第七話
「……おはよう、花菱」
泣き疲れて少し眠り、起きてから朝食を取り。
巴恵が落ち着いたころにはもう昼近くになっていた。
「おはよ、お嬢」
縁側にはすでに花菱少年が座っていた。
「昨日はさ、ごめんな」
「ええんよ。雪輪が一緒におってくれたから大丈夫やったしな」
花菱少年の隣に巴恵が腰掛けると、ちょうど紅茶を準備した檜垣がやってきた。いつものスーツではなく、珍しい着流し姿のままだった。
「遅くなりました。花菱もすでに来ていましたか」
今日も太陽は眩く天頂に輝いていた。
「茶室の片づけがまだ済んでいません。話が終わったらお手伝いいただけますか? 花菱と、それに……巴恵お嬢様も」
「いいぜ」
「ええよ」
「よろしくお願いします」
日本茶用の急須に紅茶の葉をいれ、ガラス製の湯呑に注いだ檜垣は、とても悲しそうに微笑んだ。
「さて、いったいどこからお話したらよいのでしょうね。僕には見当もつきません」
「最初からでいいんじゃね?」
「最初……ですか」
檜垣は巴恵と花菱に湯呑を渡し、少しだけ遠い目をした。
「僕は最初からずっとお嬢様に仕えていました」
檜垣は隣に座った巴恵に微笑みかけた。
「お嬢様が生まれた瞬間から、10年前のあの日も、今日までずっとお嬢様だけが一番大切です」
人間というものは簡単に壊れそうに危うい生き物だと檜垣が知ったのは、巴恵と出会ってからだった。
そして、人間が成長する生き物だと知ったのも、巴恵と出会ってからだった。
「お嬢様は、もしあの街が今も残っていたとすれば、非常に大きなお屋敷に住んでらっしゃいました。有力者の末娘として生まれ、何不自由なく成長しました。その家の大きさも手伝って人から危害を加えられそうになることもありましたが、僕はそれらからずっとお嬢様を守ってきました」
「ホントならオレが口をきくことなんかないはずの深窓の令嬢だよ、お嬢は」
花菱が口を挟んだ。
「あのまま成長していればそうなったかもしれませんね。しかし、それは10年前に崩れてしまったんです」
雪輪も同じことを言った。
「10年前に、いったい何があったん?」
そう聞くと、檜垣は一瞬口を噤んだ。
目を閉じて、とても言いづらそうに。
「……人型樞の反乱です」
「人型樞? 雪輪のような人のこと?」
「ええ、そうです。機械と違い、人と同じ構造を有機物以外の物質で作られたモノたちの総称です。人間と同じ造りになっているので、学習機構、感情機能なども装備されています。素材以外は人間と変わらないと言っても過言ではないでしょう。しかし、素材が違いますから、その頑丈さは人間と比べ物になりません」
巴恵は雪輪の並はずれた力を思い出していた。鉄の扉を軽々と破壊し、一足で壁を飛び越える能力。
それでも、言葉や笑顔は人間と同じだった。
「ただし、人型樞には、人間に対して直接攻撃することが出来ないよう制御チップが組み込まれています。それは、人間の手でしか取り出すことも破壊することも出来ません」
「直接……ってゆうのは、殴ったり蹴ったりってこと?」
「手に持つ武器もそうです。ただし、銃はその範疇ではありません」
檜垣は感情を押し殺すように淡々と言葉を紡ぎ始めた。
「人型樞は人間と対等になる事を望み始めた。感情機構があるのだから当たり前と言えば当たり前の事です。そして、10年前のある日、それは現実のものとなりました」
その部分に差し掛かると、花菱は青い顔をして俯いた。
「始まりはこの街でした。どこからか集結した人型樞たちが総攻撃をかけたのです。彼らは手に手に銃を持ち、見つけた人間を片っ端から始末するという惨劇でした」
その瞬間、巴恵の脳裏を映像が駆け巡った。
辺りはまるでお囃子のように騒がしく、その中には悲鳴のような甲高い声も混じっていた。
目の前をたくさんの人間が通って行く。その人間たちが、血に染まる。
しかし、自分を支える腕は大きく、巴恵は安心しきっていたのだった。
ああそうか、と巴恵は納得する。
この光景はあの日、自分を抱きかかえて逃げた檜垣の腕の中から見た光景だ。あの廃墟にまだたくさんの人間が住んでいたころ、巴恵は大きなお屋敷に住んでいたのだ。
目の前の日本庭園によく似た広い庭のあるお屋敷で、優しい家族に囲まれて暮らしていた気がする。
それが一瞬にして瓦解した。
「僕にはお嬢様を救うだけで精いっぱいでした。ご家族を助け出す余裕はなく、ただ巴恵お嬢様一人を連れてこの場所へ逃げ込みました」
巴恵の中にあの日の衝撃がほとんど残っていないのは、きっと檜垣のおかげだろう。
「そしてお嬢様が生まれ育ったお屋敷に似せてこの庭を作りました。それからは……お嬢様にもお分かりでしょう。お嬢様が外の世界に触れぬよう、あの日の事を思い出さぬよう、僕はこの場所を守り続けてきた」
ああ、胸が苦しくなってきた。
普段から表情の少ない檜垣が、ひどくつらそうな顔をして話すのを聞いていられなかった。
「僕はお嬢様が壊れてしまう事を恐れました。人間がほとんどいなくなってしまった世界に家族もなく取り残されたと知ったら……」
額に手を当てて俯いた檜垣は、震える声で呟いた。
「だから、嘘をつきました。すべてを隠して、世界を捨てて」
巴恵の頬を涙が伝った。
まるで檜垣の悲しみをすべて受け止めたかのように。
絞り出すような声で檜垣は言った。
「本当ならこれからもずっと、全部を嘘にしたままでいたかった」
それを聞いて、巴恵の胸が抉られた。
「申し訳ありません、巴恵お嬢様。僕には貴方が平穏に暮らす世界さえ守ることが出来ないのです……!」
ああ、なんて愛しいのだろう。
「バカやね……」
本当に、バカだ。そんなことを知ったくらいで、離れていくとでも思ったのだろうか。
本当にすべてが巴恵の為で、巴恵を守るため、巴恵を傷つけないため、彼女のすべてを包み込んで、嘘をついて――
胸が裂けるほどに苦しかった。
そのすべての嘘は、彼女が大切で、何より彼女を愛しているがために創られたものだったから。
巴恵の享受していた平穏は、すべて檜垣のおかげで存在していたから。
「ありがとう、檜垣」
はっと顔を上げた檜垣は、何の表情もないように見えた。
しかしそれは流す涙がないからなのだと、巴恵は直感的に思った。
「悲しまんといて」
真実を知らないのも、真実を知りながら話せないのも、どちらもとても苦しい事だ。
巴恵は何も知らず、檜垣はすべてを知り、苦しんだ。
「大好きや、檜垣。これまでずっと守ってくれて本当にありがとう――」
すっかり冷めてしまった紅茶を口に含みながら、巴恵は花菱に尋ねた。
「花菱は、一緒にそのお屋敷にいたん?」
「違うよ。オレは一人で命からがら逃げ延びたところを檜垣に拾われたんだ。反乱が起きてから丸3年くらいかな? オレは一人で生き抜いてた」
小さなメガネの向こうの花菱少年の赤眼も、少しばかり潤んでいるように見えた。
「地獄だったよ。10年前のあの日から、周りには人間の敵しかいないんだ。その中で生き抜くってのは――」
花菱少年の瞳に暗い影がおりる。
突然敵だらけの世界に放り出され、『ただ生きる』事がどれほど大変なことなのか。巴恵には想像もつかなかった。
血反吐を吐くような日々が待っていたに違いない。
「オレは檜垣とお嬢に会えて嬉しかったよ。だって、俺は世界に一人じゃないって分かったんだから」
ぶっきらぼうに言い放ったのはきっと照れくさかったからだろう。
そんな花菱の様子を見て、檜垣と巴恵は微笑んだ。
その時、書斎の振り子時計がぼーん、ぼーんと昼を告げた。
「さて、長い話をしてしまいましたね。そろそろ雪輪が来るころかもしれません」
「雪輪がくるん?」
「はい。昼ごろにこちらに到着すると連絡がありました」
「……オレ、アイツ苦手」
ぼそりと呟いた花菱をくすりと笑い、檜垣は立ち上がった。
「昼食の準備を手伝っていただけますか、巴恵お嬢様」
「ええよ」
檜垣はこれまで食事の準備や片づけや掃除を決して巴恵に手伝わせようとはしなかった。しかし、外の世界を知ったことで檜垣もいくらか巴恵に課題以外の用事を言いつけるようになった。
何より、巴恵に銃の使いかたを教えるようになったのだ。
巴恵はそれがとても嬉しかった。
さらに、これまで昼間はどこかへ出かけることの多かった檜垣が一日中家にいる事が多くなり、雪輪も頻繁に訪ねてきて、難航している茶室の片づけを手伝ってくれた。
巴恵にとって、この上なく幸せな時間だった。
自らの目で外を確かめ、檜垣の口から真実を聞き、少しだけ子供の時間を脱出した気になっていた。
この時の巴恵は、十六八重菊についても三つ葉葵についても、壬生狼についても、まだ何も知らなかったというのに。