第八話
その時は突然やってきた。
檜垣が巴恵に10年前の事を教えてから約20日。次の満月が近づいている頃だった。
この日も巴恵は早起きして、朝食を作る檜垣の手伝いをしていた。
見慣れてきた着流し姿の檜垣は、隣で洗い物をしていた。
「巴恵お嬢様」
「何? 檜垣」
とんとん、と野菜を切りながら巴恵は答えた。
「僕は今日、昼過ぎに外出しますね。雪輪が代わりに来てくれますから後の事は彼女に任せてあります」
「分かった。はよ帰ってきてな」
そう言うと、檜垣は曖昧に微笑んで答えた。
「すぐ帰りますよ」
あ、嘘だ。
巴恵は直感的に気付く。
この表情は、檜垣が自分に嘘をつく時にする顔だった。
かたん、と包丁がまな板の上に落ちる。
「お嬢様?」
「どこ行くん?」
声のトーンが変わった事に気づき、檜垣も洗い物をやめた。
「それは……言えません」
悲痛な響きで告げた檜垣の声で巴恵ははっとした。
きっとまたこの人は自分の事を守ろうとしている。
巴恵はふぅ、と息をついた。
「ごめん、檜垣。それは、よう聞かんわ」
いつか巴恵がその事実を受け入れられるほどに成長した時、きっと檜垣は話してくれる。
「気ぃつけて行ってきてな。帰ってきたら、また話して。うちはここで待っとるから」
再び包丁を握って朝食の支度を始めた。
「ありがとうございます、お嬢様」
「見送りくらいは行ってもええ? 校舎の下まででいいから」
「ええ、いいですよ」
「やったぁ」
巴恵が笑えば檜垣が笑い返してくれる。
ただそれだけで幸せだった。
昼にやってきた雪輪と花菱の3人で檜垣を見送りに出た。
ここのところずっと着流し姿だった檜垣も、またスーツに戻っていた。やはりこの姿の方が、檜垣らしい気がする。
「仰々しい見送りですね。そんな大層な事でもないでしょうに」
苦笑した檜垣は、不安げな表情を浮かべる巴恵と視線を合わせた。
「二人の言う事をちゃんと聞いて、決して街には出ないでください。花菱、雪輪、お嬢様をよろしくお願いします」
「巴恵の事は大丈夫。私がここに常駐することになったから」
「分かってるよ」
雪輪は冷静に、花菱少年はいつものようにぶっきらぼうに答えた。
「では、僕は行きます。お嬢様はすぐ庭に戻って――」
檜垣が最後まで言うのを待たず、巴恵は檜垣の腕に自分の腕をからめた。
「やっぱり、もうちょっと先まで一緒に行ってもええ?」
「……仕方ないですね」
駄々をこねた子供をあやすように巴恵の髪を撫でて、街に少しだけ足を踏み入れた。
雪輪と花菱は、肩をすくめて二人を見送った。
「どうしても行かなあかんの?」
「申し訳ありません。僕の意思で赴くので、今回はやめる事ができないのです」
廃墟を横目に、檜垣の腕に体重をかけてゆっくりと歩いた。
まだ別れたくはなかった。
「大丈夫です。僕はどこにいても、お嬢様の事を一番に考えています。お嬢様が幸せに暮らせるように、僕は全力を尽くします」
「……なら、ずっと隣におってや」
思わずぽつりと本音を呟いてしまい、巴恵は自分が一番動揺していた。
「お嬢様が安心して暮らせる事だけが僕の願いです」
遠まわしに告白しているような台詞を、檜垣は簡単に口に出す。
巴恵はもっとストレートな言葉がほしかった。
「檜垣はうちのこと、好き?」
「大好きです」
檜垣は即答した。
見下ろされた真剣な眼差しに、巴恵の心臓は跳ね上がった。
「だから、ここで待っていてください」
「……」
そんな事を言われては、黙って見送るしかない。
行かないで、と言いかけた言葉を喉の奥で飲み込んで。
「気ぃつけて」
代わりに送り出す言葉を口にした。
その言葉を聞いて、檜垣は安心したように微笑んだ。
そして絡めていた腕をほどき、巴恵の頭にぽん、と手を置いた。
「行ってきます」
大きな手が巴恵の頭から離れて行き、檜垣はくるりと踵を返した。
また喉の奥まで、行かないで、という言葉がせり上がってくる。
すんでのところでこらえたら、代わりに涙が一粒だけ、零れ落ちた。
ところが、零れ落ちた涙が乾かないうちに、檜垣の背中が視界から消えないうちに、檜垣の進行方向から見慣れない人影が隊列を組んで現れた。
ざっざっざ、と重い足音がする。
数十名の行進が地面を揺らした。
その先頭に立つのは、以前一度だけ遭遇した刺青の青年だった。
「きっとここいらに現れると思ってたぜ、檜垣」
アップにした前髪は前回見たとおりだったけれど、黒いコートは羽織っていなかった。代わりに、青地にギザギザの白の文様を染め抜いた羽織を纏っている。
その背後に整然と並ぶ人たちも、皆一様に同じ羽織を纏っていた。
檜垣は一度進めた歩を戻し、巴恵の元まで退いた。
「今度は逃がさねぇ。今日は一人じゃないからな」
「たった一隊でいいのですか? 僕だけでなく、雪輪も花菱もいるのですよ?」
「あぁ。だから鉄扇を連れてきたよ。あいつはせっかちだからな、もう雪輪の方に向かったんじゃねぇか?」
それを聞いて、檜垣はさっと青ざめた。
「だから、お前は俺の相手な」
一瞬にして抜刀した刺青青年の斬撃をすんでのところでかわした檜垣は、巴恵を庇いながら距離をとった。
「お嬢様、少しだけ離れていてください」
檜垣はどこからか雪輪の持つような大型の拳銃を取り出し、右手に構えた。
普段の様子からは考えられないのに、構えた姿があまりにしっくりと馴染んでいて、巴恵は思わず見入ってしまった。不思議なほどに銃を構えた姿が似合っていた。
まるでずっと銃を片手に生き抜いてきたかのように。
「どうやら今日は本気らしいな、殺戮人形。俺なんかよりずっと多くの人間を殺してきたお前がいまさらなぜ人間の味方をする?」
「壬生狼士和泉、貴方の問いに返答する義理はありません」
次の瞬間、凄まじい銃声。
檜垣の威嚇射撃を避け、和泉と呼ばれた刺青の青年は右に半歩、身をずらしていた。
「いいぜ、余計な事はごちゃごちゃ言わずに……」
鍔を鳴らし、鋭い目で檜垣を睨みつけた和泉は、口元だけ、裂けるように笑いの形になった。
「死ね」
和泉が一瞬で檜垣との間合いを詰めた。
檜垣は突き出された刃を、銃身でうまく逸らす。
返しざまに檜垣の鋭い蹴りが和泉の腹部を狙うが、すばやく身を翻した和泉には届かなかった。
蹴り足を地面にしっかりとつけて軸足に、逆足の蹴りで和泉を追う檜垣。
下段を狙うと見せかけた冗談の蹴りは、ガードの隙間を縫って和泉の顎にヒットした。
その衝撃も受けていないかのように、すぐに体勢を整えた和泉は日本刀の柄をかざして懐に飛び込んだ。
まっすぐに飛び込んできた和泉の額に銃口。
「やっべ……」
間一髪、状態を逸らして銃弾を避けた和泉の足を檜垣が払い、完全に体勢を崩されたところへ檜垣は一気に攻撃をたたみかける。
戦闘に関して何の知識もない巴恵にも分かった。
檜垣は、段違いに強い。
「あーちきしょ、やっぱ強ぇな!」
吹き飛ばされて壁にめり込んだ和泉は、日本刀をぶんぶんと振りながら再び檜垣に向かい合った。
「だが、俺もこれからだ」
ぴぃん、と空気が張り詰める。
二度目の交戦が始まろうとしてる。
皮膚が切れそうなほどに緊張した空気がその場を満たしていた。
が、そこへ、上から大きな人影が落ちてきた。
「お嬢様!」
檜垣は巴恵を庇い、一足で跳び退った。




