第四話
雪輪は巴恵の手を引いて、庭から少し離れた。
ほんの2・3歩離れただけで、庭の壁は揺らめくように消滅し、そこには庭と同じほどの広さがあるコンクリートの床だけが残っていた。それも、床のあちらこちらが綻び、崩れ始めている。焼け焦げた跡さえ残っている気がする。
「雪輪、庭はどこへいったん?」
「今もそこにある。迷彩処理で見えなくなっているだけ」
迷彩。
またひとつ、分からない単語が増えた。
辺りを見渡せばそっけないコンクリートの床と視界の半分を埋める廃墟。色のない、空虚な景色が心をかき乱す。
「雪輪、あの街に行ってみたいんやけど……連れてってくれる?」
そう言うと、雪輪は何かを思案するように一瞬口を噤んだ。
しかしそれは一瞬で、すぐに口を開いた。
「少しだけならいいと思うわ。でも、絶対に私の傍を離れないで」
庭があるはずのコンクリートの床に、たった一つだけ扉があった。畳の下にあった黒塗りの金庫のように、コンクリートに埋め込まれた錆びた鉄の扉だ。
雪輪は迷いなくその扉を開いた。
その向こうには、薄暗い空間が広がっていた。
「私が先に降りるわ。合図したら、巴恵も来て」
返事を待たず、雪輪は扉の向こうに飛び込んだ。
ざっと軽い音がして、それからぴぃん、と何かが張る音がした。
扉の向こうから明るい光が漏れた。
「巴恵」
呼ばれて巴恵が扉を覗くと、雪輪が両手を差し出していた。
「来て」
来て、と言われても巴恵は雪輪と違い、着物姿だ。
逡巡した挙句、その小さな四角の扉の中に、両足をそろえて降りるようにして目を閉じて飛び込んだ。
落ちてきた巴恵を雪輪がうまく支えてくれたのか、おそるおそる目を開けると、巴恵は地面にしっかりと立っていた。
辺りは天井の明りに照らされて明るく、小さな部屋の様子が照らされていた。
寝室にある押し入れを少しだけ広げたような大きさしかないその空間はひどくほこりっぽかった。床は板張りだが壁は見たことのない素材で、周囲には長い竹の棒やもう何年も使っていないであろう机と椅子、そして箒や塵取りなどが雑然と壁に立てかけてあった。
まるで物置のようだと巴恵は思った。
雪輪はその一角にあった観音開きの扉に手をかけ、外に向かってそっと開いた。
巴恵の目にまばゆい太陽の光が飛び込んでくる。
「大丈夫そうね。巴恵、行きましょう」
雪輪に手を引かれ、巴恵は太陽の光に中へと進み出た。
そこにあったのは、まっすぐに続く廊下だった。廊下の左手側の壁は全面窓ガラスで、そこから昼過ぎの太陽が燦々と注ぎ込まれている。右手側には、等間隔で同じ色の扉が並んでいた。
廊下の突き当たりには、もうひとつ、大きな扉が見えた。
しかし、窓ガラスは盛大に割れ、廊下は煤けて汚れており、扉がひしゃげている箇所もあった。
「ここは何やの……?」
「旧時代の私立高等学校。自家発電施設も整っているから『人間』が暮らすには丁度よかったのかもしれないわ」
雪輪が『人間』と呼ぶ時のトーンが、巴恵の言う人間とは少し違うことに、なんとなく気付いていた。
最初に会った時に頬の傷から覗いた中身が生身の人間とは異なっていたから分かっていたことではあるが、いざ問おうと思うと何と尋ねればいいのか見当もつかなかった。
代わりに、こんな質問が口をついた。
「雪輪、庭の外って何なん? 十六八重菊って何? 雪輪は何でうちの庭に落ちてきたん?」
聞きたくて仕方がないことだった。
きっとそれは、檜垣と花菱少年が巴恵にずっと隠してきた事だから。
それを聞いた雪輪は、廊下の真ん中に立ち止まり、ふっと巴恵を振り返った。
「私は真実を知らないから、話すとすれば推測になるわ。それでも、巴恵は知りたい?」
明るい昼の太陽に照らし出された学校の廊下の真ん中で。
「十六八重菊の事、三つ葉葵の事、この世界の事、それから……檜垣の事」
巴恵は唾を飲んだ。
高い角度から雪輪の萌黄色の瞳に光が入って、まるで作り物のように奥底から輝いていた。短く切りそろえた同色の髪がさらりと揺れた。
「知りたい」
思うより先に口が動いていた。
「うちは知りたい。檜垣が何を隠しとるのか、庭の外に何があるのか」
「もし、檜垣が巴恵を守るためにすべて隠していたとしても?」
「もちろんや。だって、あの庭に雪輪が飛び込んできた時点で、うちはもうあの日常に戻れんことくらい分かる。それなら、檜垣の邪魔にならんよう、うちはちゃんと事実を見て、知って、判断する必要があると思うんや」
「隠している事を聞くのは、檜垣本人からでなくていいの?」
「……」
言われて、巴恵は口を噤んだ。
そうだ、こんな風に檜垣の知らないところで詮索するのは……
黙り込んだ巴恵を見て、雪輪は少しだけ微笑んだ。
「少しだけ、街を見ていきましょう。私からは何も話さないから、檜垣が帰ってきた時に聞くといいわ」
「雪輪」
「行きましょう」
そう言って、雪輪は巴恵を促し、校舎を出た。
階段を下り、校舎の外に出た二人は、廃墟の街へと足を踏み入れた。
巴恵が振り返ってみた校舎は廃墟を象徴するかのように荒れた様相を呈していた。あの屋上に自分がずっと暮らしていたあの美しい庭があるのはひどく不思議な感じがした。
雪輪は着物姿の巴恵に気を使っているのか、ゆっくりとした歩調で歩いていた。
足元のアスファルトが日に照らされててらてらと光る。陽炎の立つような眩しい道に、人の気配はない。道の端は破壊され、捲れ上がっている部分が目立つ。
人が住んでいた建物が左右に林立している。
多いのは3階か4階建ての建物で、合間にちらほらと一戸建てが見られる。どれも人が住まなくなって久しい様子だ。何より、まるで何かに攻撃されたかのように破壊されているものが多すぎる。
人の気配は、ない。
巴恵は茫然と周囲を見ながらふらふらと歩いて行った。
時折めくれ上がったアスファルトに足を取られながらも、雪輪の後をただついて行った。
「ここに住んでいるものはいない。10年前、真っ先に攻撃を受けたのがこの街だから、その分被害も一番大きかったの」
「攻撃?」
「そう。たくさんの人間たちが死んだわ」
「……?!」
「そのせいでこの世界に、人間はほとんど残っていないの。だから私は貴方を助けるし、私のこの身に替えても守ってみせる」
雪輪は胸元のロケットペンダントをぎゅっと握りしめた。
「きっと、檜垣も同じよ」
檜垣。
その名を聞くと巴恵の胸は苦しくなった。
人間のいなくなってしまった世界と、巴恵の閉じ込められた箱庭。檜垣は巴恵を守っていたと雪輪は言うが、それはどうしてなのだろう。
ずっと一緒に育った花菱少年は、はたして人間なのだろうか?
檜垣に会いたい。今すぐ会いたい。
会ってすべてを問いただしたい。
ふいに巴恵の足は止まった。
「巴恵?」
「戻ろう、雪輪。うち、檜垣に聞きたいことが多すぎて頭が変になってしまいそうや」
それはちょうど小さな建物群を抜けて少し開けた場所に立った時だった。これまでと違う大きめのお屋敷が軒を連ねている。巴恵の過ごしていた庭と同じ真っ白な壁が延々と続いていた。無論その場所もかなり破壊が進み、元々白かった壁は赤黒く、煤けて悲惨な様子だった。
雪輪は分かった、と頷いてこれまでたどってきた道を帰ろうとした。
が、雪輪は突如として厳しい表情に戻って周囲を警戒した。
「雪輪? どうしたん?」
「残党がいるわ。油断した」
舌打ちした雪輪は巴恵を背に庇うようにして立った。
腰のホルスターから大きな拳銃を引き抜き、迎撃態勢をとる。
巴恵は思わず帯に刺した護身用拳銃を確かめていた。先ほど雪輪に教わった使い方を頭の中で復唱する。
巴恵を背に庇ったまま壁際に下がり、破壊された壁の隙間に巴恵を座らせた。
「大丈夫だから、ここを動かないで」
そう微笑んで駆けだした雪輪の背は一瞬で遠ざかり、近くで何かが破裂する音が響いた。