をとる。

 そして使い物にならなくなった銃を放り捨てると、白を貫いた長剣を鞘から抜いた。


「……ッ」

 その剣を見て、黒の銃を握る手にさらに力がこもる。

 息つく暇もないほどに、何度も何度も男に、男の剣に。黒は、その剣を叩き折ってやるという執念の込めた攻撃を繰り返す。


「いい加減諦めろ小娘……」

「ぶっ殺す、ぶっ殺してやる! よくも、よくも白をッ」

「白? それがあいつの名か? 化け物風情にはそれでも上等だな、獣畜生が人間の真似事などしおって、忌々しい」

「“あ“ァッ!? ふざけんなよテメェー! 何様のつもりだクソが!!」



 激しい剣戟の嵐の中、男は涼しい顔でその全てを軽くいなしている。


「……面倒な女だ。なぜ邪魔をする。なぜ化け物を庇う。お前は……人間だろう?」

「黙れ! よくも白を……あいつは私の妹だ! あいつが化け物だってんなら私だって化け物だ! お前があいつを殺す気なら、私がお前を殺してやる!」

「妹……か。くだらんな、化け物は化け物だ。家族ごっこはよそでやれ。そのような戯れに、私の手をわづらわせるな!」

「–––––!?」


 受けることしかしていなかった男は急に攻勢を強めた。

「く、あ、ぐっ」

 上段下段中段、上下左右四方八方から繰り出される刃に翻弄され、黒は防戦一方。もはや自分の獲物が先端に剣を取り付けたとはいえ銃であるということすら忘れ、ただの金属の棒であるかのように振り回す。

 銃の扱いには目を見張るものがあったが、剣、いや棒術の心得などない彼女の技量で、達人と言える男の猛攻をある程度防げているのは奇跡である。

 少しづつ、体に生傷が増え始め、二人静の紅紫の着物は自身の血で赤黒く染まっていた。


「ハッ! ハッ!」

(体が重い……目が霞む……それに、寒いな)

 彼女の攻撃は徐々に速度を失っていく。

 出血多量の上に極度の運動によって、体力どころか、今の彼女の命は息を吹きかけられる直前の蝋燭の火のように儚い。


 –––––そして、終わりは突然訪れた。


「ぁ……」

 意思の力で無理やり動かしていた体はついに限界を迎え、動きを止めた。

 その瞬間、大上段の一撃が、黒の左肩から右脇腹までを斜めに切り裂いた。


 ……はずだった。


 ーーカァ–––––ン!

 と、甲高い音を立て、男の鋭い一閃は何者かに阻まれた。


 それは、見覚えのあるみすぼらしいボロボロのコート。

 それを着ていた男を黒は知っている。



「……ジャック?」

「はい……白馬に乗って迎えに参りましたよ。濡烏のお嬢様(フロイライン)?」



 出会った時から変わらないおどけた彼の姿がそこにはあった。


「ふん、何が白馬だ……ロバすらいねーじゃねーか」

「いやいや……目を凝らせば、見えますよ」

「はぁ?」

「……また、虫が湧いたか」


 困惑の色を浮かべる黒から、ジャックは敵の男へと視線を移した。


「初めまして……ではありませんね」

「ん? 俺は貴様のような小物に覚えはないぞ」

「それは少しショックですね……右腕のその傷、大事に残してくれているようなので、覚えてくれてるとばかり」

「何?」


 それを聞いて、男は明らかな動揺を見せた。

 右腕に深く刻まれた古傷、それは男にとって人生最大と言ってもいい屈辱の証であったからだ。


「あなたは、怪物狩りを生業とする、イギリス政府の秘密組織コラルム所属のエージェント。コードネーム『盲者』さんで合ってますよね?」

「ああ、なるほど……お前、あの時のピエロか」

「お気づきになられたようでなにより———」

「あの時は仮面姿だったから気づかなかったな。道化、相方の女は元気か?……いや、俺が殺したんだったな」

「………………いえいえ、お気遣いなく。今はジャックと名乗っていますので改めてお見知りおき下さい。それで? 彼女さんとお仲間は今日は一緒ではないんで? あーすみません……俺が殺したんでした」

「「……」」


 二人は、睨み合い。

 次の瞬間、合図もなく戦闘は始まった。

 ジャックの短剣と男の長剣の刃がぶつかりあい、空気が破裂するような衝撃音が屋敷中に響き渡る。


「その短剣、見覚えがあるな……確か死んだ恋人の形見だったか? あの日もそれで仇討ちに来たっけな!」

「あーよく覚えてらっしゃる。なにぶん女々しい性格でしてね、ひらにご容赦くださいな!」


 長剣の隙を縫うようにして、放たれたジャックの刃は、男の首を深く切り裂いた。


「仇討ちはまだ完遂していませんからね、あなたの命を吸わせた後で、納屋にでも放り込んでおきますよ」

「……そうか」


 勝利宣言とも取れるその言葉に、男はくくくと笑いこぼす。

 首を切り裂かれ、噴水の用に噴き出していた血は、ピタリと止まり、時が巻き戻されるかのように血液が戻り、傷が塞がった。


「なるほど……それが、腹を貫かれても生きていたカラクリですか」

「ああ、知っているだろう、俺の能力は……喰った相手の力を自分の物にする。そして……この再生能力、誰の能力かなんて、言う必要もないな?」

「ええ」

(随分簡単に攻撃が当たったと思ったら、それを見せびらかしたかっただけか……まぁ、予想はしていた。ショックはそこまで大きくない、冷静だ)

「それじゃあ、どこまで再生できるか……試してみましょうか!」

「いや、気が済んだからもういい」


 男は、お遊びは終わりだと、振り下ろされたジャックの刃を受け止め、押し返そうと力を込める。


「ククククク……ん?」

 少しづつ進み始めた刃は、急にピタリと止まる。


「いつも思ってたんですよ……お前ら怪物狩りの連中はほとんどが陰者か混ざり物だ。なのに、どうして仲間のはずの奴らを平気で狩ってんのかって」


 少しづつ、力の天秤はジャックの方へと傾き始める。


「コラルム、か……首輪だなんて飼い犬にはお似合いの名前ですね。政府の犬に成り下がった裏切り者の飼い犬にはね!」

「貴様……ッ」

 男は更に力を込めるが、首に迫る刃の進行をとめる事はできない。

 男は困惑していた。

 なぜ自分が押されているのか……無数の陰者、混ざり物を喰らい、超常的な能力だけでなく圧倒的な身体能力だって手に入れた。数年前、この男は、自分の膂力に手も足も出せなかった。あの時よりも数段強くなった。それなのに……なぜ自分が押されているのか、まるで理解できなかった。


 男は知らない。

 ジャックの胸の奥で脈打つ、彼の力の根源について。


 白が捧げた陰者の因子は、適合し、ジャックの肉体を彼女と同じ怪物の組成へと変化されるはずだった。

 しかし、運命の悪戯か……ジャックの肉体に取り込まれた陰者の因子は、彼の何でバラバラに砕けていた彼自身の因子と混ざり合い、全く新しい化け物を創り上げたのであった。

 新しく、強すぎる化け物を。


「チッ」

 男は力比べでは勝てないと判断した瞬間、力を抜き、迫る刃からのがれるように左に避けた。

 しかし、その刹那、身体に比べ最も外側にあった右腕は避けるのが間に合わず、振り下ろされた刃切り裂かれた。


「ぐぁあああああ! くそ!」

 切られた腕を拾おうとする男に対し、ジャックは切り落とされた腕を蹴り飛ばし、その胸に刃を突き刺した。


「ハァ……ハァ……馬鹿め。これでも俺は死んでいない。お前では俺は倒せんよ」

「ふぅ、そうですね……確かに俺は貴方を殺す術を持っていません」

「ふ」

「ですから、できる人に任せることにしました。さぁ、行きましょうか!」


 そう言って、ジャックは道を開ける。

 その先には、眠る白の傍らで、白銀のマスケット銃を構えた黒の姿。


「何を」

「おい、クソ野郎! お前はやっちゃいけねー事をやっちまった。だから、地獄で永遠に反省してやがれ!」


 ーーダン!

 引き金を引くと、飛び出した銃弾はまるで決められた軌跡をなぞるように、男の眉間を撃ち抜いた。

 打ち出された純銀の銃弾は、再生を阻害する。

 死までの僅かなタイムリミットまでに再生しなければ、どんなに強力な再生能力を持っていたとしても、死は免れないのである。


「最後くらい祈ってあげますよ。あなたがちゃん地獄に落ちますようにね」

「く、そ」


 そうして、男は緩やかな死を迎えるのだった。


 ◇


「どこに向かう?」

「権力と欲望渦巻く世界の闇の見本市……ロンドンなんてどうでしょう」

「乗った!」


 この日、彼らは大きなものを失った。

 それでも彼らは闇へと進む。

 心にぽっかりとあいた空白を埋めるために。

 欲望に身を任せ、いつかさらなる闇に呑まれて消えるその日まで、彼らは生きるのだ。

 どこまでも自由に……どこまでも怪物らしく。


「さぁ、参りましょうか黒……いえ、ノアさん」

「ノア、か。新しい人生にピッタリだな」

「ええ、門出ですよ」

「望むところだジャック……いや、私も新しいのつけてやるよ。お前は––––––」

「––––––ッ」


 この日から、ジャックは名を改めた。

 それはノアにもらった大事な名前。


 数百年先の後の世まで語り継がれる、世界がまだそれを知らない時代に……誰に訊かれるでもなく、己の意思で名乗るのである。


 そう––––––––ジャック・ザ・リッパー、と。



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