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砂の夜

作者: 秋月真鳥

 それは、最後の夜だった。



 世界が終わる前の、最後の、最後の夜だった。



 冗談のように白い砂の海を、キャラバン隊が渡る。照りつける太陽を反射して、砂の海の水面は、白銀にきらきらと輝いていた。砂の中に非常に細かい輝石が混じっているのが、この白い砂漠の最大の特徴。ガラスの原料ともなる輝石は、太陽に、月に照らされて、朝に夕にきらきらと光る。

 この白い砂は細かい。それらは空気中にも浮遊していて、それを長く吸うと肺炎になり、熱病を併発し、死に至ることが多い。



 この白は、死の象徴。



 きれいなものは怖いものだと、嫌になるほど聞かされたラギイは、防砂マスクの下で深いため息をついた。息がマスクの中に篭り、口元が湿って熱くなる。

 鼻から下を覆ってしまうような防砂マスクと、目を保護するための防砂ゴーグルは、白い砂漠を渡るのには必要不可欠である。それに加えて、肌の強くないラギイには、肌を守るための日除けのマントも欠かせない。

 ラギイ達キャラバン隊のメンバーが乗っているのは、乗用に改良された巨大な砂トカゲ。総量三百キロ以上の荷物を乗せても全く平気な頑丈な砂トカゲは、値は張るものの、とても大人しく賢く扱いやすいため、白い砂漠を渡る唯一の交通手段として用いられる。

 砂トカゲの表皮はとても硬く、その表面から水分が逃げることはない。また、人間が良く気をつけて砂浴びをさせれば、体温が上がりすぎることもないし、雑菌がつくこともないという、砂漠を渡るには最高の乗り物だ。

 唯一の欠点は、足が遅いことくらいだろうか。

 キャラバン隊はゆったりと、砂トカゲの速度に合わせて移動している。

 遅いながらも力強い歩みを続ける砂トカゲを労わるように撫でて、ラギイはその顔を覗きこんだ。アティラと名付けられたその砂トカゲは、とても大人しい雌で、体長は二メートルを越す大型のものである。砂トカゲは大抵、雄よりも雌の方が一回りほど大きく、気性も穏やかなので、初心者の乗用には雌が好まれる。

 砂トカゲの名の通り、この砂漠の砂の純白の表皮のアティラは、主人の視線が自分に向いているのに気付いて、ラギイを心配そうに見上げてきた。透明なフィルターのかかったようなアティラの目は、水の上に浮かせた油のように、鈍い七色に太陽の光りを反射する。

 乾燥した砂漠で眼球が乾きすぎたり、砂で眼球が傷つけられたりしないように、砂トカゲの眼球の表面には保護膜ができているのだ。

 そのため、砂トカゲはこの吹き荒れる砂の中でも、ずっと目を開けていられる。また、筋肉に酸素を蓄えておくことも、心拍数を自分の意思で押さえることもできるため、心拍数を五分に一回くらいに押さえてじっとしていれば、十時間くらいは酸素を吸わなくても生きていられる。

 不安げなアティラを宥めるようにそっと首筋を撫でて、ラギイはキャラバン隊の他のメンバーの背に視線を投じた。


 最近、砂漠を幾度と渡った、慣れたキャラバン隊や旅人が、行方不明になるという不思議なことが起こっている。慣れたとはいえ、砂漠の砂嵐は恐ろしいものであるし、迷うものもいるだろうが、あまりにもそれが頻繁に起きすぎるとラギイでなくとも不可思議に思う。

 キャラバン隊にはそのせいか、どこか緊張感が漂っていた。

 肌で感じる緊張感も、暑さとともにラギイを疲れさせる。

 己を鼓舞するように、「なんでもない」とアティラの首筋を撫でると、アティラは赤い目を細めて首を左右に振った。

 ラギイだけでなくラギイの荷物まで積んでいても、彼女は全くそれを苦にせず、四本の足でゆったりと歩く。広い足の裏は砂に埋もれにくくなっていた。

 アティラをひとしきり労ってからふと顔を上げると、白い布を頭に巻いたキャラバン隊の隊長、キザレが手綱を肘に引っ掛けて、手を素早く二つ叩いて挨拶をしてくる。

 防砂マスクと吹き荒れる砂のため、音声はくぐもってほとんど他人に伝わらないので、砂漠を渡るキャラバン隊の人間は、身振り手振りで会話をする。

 ラギイもアティラの手綱を持ったまま、素早く両手を一つ打ち鳴らし、右手をくるりと回転させて手の平を相手に見せた。キザレは防砂ゴーグルの下から、じっとラギイを見つめている。

 キザレが地面を指してから、両手をそれぞれ反対にくるりと回して、体の前に円を描くような動作をしたので、ラギイは気だるく目だけで笑って、首を左右に振ってみせた。

 最初の手を叩く動作が砂漠での挨拶。ラギイが叩き返したのが返事の挨拶。右手を回転させて手の平を見せたのが、「なにかあったのか?」という問いかけ。それに対してキザレは、「何かに気付いたのではないのか?」と動作で逆に問い返してきた。だから、ラギイは首を緩く左右に振って、「なんでもない」と答えたのだ。

 ラギイもこの砂漠で仕事を初めてから、もう半年になる。最近は、ラギイが動作での会話をよく覚えたと、キザレも誉めてくれるようになった。しかし、まだラギイには動作の速度や角度で表す微妙な感情は読み取れない。

 ラギイよりも十以上年長のキャラバン隊隊長、キザレはまだ何か言いたそうだったが、諦めたように、自分が乗っている砂トカゲをアティラから離した。縄張り意識の薄い砂トカゲでも、多少距離をとって進まないと、接触事故を恐れてお互いが威嚇し合い、喧嘩をしかねないのだ。しかも、キザレの砂トカゲは雄。アティラは雌である。

 雄の接近に怯えて喉の奥で唸るアティラを宥めるラギイだが、アティラの目がキザレの砂トカゲではなく、前方の砂丘の上に向けられていることに気付き、慌ててそちらを見た。

 それと同時に頭の上で手を打ち鳴らし、キザレの注意を引く。キザレだけでなく、他の仲間もすぐにラギイの方を見てくれたので、ラギイはマントの下から伸ばした手で前方と指差した。


 その瞬間、光を浴びて砂丘の上できらりと何かが光る。


 ラギイは自分の胸の上に、手綱を握ったままの左の拳を置き、右手で素早く前方を指差した。それから、近付いてきたキザレの砂トカゲの方に身を乗り出し、キザレに大声で耳打ちする。

「多分、俺の仕事だ。いつものルートを先に行ってくれ。二日以内に合流する。」

 くぐもって聞き取りにくい大声にキザレは顔を顰めたが、その表情を見てラギイは自分の言葉が彼に充分に通じたことを知る。ラギイはそのまま近付きすぎたキザレから逃げるように、アティラに前進の命令をした。

 キザレは特に止めもせず、大きな動作でラギイが言ったことを仲間に伝える。伝え終わる前に離れていくラギイの背に、キザレの声が届いた。

「ラギイ!あんたに、光と水の加護を!」

 アティラに跨ったままラギイが振り向くと、防砂マスクを顎まで下ろして叫んでいるキザレの姿が見えた。白い砂は肺に溜まれば死を招く。

 それでも、キャラバン隊の男達は躊躇いなく防砂マスクを下ろして口々に叫び、指を伸ばしたまま手を組むような動作をする。

 ラギイは手を一つ打ってそれに答えた。



 風によって常に形を変える砂丘の上には、少年が一人、ぽつんと立っていた。

 彼は、崩れる砂の山を登ってくるラギイとアティラを見ると、驚いて踵を返し、走り出そうとする。ラギイは慌てて手を二回打ち、それか両方の手の平を上に向けて軽く前に差し出した。

 砂漠での友好の印だ。

 布で作られた簡易マスクしかしていない少年は、ひび割れたゴーグルの下からラギイを睨み付け、砂を撒き散らし走り去ろうとする。

 ラギイはアティラの上から滑り降り、ざくざくと砂を巻き上げながら走った。追いかけられて少年はますます逃げる速度を上げてくる。

 少年の背中が遠ざかるのを見て、慌てたラギイは必死に砂の上で速度を上げようとするが、逆に砂に足を取られて顔面から砂に突っ込んでしまう。立ち上がって防砂マスクの奥で咳き込むラギイに、心配そうにアティラが擦り寄ってきた。

 無様に転んだラギイを哀れんだのか、少年は走るのをやめてラギイの前方二メートルくらいのところまで戻ってきてくれる。

 マントもなく、ゴーグルはひび割れ、マスクはあまりにもお粗末で、纏う衣服もぼろぼろの少年。その破れかけたシャツから伸びる痩せた腕と、明かに大きすぎるズボンから伸びる細い足。サンダルしか履いていない小さな足は、細かな砂で真っ白に染まっている。日に焼けた皮膚はひどく乾いていて、幼い少年のものとはとても思えなかった。

 ラギイがもう一度手を打ち、両方の手の平を上に向けて前に差し出すと、少年も手を一つ打って返してくれた。

 それから、少しだけ迷って、少年も両方の手の平を上向きにする。

 手の平を上に向けるのは友好の証。下に向ければその逆になる。

 ラギイは自分の使う身振り手振りが少年に通じることに安心して、近くに寄ってきたアティラの手綱を引いて少年に近付く。少年は片方の手を立て、もう片方の手でその手の平の中心を指差し、それからその形のままの手をラギイに差し出してきた。

 ラギイはそれを見て、一度両手を合わせてから、もう一度両方の手の平を見せて同意する。

 少年は頷いて歩き出し、ラギイはそれを追いかけた。

 じりじりと灼熱の太陽が砂を熱して、足元から恐ろしい熱気が立ち上る。サンダル履きの少年の足がどれほど熱いか想像して、ラギイは防砂マスクの下で今日何度目になるか分からないため息をついた。


 少年はしばらく歩いて、椀を伏せたような白い滑らかなものの前で立ち止まった。それは砂の上に、なんの前触れもなくするりと生えている。

 玉子のように滑らかで、巨大な物体。高さはラギイの身長よりも少し高い。それの表面に砂が当たって、ぱちぱちと弾ける音が響いていた。

 少年はそれの前まで来ると、慣れた様子でその根元を掘って、その穴に手を突っ込む。しばらく何かを探すように手を動かしていた少年だったが、パシュッという音とともに、その椀を伏せたような巨大な白い物体の一部が、扉のように開いたのを見て、満足げに微笑んだ。

 アティラが赤い目を見開き、ラギイを見上げてくる。彼女がこんなに驚くことは珍しいので、ラギイはその背中の鞍を軽く叩いて宥めてやった。

「おじさん、入って。」

 ゴーグルを額の上に押し上げ、マスクを顎の下に落して、少年は素顔を晒しながら素っ気無くラギイに言う。白い物体の頑丈な表面や扉部分を観察してから、ラギイはやっと少年を見た。

 日に焼けた肌、黒い髪、黒い目。砂漠近辺に生活する、ごく平均的な砂漠の民の特徴。

 ラギイは警戒するアティラを宥めながら、その白い物体の中に入った。

 それの中は空洞になっていて、長身のラギイは少し屈まなければいけなかった。床は完全に砂で埋もれ、本来どれほどの深さがあったのか想像もできない。

 ラギイはすぐにこれが避難用のシェルターだと気付いた。五メートル四方くらいの大きさのそれは、元はもっと高さがあったのだろう。内側に入ってからも砂を掘って入り口を閉じるスイッチを探す少年の動作からも、それがうかがえる。

 シェルターの中とは言え、空気中にはまだ細かい砂の粒子が漂っていた。しかし、少年はゴーグルとマスクを投げ捨てる。

 シェルターの天井から陽光が透けるような作りになっているのか、そこはほんのりと明るく、そして非常に蒸し暑かった。ラギイは少年に合わせてマスクとゴーグルを取り、アティラの近くに投げ捨てる。アティラは床を埋めている砂の上に寝そべり、自分の形の穴を掘って、幸せそうにくつろいでいた。

 砂トカゲのサンドベッドだ。

「おじさん、なんで、俺についてきたの?」

 アティラがあまりにも幸せそうだったので、つい、彼女の隣りに寝そべってみたくなったラギイだが、少年の問い掛けにはっとして彼を見る。部屋の端の入り口から一番遠い場所を、少年はじっと見つめていた。その視線の先には、ぼろ布に包まれた小さな小さな体が横たわっている。

 それは、少年よりも更に幼い少女のようだった。苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。

「おじさんじゃないんだけどね。お兄さんって、呼んでみない?」

 ラギイがマントを取って汗で湿った髪を片手で払うと、少年は目を丸くした。

 日に焼けても尚、砂漠の民よりずっとずっと白い肌。少し屈まねば低い天井にぶつけてしまうほど、ひょろりと高い背。灰色の髪と目。これらは少年にとっては見慣れないものなのだろう。

「ここはずっと前に、避難命令が出てたんじゃなかったっけ?」

 言いながら汗で濡れて張り付く髪を、手櫛でとかして整えようと苦戦するラギイに、少年は子どもらしくないため息をついて唇を尖らせる。

「粉屋のじいさんは、絶対にここを離れないって言って、二十日も前に家に篭ったまま、家が砂に埋もれても出てこないよ。ここもその内、砂に埋もれるんだよ。」

 少し雑音の入った彼の声を聞いて、ラギイは苦笑した。それから、彼の頭をくしゃりと撫でて、決心したかのようにアティラから荷物を下ろして、鞍も外し、彼女を自由にしてやる。アティラは大喜びで前足で砂を掻いて、砂浴びを始めた。



 砂漠が広がり始めたのがいつ頃だったか、誰も知らない。それはとても密やかに始まった。そして、始まりこそ密やかだったが、着実に進んで、やがて急激に広がるようになった。

 いくつもの街が砂に沈み、砂に埋もれそうな場所に街を作っている砂漠の民には、すぐに避難命令が出た。

 砂は風の力を借りてレンガを削り、石を削り、街全体を埋めていく。人々は最後の足掻きとばかりに高台にシェルターを作ったが、それも無駄だと知って、避難していった。しかし、少数は街に残り、砂に埋もれて死ぬことを望んだ。その多くは故郷を捨てきれない老人や、逃げることのできない子どもや病人達だった。



「俺は、避難し損ねた人を回収するのが仕事なんだ。」

 気だるくやる気なさそうに微笑むラギイに、少年は空咳をしてから、小首を傾げてみせる。

「俺達を、ヒナンさせるの?」

 黒い目でじっと見詰められて、ラギイは仕方なさそうに首を左右に振った。

「連れて行って欲しいなら連れていくけど、基本的に無理強いはしないよ。」

 不精髭の浮いた顎を撫でながら、アティラに凭れかかり、砂の上に座るラギイの前に、少年も行儀よくちょこんと座っている。

「おじさん、あそこに井戸があるよ。水がまだ少し出るから、髭くらい剃ったら?」

「いやいや。男は髭が生える生き物なんだ。気にするな。」

 ありがたい申し出を片手を振って遠慮すると、少年は両手を伸ばして物珍しそうにラギイの疎らに生えた髭に触った。

「じょりじょりする……。」

 少し不本意そうに、そして、少し嬉しそうに言う少年に、ラギイはなけなしの愛想を搾り出して微笑みかけた。

「俺はティト。あそこで寝てるのが妹のリザ。おじさんは?」

 問いかけられてラギイは手を伸ばし、アティラの頭を撫でながら答える。

「俺はラギイ。こっちは、相棒のアティラ。」

 紹介されて、アティラは赤い目を開けて、くるくると喉を鳴らした。ティトはずっとアティラのことが気になっていたようで、紹介されるとすぐに彼女に近付いて、その白い腹におそるおそる触ってみる。アティラは主人以外の人物に撫でられても特に気にせず、人懐っこそうに目を細めた。

「俺みたいなのと何回会った?」

 大胆にアティラの頭を撫でてみるティトに、鋭く問いかけるラギイ。ティトは何もかもを見透かすような目で、ラギイを見つめ返した。

「八回かな?みんな、親切だか、なんだかで、俺達に他の町に移住するように言ったよ。」


 ここは危ない場所なんだ。この砂を吸い続けると、肺炎になって熱病を併発して死んでしまうよ。

 この街もすぐに砂に埋もれる。そうすれば君達の住む場所もなくなってしまう。

 ここじゃない場所だって、きっと君達は生きていける。


 誰もが口々にティト達に言った。そして、言うことを拒否すると、ティト達がまるで恩知らずのように軽蔑し、非難し、罵った。

「おじさんは、なんか、違うみたいだね。」

 説明してから、少し笑っていったティト。子どもらしくないどこか悲しげな彼の表情に、ラギイが肩を竦める。

「俺はあまり、仕事熱心じゃなくてね。」

 それを聞いて、ティトは安心したようにラギイの傍に近づいてきた。手招きされてラギイが屈むと、囁くようにティトが言う。

「あのね……。」

 咳き込む妹、リザを横目で見ながら、ティトは続けた。

「解熱剤とか、持ってない?」

 白い砂の絨毯の上に片膝を付いて、ラギイはアティラの上に積んであった荷物をあさり始める。あまり記憶になかったが、キザレが常備薬くらい持っていろとラギイの荷物に色々と仕込んでいた気がする。

 荷物をひっくり返して探すと、常備薬が積め込まれた小さな救護用のポーチが見つかった。キザレに胸中で礼を言いながら、ラギイはそれを持ってリザに近寄る。

「死ぬんだな、こいつ。」

 痩せたリザの腕の脈を調べ、落ち窪んだ彼女の目を見ていたラギイの口から、無意識に言葉が零れた。独り言のように呟かれたその言葉に、ティトが静かな目で頷く。

「ずっと、悪いんだ。多分、明日までには死ぬよ。」

 ポーチから小さな注射器を取り出し、痩せた腕に皮下注射をして、ラギイは注射器をポーチに戻す。その作業をぼんやりと見ながら、ティトが決まりきったことのように、静かに呟いた。

「多分、俺も近いうちに死ぬんだ。」

 雑音の入ったような声は、シェルターの中に物悲しく響く。ティトの真っ直ぐな視線をラギイは受け止めた。


 シェルターの右端にある井戸から水を汲んで、平たい大皿の上に注いでアティラの前に出すと、アティラは嬉しそうにそれを飲む。アティラの世話をさせてもらって嬉しいのか、ティトも嬉しそうに微笑んでいる。

 体を少し起こし、濡れた鼻面を突き出して見せるアティラ。その行動の意味が分からなくて戸惑ったティトは、助けを請うようにラギイに視線を投げてきた。ラギイは苦笑して教えてやる。

「キスしてって。」

 その言葉に、ティトはますます困ってラギイを見た。

「俺、臭いし、汚いし、キスなんて……。」

 薄汚れた自分の姿を見下ろし、恥じ入って困惑する子どもに、ラギイは緩く首を左右に振る。

「トカゲがそんなこと、気にするか。気にしてたら、最初からキスなんてねだらない。」

 その言葉に勇気付けられたのか、ティトはアティラの硬い鱗のある鼻先に、そっと唇をつける。アティラは目を細めて喜んでいるようだ。

 じゃれ合うアティラとティトを横目で見ながら、ラギイはずっとリザの様子を気にしていた。彼女はずっと荒い呼吸を繰り返している。熱は解熱剤を打っても下がる気配はないし、手足の先が紫色に変色している。

 ラギイはティトと自分の見解が正しいことを知り、ずっとリザの傍に座っていた。リザは時折目を開けて虚空を見るが、その濁った目はもう視力があるとは思えず、彼女が何かを認識しているとは考えられない。

「おじさん?」

 ずっとリザに注意を向けていたら、いつのまにかティトがすぐ近くまで来ていて、ラギイは目を丸くする。それにつられて、ティトも戸惑ったように目を丸くしてみせた。

 自分の呼び名が「おじさん」で定着していることに多少の不満を覚えつつも、ラギイが手を一つ打って右手をくるりと回し、手の平を上に向けて見せる動作で、何か用かと問いかけると、ティトがおずおずとラギイの手を握って、上目遣いに問いかけてきた。

「お、おじさんも、気にしない?」

 最初、何を言っているのか分からず、雑音の入るティトの声にラギイが小首を傾げると、ティトの顔がほんのりと赤くなる。それでもティトは真剣にラギイを見つめていた。

「あ、あぁ。気にしないよ。」

 ティトの顔を見てやっと彼が何を言っているのか察したラギイは、少し目を細めて、座ったまま顔を上向けてやると、その頬にティトが軽く唇を寄せてきた。そして、自分からやっておきながら、不精髭がちくちくすると、文句を言う。

「リザにも。」

 促されてラギイは仕方なく、彼女の父親宜しくリザの額に軽く口付けする。痩せた顔は、かつては愛くるしかったのだろうが、今は見る影もない。

「変な人だね、おじさん。」

「よく言われる。」

 平然と答えてから、ラギイは座ったままティトに向き直り、疲れたように問いかける。

「俺に頼みがあるんだろう?だから、俺をこんなに簡単にこのシェルターに招き入れたんだろう。」

 率直な問い掛けに、ティトもあっさりと答える。


「リザを外に出してやって。」


 俺の腕力じゃ無理だから、リザを外に出してやって、とティトは繰り返す。

 二十日前、粉屋のじいさんが家と一緒に砂の中に埋もれた日から、とうとうリザは起き上がれなくなった。尽きていく非常食と枯れていく井戸。それでもティトはリザと一緒にいたかったから、ティトも粉屋のじいさんのように、リザと一緒にこのシェルターごと砂に埋まろうと決めた。

 しかし、リザが言った。


 しぬまえに、おつきさまに、さよならがいいたいの。


 だからティトはリザを外に連れ出してくれる人間を、ずっと待っていた。

 ティトの申し出にを受けて、ラギイはリザの容態を気にしながら夜を待つ。



 全て人間が悪かったのだ。

 考えもせずに植物を切り倒し、使い尽くした。

 こんなにも白い砂の侵略が早くなければ、砂トカゲのように、人間もこの環境に適応できるように進化したのかもしれない。だが、砂の侵略はあまりにも速かった。それは同時に、人間がこの大地を壊してしまう速度が、あまりにも速かったことを示していた。

 もうこの大陸には人間が生活できる豊かな台地は、ほんの少ししか残っていない。人々はその大地を求め、争い、ますます数を減らしていく。

 白い砂と争いのおかげで、大幅に減った人間達は、残された大地にしがみ付いて生きている。



 白い砂は毒の砂。



 もう戻らない大地を恐れて逃げ出すものと、それを受け入れて死んでいくものと、どちらが正しいかなどラギイにも分からないし、何よりも、絶対的に正しい解答などどこにも用意されていないのだと、ラギイには分かっていた。

「父さんと母さんは、俺とリザを捨てたんだ。」

 夜を待ちながら、ティトが静かな声で語る。

 乾いた路地に二人は捨てられた。いくら待っても両親は迎えに来なかった。

「両親ですら、俺達を受け入れてはくれなかった。この町も、俺達を受け入れてはくれない。」

 町の人々はティトとリザを受け入れず、二人はずっと路上で生活していた。それすらも許さないかのように、白い砂が町を侵略していく。

 独白のように呟くティトに、アティラが鼻面を寄せる。アティラが大の子ども好きだということは知っていたので、ラギイはアティラの好きにさせていた。

「今更、どこに行けって言うんだよ。」

 風の音のように、雑音混じりに虚しく呟いたティトに、ラギイはかける言葉が見つからなかった。ただ、平静な目でアティラを見つめるティトの頭を、言葉代わりにぐりぐりと撫でる。大きく無骨な手に撫でられて、ティトが泣き顔で笑った。

「おじさん、変な奴だね。」

 変と言うのが、どうやらティトの最上級の誉め言葉らしい。

「まぁね。」

 誉められたことを察して、ラギイは少し目を細め、短く答えた。


 白い砂漠に風が吹く。細かい砂粒が、シェルターの滑らかな表面に当たって弾けていく。シェルターの中でも細かく白い砂粒が、空気中に紛れている。

 砂漠の夜は冷たく寒い。熱を保つ湿った土や木々や水がないため、気温は昼間とは比べ物にならないくらい激変し、零下にまで下がる。シェルターの中は比較的地面と近く、また、防砂設備はともかく、防寒設備はしっかりしているようなので、まだ肌寒いくらいですんでいた。アティラは寒さに弱い爬虫類なので、砂の中に潜って砂に残る熱で身を守っていた。

 ラギイはアティラの上に積んで持ってきた毛布でリザを包み、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げる。リザは驚くほど軽く、ラギイはやるせない気持ちになった。


 柔らかさすらない、小さな肉の塊。荒い息を繰り返す、死にゆくもの。


 マントを羽織ってシェルターの開閉ボタンを掘り出そうとするラギイに、ティトが片手でそれを制して素早くゴーグルと防砂マスクを持ってきた。ラギイは礼を言ってそれらをつける。ティトがリザの分の簡易マスクを持ってきたが、リザは虚空を見ながら微かに微笑み、首を振った。

「もう、いらないの。」

 その時、初めてラギイは彼女の声を耳にした。弱々しく掠れた声は、とても子どものものとは思えない。リザが防砂マスクをしないのに倣って、ティトもそれを付けずにシェルターの入り口を開けた。

 冷気が三人を包み込む。

 風が白い砂の形を波のように変えていく。まるで海がうねるように様々に形を変える砂の表面は冷たく、ラギイは寒さに身を振るわせた。ティトは寒さなど感じないかのように、平然とシェルターの入り口を閉め、砂の上に座り込む。

 地平線は長く長く伸び、舞い上がる砂の粒と低い空に見える星の見分けがつかない。見上げると細い月が、空に架かっていた。ラギイは砂の上に座り、小さなリザの体を膝の上に横たわらせる。彼女の小さな体は軽く、羽根のようだった。

 ラギイの呼気が白く染まる。


「リザ、ごらん。あれが君の見る、世界最後の月だよ。」


 ティトが呟くとリザが深く深く息を吐いた。その息は何故か白く見えない。

 リザはティトと良く似た濁った目を、ずっと中空に漂わせている。月を探しているのだと、ラギイには分かった。しかし、砂で傷付いた彼女の目には、もう月が見えないのだ。

 ラギイは冷え切った手でリザの両目を覆い隠す。そして、もう片方の手で防砂マスクを顎の下までおろし、ゴーグルも外して砂の上に落とした。

 冷たい夜の空気を吸いこみ、ラギイは歌うように言う。


「群青の夜空だ。思い出して。見えなくても、月は確かにある。」


 夜空を真っ直ぐに見上げ、ゆっくりと、ゆっくりと、絵物語を広げるように、ラギイは呟く。

「頭の上には群青の空。地平線には、風で飛ばされた小さな砂のような星が、ぽつぽつと見える。砂はうねり、常に違う地形を作っている。見上げると小さな星達が瞬くのが見えるだろう。強い光もあれば、弱い光もある。ちょうど、顔を少し上げたくらいの角度で見える位置に、細い月が架かっている。砂のように白くて、細い月だ。」

 言いながらラギイがリザの両目から手を外すと、彼女は濁った目で真っ直ぐに月を見上げていた。その目から透明な涙が零れる。

「ありがとう。」

 小さく呟き、リザは深く深く息を吐いた。

 そして、微笑むように目を閉じる。


 かしゃん、かしゃんと、乾いた音が響く。


 ラギイの膝に乗せていた毛布の上に、かしゃん、かしゃんと小さな白いものが転がっていた。

 それをみて、ティトが悲しげに微笑んだ。

 リザはもうどこにもいない。

 毛布の上には小さな小さな子どもの骨。

 その白さは月の光の中、冴え冴えとしてどこか冷たい。

 ティトがため息をつくように、呟く。

「なんだ、もう、死んでたんだね。」

 ティトの濡れた両目は、全てを悟ったとても静かな色を宿している。


「なんだ、俺も、もう死んでたんだね。」


 諦めたような彼の言葉に、ラギイは毛布をそっと地面に下ろし、立ち上がる。ティトに近付こうとすると、彼が必死に首を振ってみせた。

「おじさん、駄目だよ。俺、おじさんまで、連れていきたくない。」

 ティトの言葉の意味をラギイは汲み取った。


 行方不明になった旅人達。

 旅人を招き入れたティト。

 死んでいたことに気付かずに待っていたリザ。

 自分が死んでいたことに気付いてしまったティト。


 それらがパズルのピースのようにラギイの頭の中でしっかりと組み合わさり、一つの答えを導き出す。

 その答えを知りながら、ラギイはティトの前に歩み寄った。

 ティトの大きな黒い目に、涙が浮かんでいる。それを指先で拭ってやりながら、ラギイが言う。

「もう、いいんだ。最後の夜を、何回も、何百回も、何千回も繰り返す必要はない。もう、終わっていいんだ。」

 砂を吸い込んでラギイが咳き込むと、ティトが涙ながらに頭を振る。

 ティトの涙が零れて砂の上に落ちる。

 砂の上に水の染みは付かない。



 蜃気楼のように、幻のように、砂漠を渡るものを呼び寄せ、惑わす精霊がいる。

 それは、この地に伝わる、古くからの神隠しの伝説だった。その精霊は子どもの姿をしており、旅人を惑わし、死の世界に誘うのだという。

 その精霊は砂漠で死んだ子供が、死後に変容した姿だとも伝えられている。

 ティトとリザは、ずっとずっと、自分が死んだ夜の出来事を繰り返しているのだ。旅人を交え、旅人を道連れに、何度も何度も最期の夜を繰り返し、幾度も幾度も死ぬのに、その無念からか、子どもらは気付かぬうちに蘇り、また自分達の死んだ夜に舞い戻ってくる。

 彼らは自分達が死んだことすらも気付いていない。気付かぬまま永遠に自分達が死んだ夜に捕らわれて、助けを求めて旅人を呼び込み、道連れにして、悪夢のような夜を何百、何千と繰り返していたのだ。

 彼らの寂しさが人を呼ぶのか、人の寂しさが彼らを呼ぶのか。

 終わりなき夜は続いていることすら自覚させず、密やかに続く。



 自分の羽織るマントの中にティトを引き入れ、ラギイはしっかりとその小さな体を抱き締めてやった。その体は何故か、とても暖かい。その切ないまでの暖かさを壊さないように、ラギイは腕に込めた力を少し抜いた。

 少し自由になったティトは小さな両手で、ラギイの服の胸元を握り締める。

「……おじさんは、気にする?」

 涙の浮かんだ目を間近に見て、ラギイは躊躇いなくティトの痩せた両頬を両手でそっと包み込み、その小さな唇に口付けた。


 唇が触れ合うだけのキス。


 閉じたティトの睫毛が涙で濡れているのに気付いて、ラギイも目を閉じる。


 かしゃん、かしゃんと、乾いた軽い音が響く。


 かしゃん、かしゃんと、ラギイの足元に小さな物が落ちる感触が残る。

 その音の中、ラギイはティトの声を聞いた。


 ありがとう。


 鳴り続く骨の音。

 それが鳴り止むまで、ラギイはずっと目を閉じていた。

 静かになってからラギイが目を開けると、その両手の中には小さな子どもの頭蓋骨があった。汚れを知らぬ白く乾いたそれを見て、ラギイはその額の部分に軽く唇を寄せる。

「気にしないよ。」

 ラギイの声を聞くものは誰もいない。

 ラギイは防砂マスクとゴーグルを付け、その小さな骨をかき集めて、リザの骨と一緒にした。

 骨は二人分と言うのに、驚くほど少なく、軽い。

 乾いた砂の中にそれを、労うように丁寧に埋めてやる。

 それからラギイはその砂を見下ろしながら両手を一つ打ち鳴らし、左の拳を自分の胸に当てて、軽く会釈した。

 砂漠での別れの挨拶。


 彼らにとっての最後の夜。

 彼らの世界が終わる夜。

 白い月の下で、彼らの幾度となく繰り返した悪夢が、やっと終わった。


「本当は、俺の仕事は、君達みたいな子どもを、安らかに眠らせてあげることなんだ。」

 誰にともなく呟いて、マントを羽織りなおしてラギイはシェルターに戻っていく。

 ティトとリザがいつ頃死んだのか、幾度最後の夜を繰り返したのか、ラギイにも分からない。

 しかし、彼らが開放されたことだけは分かっていた。

 彼らが今後、旅人を呼びこむことはないだろうと思い、ラギイはその予想に満足してアティラの傍で眠りにつく。



 翌朝、ラギイはアティラに乗って出発し、半日かけてキャラバン隊と合流した。

 ラギイの予想通り、それ以後、白い砂漠でティト達に出会い、行方不明になったものはいない。


 彼らの行方は、月だけが知っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  白い砂に埋もれていく世界が、非常に幻想的に描かれています。風景描写であったり、会話の節々からも伝わってきました。砂トカゲに乗って砂漠を進むキャラバン隊というシチュエーションが、とてもいい…
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