10.誰のためとなんのため
「ゼツ、本当に行くの?」
案の定、母親は支度をするゼツの部屋にやってきた。
「ゼツ、わかってる? 確かに勇者様と一緒に旅をする事に憧れるかもしれないけれど、簡単な事じゃないのよ?」
「大丈夫だって。ほら、母さんも見たでしょ? 俺の体質。だから大丈夫だって」
「体はそうかもしれない。だけど、お母さんは将来を考えても不安なの。短い目で見ればいいかもしれないけれど、せっかくお父さんを継ぐために頑張って、良い学校を出たことも、無駄になっちゃうのよ? 今は資格取得とか、皆頑張ってる時期なのに遅れてしまうのだし」
ゼツの母親は絶対に“行くな”とは言わなかった。けれども、ゼツに“行かない”と言って欲しいという命令にも似た感情が伝わり、少し疲れる。
けれども、母親の言葉をゼツは無下にできなかった。昔言われた一言が、ゼツの背中にずっとのしかかっていた。
『あなたがお腹にできたから、結婚せざるを得なかったの。じゃないと、あんな人と結婚しなかった』
あまりにも仲の悪い両親に疑問を持ち、父親に愚痴を言う母親にどうして結婚したのか聞けば、そんな言葉が返ってきた。その時、自分が生まれたから母親を不幸にしたのだと、望まれて生まれた命ではないのだと察してしまった。
『今すぐにでも離婚したい。でもね、女性一人で子供を育てるのは大変なの。苦労してきた人を沢山知ってる。だから、あなたのために離婚しないのよ』
何度もそんな言葉を聞いてきた。自分のせいで母親が不幸なのだと知ってしまった。だから、いつか母親を楽にさせたい気持ちがずっとあった。
ふと思う。謝礼が出るのであれば、そのお金で父親から母親を開放させる事ができるのでは無いだろうか。
「母さん。国からの謝礼はある程度融通が効くんだって! お金があったら、母さんは父さんと離婚して……」
「そう言う問題じゃない!!」
けれどもどうしてか、母親はゼツに怒鳴った。
「何のために私が色々我慢してゼツを育てたと思ってるの! これからの将来、ゼツに苦労をさせないためよ! どうしてわからないの!? いつか苦労するのはゼツなのよ!?」
苦労させないため。そう言われて、ずっとこの家で暮らしてきて苦しかった感情が、ゼツの喉の奥から湧き上がってきた。母親の言う未来は、ずっとこの家で、父親に怒鳴られながら過ごすことだった。
いつもだったら、ゼツは絶対に言葉に出さなかっただろう。湧き上がってきたものは、飲み込むだけ。けれども、もう旅に出るなら、そして死ぬのなら、言ってもいい気がした。いや、本当はこの家から逃れられるのであれば、そして別の道ができるのであれば、もう少し生きてもいいのではとも思い始めていた。
「母さん。俺も、辛かった。この家にいるの。父さんと話すの。だから……」
「お母さんの方が辛かった!」
けれども母親は、狂ったようにゼツへ言い返した。
「だけど耐えてきたの! あなたのためよ! それなのに、ゼツは全部無駄にする気なの!?」
心がズキンと痛む。母親が絶えてきたのは全部ゼツのため。だけど、ゼツはずっと死にたかった。ずっと苦しかった。その気持ちだけは、せめて母親にわかって欲しかった。
「でも、俺は……!」
「しつこい!」
母親は、ゼツをキッと睨んだ。
「もう勝手にしなさい!」
そう言って母親は部屋から出て行った。
俺も辛いのにな。そう思いながらも、きっとそれは母親にとってどうでもいい事なのだろうなと思う。だってもともと、いらない子だったのだから。
あれ、それじゃあ何のために頑張ってきたんだっけ。母親のため? もともといらない子供なのに? じゃあなんのため?
ゼツの頭は混乱する。そしてまた息が苦しくなる。そうしてまた、死にたくなってしまうのだ。
暫くして、部屋の扉が開いた。今度は父親が入ってきた。
「ゼツ、支度はどうだ?」
「あはは、ボチボチ」
「遅れるんじゃないぞ。店の商品で必要なものがあったら持っていきなさい」
そう言う父親は、また上機嫌が続いていた。
「ゼツ、母さんに止められただろう」
と、父親はゼツにそう言った。どうして知っているのだろうと、ゼツは不思議に思う。母親が父親に言うとは思えなかった。
「先ほど、本当にゼツを行かせるのかと母さんに愚痴られたよ。まあ、母さんも寂しいのだろう。私が上手く言っておくから、ゼツは気にせず支度をしなさい」
ああ、母親は父親に言ったのだとゼツはぼんやりと思った。散々、口をきくのは嫌だと言っていた。だから母親の代わりにとゼツが父親に伝言を伝えに行くことも多かった。けれども、なんだ。こういうことは、言えるのか。
「ありがと。助かるよ」
ゼツがそう言えば、父親は嬉しそうに笑った。
「気にしなくていい。こういうのは父親の役目だ。ゼツは自分の役割を頑張ってきなさい」
父親はそう言って、去って行った。なんだかんだ、父親は頼られるのが好きなのだ。だから今上機嫌なのは、きっと母親がゼツのことで父親を頼ってきたからだろう。
母親に関して色々と考えてきたことが、空しくなっていく。ずっと、あなたのためと言われることが、自分の気持ちを無視されているようで辛かった。けれども、母親のためと思った事自体独りよがりだったのかもしれない。
そうして出発当日。父親も、そして母親も、何事もなかったかのようにゼツを送るために玄関にいた。扉を開けると、3人が待っていた。
ゼツは一歩、外に出る。そうすれば、母親が追ってきた。
「どこに行っても食事には気を付けないといけないからね。特殊な体質になったからって、健康をおろそかにしちゃだめよ」
「わかった! わかったから! みんな待たせてるから!」
そう言って逃げるようにゼツは3人の所に行く。
「お母さまは心配なんですねえ。ゼツさん、愛されてますねえ」
「羨ましいな。俺なんか……」
「今はシュウの話はいいから黙っときなさい!」
元々いらない子だったから、愛されてるわけなんかないよ。なんて、言う事はできなかった。言っても困らせるだけ。それに……。
『しつこい!』
辛いと言ったとき、そう母親に言われた言葉が、頭の中でぐるぐると回った。その言葉が、ゼツの喉から湧き出そうな言葉を、重く乱暴に押さえつけていた。