第十話
いつも食事の支度をしていた優しい手が、敵の胸を簡単に貫いていく。鋭く腹を蹴り込まれた相手は、体をくの字に折って吹き飛ばされていく。
舞うような動きで次々に襲ってくる敵をいなしていく檜垣は、ほとんど無表情だった。
巴恵は全く動けなかった。
檜垣が人型樞だというのは、ずいぶん前からうすうす感づいていた気がする。それでも、彼があまりに傍にいすぎて忘れていたんだろう。
それよりも衝撃だったのは、檜垣が顔色一つ変えずに目の前の敵を次々に嬲っていく姿だった。
手練は和泉と名乗る青年だけだったのか、それとも檜垣が強すぎるのか。
ものの数分もしないうちに、足元には壬生狼士の山が転がっていた。
巴恵は茫然と座り込んでいた。
周囲を檜垣の倒した壬生狼士の物言わぬ躯たちが取り囲んでいる。歯車の噛み合う音がどこからともなく響き、辺りには濛々と煙が立ち込めた。
スーツ姿の檜垣だけが背筋を正して立っていた。
その姿は全くの人間でありながら、左腕は消失し、コードや鉄でできた中身が露わになっている。
整った顔の一部も皮膚が落ち、黒々とした中身を曝していた。
「申し訳ありません、お嬢様」
ばちばち、と左腕の付け根がスパークした。
「本来なら僕には、貴方に触れる資格などなかった。何しろ、貴方を傷つけようとするのは、僕と同じ人型樞だ」
左腕だけではない。
顔も、服が裂けて覗いた足も、どこもかしこも負傷しており、皮膚が逸れていた。
その奥に覗くのは、生身の人間にはありえない色だった。
「先ほど和泉が行ったように、僕は生れついての戦闘型でした。来る日も来る日も人間と人型樞を破壊する日々……しかし、貴方が生まれてから、僕の感情はようやく動き出したんです。ただの殺戮人形ではなく、何かを守ろうとするようになった。少しずつ人間を知っていった。教えてくれたのはお嬢様、貴方です」
まるで心の底を吐露するように、檜垣は力強い声で言った。
「僕は貴方に近づきたかった。人型樞たちが人間と対等の関係を求めて反乱を起こしたのと同じように、僕も自らに人間性を求めた」
まるで硝子玉のように美しい漆黒の瞳が、まっすぐに巴恵を見つめていた。
紅の瞳と漆黒の視線が交差した。
「僕は――人間に、なりたかった」
人間を知った人型樞は、人間と対等の関係を求めた。
檜垣も例外ではなかった。
心の底から人間性を切望し、不可能である事を知って絶望した。
素材の違う人型樞は決して人間にはなれないから。
「さようなら、お嬢様。もう会えないかもしれませんが……僕は、ずっと貴方だけを守り続けます」
檜垣はそれ以上巴恵に近寄ろうとはしなかった。
にこりと微笑んだ檜垣の表情は、悲しみの中に深い決意を感じさせた。
「花菱と雪輪の言う事をちゃんと聞いて、いい子にしているのですよ。決して街には出ないでください。そうすれば僕は、貴方を守る事が出来る」
先ほどと同じ事を繰り返し、檜垣は落ちていた自らの左腕を拾い上げた。
その様子を見てびくりとした巴恵を見て、檜垣は悲しそうに微笑んだ。
「お元気で」
別れの言葉を優しい口調で投げかけて、檜垣は廃墟の向こうへと消えて行った。
重傷を負った雪輪を庭まで送り届けた花菱がようやく巴恵のもとに駆け付けた時、彼女は声もなく、ただ静かに涙を流していた。
祭囃子が止まない。
布団をかぶって耳をふさいでも、胸の奥まで響く斬撃音と銃声がどうしても止まない。
巴恵は花菱に引きずられるように庭に戻ってきてから、ずっと布団を被って閉じこもっていた。
思い出すのは最後の檜垣の笑顔。
あの時さよならを告げた檜垣の笑顔は、あの言葉が嘘でない事を示していた。
「嘘つきや……!」
巴恵にはここで待っていてくれと言ったのに、檜垣はもう二度とここへ戻らない気だった。
そんなもの、嘘でしかない。
これまで自分に外の世界を知らせずに守り通したように、今度もきっと巴恵の事をどうにかして守ろうとしているとしか思えなかった。
布団の外から、時折花菱が呼ぶ声が聞こえたが、すべて無視していた。
内に籠る嗚咽。
かれる事のない涙。
いつの間にか、巴恵は眠りについていた。
夢の中だけが穏やかな時間だった。
悲しさも悔しさも虚しさも怒りもすべて忘れ、巴恵は昏々と眠った。
その中で初めて檜垣と出会った時の事を思い出した気がした。
あれは大きなお屋敷の庭で、巴恵は歩く事も出来ないくらいの赤ん坊で。
無表情な檜垣に、巴恵は小さな手を必死で差し伸べていた。
きっと今回も、巴恵が手を差し伸べなければならないのだろう。
はっと目が覚めると、寝室には障子の隙間から朝日が差し込んでいた。
髪はぼさぼさ、泣きすぎて顔はぼろぼろ、目は腫れて大変な状態だろう。
それでも、目にしみるような明るい太陽の光は巴恵の心に沁み込んだ。
書斎の振り子時計がぼーん、ぼんと時を告げる。
いつもなら、檜垣が朝食を持ってくる時間なのに。
再び滲みそうになった涙をぬぐい、もぞもぞと布団から抜け出した。
「もう、起きな」
檜垣にいい子にしているんですよ、と言われたからには、いつまでも布団にもぐっているわけにはいかない。
何よりも――
「巴恵」
すっと寝室のふすまが開いた。
その向こうに立っていたのは萌黄色の髪の少女。
「雪輪。元気になったんやね」
「巴恵こそ、もう大丈夫なの?」
「大丈夫やよ。ごめんな、心配掛けてしもて」
雪輪に向かって微笑んでいる自分に気づいた時、巴恵はようやくまた先を見つめる事が出来ると思った。
朝食を終え、縁側に雪輪と花菱、そして巴恵が集まった。
「お嬢、もう大丈夫なのか? ぱっと見ただけじゃわかんなかったから手当とかできなかったけど、怪我とかしてないよな?」
「大丈夫やよ、うちは……檜垣が守ってくれたから」
檜垣の名を出すだけで、胸が裂けるように痛かった。
それを感じたのか、花菱も雪輪も黙り込んだ。
「雪輪、花菱」
巴恵は意思の通った声で二人を呼んだ。
紺色の着物に身を包み、背筋を伸ばして真剣な眼差しで。
「教えてくれる? 檜垣はいったいどこへ行ったん?」
そう言うと、花菱は気まずそうに視線をはずし、雪輪は困ったように首を傾げた。