第十一話
決意した巴恵の表情に、声に気圧されて花菱は動けなくなっていた。
檜垣から絶対に行ってはいけないと口止めされている。なにしろ言葉だけでなく実際に身を呈して巴恵を守っていた檜垣だ。隠す事を反対した花菱でも躊躇はあった。
対して雪輪は、萌黄色の瞳でじっと巴恵を見つめた。
「何が聞きたいの?」
「全部や。十六八重菊のことも、三つ葉葵も壬生狼士も……うちの知らん言葉全部を教えてほしい」
きっぱりとそう言うと、雪輪はほんの少しだけ首を傾げた。
「以前私は、真実は檜垣に聞くように言ったわ。巴恵もそれに同意したはず。それでも、私に聞くの?」
「そうや」
巴恵は深く頷いた。
「教えてほしい。もう嘘は聞きたくない。うちはもう子供やないんやから、真実は自分で知って、自分で判断する。これ以上、檜垣に守られるだけは嫌なんや」
目の前で左腕を切り落とされた彼の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。
「檜垣がもうここへ帰らん気や。このままやとうちはもう一生檜垣に会われへん。そんなんやったら、うちは檜垣のもとに行く」
「お嬢、それは」
「花菱は黙っとき」
ぴしゃりと言い含めると、花菱はしゅんと俯いた。
「教えて、雪輪」
真っ直ぐな瞳。
その中に何かを探すようじっと見つめ返した雪輪は、ふっと口元を綻ばせて小さく頷いた。
「いいわ。詳しくは話せないけれど……簡単に外の世界の現状を説明するわ」
「10年前に人型樞の一部が反乱を起こした事は、檜垣に聞いたと思う。その時、人間に対して殺戮の限りを尽くした集団があった。その集団を『三つ葉葵』と呼ぶの。葵の葉を3枚重ねた紋章を持つ、現在でも最も勢力の大きい集団よ」
用意した紙に簡単な文様をかきながら、雪輪は淡々と説明していった。
「他にも小さな勢力はあるけれど、ほとんどが三つ葉葵の傘下に入っているわ。彼らは
人間のせん滅を望んでいる。この紋を見たら気をつけて。まず貴方の命を狙ってくるわ。属するのは全員が人型樞」
3枚の葵の葉を丸で囲んだ雪輪は、とんと筆を置いた。
「それから、私が属するのは『十六八重菊』――三つ葉葵に対する最大の反勢力」
いつも首に下げているロケットペンダント。
それを外して、雪輪は中の紋章を見せた。
花弁の寄せ集まった菊の花をモチーフにした紋章は、太陽の光を受けて輝いた。
「私たちは人間の味方。理由は様々だけれど、もともと人間と暮らしていたのだから人間に対して敵意を持てないという者がほとんどかもしれないわ」
「檜垣もそうなんよね?」
「ええ。でも、彼は少しだけ違う。今思えば、彼が十六八重菊にいたのは貴方を守るためだったように思うわ。人間すべてではなく、貴方の暮らす世界を作るために十六八重菊の手伝いをしていたの」
「……」
「だから今回も――」
そこまで言って、雪輪は一瞬躊躇した。
「何? 何なん? 檜垣は何でここを出て行ったん?」
巴恵がせがむと、雪輪は淡々と告げた。
「貴方を狙った和泉や鉄扇、それにあの青の羽織は皆、『壬生狼士』と呼ばれる三つ葉葵傘下最強の戦闘部隊なの」
壬生狼士。
檜垣が、雪輪が繰り返した言葉だ。
「本当はここから数百キロ離れた場所に本拠地を置いていたのだけれど、最近になって、彼らは陣営をこの旧都に移した。旧都は十六八重菊の活動拠点だから、本気で潰しにかかってきたの」
そう言えば、そんな事を和泉が言っていた気もする。
「十六八重菊は、早いうちに壬生狼士の芽を摘むことにした。彼らが旧都にいついてしまう前に一掃する作戦を立てたのよ。捨て身覚悟で陣営を崩す無謀な作戦を」
「もしかして、檜垣はそれに参加するつもりなん?」
「……」
雪輪は答えなかった。
それは何より雄弁なイエスの回答だった。
「本当は私が参加するはずだったの。でも、檜垣は私との交代を申し出た」
「……!」
「私が行くよりも檜垣が行った方が、成功する確率は高い。生存率も高い。彼は十六八重菊に属する誰よりも強いから」
膝の上にそろえている巴恵の手が震えた。
「でもきっと、作戦は成功しない。ただ、少しずつ壬生狼士の戦闘力を削いでいく事は出来る。きっと檜垣はそれを狙っていると思う」
「……どういう事なん?」
「おそらく檜垣は生き延びて、そのあとは一人で壬生狼士を少しずつ消していくつもり、何だと思う。これは本人から直接聞いたわけではないけれど、おそらく間違っていないと思うわ」
たった一人で、壬生狼士たちを。
檜垣は強い。戦闘能力など皆無の巴恵にも分かるくらいだ。きっとその戦闘力はケタ外れだ。
しかし、雪輪を一瞬で沈めた和泉のような人型樞がまだたくさんいるはずなのだ。檜垣はそれらすべてに一人で立ち向かおうとしている。
片腕を失ったばかり。檜垣は大丈夫だと言ったが、そんなに簡単に修復できるものとは思えない。
「……その、作戦って言うのはいつなん?」
「次の満月」
「あと3日しかないやん……!」
満月の数で過ぎた時を数えていた巴恵にはすぐに分かった。
もしかすると、檜垣はその日の作戦で命を落とすかもしれないのだ。
「あかん。そんなん、赦さんよ」
膝の上で握りしめた両手の拳が震える。
巴恵は自分の視界に揺れる紅の髪をかきあげた。この前髪が邪魔だと思ったのは初めてだった。
もういっそ切ってしまおうか……そう思った瞬間、はっと気付いた。
「これは、うちが世界を否定してた証拠なんやね」
自分の見える世界など狭いと決めつけて。
もっと広かった世界から自分を隔離するように。
すべてから目をそらすように。
目の前にいてくれた檜垣と花菱以外を否定して。
それに気づいた瞬間、巴恵は立ち上がっていた。
「お嬢っ?!」
慌てて後を追う花菱を振り切る様にして台所に入ると、迷わず包丁を取り出した。
檜垣が手入れしていた切れ味鋭い包丁だ。
「お嬢、早まるな、やめ――」
花菱の制止も聞かず、巴恵は思い切り包丁を横に引いた。
花菱少年は両手で目を覆い、おそるおそる巴恵を見た時に、あれ、と呆けた声を出した。
ぱらぱら、と紅の髪が落ちる。
「もううちは目をそらさんよ。世界がどんな形でも受け入れる。見ないふりなんてしない」
前髪をばっさりと切った巴恵は、意思の強い瞳で花菱を見た。
「檜垣と同じ景色を見て、檜垣と同じ場所に暮らしたい」
少し遅れて追ってきた雪輪が、微かに微笑んで告げた。
「あと3日しかないけれど、銃の使い方と簡単な護身術だけは教える事が出来るわ……どうする?」
そう言った雪輪に、巴恵は不敵に微笑んだ。