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忌み地の水

作者: 梓 果音



 あなたの飲む水は、『きれいな水』ですか?

 なんの濁りもない、そんな、きれいな───




 ミーンミンミンミンミー、ミーンミンミンミンミー、ミー…………ジジッジッ……

 「わっ、にげられた!」

 「まってー!こっちにもいるよー!」

 「つかまえろ!」

 ……ジジジジッ

 蝉が鳴く。七日の灯火を赤赤(あかあか)と燃やす。

 連日の猛暑など目もくれず、子供たちは、その声めがけ走る。乾いた砂は巻き上がり、彼らの駆けた後を追う。砂と汗にまみれ、目一杯、網を振る。


 この時期が来るたび、私は思い出す。

 あの、夏の日を───




 【忌み地の水】




 「あっつ……」

 ハンカチでいくら拭おうと、収まることを知らない汗が、この夏の暑さを証明する。

 「二週間ぶりだね。」

 娘も私同様、火照った顔に汗を光らせる。

 ……ウィーン……

 重々しい響きが広がる。自動ドアと外界との境目は、温度が定めている。そう思うほどに、夏場の外気との差には辟易する。

 「すずしい……」

 先程より澄んだ娘の声は、やはり、ここには似合わない。何度来ても慣れることはない。病院のように無機質で、人としての温度を感じないこの空間。この静けさもまた、ここが外界と意図的に隔てられた空間である、ということを指し示しているかのようだ。独特の匂いが、胃をかき回す。体外的にだけでなく、精神的にも負担がかかる。この、もの悲しい雰囲気。ただただ死の淵に腰掛けているような、そんな感覚。……好きになれない。

 「今日は、早めに帰ろうか。」

 全てを見通したよう口にする娘は、こういう時、心強い。何かあっても大丈夫、そういった心のお守りのような存在。

 「ありがとう。でも、大丈夫よ。せっかく来れたんなら、ね。そう頻繁には来られないし。」

 この特別養護老人ホームに母が入居したのは、昨年末のこと。抱えていた認知症が進行し、家で面倒を見ることが難しくなった。本当なら、いつか迎えるその日まで、共に過ごしたい。というのが本音だが、気持ちだけではどうにもならないこともある。仕事に家事に育児に、介護。理想と現実の差は、埋められなかった。

 母が入居した日の夜、ぽっかりとした空虚の隣に見つけた安堵感。あの日の自分を、私はいまだ責め続けている。

 思考がひとりでに巡る間に、母がいる個室の前へと辿り着く。

 お母さん、覚えててくれてるかな……

 心にぽたりと不安の色が滲む。

 「もし、忘れられるなら、私の方が先だよ。だから大丈夫。」

 くだけた笑いをこぼし、娘が扉を開く。スライド式の扉からは、見た目以上の重さを感じた。

 その先に広がっていたのは、無機質でも空虚でもなく、懐かしく温もり溢れる、故郷(ふるさと)だった。

 やわらかな微笑みを浮かべる母は、朝日がとても良く似合う、私の知った母だった。ベッドの上、足を伸ばすその姿は、どこか小さくなったように感じる。「歳をとると、棺桶に入るよう小さくなっていく」と言っていたが、こういうことなのだろうか。

 「おばあちゃん、おはよう!元気にしてた?」

 母に向かい嬉しそうに話す娘の背中が、以前より少し大きく感じる。

 娘が一つ階段を上れば、母が一つ階段を下る。嬉しいことと寂しいことが、背中合わせに座っている。時の流れに、情はない。

 「はい、これプレゼント!」

 娘から手渡されたお世話人形を、母のか細い腕が迎え入れる。昔はもっと(たくま)しかった。そんな腕が、私の胸を締め付ける。

 嬉しそうに微笑みながら、人形をやさしく抱きかかえる母。その様子を見た娘も、口元に笑みをたたえている。

 やわらかく、あたたかい、オレンジ色の時間。

 母は人形の頭をふわりふわりと撫で、

 「みやこちゃん、ありがとう。かわいいお人形さんね。」

 そう、口にした。

 即座に振り返った娘と、視線がぶつかる。それが、何よりもの答えだった。

 ……コンコンコン。張り詰めた空気を打ち砕くよう、扉が叩かれる。

 「失礼します。伊藤さん、少しお話大丈夫ですか?」

 隙間から顔を覗かせる職員の、無機質な声が響く。

 「今、行きます。美咲、少しの間おばあちゃんのことお願い。」

 無言で頷く娘の顔には、いまだ動揺の影が揺れている。

 個室を後にし、扉から少し離れた壁際。職員は事務的に口を開いた。

 「お母様の症状に関してなんですが……」

 「だいぶ進行しましたね。今しがた娘のこと、私の名前で呼んでいました。」

 不思議なもので、口にするという行為が本当の意味で認める作業のようで。先に生まれたはずの感情に、やっと理解が追いつく。これもなにもかも、引き換えに得たのが……あの日の安堵。お母さんは、なにも悪くない。悪いのは……

 「そう……ですか。」

 職員の声が揺れる。続く言葉を探せずに、呼吸だけが宙を舞う。

 「いつかはこんな日が来ると分かっていたので、大丈夫です。色々ご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、今後ともどうぞ、宜しくお願いいたします。」

 深々と頭を下げ、言葉をこぼす。そのどれもに、ぽっかりと穴があいていた。




 熱に浮かされたアスファルトが、じりじりと身を焦がす。湿った風は全身を撫ぜるよう、ふたりの間を吹き抜ける。そう遠くないはずの道のりが、いやに長く感じる。

 「……お母さんのこと、ひいおばあちゃんだと思ってた。」

 話が終わり個室に戻ると、母は人形を胸に抱き幸せそうに眠っていた。そのあまりにも穏やかな表情に、起こすのが忍びなくなり、早々に面会を終わらせたのだ。

 娘の話によると、私が話をするため個室を離れた後、

 「みやこちゃん、ばあばのいうこと、ちゃんときいてる?」

 「ばあばのいうことは、しっかり、きくのよ。」

 「ばあばはね、ママのだいじ、だいじ、だから、みやこちゃんもばあばのこと、だいじ、だいじ、してね。」

 などと、話していたらしい。

 ……都子。私の存在があるのに、ない。忘れていないけど、忘れられている。もう、今の私で、話すことはできない。想像はあくまでも想像であって、現実を受け容れるだけの準備には、到底なり得なかった。哀しいのは私だけじゃない。娘も、そして、母も。みんなみんな、哀しい。私だけじゃ、ないのだ。

 夏が、対照的な感情を浮き彫りにする。

 「……あ、そういえばね」

 娘がなにかに気づいたように、言葉にする。

 「おばあちゃん、変なこと言ってた。」

 「変なことって?」

 「なんかね、井戸がどうのって……なんだっけ、みやこちゃん、井戸には……井戸に……は」

 ……ああ、なるほど。

 「多分、近づいちゃだめよ、じゃないかな。一番最初のお家にあったのよ、井戸。もう、ダムの底に沈んじゃったけどね。」

 「あ、それそれ、近づいちゃ……って、え?ダム?ダムって、あのダム?!」

 「そう、あのダム。」

 なんとはなしに避けてきた話題。別に、話したくないとか、そういうことではない。本当になんとなく、ただ、なんとなく話してこなかった。



 私が十七の年。村は、ダムになることが決まった。

 生まれ落ちてからのオレンジ色の時は、藍色に染まり、ただの澱となった。帰る場所は、もうない。

 誰かの哀しみの上、成り立った幸せ。それを享受しながらも、その哀しみすら知らない、知ろうともしない。

 日常の当たり前は、私たちの、哀しみの上にあるのに。



 「ダムの底か……今度、行ってみたい。」

 「え?」

 思考がやさしく引っ張られ、現実へと戻る。

 「お母さんの生まれ育った場所が、どんなところだったのか。見てみたい。」

 「……そうね。今度、行ってみようか。」

 ミーンミンミンミンミー、ミーンミンミンミンミー…………

 夏の声は、その存在を確かに刻んでいた。




 ザーーー、ゴロゴロゴロゴロ、ザーーピカッ……

 ひどく不機嫌な空が泣いている。窓に打ちつける雨は、その音で廊下を埋め尽くす。なにかを強く訴えかけるような、そんな響きを伴うようだ。

 夏の雨というのは、言うまでもなく厄介だ。暑さに湿気にと、不快指数を一段と高める。湿り気を帯びた体は、いつにも増して重い。五十代も後半に差し掛かり、昔とは比べ物にならないほど、体力も気力も、その全てが落ちたように思う。

 ……やっと着いた。

 たった一階分の階段にも、疲れを覚える。

 入居者の身を守るためであろうしっかりとした扉を抜け、母の待つ個室へと向かう。今日が雨だからでも階段を上ったからでもない、そんな重さが、のしかかる。

 あの日から数日ぶりの面会。個室が近づくにつれ、その重さがより存在感を増す。心の叫びを、体が代弁しているようだ。

 会いたいけど、会いたくない。現実に胸を刺される準備は、できていない。今日は全ての現実を、自分一人で受け止めなければならない。

 「……さん、……うさん、……伊藤さん!」

 突如、耳へと入ってきた言葉に、体がビクリと反応する。

 「すみません、驚かせてしまいましたね。」

 振り返った先には、あの日の職員。

 「いえ、すみません。なんだか、ぼーっとしちゃってたみたいで。」

 「お母様に関して、少しお話したいことがございまして。お時間、大丈夫でしょうか?」

 「あ、……はい。大丈夫です。」

 …………なにを言われるんだろう。そう思うだけで、耳を塞ぎたくなる。でも、向き合わなければならない。

 「座ってお話しましょう。ご案内しますね。」

 私のことを気遣ったのか、職員は私の歩調に合わせるよう案内をはじめた。




 スライド式の扉の先には、そこそこ大きくシンプルな机と、その机を挟むよう椅子が二脚ずつ設置されていた。こじんまりとした真っ白な室内には、どこか事務的な雰囲気が漂っている。

 確か、契約時に案内された部屋だ。

 「そちらにお掛けください。」

 職員にうながされるまま、扉と斜めに向かい合うかたちで腰を下ろす。職員はゆっくりと扉を閉めると、私と対角をなすよう腰を下ろした。

 「母がなにか……ご迷惑をお掛けしてしまったんでしょうか……?」

 話はじめを待たずして、何個も浮かぶ可能性のうち一つを口にする。

 「いえいえ、ご迷惑だなんて全然。」

 職員の表情に、偽りはなさそうだ。

 「夜勤からの申し送りになりますので、私も直接見たわけではないのですが……」

 そう前置きしつつ、言葉を続ける。

 「以前、お母様に、お世話人形をお渡しされましたよね?」

 「……はい、◯◯ちゃん、ですよね?あの人形が、どうかされましたか?」

 ……まさか、誤食?……不安が募る。

 「室内に取り付けられているトイレに……その……人形を、押し込んでいたそうで……」

 「トイレに……押し込む……?」

 予想だにしない返答に、眉間の皺が深くなる。

 「はい。……それだけならいいのですが、その時の様子がどうも気になりまして……」

 「……どんな様子……だったんでしょう?」

 不安が胸を駆け巡り、胃にも痛みが走る。

 「……『なんでここにいるの?あなたは井戸にいるはずなのに。』……そう叫びながら、取り乱したように人形を押し込んでいたそうです。」

 「……井戸に……いる……??」

 身構えた答えとは大きくかけ離れた言葉に、脳は考えることを放棄したのか、壊れたように動かない。

 「職員が慌てて止めに入ったのですが、物凄い力で振り払われ手に負えず……数人がかり、やっとのことで落ち着かせたそうです。」

 

 夜勤職員曰く、


 静寂を切り裂くほどの金切り声は、廊下を突き抜け、遠く離れた共有スペースにまで響きわたっていたという。

 その声に導かれるよう駆けつけた数人の職員は、金切り声に混じり、水がバシャバシャと掻き回されるような、そんな音を耳にしたという。

 また、見た目とは相反する力で人形を押し込む母の姿は、まさに『般若』そのものであり、至るところに飛び散った水が、その激しさを物語っていたという。


 私が見てきた母とは掛け離れた状態に、理解が追いつかず、言葉を失う。

 「幸い、お母様にお怪我はなかったので、その点に関してはご安心ください。ですが……状況が状況でしたので……お伝えした方が良いかと思い、お話させていただきました。また、人形に関してなんですが……」

 職員は、ためらいがちに言葉を続ける。

 「落ち着かせるためにも、一度こちらでお預かりさせていただこうと思いまして。お母様の手から、人形を離したところ……」

 職員は眉間に皺を寄せ視線を落とすと、

 「『ごめんなさい』と泣き叫びながら、床に額を擦りつけ、何度も何度も、土下座をされていたそうです。『私が悪かった』、『しかたなかった』、とも、口にされていたそうで……なので、人形の方はお返しいたしますね。」

 そう、言葉を落とした。

 ……私が悪かった、しょうがなかった……なんのことだろう、分からない。私の知らない母は、病気が作り出した、もう一人の母なのか、それとも……

 「……本当に、ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございませんでした。」

 額が机にぶつかるか否かの深いお辞儀をする。

 「謝らないでください!……今後も注意深く、様子の方を見させていただきますので。また、なにかありましたら、こちらからお声掛けさせていただきますね。」

 そう言葉にする職員の顔には、私の心情に寄り添うような、そんな色が浮かんでいた。




 ザー、ガタガタガタッ、ザザーー、ガタガタッ……

 吹きつける風が窓を揺らす。思考はなにひとつまとまらない、まとまるはずもない。鉛のような心につられ、息が浅くなる。

 母の個室に着いてから、どのくらいの時間が経ったのだろう。扉の前に立ち、ただただ、時だけを見送っている。全身を所狭しと覆った名付けようのない感情が、取っ手にかけようとした手を引き留める。

 ……この扉の先にいるのは、私が会おうとしているのは…………誰?

 膨らんでいく妄想と、それに対する罪悪感とが入り混じる。

 「……まだ……決まったわけじゃない……」

 胸に手をあて、下手な深呼吸を数回繰り返す。目を閉じ、取っ手を掴む手に、力を込める。口から細い息を漏らし、扉を一気にスライドする。


 「ヒッ」


 母がいた。開けた視界を埋めるよう、俯き、直立した母が。

 瞬間、息が止まり、鼓動が体の末端まで響く。冷たい汗が背中をつたい、体が硬直する。

 個室全体が、母含め、淀んでいる。黒黒しいナニカに覗かれているような、そんな感覚。


 ザーザー、ガタガタガタッ……

 重い沈黙の中、荒れ狂う屋外の音だけが響く。

 俯き続ける母の、表情は見えない。

 「おかあ、さん……どう、した……?」

 カラカラに乾いた喉が張り付き、上手く声が出せない。

 「あ…………し……」

 数秒の間の後、弱々しくこぼれた声は、間違いなく母の声だった。懐かしい響きにほっと胸をなでおろすと同時に、覚悟が決まる。

 ……ひとまず、ここから遠ざけないと。

 「お母さん、」

 「あ…………しま」

 はやる気持ちを抑えつつ、母の顔を覗き込む。

 「お母さん、ちょっと場所」



 「赤ちゃんの声がします。」



 お世話人形のように黒く、感情のない、目。



 「赤ちゃんの声がします。赤ちゃんの声がします。赤ちゃんの声がします。赤ちゃんの」



 脈打つ思考の中、延々と響き続ける無機質な声と、口だけが機械的に動くその様から、目が、離せない。



 「赤ちゃんの声がします。」

 その言葉だけが、いつまでも鼓膜を揺らしつづけた。




 ザァーーー、ザザァーーー。

 雨は弱まることを知らず、ぐだぐだと泣き続けている。

 駐車場に着いてから、どのくらいの時間が過ぎただろうか。ハンドルにもたれ、現実と過去との狭間を、行ったり来たりしている。

 気づいた時には、通りかかった職員が対応に当たっていて、私はただ呆然と、その様子を眺めていた。

 途方もない疲労感が全身を襲う。脳みそは、いつからか使い物にならない。


 「……井戸にいる……赤ちゃんの声……しかたなかった…………私が悪かった……」


 …………これらの言葉から導き出されるのは、最悪の答え、のみ。それは、病が生み出した産物なのか、はたまた、過去の記憶なのか……

 わからない。知りたく、ない。


 本当のお母さんは、どこ?




 眠れない。

 夕方までの雨が嘘のように、やわらかく窓を濡らす。

 いまだ処理しきれず、脳みそに溢れかえったままの言葉が、出来事が、眠りを妨げる。


 お母さんが、赤ちゃんを……?


 うずくまった体を、より強く抱く。


 ……もし、そうだとして……全てはもう、水底だ。確かめようがない。……でも……どうしてそんなことを……?


 思考を巡らせれば巡らせるほど、目の当たりにしたくない現実が、目の前を覆う。内蔵も体も、全てが重苦しい。

 突如、暴れ出した胃液を堪えながら、トイレへと駆け込む。便座の縁に掛けた手が震える。出るものなど、もう何も無い。

 便器のくぼみ、溜まる水と目が合う。ここに母は、人形を押し込んだ。濡れることなど構うことなく、押し込んで、押し込んで、叫んだ。

 井戸に……いる。私の……きょうだい……?



 「こ こ に い る よ」



 「ヒュッ」

 喉が鳴り、体全体が脈打つ。毛穴という毛穴からは、冷たい汗が吹き出す。

 地を這うような声。この世の全ての恨みや憎しみを詰め込んだような、重く抉るような響き。その声が、頭上から私の脳みそを揺らす。

 全身から血の気が引き、温度が奪われる。無防備にさらされ続ける体を、力ずくで縮込める。脈が、鼓膜と体を、揺らし続ける。

 ……一刻も早く、ここから離れたい……

 うるさい頭を上げ、その声がする方へ、ゆっくりと視線を上向ける。髪の毛と髪の毛の隙間、覗く視界には……いつも通りの風景。

 ……誰も、いない。……よかった……


 「ヒッ」

 声にならない叫びをあげ、体勢を崩す。反射的にのけ反った勢いのまま、背後の扉に頭と背中を打つ。

 視線を戻した窪みには、


 あの人形と、ミミズが一匹。

 逆流し、水位の上がった水の中、溺れていた。


 臍の緒のような、大きなミミズは、もがき苦しみ暴れていた。

 その下には、恨みがましい真っ黒な瞳に、笑顔をたたえた人形が……こちらを覗き込んでいた。


 コンコンコン。


 「ヒィッ」

 背後からノックする音と振動が、体につたう。不意に起こされた現象に、再び胸が爆ぜる。

 「ごめん、驚かせて。なんかすごい音したから、大丈夫かなって。」

 そう気遣う声の主は、美咲だった。

 反射的に流そうと、目線を移したトイレには、ただ、胃液だけが広がっていた。

 ……嫌な想像ばかりするからだ。

 「体調、大丈夫?…………おばあちゃんと、なにかあった……?」

 私を心配する色が滲む。

 「……起こしちゃったみたいで、ごめんね!なんでもないの……ただ、ちょっとふらついちゃって……立ちくらみかしらね。気にかけてくれて、ありがとう。」


 おばあちゃん、

 『人を殺しているかもしれないの』

 そんなこと、どうして言えよう。


 「……そっか。なにかあったら、言ってね。」

 そう言葉を残し歩き去る音は、やがて暗闇に溶けていった。




 痛い。ひどく凍てつく寒さが、肌を焼く。

 土は香り、木々がざわめく。落ち葉を、枝を踏む音が、揺れとなり伝わる。

 背中を抱える、大きな手の感触。

 目は開かず、なにも見えない。広がる暗闇が、不安となり手を広げる。

 ……身動きは、とれない。


 ……こ、え?…………声だ。声がする……


 誰か!誰か助けて!!誰か!!!

 ……叫んでいるのに、声が出ない。


 暗闇を引き裂き、赤を纏う。

 暑いほどの熱気に、灰の臭い。

 木が爆ぜる音に、大麻(おおぬさ)を振る音。

 遠く聞こえた声の正体は、お経、だった。

 ……これは、なにかの、儀式。


 不吉な予感が、首を絞める。


 ……動きが、止まる。


 体は、揺れの本体から離され、



 『ごめんなさい。しかたないのよ。』



 内蔵が浮く。

 絞首台の足場が開いた、そんな絶望感。

 風が耳元で鳴き、赤は遠のき、やがて闇となり消えた。




 ……ヴーヴーヴーヴーヴーヴーヴー

 枕元の振動が、即座に現実へと引き戻す。

 ゆっくりと起こした体は、雨にさらされたかのように、ぐっしょりと濡れている。呼吸は乱れたまま不規則に繰り返され、視界はぼやけて定まらない。

 現実を見ていたような夢。それは私に抱きつき、その感情を心に落とし込み、淀みをつくる。

 疲労が誘った眠りは、浅瀬を漂っていたのだろう。カーテンの裾から漏れる色は、うっすらと白いままだった。

 ヴーヴーヴーヴーヴーヴー

 再びの揺れに、手探りでスマホを探す。揺れ続けるそれを掴み、画面を確認する。


 そこには、『◯◯苑』の文字があった。


 ……施設からだ。

 鼓動が速くなり、嫌な予感だけが頭を埋め尽くす。

 震える指先で、通話ボタンをスライドする。


 「もし、もし」

 水気の飛んだ声は、ひどくぎこちない。

 「朝早くにすみません。◯◯苑ですが、伊藤都子 様のお電話で宜しいでしょうか?」

 「あ、はい。あの、母に、なにか」

 前置きなどいいから、早く本題に

 「先程、お母様がお亡くなりになりました。」


 聞きたくない言葉ほど、耳は聞こうとするのだろうか。

 深く刺した音は、鼓膜にシミをつくった。




 母は、死の淵から落ちた。あの夢のように、闇に呑まれて消えた。


 母は、便器に顔を突っ込み、溺死した。

 お腹に広がった大きな蚯蚓脹(みみずば)れは、便器の中もがき苦しむ、あの日のミミズのようだった。


 ……母は、井戸に引きずり込まれたのだろう。

 もしかしたら、あの日も……押し込んでいたのではなく、『引き込まれていた』のかもしれない。

 点と点とが結ばれ、導き出された答えが、母の罪を教えてくれた。そして、私の罪も。

 母の罪を、私は裁けない。裁く立場にもない。私は、気がつくべきだった。他人から聞いたことだけで判断せず、もっと…………守れた、はずだった。


 ……でも、あの子のことも、憎めない。


 突き放され、叫んでも叫んでも、誰にも届かない。全身に走る、痛みに似た冷たさ。声すら出せない水の中、その感情を押し込むように、穴という穴から流れ込む、ドロドロと、腐敗した、ナニカ。絶望。


 それでもなお、求めた、母の愛。

 白過ぎた、愛。


 それを知ってしまったら、わかってしまうから……


 あれはきっと、母の言う『あなた』。

 私の『きょうだい』の、最期の記憶。


 母は、私のきょうだいを、


 ……殺した。




 葬儀会社との打ち合わせを終え、家路に着く。

 思いを馳せ、哀しみに打ちひしがれるような、そんな余裕は無い。やることは、山のようにあるのだ。

 でも、そんな忙しなさに感謝すら覚える。今、私が私を保てているのは、この状況があってこそなのだと思う。

 少しの休む間もなく、祖母へと電話をかける。連絡をとるのは数ヶ月前、珍寿(ちんじゅ)のお祝い以来だ。

 「もしもし、みやちゃん。おはよう。」

 電話口から聞こえる、溌剌(はつらつ)とした声。私の、最後の故郷。

 「……お……ばあちゃ」

 幾重にも重なり蓄積した澱が、堰を切ったように溢れ出し、言葉が詰まる。

 「どうした、なにがあった?」

 電話口にも、私を抱きしめる響きが広がる。

 「……お母さん、がね。……今朝…………亡くなって……それで」



 「溺死……?」

 「……え?」

 間髪入れず放たれた、初めから知っていたような響きに、呆気にとられる。



 「……溺死、だったりする?」

 再度、放たれた言葉に、やっとのことで理解が追いつく。

 「……なんで、」

 「……やっぱり」

 ……やっぱり……?

 思考は再度、突き放される。なにが、わからないのかすら導き出せず、無意味に行き来を繰り返す。

 「みやちゃん……今から話すことを聞いても、お母さんのこと、責めないであげてくれる?」

 おだやかに滲み広がる、哀。

 「……責めるって、」

 「少し、長くなる……だ………」

 電波が乱れたのか、言葉が掻き消される。

 「もしもし?おばあちゃん?」

 「……や、ちゃ……」

 「おばあちゃん?もしもし?おば」



 「ゴポ ゴポ ゴポ ゴポ ゴポ ゴ」

 「いやあっ」

 排水口を逆流するような音が鼓膜に響き、反射的にスマホを払い落とす。鈍い音が、部屋中に広がる。

 「……ゲホッゲホッ」

 ありとあらゆる腐敗臭を圧縮したような、ひどい臭いが立ち込める。ぼやけた視界にとらえたスマホからは、水が溢れ出していた。使い込んだ筆洗器をひっくり返したような、形容しがたい黒が、床を染め上げていく。

 耳からは、ぬめりのある、それが垂れていた。

 ……あの夢の、臭いと感触。


 ……あの子が、怒ってる。


 「大丈夫か?」

 ふいに掛けられた声に、勢いよく振り返る。部屋の入り口から覗く目と、目が合う。旦那だ。

 「……あ、うん。……大丈夫。」

 急激な安堵感と、尾を引く恐怖に、鼓動がうるさく反響する。体の末端が、異常なほど冷たい。

 「なにかあった?あと、スマホ」

 話し終える前に、慌ててスマホの方へと視線を移す。

 「……え」

 そこには、先程までのことが嘘だったかのように、ただ、床にころがるスマホが。たった一滴の水すら残さず、全ての痕跡が、跡形もなく消え去っていた。

 「…………ねえ……この部屋、臭く、ない……?」

 振り返りながら問いかけると、

 「……いや、臭くない、けど……?」

 旦那は、そう口にしながら、怪訝そうにこちらを見つめていた。

 ……あれは、一体……

 思考を巡らせながら、はっと思い出し、耳に触れる。……ぬめりのあるアレも、どこかへと姿を消していた。

 「ああ、そうだ。おばあちゃん、来られそう?」

 不意に投げかけられた言葉に、瞬間、息が止まる。

 「あ、えっと、それが、電波が、それで、途中で、切れちゃっ」

 気持ちばかりが焦り、言葉が追いつかない。

 「落ち着いて。」

 旦那は、そう口にしながら、私の両肩へと手を置く。

 「ゆっくりでいいから、ね?」

 やさしい眼差しを向けられ、次第に落ち着きを取り戻す。

 「おばあちゃんと話してたら、急に電波が悪くなったみたいになって……それで……」

 言葉にしながら、涙が込み上げる。

 「そうなんだね。それなら、僕からもかけてみるよ。」

 「……ありがとう、お願い。」

 旦那は、チノパンのポケットからスマホを取り出し、祖母へと電話をかけはじめる。

 「…………」

 「……どう?」

 「コールは鳴るけど、出ない。おばあちゃんが出ないなんて、めずらしいな……折り返しは?」

 首を横に振る。スマホを握る手にも、力が入る。

 「そっか。お互い、もう一度かけてみようか。」

 「うん。」


 その日、幾度となくかけた電話に、祖母が出ることはなかった。

 心配になった私達は、祖母宅が他県にあるということもあり、警察へと届け出た。



 何日経っても、祖母が電話に出ることはなく、祖母からの連絡もまた、くることはなかった。

 母の葬儀に、祖母は現れなかった。




 「手紙……?」

 祖母がいなくなり一週間。

 どんなことがあろうと、生活は以前のかたちへと戻っていく。守る者が、あるから。

 娘を学校へと送り出し、玄関に向かう途中、ポストの中を確認する。

 そこに、それはあった。


 『伊藤 都子 様』


 封筒に、縦書きで書かれた文字。それは間違いなく、祖母の筆跡。やわらかな達筆だった。

 それは、最悪な想像が早とちりであったのだと、少しの安堵をもたらした。

 胸を撫でおろしたのも束の間、足早にリビングへと向かい、手早く封を切る。


 そこには、こう綴られていた。




 『都子ちゃん へ


 都子ちゃんに手紙をしたためるのは、もう何十年振りのことでしょう。

 久しぶりの手紙が、このようなものになってしまったこと、本当に申し訳なく思います。


 さっき、電話で話そうとしたこと。それは、お母さんが亡くなった理由、についてです。

 少し長くなりますが、お話させてください。

 その前に、まずは、あの村の風習についてお話させてください。



 あの◯◯村には、古くから『水神様』が、祀られていました。


 おそらく、このことは記憶にあるかと思います。


 都子ちゃんが、まだ小さい頃。御神輿と一緒に、写真を撮りましたよね?

 御神輿の上に飾られた水神様を、「りゅうだ!かっこいい!」と、満面の笑みで見つめていたのを、今でも覚えています。


 その、水神様を祀る儀式=お祭り、という認識があるかと思いますが……

 それは、表向きのものであり、本当の儀式は、全く異なるものでした。


 『生贄』です。水神様への、供物です。


 一年に一度、森の奥深くに祀られた『井戸』の中へ、赤子を、生きたま投げ入れる。

 それが、本当の儀式です。



 ただ、この儀式が、本当に水神様を祀るための儀式であるかというと、それは違うと思います。


 これは私の憶測に過ぎません。ただ、確信はあります。

 この儀式の、当初の目的は、『口減らし』でした。

 口減らしという体の悪い事柄を、神という名のもとに、清い儀式へと装った。そして、同時に、罪の意識をも捨て去ったのです。


 ただ、ここで一つ、疑問が浮かぶと思います。

 なぜ、口減らしは続いたのか。

 時代が進み、必要性の無くなった儀式が、なぜ、続いたのか。

 必要のない儀式を続ける理由。それは、


 『村の男達の、欲を満たすため』


 ただ、それだけです。

 彼らは、装う必要のなくなった儀式を、終わらせるのではなく、利用したんです。


 口減らしが終わった、その翌年から、村ではある儀式がはじまりました。

 一年に一度、村長に指名された女は、村の男達、全員の相手をする。

 そして、その男達の子を身ごもり、その赤子を『生贄』とする。


 相手に断らせず、許された環境で性を満たす。

 面子の次は、我欲のため、神の名を利用したんです。


 そんな非道な儀式に、どうして誰も逆らわなかったのか。

 今より男尊女卑が強かった時代。くわえて、村の男達は、全員が同意の上。村中の男が、旦那ですら、敵でした。

 己が妻より、己が欲。……ということです。


 一度、勇気ある夫婦が、反旗を(ひるがえ)しました。

 男が身重の妻を連れ、逃げようとしたんです。

 腹の子は、儀式の子。

 それでも、それをもひっくるめ、愛そうとした。

 そんな旦那と三人、村から出ようとした。


 でも、叶わなかった。

 ふたりは村人に捕らえられ、村の座敷牢に入れられました。


 『見せしめ』です。


 男は、女の目の前で痛めつけられた。それはそれは、非道な痛みを植え付けられつづけた。食事すら、まともに与えられず、来る日も来る日も、痛みに、飢えに、耐えつづけた。

 女は、男の前で辱められた。男が見る前で、何度も何度も。赤子を死なせない程度の食事が与えられ、監視役の前で口にした。男に分け与えぬよう、見張られたまま。

 本当の地獄は、現世(ここ)、なのかもしれませんね。

 ふたりは失意の中、舌を噛み切り心中しました。臨月を迎えた女の腹は裂かれ、赤子は生贄となりました。


 つまり、逃げることは死を、意味する。


 女達は、従うしかなかった。

 見せかけだけの腐った儀式は、家族の命綱だった。背けば切られる、命綱。


 私も例外なく、その儀式を行いました。

 娘を守るためには、しかたなかった。


 でも、どんなに惨い身ごもり方でも、子に罪は無い。お腹の中にその子を感じれば、やはり、情は湧いてしまう。

 「どうか、この子が助かりますように。」

 その日が近づくにつれ、そう願う日も増えてっいった。…………叶いもしないのに。


 私の子は、死産でした。


 それを知った村長は、言いました。


 「産まれる前に、召し上がられた」

 「水神様は気が立っておられる」

 「二人、御所望だ」


 ……と。


 同時期に身ごもっていた別の女の赤子が、新たな生贄に決まりました。

 その年は、井戸に、二つの命が投げ込まれました。



 都子ちゃんのお母さんも同じく、儀式の餌食になりました。


 ただ、あの子は儀式に耐えられなかった。穢れた記憶の片割れを、体内に宿し続けることにも。


 赤子が生贄になると、穢れた記憶と、手をくだした罪悪感とで、壊れてしまった。何度も何度も、自らの命を手放そうとした。


 でも、時薬に、都子ちゃんを身ごもったことも相まって、もう一度、前を向いて生きることができた。

 だから、都子ちゃんには、本当に感謝しています。

 ありがとう。


 ただ、それでも、赤子の命日は、どうしても耐えられなかった。

 ある年の、命日。あの子の泣き言を、たまたま都子ちゃんが聞いてしまった。儀式の口外は禁忌。村の者だったとしても、『儀式を迎える、その日まで』は、絶対に教えてはならない。

 あの子も私も、頭が真っ白になりました。これが、なにを意味するのか、容易に想像がついたから。

 そんな私達に向かって、


 「おねえちゃん を たすけなきゃ」


 それだけ言って、都子ちゃんは外へと駆けていった。

 ふたりで慌てて後を追いました。本当に、死に物狂いで。もの凄い速さで走る都子ちゃんには、全然追いつけなくて。離されないように、必死で食らいつきました。なんだか、このまま離れてしまったら一生会えなくなる、そんな気がしてならなかったから。

 不思議なことに、都子ちゃんは『生贄の井戸』へと、迷わず向かっていた。

 井戸の場所を、誰も教えていなければ、儀式の時以外、村の者は誰一人として近寄らない。それなのに、吸い込まれるように走って行く。

 やっとのことで捕まえた時、足は井戸にかけられ、本当に落ちる寸前でした。

 家に連れて帰ると、都子ちゃんはすぐに眠ってしまって。起きた時には、すっかり忘れていました。

 せめて、いつか思い出しても大丈夫なように、井戸には近づかないよう、口酸っぱく言い聞かせました。』




 ……忘れていた記憶。

 そうだ、そうだった。……気がついたら、家の畳の上だったんだ。聞いても、なにも教えてくれなくて。……そうだ忘れていた。


 『井戸には、近づいちゃだめよ。』

 その井戸には、二つの意味があったんだ。


 あの日、美咲に言った、井戸。それはきっと、『生贄の井戸』のことだったんだ。




 『あの井戸は、神聖なものなんかじゃない。呪物です。

 あの儀式に関わった者達は、全員死にました。廃村となった後、男から順に、次々と。

 かたちは違えど、全員が『溺死』しました。


 儀式に関わった最後の二人が、あの子と、私でした。


 おそらく、この歳まで私達が生きながらえていたのは、ひそかに弔いつづけけていたから、だと思います。その身を案じてからではなく、心からの懺悔を胸に。


 あの子も、何十年と弔いつづけていました。

 でも、認知症をきっかけに、できなくなった。


 実は、まだ症状が軽かった頃、あの子から連絡があって、

 『これも、私に与えられた罰。甘んじて受け入れます。』

 そう、言っていました。

 とても、ハッキリした口調で。



 村の風習だから、背いたらどうなるかわからないから、だからできない。しかたない。

 そんなこと、生贄にされた者達からしたら、ただの戯言に過ぎない。

 間違いなく大人には、物事を変えるだけの知恵に力、言葉がある。

 産まれたばかりの赤子とは、ちがう。


 これは、村の、儀式に加担した、傍観した私達の、罪。

 そして、死ぬことは、罰。


 そう、思います。


 また、この事が、いまだ表に出ていないのは、


 『忌み地の水など、誰が飲む』


 その考えのもと、ダムの建設に関わった村の外の者も含め、皆が口をつぐんだからです。

 赤子達は死んでなお、存在自体が無かったことにされた。

 全て、水の底へと閉じ込め、忘れ去った。



 私利私欲のため作られ

 私利私欲のもと棄てられる


 生まれ落ちる前に、死ぬことが決まっている。

 どうやって生きるか、じゃない。

 どう死ぬか、が決まっている。



 私は、あの村は、沈んでよかったと思っています。

 私達は、無垢な命を、散々犠牲にしました。



 儀式に関わっていない村の子達は、誰一人として、この件で亡くなっていません。

 だから、安心してください。



 あのダムに溜まっているのは、水じゃない。

 奥深く、澱となった、恨み苦しみ憎しみです。


 私も、報いを受けねばなりません。

 娘を、一人で行かせることはできません。



 都子ちゃん、今まで本当にありがとう。

 どうか、お体にお気をつけて。』




 オーシンツクツク、オーシンツクツク、オーシンツクツク、オーシンツクツク……

 「おかあさん、みてー!きれーーい!!」

 夏も終わりに近づき、虫が声音を変える。例年なら、やわらぐはずの暑さは、いまだ図々しく居座りつづけている。季節のグラデーションは年々、境目を濃くし、他の色をも呑み込んでいく。

 「ねえねえ、お母さんの住んでた家って、どこらへん?」

 まばゆい光が降りそそぐ水面は、スパンコールを散りばめたように輝き、その体をゆったりと揺らす。

 「ねえ、聞いてる?」

 その輝きをも惹かれるような、弾ける笑顔が、こちらを覗く。

 「ああ、ごめんね。ううん、どこらへんかなあ……もう、何十年と昔のことだからね……」

 その無垢な瞳は、子供だけに与えられる、特別なモノなのだろうか。どうかこのまま、誰にも汚されることなく、汚すことなく、歩んでほしい。

 「そっかあ。そうだよねえ。それにしても、想像してたより、ずっと大きい!びっくりした!」

 瞬間、嬉しそうにはしゃぐ娘と、あの子の存在が重なる。

 あの子達にとって、この時間は、どんなふうに見えているんだろう。どんなに深く考えようと、きっとそれは、想像の域をでないだろう。

 ただ、あの子よりも、あとに生まれただけ。たった、それだけの差で。

 私も、そう。沈んだ村を知らないで、ただただ享受するだけの人間。そのうちの一人だった。


 この水底のどこかに、あの井戸がある。今も。


 水と生活は、切っても切れない。生きるには、水がいる。

 この国では、今日も、蛇口をひねれば水が出る。

 それは、やかんに汲まれ、目覚めのコーヒーになり、体の一部となる。

 食卓に並んだ食器は洗われ、すすがれ、乾かされる。

 洗面所では口をゆすぎ、お風呂場では泡を流す。

 洗濯槽では衣類と踊り、それは外へと干される。


 汚れを落とし、穢れを纏う。

 今日も私達は、忌み地の水に生かされる。




 ……どうか安らかにお眠りください。

 …………もしも、生まれ変わったら……その時は




 水面が揺れる。水底からノックされたように、波紋を広げる。

 水面下、水泡がつづく先には、井戸のような石。

 水の音に混じり、洞穴から這いずりでるような、深く濁った声がこだまする。







 『 な ん で き み は い き て る 』

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