覇王伝説8
「おや、これはまたお早いお着きですね。もう少しお話したかったのですが……」
「え……?」
若者は訳知り顔でこう言うと、玉蘭に一礼して席を立ち、二人の姿を見て、扉の所で茫然と固まってしまった海煌の元へと歩み寄って行き、耳元に顔を寄せた。
「玉蘭様の兄君からの言伝です」
「あ……?」
玉蘭の兄なら勇輝王であろうが、”王”とは言わず”兄”と言ったのが気になり、海煌は眉を顰めて若者の方を見た。
「もう一度玉蘭を泣かせたら、今度は連れ戻しに行って、二度と帰さない」
「な……! それは……」
「如何なる理由があろうとも。だそうでございます」
「……………………」
付け足した言葉に、海煌が黙り込む。
「まぁ……その涙を拭って、優しくお慰めしたい」
「はぁ!?」
「と、思っている者は星の数ほど居りましょう。前王の言がなければ、求婚者が列をなしていたでしょうからね。……今も、ですが。私もその一人ですし」
「こ……!」
「では、確かにお伝えしましたので、失礼します」
ニヤリと、したり顔で笑って若者は大仰に頭を下げて去って行った。
残された二人は、どうしたらいいのかわからず、所在無げに視線を彷徨わせるばかりであった。
暫くして海煌は、意を決したように部屋の中に入り、
「ほら!」
と、手に持っていた物を玉蘭に差し出した。
「玉蘭……?」
海煌の手に握られていたのは、新蘭国にしか咲かない玉蘭の花であった。
結婚してから初めてこの花が咲く季節になった時、海煌が嬉しそうに持って来てくれたのを思い出す。
けれど、どうして今、自分にこれを持って来たのかがわからず戸惑っていると、
「なんだ。この花を枯らさずにここまで持って来るのは、大変だったんだぞ」
海煌が拗ねたように言ってきた。
「あ……そ、そうでございましょうね。ありがとうございます……」
そう言って受け取ってはみたものの、やはり理由がわからない。
海煌も花を渡してから、どうしたらいいのかと、悩むように黙り込んだ。
またも沈黙が続いたが、
「あの……」
「あのな」
と、二人同時に口を開き、気まずさが辺りに漂う。
「な、なんだ……?」
海煌が玉蘭を促した。
「あ……。お……お妃様をお迎えになられるそうにございますね」
「あ?」
「新蘭国の民達も一安心にございましょう。おめでとうございます」
絞り出すように玉蘭はこう言って、玉蘭は頭を下げた。
「誰が、そんな事を言ったんだ?」
訝しさ満載の顔で、怒ったように海煌が聞いてきたので、
「あの……昨日、兄が……」
言っていいものか迷いながら、玉蘭は口にした。
「勇輝王が!? どうしてそん……。いや……迎えるのは、迎えるのか……? いやいや、もう少しわかりやすく言ってくれても!」
「か……海煌様……?」
「他に! 他に勇輝王は何か言われてなかったか!?」
鬼気迫る顔で詰め寄って来る海煌に、何か悪い事でも言ったかと、
「い、いえ……。別に何も……」
少し怯え気味に玉蘭は首を横に振った。
「え~~~~!? 何も話してくれてないのか!? 嘘だろう!」
「海煌様?」
「あ、あのな! 玉蘭!」
「はい……?」
「え~~そのぉ、なんだ」
「はい……」
「あ~~~! もう! 来い!」
「え!?」
海煌はそう言うと、玉蘭の手を掴み部屋を飛び出した。
「か、海煌様、どちらへ!? 海煌様!」
新蘭国の最後の日と同じように、海煌は何も言わずにズンズンと廊下を突き進んで行く。
戸惑うのは同じであったが、腕を痛いほどに掴んでいたあの日とは違って、今日は優しくだがしっかりと自分の手を握っている海煌の手に、何故だか不安は一切感じない玉蘭であった。
海煌が玉蘭を連れて行ったのは、子供達が全員集まり、朝礼や終礼をする大きな広間であった。
その扉を勢いよく海煌が開くと、玉蘭の目が大きく見開かれた。
そこには、兄の勇輝王と、義姉の王妃。
そして、蘇芳と、蘇芳と結婚したと言う従姉妹の青麗。
それから、覇国王の義悌と、その横には雀蘭。
その上、海煌の次兄の妃と、息子の臨洋。その横には見知らぬ男が。
そして、豊真が控えるように扉近くに座っていた。
「これは……?」
何が起こっているのか想像もつかず、玉蘭が一人一人を見やっていると、
「おやぁ、お早い起こしですね、海煌王。どうせ長くなるだろうから、先に始めようかと話していた所です」
と、蘇芳が盃を上げて、からかうように言った。
他の者達も、クスクスと肩を揺らす。
「どこから! 何をどう話したらいいのかわからんから! 連れて来た!」
不貞腐れ気味に口を突き出して言う海煌に、その場に笑い声が溢れた。
わからないのは玉蘭の方で、取りあえず、一番聞きやすそうな勇輝に向かって、
「兄上、どう……どうなっているのでございますか、これは」
と、ちょっと責めるように聞いた。
「ん~? 昨日、ちゃんと言っただろう?」
「何をでございますか!」
「海煌王が、妃をお迎えになると」
「え? それはお聞きしましたが……」
「私は、新しい妃を……とは言わなかったんだけどね?」
「えっ!? あ…………」
「私も、言ってありましたよ」
「蘇芳?」
「玉蘭様を帰したのは、公にはなってないと。つまりはまだ離縁されてないと言う事でしょう」
「そ……」
「誰が! 離縁なんかするか!」
「海煌様……」
「大体! も、もう少しわかりやすく……言っておいてくださっても良かったでしょう、勇輝王」
子供の様に頬を膨らませ、文句ったらしく言う海煌に、勇輝王は鷹揚に頷いてみせた。
「ん。私もね、昨日はそのつもりでここに来たのだけれどね」
「兄上様……」
「けれどねぇ。昨日のおまえの様子を見てねぇ、言うのをやめた」
「どうしてでございますか」
「昨日、事のあらましを全て話せば、おまえは嬉々として海煌王を出迎えたであろう。また、それだけの事をなさったからね、この一年の間に。だが、そうすると……おまえの一年以上の苦しや悲しみ、苦悩、海煌殿への思い……そして、涙がなかった事になるような気がしてね」
どんなに念入りに化粧をしても、隠しきれない泣き腫らした目を見やりながら、勇輝は少し顔を歪めた。
「また泣かせてしまった事は……悪かったと思っている。すまない、玉蘭」
玉蘭は、やはりわかってしまったかと言うように、袖でそっと顔を隠した。
海煌とて、その目には気が付いていたが、まさか勇輝が何も話していないとは思わず、理由を図りかねていたのである。
だが、ようやくその理由がわかり、玉蘭に何と言葉を掛ければいいのかと惑っていると、
「そうですよ! そっちは追い出せばそれで見ずにすみましたけれどね! こっちは、そのお顔を見ながら旅をしたんですからね!」
蘇芳がここぞとばかりに声を張り上げた。
「蘇芳……」
「悪かったって思ってる! けど! あの時はああするしか! ……思いつかなかったんだ」
「一体……何が……?」
あれから一年ちょっとの間に何があったのか、玉蘭は広間に集まった者達を見やりながら、どうにも想像がつかずに呟いた。
いきなり部屋に玉蘭を連れて来て、慶国に連れて帰れと言われ、蘇芳は爪先から髪の毛一本までも怒りに煮えたぎらせて、海煌の寝所を目指した。
玉蘭に責めるなと言われはしたが、責めずにいられるか! と。
しかし、寝所に着く前に、
「これで、全部か!?」
と言う、海煌の声が寝所とは別の方から聞こえて来て、足を止めた。
声のした方を見ると、何人かの男達が部屋から出て来るのが見えた。
あそこは確か、王の執務室だったはず。こんな時間から何をしているのかと、訝しく思いながら執務室に近づいて行くと、
「いえ、まだありますが……」
と、戸惑い気味に答える豊真の声がした。
「残りも持って来てくれ」
「しかし……もう夜も遅いですし、それに玉蘭様の事も……」
「いいから! あ~なんだ、ほら! 王命って奴だ! とにかく持って来い!」
「……承知いたしました」
王命と言われれば従うしかない、と言う顔をして部屋から出て来る豊真が、扉の外で様子を窺っていた蘇芳を見つけ、チラッと部屋の方を振り返ってから、よろしく頼む、と言うように軽く頷いて何処かへ去って行った。
扉を開け放ったまま行ったので、蘇芳は何をしているのかと覗き込むと、海煌は山と積まれた書物を、床に座り込んで読んでいた。
玉蘭様を追い出しておいて、のんびり読書かよ! となおも怒りが込み上げて来て、許しも請わずにずかずかと部屋の中へと入って行き、
「何、考えてんだ! おまえは!」
王への敬意も言葉づかいもすっ飛ばして怒鳴った。
だが海煌は気にした風もなく、
「お、来たか。遅かったな」
と、蘇芳が来るのを見越していたように、声を掛けて来た。
「あのなぁ! 玉蘭様がどんな思いでおまえの傍に来たと……」
「それよかおまえ、琴国を再興する気があんのか、ないのかどっちだ?」
「はぁぁぁ~~~~!? んなの、今関係ないだろう!」
「あるから、聞いてる」
「何の関係があるんだよ!」
「琴国を再興するかどうかは、俺次第」
「あ!?」
「ついでに、さっきの顔と今の言葉からすれば、玉蘭が「巫女」で、俺が「覇王」になる者ってのを知ってたんだろう?」
いきなり思いもよらぬ核心を突いた言葉に、蘇芳が一瞬黙り込む。
「だ、だから、何だって言うんだ!?」
「だから、琴国をどうするのかって聞いてる」
「んなの、今関係ないって……」
「おまえさぁ、「覇王」て、どんなのだと思う?」
「は!?」
またも関係なさそうな事言い出す海煌に、何をどう言えばまともに話が出来るのかと悩み出す蘇芳であったが、
「そりゃ、この地のすべてを治める王だろう」
と、一応答えた。
「だよな。けどさぁ」
言いつつ、海煌は傍に置いていた地図を床の上に広げた。
「神さんのいた頃は知らないが、これだけの領土を一人で治めろって言われて、おまえ、出来るか? 例え、神さん付きだって言われても、俺には無理だ」
「それ……は……。けど! おまえは「覇王」になるように……」
「だぁから! 「覇王」になる気はないって言ってんだ」
「玉蘭様の……これまでの「巫女」の思いを、無にするのか!?」
蘇芳のこの言葉に、海煌は深く息を吐いた。
「「覇王」を作るのが、「巫女」の望みか?」
「あ?」
「それじゃ、無にしてしまうかもしれないが、もう一つの望みは、何とか出来るかもしれない」
「もうひとつ?」
「ん。この地から、戦をなくすって言うな」
「は? …………「覇王」にならずに……か?」
「大体さぁ! 神さんの時代だって、四神に東西南北を守らせていたんだろう? 金竜だけで治めていたわけじゃない」
「! …………それは……そうだが……」
「で、だ。おまえ、白虎だろう」
「え……!?」
「西神白虎の加護を得し者だろう? だから、玉蘭はおまえに救いの手を差し伸べた。違うか?」
「……………………」
蘇芳の沈黙をどう取ったかはわからないが、海煌は地図の上に玉石を置き始めた。
北神玄武の加護を得し、義悌の居る覇国。
南神朱雀の加護を得し、勇輝の居る慶国。
そして、元琴国があった場所と、元遼国、今は遼領となっている場所に。
それは、新蘭国を中心に見事に東西南北の位置にあった。
「…………確かに……俺は白虎の加護を得ていると、玉蘭様に言われた。しかしなぁ! だからって! 他の国を俺達でぶっ潰すのは無理もいい所だぞ!」
「ぶっ潰さずに、取り込める方法を考える! これ読んで!」
海煌は山と積まれた本をバンと叩いて言った。
「あ? この本の山、何だ?」
「新蘭国、元蘭国の者が集めた他の国々の資料だ」
「はぁ――??? んなの! 何年かかるんだよ!」
「そんなもん、わかるか! これから読むんだから!」
「んなの待ってたら! 玉蘭様がオバサンになっちまうだろうが!」
「は?」
これまで、蘇芳の言うことに立て板に水の様に答えて来た海煌が、不思議そうな顔で黙った。
「なんだよ。「巫女」は年を取らないとでも思ってたのか?」
「馬鹿言うな。そんなこと言ったら、玉蘭は赤ん坊のままだろうが」
「ん? ……そうだな。じゃ、なんでそんな不思議そうな顔するんだよ」
「玉蘭がオバサンになるのがそんなに問題なのか? て思っただけだ。俺は、玉蘭とじいさんばあさんになるまで一緒に居たいと思ってるからな。オバサンになったからって何かあるのか?」
「え……と……。ない……かも……?」
「だろう?」
「いや、だけどだなぁ」
「俺だって、そんなに長く玉蘭と離れていたくないさ! だから、焦ってこれを持って来させたんだ!」
再び本の山をバンバン! と叩く。
「……何も……玉蘭様を慶国に帰さなくても、出来るんじゃないか?」
これには、海煌は口元を歪めた。
「……慶国が……今、この地の中で一番安全な国だ。違うか?」
「それは……」
「うまく行くとは限らない。戦になる時もある。どちらかと言うと、そっちの方が多いだろう。心配掛けさせるばっかだろうからな、ここに置いとけば」
「だけど!」
「それに! 俺は、玉蘭を「巫女」から解放させてやりたいんだ」
「「巫女」から、解放……?」
「そ! 「巫女」が「覇王」の傍に居てこそ、「覇王」は「覇王」になれる。そんな風に思い込んでるとこがあるだろう?」
「……実際、そうじゃないのか?」
「そうかもしれない。けどさぁ、金竜の加護を得ているらしい俺の傍に居なくても、戦が無くなり、皆が平和に暮らせるようになったらさ、「巫女」も「覇王」もこの地には必要ないって思えるんじゃないかなってな」
「…………玉蘭様と……別れる気はないんだな」
「別れる!? 誰がするか! 玉蘭は俺の女房だ! 一生!」
「……それ……玉蘭様に言っても……」
「それはダメだ」
「どうして!?」
「だぁからぁ! うまく行くかどうかわかんねぇんだって! もし……俺に何かあったら……」
「海煌……」
「けど! 生きてたら! 絶対に、迎えに行くからな! 絶対に!!」
「まったくねぇ。無茶苦茶言ってくれるんですから、海煌王様は。だから、王宮ではなく、こちらの方に玉蘭様をお連れしたんですよ。王宮に連れて行けば、玉蘭様目当ての男どもが、何しでかしてくれるかわかりませんからねぇ」
王の妹が嫁ぎ先から帰されたのでは、体面も外聞も悪いから、こちらの方に連れて来たと聞かされていた玉蘭は、蘇芳の言葉に目をぱちくりさせるばかりであった。
「それにねぇ、「覇王」の傍を離された身なので、次の「巫女」を産むのが「巫女」の務め、なんて言い出してくれるしねぇ。誤魔化すのに苦労したよ」
「次の「巫女」!?」
次の「巫女」を産むために、何をしなければいけないかと想像して、海煌が叫んだ。
「玉蘭様が産まれる次の「巫女」の父親になりたい男なんて、それこそ掃いて捨てるほど居ますからねぇ」
「本人がそう思っていない所が、救いだったねぇ」
まだ玉蘭は意味が分からず、キョトンと首を傾げていたが、海煌は先程の男を思い浮かべ、こちらに連れて来て、誤魔化してくれた勇輝王に感謝した。胃の辺りをさすりながら。
「私達だって、びっくりしたんですよ! いきなり玉蘭様が慶国に行かれたとお聞きして!」
蘇芳達の話しに便乗するように、雀蘭が叫んで来た。
「あ……新蘭国の方達は……その事をどのように思っておられるのかしら……」
王の妃でありながら、突然居なくなってしまったのだ。
海煌が迎えに来てくれたとは言え、帰る場所があるのか、帰ってもいいのだろうかと玉蘭は不安になった。
「それはもちろん! 早くお元気になられて、帰って来て頂きたいと思ってますよ、皆!」
「元気になって……?」
「はい!」
高熱を出したと言う海煌を心配して、自分の身を顧みずに走り出した玉蘭であったが、やはり途中で倒れてしまい、急ぎ王宮に運び込んだ。
庵より、王宮に近い所で倒れた為で、今、宮の中で手当てをしているので身の周りの物を用意して欲しいと言われ、焦って用意したと雀蘭は話した。
「私もお傍に行きたいと申したんですけれど、手当ての邪魔になるからって言われて。それは心配で眠れもせずにいたのに、次の日のお昼近くになって、慶国に行かれたって聞かされて、もうびっくりするやら、腹が立つやらで」
「どうして……慶国に行った事に……?」
「倒れられた玉蘭様を王宮に運び込む時に、運が悪いのか良いのかわかりませんが、慶国の方に見られてしまったとかで。それで、玉蘭様の病状が知られてしまったんですが、慶国にはとてもいい薬があって、それを飲んで養生すれば、お元気になられるやもと。でもそのお薬は、王家秘伝の薬で、他国に持ち出すことは出来ないから、慶国に連れて帰るしかないって」
「まぁ……そのような事に……」
「本当にねぇ、策士ですよねぇ、海煌王様は。よくこれだけ嘘八百を並べられるものだと感心しますよ」
蘇芳がからかうように混ぜっ返す。
「せめて、私にだけでも教えて下されば、一緒に慶国にお供致しましたのに!」
「いやいや、おまえさんに言ったら、すぐに玉蘭様に話してしまうだろうが」
「そんなに口は軽くありません!」
「かねぇ? それに、一緒に付いて行っていたら、今、義悌王の隣には居られないだろう」
「え? あ、きゃぁ! 蘇芳様ったら、やだぁ~~!」
真っ赤になった顔を両袖で隠しながら、ブンブンと身体ごと振る雀蘭の様子に、
「こらこら、あまり身体を振るな。お腹の子がビックリするだろう」
と、顔をしかめながら義悌が言った。
「お腹の子……? まぁ、雀蘭、お腹に子が居るのですか?」
そう問われて、雀蘭はちょっと肩を竦め、ふっくらとして来たお腹を嬉しそうに撫でた。
「大事な身体なので、国で待っていろと言ったのですが」
「玉蘭様にお会いできるのに、国でなんて待っていられません!」
「と、言い張るもので、連れて参りました」
「まぁ……そう。良かったわね、雀蘭。思いが叶って……」
「うふっ。半分……半分以上、押しかけ女房なんですけどね」
ペロッと小さく舌を出して言う雀蘭に、
「いや、そんな事は……」
と、釣られて言い掛けて、義悌はコホンと咳払いした。
海煌を騙している日々に心苦しさを感じていた玉蘭であったが、雀蘭の明るさと優しい心遣いに癒され、慰められていた。
突然、覇国の王になり、言い知れぬ責任の重さと国の未来を背負い、辛く厳しい毎日を送っていたであろう義悌にとっても、雀蘭の明るい心遣いは胸に響くものがあったのだろう。
雀蘭に向けられる優しい瞳が、それを物語っていた。
「慶国に行かれた玉蘭様も心配でしたけど、玉蘭様が居なくなられてから半月以上も、海煌様が王宮から出て来られなくて……」
「半月以上……!?」
「玉蘭様が慶国に行かれて、お寂しいからか。それとも、高熱を出されたのがまだお治りになられないのかと、それは心配したんですよ」
「一体……何を……?」
問い掛ける玉蘭に、海煌はむすっと口を曲げて、横を向くだけだった。
「王宮だけではなく、あの執務室から出られていませんでした」
こう問い掛けに答えたのは、豊真であった。
「じいさん! 余計なこと言うなよ!」
海煌は怒鳴ったが、豊真は頭を振った。
「しかし、これまでの事を何も知らされず、これから一生を共にされるのは、玉蘭様とてご不安にございましょう」
一生を共に、と言う言葉に海煌は一瞬にやついてしまったが、いやいや、話さない方が玉蘭の為ではないかと逡巡している隙に、
「まさに、寝食を忘れ、と言うのは、あの事にございましょう」
と、豊真が話し始めてしまった。
山と積まれた資料の本は、次々と床の上に広げられていき、足の踏み場がないとはこの事かと言うほど、執務室の中は資料の海と化して行った。
食事は運んでいたが、ほとんど手が付けられておらず、堪りかねて豊真が、
「海煌様。少しは休まれて、きちんとお食事をとられて下さい」
と言うと、
「あ? もう食った食った」
と、返すばかりであった。
「何をお召しになられたのですか。このままでは、身体を壊されてしまいますぞ」
「大丈夫だって。戦の時なんて、もっと酷いだろうが」
確かに、戦の時は食うや食わずで、戦いに行かねばならない時がある。
特に海煌は、王族の為に用意された食事を弱っている兵に分け与え、自分は兵達と同じ食事をしていた。
それ故、兵達からの信望厚く、海煌の軍はいつも一丸となって敵と戦っていた。
「ではせめて、一度お部屋に戻られて、お休みください。この所、まともに休まれておられないではありませんか」
資料の海の中で、座りながら目を瞑って仮眠をとる程度で、横になって眠っている姿を豊真は目にした事がなかった。
「なんだよ。子供の頃は勉強しろ勉強しろって言ってただろう。お勉強してるんだから、いいだろう」
資料から目を離さずにこう言うばかりで、海煌は立ち上がる素振りも見せなかった。
勉強しろとは言ったが、「程」と言うものがある。
しかし、あれほど勉強を嫌がっていたのに、どうして今はここまで出来るのかと不思議に思っていると、ふと、子供の頃の海煌の言葉を思い出した。
何故、勉強をしないのかと問い詰めていた時である。
「だってさぁ、頭のいい兄貴が三人も居るじゃん! だったらさぁ、身体鍛えて、武芸の腕を磨いた方がさ、兄貴や国の役に立つじゃん!」
その時は、勉強をしたくない為の詭弁にしか聞こえなかったが、もしかしたら、国の、誰かの為に必要となる事を、自分で見極め、選び、必死に為してきたのかもしれない、と、資料を見つめ続ける海煌を見つつ、豊真は思った。