第三話
花菱少年は、少女の言葉を聞いて微かに眉を寄せた。
巴恵には聞き覚えのない名である『十六八重菊』――確かにそれは反勢力を象徴する名だったからだ。
砂利が敷かれた庭を挟んだ向こう側に佇む少女と、花菱少年は障子ごしに睨み合っていた。もしこの距離で攻撃を受ければ、生身の人間である花菱少年に勝ち目はない。少女の腰のホルスターに収まっているのは細腕に似合わぬ大型拳銃だった。花菱少年や巴恵が手にしている護身用とはまるで違う。相手を破壊するための武器だ。
しかし、少女が攻撃してくる様子はない。
「オマエが十六八重菊だという証拠はあるのかっ?」
花菱少年がそう叫ぶと、少女は首にかけていたロケットペンダントを外し、花菱少年に向かって投げた。
軽い金属音を立てて縁側に着地したペンダントは、その衝撃で蓋が開いて中身を曝した。
その中には、はっきりと十六八重菊の紋章が刻まれている。
これを持つということは。
花菱少年の体から力が抜けた。
「……」
少なくとも、反勢力であるというのは嘘ではないらしい。
花菱少年はずずず、と障子戸にもたれかかって座りこんだ。
ひどく不安そうな目で見つめている巴恵に笑いかけ、おいで、と手を伸ばした。
紺色の着物に似合わぬ無骨な拳銃を抱えた巴恵。華奢な肢体と細い指にはアンバランスな銃を手にしたその姿は、守りたいと思わせる危うさを秘めていた。今にも壊されてしまいそうな儚い姿。
それでも、長い前髪の間から覗く紅の瞳には、気丈な光が灯っていた。
「何やの? いったい、何が起きてるん? あの女の子は何者なん? 人間やないの?」
しかしながら、矢継ぎ早に質問する巴恵に、いったいどこから説明したらいいのか。
花菱少年は、再び心の中で檜垣に助けを求めた。
巴恵は、反対した花菱少年を押し切って、少女を客間へと通した。
卓袱台を挟んで少女と向かい合った花菱少年は、ぼそりと呟いた。
「……オレはまだオマエを完全に信用したわけじゃねーからな」
「警戒心が強いのは評価に値するわ。でも、私を部屋に挙げた時点で意味はないと思うけど?」
少女のきつい言葉に、花菱少年は口を噤んだ。
客間の振り子時計は、現在時刻がちょうど正午を回ったことを示している。
いつも檜垣はどんなに遅くとも午後2時までには帰ってくる。それまでに終わらせておくようにと申しつけられた課題は先ほどめちゃくちゃになってしまったが、これは緊急事態だ。大目に見てくれるだろうと巴恵は思った。
背筋を伸ばして正座した萌黄色の髪の少女の頬を見れば、先ほど見た傷は見当たらなかった。
あれは巴恵の見間違いだったのだろうか。
「オマエは何者だ? 名前は?」
花菱少年の厳しい口調での問いに、少女は眉一つ動かさず、凛とした声で告げた。
「私は雪輪。檜垣と同じ『十六八重菊』の戦闘員の一人よ」
少女は、先ほど花菱少年に向かって放ったロケットペンダントを開いて、卓袱台の上に乗せた。
開かれた中には、花弁の密集した菊を思わせる紋が刻印されていた。
「十六八重菊? 戦闘員?」
それも、檜垣と同じ。
初めて聞く言葉に、巴恵は首を傾げた。
花菱少年の顔は青ざめ、明らかに視線が泳いだ。
「本日早朝、旧鳥羽街道付近で『三つ葉葵』所属の壬生狼士と戦闘、撃破した。でも、その余波でこの場所に飛ばされてしまったの。現在の正確な位置は私もまだ把握できていないわ」
旧鳥羽街道。三つ葉葵。戦闘。撃破。
巴恵にとって馴染みのない言葉が次々と知らされていく。
「旧鳥羽街道?!」
花菱少年はそれを聞いて驚きの声を上げた。
「壬生狼士がそんなところに……っ!」
「この場所が見つかるのもおそらく時間の問題だと思うわ。逃走するならば、十六八重菊は助力を惜しまない。ただし、決めるのはすべて貴方達自身よ」
巴恵の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
分からない。
何も分からない。
二人はいったい、何の話をしている――?
「……檜垣」
思わず口からこぼれたのは、いつも無表情に淡々と自分の世話をする男性の名前。
彼は、花菱少年は、自分にいったい何を隠しているのだろう?
長い前髪の間から花菱少年を睨むと、彼はふっと顔をそらした。
どうやら、花菱少年は説明するつもりがないらしい。
「ええわ。うちは自分の目で確かめる」
巴恵はそう言って立ちあがった。
「あ、ちょ、お嬢!」
「花菱はついてこんといて」
ぴしりとそう言い放つと、花菱少年の動きが止まった。
前髪の間から覗いた巴恵の視線に気圧され、動けなかったのだ。
代わりに雪輪と名乗った少女が部屋を出ていく巴恵につき従った。
ぴしゃりと障子戸を閉め、まっすぐ玄関へと向かう。
「確か名前は雪輪やったね。銃の使い方、教えてくれる?」
玄関へ向かう廊下で巴恵がそう聞くと、雪輪と名乗った萌黄色の髪の少女はこくりと頷いた。
セミオートの拳銃を扱う方法を簡単に説明し終わるころには、巴恵と雪輪は玄関を出て、庭をぐるりと取り囲む壁にたった一つだけ造りつけられた鉄の扉の前に立っていた。
「雪輪はうちの味方なん?」
「私は人間の味方よ。だから貴方の味方でもあるわ」
「ありがとう」
にこりと笑うと、巴恵は分厚い鉄の扉に手をかけた。
しかし、無論その分厚い扉が巴恵の力で開くはずもない。
細腕で鉄の扉と格闘する巴恵を見て、雪輪が問う。
「外に出たいの?」
「そうや。檜垣と花菱はきっと、この庭の外にある何かを隠してるはずなんや。うちは、それが何なのか知りたい」
「そう」
その言葉を聞いた雪輪は、その鉄の扉にそっと手を当てた。
そして、雪輪が軽く扉を押した、と思った瞬間。
凄まじい音を立てて鉄の扉が向こう側へと倒れて行った。
見れば、頑丈な蝶つがいが千切れるようにして破壊されている。雪輪が凄まじい力で扉を押した証拠だ。
「貴方は外へ行きたいんでしょう?」
雪輪は表情少なく、静かに告げた。
一瞬目をぱちくりとさせた巴恵は、首を傾げた雪輪を見て唇の端を上げた。
「……『巴恵』やよ。うちの名前」
「巴恵は外へ行きたいんでしょう?」
「そうや。ありがとう、雪輪」
そう言って笑うと、先ほどまで無表情だった雪輪が、微かに笑んだ。
その笑顔にもう一度微笑み返した巴恵は、倒れた鉄の扉を踏みしめ、外の世界へと一歩を踏み出した。
最初に見えたのは、視界の半分より上の青空と、視界の半分より下の廃墟だった。
「これ……何……?」
「旧市街。10年前までは多くの人間が住んでいた場所よ」
ざり、と雪駄が踏みしめた地面は土でも砂利でもなく、灰色のコンクリートだった。
はっと背後を振り返ると、今まで自分がいたはずの庭の壁がぼんやりと霞んでいた。もう一歩も踏み出せば、完全に見えなくなってしまうだろう。
視界に映る廃墟群は、おそらくかつて人間の居住地だったのだろう。建物らしき影がかろうじて残っているのがいくらか認識できた。
心抉る光景に、ざっと血の気が引いた。
同時に、微かな記憶が刺激される。
これほど破壊されてはいなかったが、巴恵はこの『人間の街』を知っていた。
いったい、いつ?
「巴恵、貴方はずっとこの場所にいたのよね」
「そうや。物心ついたときからずっとこの庭の中だけにおったんよ」
「巴恵は幾つ?」
「歳のこと? 今年で17歳や」
「じゃあ、巴恵が7歳のときだと思うわ。この街から人間が消えたのは」
「何やて?」
視界の半分は空で、残り半分は廃墟。
巴恵の隣には、おそらく人間ではないであろう雪輪と名乗る少女。
何かを隠していた檜垣と花菱少年。
時が動き出す。
孤独な少女に忠誠を誓った人型樞が箱庭に切り取って、寄り添って守ってきた優しい時間を破壊して。
砂時計の砂が零れ落ちるように。
自らの身を削りながら坂を転げ落ちる石のように。