第五話
その凄まじい破裂音が銃声であると気付いたのは、立て続けに起こった破裂音の後に雪輪の頬が突然何かで抉られたからだ。
「!」
雪輪はそんな傷に構わず、まっすぐに銃を構えた。凛と立つ雪輪の姿は純粋に美しかった。
狙いに寸分の狂いもなく、彼女は引き金を引いた。
2発、3発……
人の声がした気もしたが、壁の隙間に身を潜めている巴恵の目には映らなかった。
ほんのしばらくそうしていると、不意に銃声が止んだ。
「終わったん?」
「ごめんなさい、残党なんかじゃなかった。敵の本隊だったわ。少しかかりそうだから、巴恵はここで待っていて」
最初に会った時と同じように皮膚の下の黒々とした金属の中身を曝して、上に向かって軽々と跳んだ雪輪は、一足で壁を越えた。
壊れた壁の隙間からそっと中をのぞくと、荒れ果てた庭では雪輪ともう一人の人物が対峙しているところだった。
塀の中は巴恵がいたのと同じ日本庭園だったが、彼女の庭よりもずっと広かった。
雪輪は一瞬も気を抜かず、銃口を突き付けているというのに、相手は武器を持っている様子もなく、困ったように頭をかいた。
「十六八重菊の戦闘人型樞雪輪とは。これは、えらい大物に出くわしちまったもんだ。さすがは旧都というわけだ」
「それはこちらの台詞よ。雑兵ならともかく、壬生狼の副長和泉……なぜ貴方がここに?」
雪輪と相対しているのは長い黒コートを纏った青年だった。眉目整った顔立ちだが、どこか冷たさが感じられて、ひそかに覗いていた巴恵はぞっとした。前髪をあげているせいで、顔の右半分に細かく入っている巴龍の彫り物が額の部分まで露わになっていた。
その青年はくっく、と喉の奥で笑った。
「俺がここにいちゃ駄目かね?」
「私はなぜここに、と聞いたけど?」
「なぜって、俺たちが近々ここへ越すからさ」
その瞬間、雪輪の表情が強張った。
「壬生狼が新徳寺を占拠するという噂は本当だったのね」
「ん? 何だ、聞いてるじゃねえか。さすが十六八重菊の密偵は優秀だな」
その瞬間、再び凄まじい銃声が響き渡った。
和泉と呼ばれた青年のコートの端が弾けて、風に舞い散った。
「ふざけないで。貴方達はこれ以上、この街の何を破壊する気なの?」
「それはお前が一番分かってるだろう。ここは、十六八重菊の本拠地なんだからな」
次の瞬間、青年は一瞬にして雪輪との間合いを詰めていた。
どこに隠し持っていたのか、一瞬で抜刀すると、刃は日光を浴びて怪しく煌めいた。
銃身を使い、辛うじて初太刀を受け止めた雪輪は、衝撃を吸収しきれずに後ろに吹き飛ばされた。
無論、敵がその隙を逃すはずもない。
「俺たちはお前らを潰しに来たんだよ」
言葉と共に振り下ろされた日本刀を、雪輪は再び銃身で逸らす。
そのまま懐に潜りこんで、渾身の当て身を食らわせた。
今度は敵が吹き飛ぶ番だった。
げほげほ、と咳き込みながら着地した青年は、鋭い視線を雪輪にくれた。彫り物をいれた眉間に皺が寄る。
「ちょこまかと人間なんか庇いやがって、お前らはそれでも樞なのか?」
「当たり前でしょう。それが私の意思だから」
眉を寄せて不機嫌そうな顔をした青年は、一つ、ため息をついた。
「じゃあもう仕方ねえな。お前は、敵。というわけで」
そこからは何も見えなかった。
それほどに彼の動きは速かった。
「破壊するぜ」
巴恵が認識できたのは、雪輪の背から鋭い刃が飛び出している光景だけだった。
一瞬理解できなかった。
雪輪の手足が一瞬だけ痙攣した。
刺青の青年は細身の雪輪を蹴り飛ばすようにして刃を引き抜いた。
「悪ぃな、見逃すと虎徹がうるせぇからよ」
力の抜けた雪輪の体ががしゃん、と地面に崩れた。
動けない雪輪に、さらに青年は刃を向ける。
「せめて楽に逝け」
その様子をずっと見ていた巴恵の全身を、何かが駆け抜けた。
大丈夫だからと言った雪輪の笑顔が脳裏をよぎる。私のこの身に替えても守ってみせると言った雪輪は本気だった。
そして、目の前で雪輪は崩れ落ちている。
動けない雪輪に、慈悲なき刃が迫っている。
声が出なかった。
喉は張り付いたように、足が石化したように動かない。
そっと動いた手が、胸元の拳銃を探り当てた。
「雪輪」
彼女が庭に落ちてきてから、もうずっと、何が何だか分からない。
庭の外も、廃墟も、人間のいなくなった街も、目の前で行われている戦闘がいったい何なのかさえ分かっていない。
でも、雪輪が死んでしまうのは嫌だった。
ただそれだけ。
頭で考えるより先に、震える手で拳銃を構えた。
壁の隙間から狙うのは今にも刃を振り下ろさんとする青年。
先ほど雪輪に教わった通り、安全装置を外してグリップをしっかりと握る。照準を合わせ、引き金に指をかけた。
照準の合わせ方など分からない。ただ、刺青の青年の方に銃口を向けているだけ。
それでも、巴恵は震える手で引き金を引いた。
両手に伝わる衝撃の瞬間、なぜだろう、もう二度とあの箱庭には戻れないような、そんな予感がした。
両手に痺れるほどの反動が伝わる。
巴恵は思わず銃をその場にとり落としていた。
「……痛ぁ……」
ところが青年は、全くダメージを受けないどころか、巴恵の隠れている方向をじろりと睨んだ。
その視線に、心の底から竦み上がる。
「誰かいたのか。反応しねぇところからすれば、『人間』か?」
心臓が鷲掴みにされた。
鼓動が速い。全身は硬直して動かない。
雪輪も仰向けに倒れたままだった。
動けない。
「返事がねぇな。黙ってたらその辺吹っ飛ばすぜ?」
ぞわり。
全身に寒気が走った。
声が出ない。動けない。
もう、駄目かもしれない。
巴恵は両目を閉じた。
ところが、目を閉じた巴恵の耳に、聞きなれた声が届いた。
「壬生狼士和泉。このような場所で会うとは珍しいですね」
毎朝、巴恵を起こしに来る忠実な世話役の男性の声。
「……雪輪だけかと思ったら、さらに大物まで呼びつけちまったか?」
青年の声から余裕が消えた。
雪輪と青年の間にふっと現れた人影に、巴恵は声を失った。
「十六八重菊戦闘員、檜垣」
「退いてくださいますか? ここで争う利点はないはずです」
いつもと同じスーツ姿の檜垣は、いつもと同じように淡々と告げた。
その様子を見た青年は、しぶしぶといった様子で刃を収めた。
「お前が出てきたんじゃ仕方ねぇ。虎徹も赦してくれるだろう」
「それが賢明です」
青年は鼻を鳴らすと、再び巴恵のいる方向に視線を向けた。
「俺たちが旧都に来たからには、十六八重菊も終わりだ。そこにいる人間も、じきに狩り出してやる」
分かりやすく捨て台詞を残して、青年は姿を消した。