85.神様と幸せ
『時が来た。こちらに来い』
そんな声が、ゼツの頭に聞こえてくる。それは悪魔の少女の声ではなかった。死ねない体になった時に聞いた、あの声だった。
神様が迎えに来たのだ。それをゼツは察する。怖くて怖くて震えが止まらない。やっと幸せになれたのに、まだ死にたくなんてなかった。
「……っ。ゼツを絶対に渡さないから!」
ミランはそう叫んで、ペンダントを握る。ゼツの怯え方が、ただ神様を見ただけではないことにすぐに気が付いた。王都で戦う全員に、自分の視界に映る黒い沼と黒い犬を送る。
その瞬間、大きな氷の壁が、大きな音を立てて黒い沼を覆う。その後すぐに、柱程の氷の槍が黒い犬を貫こうとした。けれども氷の槍は黒い犬の前で止まり、そしてパリンと割れて散る。
そんな黒い犬の前に、別の黒が立つ。
「久しぶりだね。100年以上ぶり?」
ロウはニコリと笑って黒い犬を見る。
「ねえ、あの人みたいに、ゼツも見逃してよ」
『それはできない』
けれども黒い犬は、そう言った。
『これをどうにかできるのは、神の力を取り戻した私だけだ』
その声は、少し離れているはずのゼツにもよく聞こえた。そんな黒い犬に、スイは叫ぶ。
「ふざけるな! 黒い沼はもう塞いだ! だから神の力など必要ない!」
『こんなもの、ただの気休めにしかならない。何で塞いでも、溢れ出すものは止められない』
黒い犬は、淡々とスイにそう言った。
『それに、黒い沼の問題だけでもないのだ。神の力を使えなくなったことで、この世界に綻びができている』
「綻び、だと……?」
『私が神でいられなくなってから、幸せは平等ではなくなった。どれほどの不幸があっても、同じ量の幸せが訪れて、均衡がとれるはずだった。ここにいる者たちは皆、大きな不幸があったようだな。けれども、幸せが来る保証はない。そして、これから来るかもしれない不幸に怯えて生きなければならない』
そんな神様の言葉に、ゼツの心は揺れた。誰もかれも、理不尽な不幸に苦しんできたことをゼツは知っていた。そんな皆に、沢山幸せになって欲しいと願っていた。
自分が喰われれば、神様の言う通り、皆に大きな幸せが訪れるのだろう。それならそれでありかもしれないと、ゼツは思った。
「ふざけないで! ゼツがいないのに、あたしが幸せになれるはずないでしょう!」
心が傾き始めたゼツに気付いたのか、ミランは叫ぶ。けれどもそんなミランの叫びも、神様は簡単に叩き切った。
『幸せになれる。おまえは将来、彼以上の人に出会うだろう。そして彼の事を忘れるほど幸せになる。それを保証する』
「そんな保証なんていらない! ゼツじゃなきゃ駄目なの! ゼツがいない世界なら、幸せなんかいらない!」
そう自分のために必死に叫んでくれるミランを見ながら、ゼツはもうどこかへ消えてしまった、いつかミランに付けてもらった赤と緑の組紐のあった場所に触れる。死にたかった時も、今も、一番に思う願いは変わらない。ミランがずっと、幸せで笑顔でいて欲しい。それを保証してくれると、今、神様は言ったのだ。
『ゼツよ。神の思考に近いおまえならわかるだろう。おまえの愛する者たちを、おまえの手で幸せにできるのだ』
「ゼツ! そんな言葉聞いちゃ駄目! 絶対に聞いちゃ駄目! 生きたいって言ってたじゃない! 死にたくないって! この幸せを手放したくないって!」
生きたかった。この幸せを手放したくなんてなかった。けれども、それ以上に願ってしまうのだ。ミランの幸せを。ミランの幸せが、自分にとっての幸せなのだ。
ゼツは、まっすぐミランの方を見る。
「ごめん。ミラン。酷い事言っていい?」
「いやよ! 聞きたくない……! 聞きたくないから……」
「俺、ミランのこと愛してる」
ゼツはそう言って、縋るように自分の服を掴んで泣くミランの頭を優しく撫でる。
「だからね。幸せにしたいんだ。生きたいよりもっと、ミランを幸せにしたい」
「駄目よ。あたし、ゼツがいないと幸せになれないんだから……」
「神様が言ってくれた。ミランを幸せにしてくれるって。だから……」
ゼツは、ミランの額にキスをした。
「今までありがと」
そう言ってゼツは、神様の元に行こうと立ち上がった。最期にと、ゼツはミランを頭に焼き付ける。本当は笑顔のミランを見たかったけれども、それは仕方ないのだろう。けれどもいつか、幸せにしてくれる人と出会い、自分のことなんか忘れて、笑顔になるのだろう。
最期までこんなにも泣かせてごめん。幸せになって。
そう思って、ミランに背を向けようとした、その瞬間だった。
「あたしの話を聞け!!」
ミランは飛びつくように、ゼツの胸倉をつかんだ。そんなミランの行動に、ゼツも何が起こったのかわからず、バランスを崩す。
ゼツはミランに押されるがまま、ミランと一緒に空から落ちた。