覇王伝説5
「義悌を捕らえよ!」
ひとしきり笑ってから、覇国王は高らかにこう命じた。
「は?」
意味が分からず戸惑う者達に、
「何をしている! 聞こえなかったのか! 義悌を捕らえよ!!」
もう一度こう叫ぶと、後ろで控えていた者の中から一人が立ち上がり、義悌の左腕を掴むと背に捩じりあげた。
それを見て、他の者達も一斉に義悌を押さえつける。
床にねじ伏せられた義悌の姿を満足気に眺め、覇国王は机から降り、義悌達の方に歩み寄ってきた。
「まったく! 先の戦で死んでいればいいものを! しかも、のこのこここに帰って来るとはな!」
ねじ伏せられながら、覇国王を見上げ、
「何故! 何故、このような事を! 私は王の為に、この女を!」
と、義悌は叫んだ。
「覇王の傍に居る運命を持った女か」
チラリと義悌の横で縛られている女に視線をやると、嘲ったように笑った。
「まぁ、あの若造に一杯食わせてやったのは褒めてやろう。だが、こんな女、どうでもいい!」
「どうでも……!?」
「おまえを殺せればそれでな!」
「な、何を……私が何をしたと!? 確かに、国を裏切った振りを致しました! ですがそれは」
「そんなのもどうでもいい! おまえさえ死ねばな!」
「何故……そこまで……」
「何故!? 何故だと!? いいだろう! あの世へ行って、あの女に恨み言を言う機会をやろう!」
「あの……女……?」
「前国王の母親よ!」
「は?」
現覇国王が、兄の母親を前国王の母親と言ったのは、現王が妾妃の子供であったからである。
妾妃の子に北神玄武の加護があるとの”占”が為され、当然、正妃としては面白くなく、幼き頃より現国王を苛め、蔑ろにして来たのは覇国では有名な話であった。
しかし、義悌がその母親に恨み言を言う理由は何ひとつなかった。
見上げる義悌の髪を掴み、顔をさらに上を向かせると、楽しそうに義悌の顔を覗き込んだ。
「あの女はな! 玄武の”占”を聞いて! 赤子の俺とおまえを入れ替えさせやがったのよ!」
「な……! そんな……!」
「前王を殺し! あの女に剣を突きつけてやった時に言いやがった!」
『玄武!? おまえになど! 玄武の加護などあらぬわ! 卑しき男の子のおまえなどに!』
『卑しき男だと!? 己の夫を卑しいと言うか!』
『おまえは王の子などではない! 妾妃が子を産んだ夜に、私が入れ替えさせた!』
『なんだと!?』
『おまえの父親は、ぐうたらで、酒飲みで! どうしようもない男であったわ! やはり、あの男の子よのぉ、よく似ておるわ!』
『誰だ! 誰の子と入れ替えた!』
『そのような事、言うはずもなかろう! まことの玄武の加護を持ちし者の影に怯えて生きるがいい!』
「そう言って、自分で喉を掻き切りやがった! あのババァは!」
髪を掴んだまま、その手を地面に向けて叩きつける。
「う……ぐぅ!」
苦鳴を上げる義悌をなお楽しそうに見つめ、
「探したよ。それは必死になぁ。まさか、おまえとは思わなかったよ、義悌。あの夜、宮で産気づいた王妃の侍女が居た。酒飲みで、ぐうたらな男の子を産んだ侍女がな!」
言いながら、ぐいぐいと頭を床に擦りつける。
「わ、私の父は……」
「おお! そうよ! ご立派な将様だったよな。子が生まれてすぐに、その男は酒の飲み過ぎで死んだ。そして、侍女はおまえを連れて再婚したのよ! 王妃の口利きでな!」
「そん……!」
義悌は、実の父親だと思って育った。父も母も、そんな素振りは何ひとつ見せなかったのだ。
「おまえが生きていると、安心して枕を高くして寝られねぇんだ。だから、あの軍を任せたのによぉ、ちゃっかり生き残りやがるから、あんな大軍を新蘭なんかにやらなきゃいけなくなっちまった」
「まさか……私を殺す為……」
「それ以外あるかよ! おまえからその首差し出しに帰って来てくれて、ありがとよ!」
もう一度髪を掴みあげ、床に叩きつけてから、覇国王は立ち上がり剣を抜くと、義悌の首目掛けて振りおろした。
次の瞬間、ガキィ―ン! と剣と剣がぶつかり合う音が、離宮の部屋に響き渡った。
「何!? 何のつもりだ!貴様!」
義悌に振り下ろされかけた剣を受けたのは、最初に義悌を取り押さえた者であった。
「何……て、自分の身を守っただけ?」
「自分の身だと!?」
「だってさぁ、こんな人気のない所で、ベラベラとそんな話をしたのは、義悌を殺した後に、俺達も殺そうって腹積もりだからだろ?」
「貴様……」
「情けないよなぁ。サシじゃ義悌に敵わないから、取り押さえさせて殺そうなんてさぁ」
「貴様、一体何者だ!」
「面白いよねぇ。お互い、どんな奴が治めてるか知らない国と戦やってるんだから」
「何……! まさか、おまえは新蘭国の……」
「あったり~~。新蘭国の若造で~す」
「義悌! 貴様!」
覇国王が悔しさに歯噛みしながら義悌の方に目をやると、義悌はすでに立ち上がり、剣を構えていた。後ろに控えていた者達もである。
「ひとつ! 聞きたい。父は、まことに戦で亡くなったのか!」
義悌がこう叫ぶように聞くと、覇国王は唇の片方を歪め、
「そんなはずなかろう。俺が命じて戦の最中に殺させたのよ!」
と、吐き捨てるように言った。
「父は! 父は、おまえの為にどれほど尽力して来たか!」
「そんなもの知るか! 俺にではなく! 玄武の加護を得た者にだろうが!」
「貴様……!」
剣を振りかぶる義悌を避け、覇国王は後ろに跳び退ると、天井から垂れている紐を引っ張った。
離宮のそこかしこから鈴の音が響いた。
その後、この部屋に向かってやって来る大勢の足音が続く。
「形成逆転、て奴かな。新蘭国王。敵の本拠地にその人数で乗り込んで来るとは、無謀と言うものであろう!」
「いやぁ、手っ取り早く戦を終わらせたかったんだよねぇ」
「終わらせてやろう! 覇国の勝利でな! 安心しろ! おまえの国も、おまえの女房も、俺がちゃんと世話をしてやる!」
勝ち誇った顔で、後退る女の腕を掴んで立たせると、首元に顔を寄せる。
油断しきった覇国王の腹に、女の膝蹴りがもろに入った。
「うぎゃっつ!」
腹を押さえて俯く王の後ろ首に、いつの間に解いたのか、自由になった両手を組んで拳を作り、それを思いっきり叩きつける。
「ぐぅっ!」
たまらず膝をつき、手を床に置いて何とか身体を支えたが、
「気色悪い顔、近付けんじゃねぇよ! くそったれが!」
と言う罵声と共に、下から顎を蹴りあげられ、ついに覇国王は床に伸びてしまった。
「大切な玉蘭を、こんな危険なとこに連れて来るわけねぇじゃん。なぁ、蘇芳」
そう呼びかけられた女はキッと海煌を睨みつけ、
「だけど! 何で俺! なんですか!」
と、怒鳴った。
「へぇ~~。俺って言うんだ蘇芳も」
「そこじゃないでしょう……!」
バン! と部屋の扉が大きく開かれ、衛兵たちがなだれ込んで来た。
その前に、海煌を守るように義悌が立ちはだかる。
その姿を見て、衛兵達がざわめいた。
「義悌!?」
「な、何故、おまえがここに!?」
「新蘭国に行ったのではなかったのか!?」
義悌を知っている者が口々にそう言う中、
「お~い! 義悌じゃなくて、こっちに注目してほしいんだけどぉ」
海煌がのんびりした口調で、手を振りながら言った。
そう言われて、衛兵達がその声の方を見やると、一人の見知らぬ男の横に、先刻まで蘇芳を縛っていた縄に後ろ手に縛られ、まだふらつく身体を両側から支えられた覇国王の姿があった。
「王!?」
「こ、これは一体……!」
「おまえ達は、何者だ!?」
事態が呑み込めず、狼狽える衛兵達に向かって海煌が叫ぶ。
「俺は! あ、こういう時は、私か我って言えって、じいさんが言ってた気が……」
「そんなのどっちでもいいですから! 続けて下さい!」
蘇芳が頭を抱えそうになりながら、促した。
「そうか、ん! 俺は! 新蘭国の王! 遼 海煌だ!」
またも、衛兵達の間にざわめきが広がる。
「新蘭国の王!?」
「そんな奴が、どうしてこんな所に!」
ますます混乱している衛兵達を見ながら、海煌は覇国王の喉元に剣の切っ先を突きつけた。
「選べ!」
「はぁ!?」
何を選べと言うのかと、呆ける衛兵達に海煌はこう続けた。
「今ここで! 王を殺され、敗戦国となり、我が新蘭国の支配下に置かれるか! この王を廃し! 新たにこの仁 義悌を王とし! 一つの国として、我が国との友好的な国交を持つか! 選ぶがいい!」
これに驚いたのは衛兵達ばかりではなかった。
「海煌陛下! 何を言い出されるのですか! 前王の母君様が死に際に申されたことは、真の事かどうか……」
義悌が驚きのあまりに叫んでいた。
「うん。悔し紛れの嘘でたらめかもしれないよなぁ」
「なれば……!」
「でもそんなの、それこそどっちでもいいんで」
「どっちでも……!?」
「ん! 最初からこうするつもりで、この策を考えたからな」
「そ……!」
これに、やっと意識がはっきりしてきた覇国王が怒鳴ってきた。
「そんな甘言に騙されるな! 仁 義悌は新蘭国に寝返った者だぞ! 新蘭国のいい様にされるだけだ! それより! こいつらの手勢はここに居る者達だけだ! さっさと殺してしまえ!」
こう喚き散らす王に、衛兵達の間に迷いの空気が流れ出す。
すると、一人の衛兵が剣を抜き放ち、海煌達の方に駆けてきた。
海煌と義悌達に緊張が走る。
が、義悌達の前まで来ると、衛兵はクルリと身体の向きを変え、衛兵達の方に剣を向けた。
「俺は、仁 義悌を選ぶ! この王の元で、いつ死地に赴けと言われるかと恐怖に怯えて生きるのは、もうたくさんだ!」
『戦地』ではなく、『死地』と言う言葉を使った衛兵に、他の衛兵達の心が大きく揺さぶられた。
「お、俺も嫌だ!」
「俺も!」
「俺もだ!」
次々と剣を抜き、義悌の元へと走り寄って来る。
「愚か者どもめが! 国を新蘭国に明け渡す気か!」
「あなたの元で生きるより、ましだ!」
この衛兵の言葉をきっかけに、迷っていた衛兵達が剣を投げ捨てた。
剣が床に落ちる音が、豪華な王の部屋に鳴り響く。
「人望ねぇのなぁ。ま、俺も人の事は言えねぇかぁ」
その様子を見て、海煌がポツリとひとりごちた。
それを聞きつけた蘇芳や義悌達は目を見合わせ、軽く肩をそびやかせて笑った。
ガクリと膝をつく覇国王を、無理矢理立たせて部屋から連れ出そうとした時、一瞬、蘇芳と目が合った。
「何故だ! 他の諜者からの報でも、王妃が義悌に攫われたと大騒ぎになっていると……!」
「新蘭国あげての大芝居! て言っても、この策を知っているのはほんの一握りの者達だけで、他の者はマジで王妃が攫われたと思ってたからな。そりゃ、大騒ぎになるよな」
気楽そうに真相を語る海煌を、覇国王が睨みつける。
「大体さ、戦してるってのに、王様がこんな所でのんびりしてるってとこが一番の問題じゃん。陣に居れば、この策は成り立たなかったからな」
「王が戦に? 馬鹿が! 王は己の命と身を守るのが務めだ!」
「王の務めは! 民達の命と生活と、将来を守る事だろうが! 馬鹿はおまえの方だ!」
海煌のこの叫びを聞いた覇国の者達は、つくづく思った。
自分もあの戦に参戦し、新蘭国に行ければ良かったのにと。
「民の命と生活、将来を守るのが王の務め……ですか。はて、私に出来ますでしょうか」
追い立てられるように部屋を出て行く覇国王を見送りながら、義悌がポツッと言った。
「出来る出来る! あの兵士達の命を守る為、自分の命を差し出そうとしたじゃん。義悌なら、いい王様になれるって!」
「海煌陛下……」
海煌にそう言われても、まだ不安そうに義悌は自分を選ぶと言った衛兵達を見やった。
「我々もそう思います」
「皆……」
「それに……」
「それに?」
「あなたの父君様に、義悌が立つなら、その時は力になってやって欲しいと頼まれていましたから」
「父に!?」
「へぇ~。もしかして、知っていたのかもな。おまえさんが誰なのか。で、あいつの元で時が来るのを待っていたのかもしれん。真の心を隠しながらな」
「海煌陛下」
「ま、誰だろうと、今からどういう国にするかは、おまえさん次第だ。出来れば、いい国にしてくれ」
「……はっ!」
翌日、正式に覇国王は勝利国の海煌王の命により廃位され、新たに仁 義悌が覇国王となった。
前王は、北の海の離島へと身柄を移され、生涯その島から出て来ることを禁じられた。
その島へは、新蘭国の者達の手で送られたと言う。
すべての手続きを終え、帰国の途に着いた海煌が、
「じいさん、今頃ネタばらしされて、怒ってるだろうなぁ」
と、豊真に会うのが嫌そうな顔と声で言った。
「どうして今回の策を、豊真殿に言われなかったのですか」
蘇芳が不思議そうに聞いて来る。
「だってさぁ、あの堅物のじいさんに芝居なんて出来るかぁ? もろばれになりそうだったから、言わなかったんだよねぇ」
ああ、それは言えているかも、と納得しかけた蘇芳であったが、
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
と、付け加えるように聞いた。
「なんだ?」
「ですから、どうして俺! だったんですか!」
「どうしてって……」
どう言ったものかと海煌が蘇芳を見やっていると、
「はいはいはい! どうせチビですよ! 申し訳ありませんね、寸足らずで!」
答えを聞かぬ間に、蘇芳がプイッと横を向いていじけた。
「そうは言ってないだろう! あ~~なんだ。ああ! ほら! おまえなら玉蘭の事を良く知っているだろう! それで、ばれにくいかと思ってだなぁ」
「袋の中に入ってて、ばれるも何もないでしょう!」
「いや、だからぁ~」
新蘭国に着くまで、蘇芳の機嫌が治ることはなかった。らしい。
「これくらいの芝居くらい! 私にも出来ましょう程に!」
案の定、国境で待ち構えていた豊真が早速怒鳴ってきた。
「いや、だからさぁ、じいさん真面目だからさぁ。こう……重荷を背負わせたら悪いと……」
「はぁ!? 国の政を司る者が、この程度を重荷と感じるわけがございませんでしょう!! 大体! 悩み事や困り事があろうとも、何ほどの事もないと言う顔をせねばならぬものでしょう、上に立つ者と言うのは!」
「あ~~、そうなんだぁ」
「そうでございます! 今だとて……」
そう言い掛けて、豊真が口ごもった。
「今だとて……? 何か悩み事とか、困り事があるのか?」
「あ……いえ……」
「なんだよ。言えよ、じいさん。気になるじゃないか」
「…………妾妃様に関してなのですが……」
「あ!?」
無理に聞きださなければ良かった、と思う海煌であった。
その日の玉蘭の庵は、随分と賑やかであった。
戦から無事に帰り、色々な手続きやら今後の方針やらを決め、明日、慶国へと帰る蘇芳が玉蘭に最後の挨拶をしたいと申し出ると、海煌は玉蘭はこの庵に居ると言い、共に訪れると、海煌の次兄の妃が子供を連れて先に来ていたのだ。
海煌の甥になる子は、遼 臨洋と言う名で、二歳ちょっとになる。
子に臨洋と言う名を付けたほどに、次兄は海が好きだった。
いつかは、家族で遼領へと戻り、そこで領地を治めたいと望んでいた。
だが、その望みは叶わぬままに、戦地で亡くなってしまった。
先の慶国王が来た折に、宮へと出向いた玉蘭に挨拶に行き、そこで玉蘭が気に入ったのか、臨洋はよく玉蘭に会いたいと言うようになり、戦の間、時折りこうして庵を訪ねて来るようになっていた。
「あの義悌殿が、覇国の王の御子で、北神玄武の加護を得ている方だったなんて、本当に驚きでございました」
海煌と蘇芳が来たので、自然と戦の話になり、次兄の妃がほとほと感心するように言った。
「ハハ……。私達も、覇国王がその話をされている間、信じられぬ思いで聞いておりました。声を出さぬようにするのが精一杯で……と言っても、私は猿ぐつわをされていて、出そうにも出せませんでしたが」
「ま……。ご苦労でありましたね、蘇芳。大変なお役目を果たしてくれて、ありがとう。心より感謝いたします」
「いえいえ! ただ、男でこの役が出来そうなのが私くらいだっただけで。この背格好ですからね」
少々自虐気味に、肩を竦めてみせる。
蘇芳は、高いとも言えないが、そう無茶苦茶低いと言うわけではない。だが、線が細い。鍛えてはいるのだが、何故かがっしりした体型にならないのである。
「ですが、覇国王をのされたのは、あなただとお聞きいたしましたわ。あら、のされたなんて、私ったら……」
「いえ。私も自慢したき所ですが、王になってからほとんど鍛えてなかったのか、元々なのかわかりませんが、あまりの弱さに呆れたくらいでした」
「そうなのですか」
楽しげに話しを続ける二人であったが、玉蘭はチラリと海煌を見やった。
「あの……どうかなさいましたか?」
「ん……?」
「今日は……あまりお話しになられないのですね……」
「そうか……?」
「どうせ、玉蘭様と二人になりたかったのに、お邪魔虫がいるからでしょう」
「まぁ! 蘇芳!」
頬を赤らめ、蘇芳を睨む玉蘭に明るく笑って、
「はいはい、そろそろお邪魔虫は消えると致しましょう」
と言いつつ、蘇芳が立ち上がると、次兄の妃も、
「私達もこれで失礼しま……あらまぁ、いつの間に眠って……。申し訳ありません、玉蘭妃様」
帰ろうと、臨洋の方を見ると、玉蘭の膝の上ですやすやと眠っていた。
「いいえ。とてもいい子で……。どうか、大切にお育て下さい」
「はい……」
「いつか……きっとあなたの望みが叶う日が参りましょう」
「玉蘭妃様……。ありがとうございます」
眠る臨洋を抱き上げ、深々と頭を下げる。
「では、これで失礼します、玉蘭様。どうかお元気で」
「あなたも……蘇芳」
「はい。ですが、ここはいい所ですね。王宮のこんな隠れた場所に、こんないい庵があるとは思いませんでした。覇国の諜者の目を眩ますのには、もってこいの場所ですね」
「え……ええ、そうね……」
実際は反対で、この庵から王宮の奥深い部屋に行っていたのだが。
「それでは、この静かな庵で、お二人の時をごゆっくりお過ごしください、陛下」
蘇芳がちょっとからかうように言うと、
「いや……今日は俺もこれで帰るとしよう」
と、まさかの言葉が海煌の口から出た。
「え……?」
「ちょ……陛下! ちょっとからかったくらいで、へそを曲げられないで下さいよ」
「へそ? ああ、いや、少し……考えたい事があって……」
「は? 陛下が考えごとですか?」
「ん……」
海煌のこの返事に、玉蘭と蘇芳が目を見合わす。
いつもなら、俺だって考え事をする時くらいある! とか言い返してきそうなのだが、と。
「海煌様……何か……」
「悪いな、玉蘭。また来る」
ここまで海煌を悩ませる心配事は何かと聞こうとしたのだが、こう言われてしまっては、
「……はい」
と言うしかなかった。
宮へと帰る四人を見送りつつ、何があったのかと不安そうに海煌の背を追っていると、
「義悌様、覇国の王になられたんですね……」
と、横で同じように見送りに出ていた雀蘭が寂しそうに呟いた。
「いきなり、遠い方になっちゃったなぁ」
「雀蘭……? あなた、まさか義悌殿の事を……?」
玉蘭がそう聞くと、雀蘭の頬が一気に赤味を増した。
「あ、いえ、その……。玉蘭様が居なくなったって、王宮に言いに行くお芝居をするのがすごく不安で震えていたら、大丈夫だって、いざとなったら荷袋を馬の後ろに乗せて、王宮の門を突破してやるからって言って下さって……。それで……素敵な方だなぁ……て」
「まぁ……そう。でも、あの方のお年なら、もう奥様が……」
「それが、まだお独り身なんですよ!」
「そうなの?」
また真っ赤に染まった頬を、恥ずかしそうに袖で隠しつつ、
「聞いちゃったんですぅ! お国を出られて、奥様やお子様の事が心配ではないのですか、て! そしたら、妻は娶ってないって! なんでも、前の王様が女好きで、配下の奥さんでも横取りしちゃう事が多くて、娶る気になれなかったって! それだけは前の王様に感謝したい! て思っちゃいました!」
と、捲くし立てた後、ゆっくりと袖を降ろし、
「けど、どっちでもよくなっちゃいました。きっと、どこかのお姫様を娶られるんでしょうから……」
溜め息と共に吐き出した。
「いつか……いい人が現われるわ、あなたなら」
「そう信じて、前向きに生きま~す! あ~あ、玉蘭様が羨ましいです。海煌様にこんなに愛されて! 後はお子様が出来れば……あ、す、すみません!」
「いいえ……」
「私、諦めてませんから! 少しでもお元気になられるように、今日もおいしい物作りますね!」
「……ええ……」
その日の夜、豊真が血相を変えて庵に飛び込んできた。
「玉蘭様! 海煌陛下が!」
「海煌様が、どうかなさったのですか!?」
「突然、高熱をお出しになり、お倒れに!」
「なんですって!?」
昼間の、いつもとは違う海煌の様子が、玉蘭の脳裏に渦巻いた。