旅行椅子
第1脚:猫足の椅子
少女は白い肌をした、静かな午後の部屋にいた。お気に入りの本を読んでいる。何度も何度も読み返したその本は、もう30回目になる。
お菓子を口に運ぶと、ぽろりと床にこぼれた。けれど、少女は拾わない。足が悪くて、床に手を伸ばすのが難しいのだ。
そのとき、椅子が動いた。
「にゃああ。」
猫の鳴き声がした。椅子の足は猫のようで、左右の肘掛けには目が、背もたれには耳が生えていた。口だけは床にあって、落ちたお菓子はその口の奥へ消えていった。
「お菓子、もう少し分けてくれよ。おいしいねぇ。」
少女は驚いた。「誰なの?」
「猫さ。君は猫を知らないのかい?」
「知ってるわ。でも、あなたのことは知らない。」
猫椅子は言った。「お礼に、少し散歩しようかね。構わないかな?」
少女は迷った。外に出ると、お母様に叱られるかもしれない。けれど、好奇心が勝った。
「ちょっとなら……いいかもしれないわ。」
猫椅子にまたがるように座ると、椅子は音もなく歩き出した。
「出発だよ!」
にゃおーん、と鳴いて。
少女は風を感じた。まるで電車の窓から見える景色のように、部屋の中が旅の世界に変わっていく。
「この本が一番好きだわ。勇気が出るの。」
少女はそう言った。けれど、最後のページだけは読めない。終わってしまうのが怖いから。
「いいじゃないか、最後の1ページは破ってしまおうよ。そして、君が望むページを付け加えるんだ。」
猫椅子の言葉に、少女はうなずいた。
第2脚:背もたれがハシゴの椅子
次に登場するのは、旅人の椅子。
「旅行鞄ってあるだろ?あれみたいに、旅行椅子ってのがあってもいいと思うんだ。」
その椅子は、背負えるようにベルトがついている。座面には食料や水、鍋や薬缶まで詰め込める。
そして、背もたれにはハシゴがついている。高い場所に登るときにも使えるし、買い物を積み上げることもできる。
「これは僕のマイバッグみたいなものさ。」
旅人は言う。
「脱出するのにも使える。」
椅子はただの道具じゃない。旅の相棒であり、人生の一部なのだ。
第3脚:とある有名人が愛した椅子
最後の椅子は、少し不思議で、少し怖い。
「私が今までに一番愛したイスだよ。」
そう語るのは、家具職人の老人。
合図をすると、少女が左から、右から分かれて出てきて、互いに手をつないで深々とお辞儀をした。二人は瓜二つだった。頭からつま先までそっくり。双子なのだ。
二人でハモったのは椅子のタイトル。
「瓜ふたり、でございます!」
双子の少女たちは、互いに背中合わせに立ち、完璧な左右対称の姿勢を保っていた。品評会の中央に進み出ると、二人は同時に、ゆっくりと腰を下ろしていく。膝を立て、太ももを水平に保ちながら、空気椅子の姿勢を見事にキープした。
その姿は、まるで一つの椅子が二つに分かれたかのようで、左右それぞれに一人ずつ座ることができるだけでなく、太ももの広さと安定性を活かせば、左右の座面に二人ずつ、計四人が座ることも可能であるように見えた。
彼女たちの動きは一糸乱れず、まるで鏡に映したかのような対称性を保ち、観客の目を釘付けにした。
「肉工というジャンルをここに開いてみせたい。」老人は言う。人の体を家具にするという、奇妙な発想。
品評会では、双子の少女が見事に「椅子」として振る舞った。来賓たちはその美しさに感嘆した。
「これは美しい椅子だこと。体温を感じられるなんて、アンビリバボだよ。」試しに座ってみた人の意見である。
老人は満足そうに笑った。
「そうでしょう、そうでしょうとも」
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エピローグ
少女は旅を終え、部屋に戻ってきた。
風がカーテンを揺らす。目を閉じれば、猫椅子の足音が聞こえる。
「ねえ、その瓶を取ってくれない?」
棚の奥には、船が一艘入ったガラス瓶。ボトルシップだ。
「今度、ボトルシップのお話を聞かせてあげるわ。」
少女はそう言って、また本を開いた。
最後のページは、まだ読まれていない。
でも、もう怖くはない。
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