……なん、だと?(絶望)……なんだと?(聞き耳)……なんだとっ!!?(超新星☆ムカおこエンドオブエンシェントジェノサイドブレイバァァァ!!)
パタン、と扉が小さな音を立てて閉まる。サリアがハンカチを目元にあてて、鼻をすすって出てきたのだ。顔を上げるとすでに廊下には夜の帳が下りていた。薄暗い静寂に包まれてはいるが、ランプの光が扉の左右を温かく照らしてくれていた。
呆然としていると、聞きなれた声がかかる。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
ランプを片手にリースが向かいの窓際で待っていた。サリアは目元を一度拭うと、顔をしっかりと上げる。
「お迎えご苦労様、リース」
「いえ、とんでもございません。それで、本日はいかがされますか?」
「いつものように」
リースは「かしこまりました」とお辞儀をした。暗がりの廊下をランプで照らしながら、二人は歩き出す。
二人分の足音だけが反響する廊下。歩き出して数分後、ランプで灯された扉の前に到着する。リースが扉を叩いてから開けると、朝日が照らすかのような強い光がサリアの視界を襲う。
「「お帰りなさいませ、お嬢様」」
煌々と照らされた室内から、二人の侍女が迎える。そこはサリアの執務室。
部屋の奥には茶色の大きな机。その手前には白のクロスがかかった低いテーブル。向い合わせで設置された若緑色の布地ソファー。隣には軽食が乗ったサイドテーブルが備え付けられていた。
サリアが室内に進み出て、ソファーに深く腰掛ける。ふぅ、と一息吐くと、すぐに茶器を用意する音が耳を届く。
「はぁ、もう自由は終わってしまったのね」
「はい。これからは貴族の時間ですよ」
机の隣に置かれたワゴンを見て、悲しげに首を横に振った。そこには今日一日で届いた十通以上の手紙。これみよがしに積まれている。
週に一度の自由な時間。この時間を作るのに、サリアは努力を惜しまなかった。
監理官として働く父や母の補佐。経営に口を出した事業主とのやり取り。一番手のかかる貴族と市井を繋ぐ斡旋業務。その手間は想像以上だ。貴族間、事業主間の立ち回りも慎重を期しなければならない。事業所の管理も徹底しなければならない。
誰もやりたがらない仕事をコンナート家は率先して手をだしていた。それは新興貴族ならではの悩みに近い。
「下級貴族は辛いわね」
思わず愚痴を零してしまう。だからではないが、次期コンナート家夫人であるカタリナの力になりたいと心から思っている。時々暴走して迷惑をかけてしまうが、許してくれるカタリナに心から感謝をしているのも事実だ。
「だからこそ、いなくてはならない存在です」
そう答えながらリースは、サイドテーブルにミルクティーを置く。それはサリアと同じ髪色。少し多めのミルクで白さの目立つ紅茶だ。
ふふっ、とサリアは小さく笑った。怒られて落ち込んでいる、と思われたのだろうか。リースなりの励ましに、心がじんわりと温かくなる。
「期待には応えたいわ」
ソーサーを手に取り、持ち上げた。カップを持って水面を少し揺らすと、目でそれを楽しんだ。
「一休みしたら、また頑張るわね」
一口、二口とミルクティーを飲む。優しい甘みと温かさで満たされていく。
まだ、大丈夫。優しくも甘いそれらが包み込んでくれる限り。前を向いて、諦めずに進んでいける。
エリオットと会える日があるだけで、日常の全てを乗り越えられた。サリアの夜は始まったばかりだ。
◇
そして、その日がやってきた。
「えっ……今、なんとおっしゃって」
「もう、ここには来ないで欲しい」
バサッと音を立てて、サリアの手から紙の束が床に滑り落ちた。その顔は驚愕して、目を見開き固まっている。一方で視線を反らし、気まずそうに眉間に皺を寄せるエリオット。
対照的な二人。それが余計に、事態の停滞を招く。
あれから一週間。サリアはいつも通りエリオットを訪ねた。始めは楽しげに会話をしていたのだが、突然エリオットが黙り込んでしまう。心配して近づくサリアに、絞り出した声で先ほどの台詞を言った。
サリアは未だに信じられなかった。何度もエリオットの言葉が頭の中で反響して、痛む。
(何か言わなきゃ。何か、何かっ)
笑おうと精一杯口角を上げようとした。戸惑う気持ちを押し殺そうとした。何を言われてもめげないと決めていた。
――――――冗談だと、聞きたかった。
少し震えた唇は辛うじて言葉を繋ぐ。
「あっ……エ、エリオット様は、お疲れなのですね」
「……それはっ」
上手に笑えた。反射的にエリオットが顔を向けてくる。何か言いたいような、言いたくないような……複雑な表情をしていた。
少しずつだがサリアの心が落ち着く出す。
「数か月前から毎週のように通えば、お体も休まらず……辛くなりますもの」
「違うっ……僕が言いたいのはっ!」
「ふふっ、気遣って下さってありがとうございます。今日は、お暇いたします。またお会いいたしましょう」
「サリア嬢っ!」
逃げるように立ち上がり、お辞儀をした。エリオットは止めようとするが、サリアはあっという間にカバンの中に入ってしまう。
クライムがそれ幸い、とばかりにカバンを肩にかけた。「失礼します」と礼をすると、すぐにその場を立ち去る。
呼び止めようとエリオットが手を伸ばす。だけど、声が出なかった。胃への急激な圧迫感が襲ってきたからだ。寝台に寝転がり、暫く身を縮こませる。
痛みが薄れたのは、しばらく後のこと。その頃には、全身から噴き出た汗で肌が濡れそぼる。
何も考えたくない。無心になって天井を見上げた。それでも、脳裏に浮かぶのは――――――サリアの泣きそうだった笑顔。どうしても頭の中から消えてくれない。
「……最低だな、僕は」
今頃になってどうして、こんなに彼女のことを思い出すのだろう。色々と尽くしてくれていたのに、その気持ちを酷く傷つけたのは自分自身だ。しかも、傷付けた理由がろくでもない。
彼女の想いが眩しすぎた。
両手で顔を覆い、指を食い込ませる。
(このまま、いなくなってしまいたい……)
それでも自由になることはできない。
◇
廊下を進むクライム。歩みを止め、周囲に人がいないことを確認する。それから、カバンにささやきかけた。
「サリア様、大丈夫でございますか?」
ピクッとカバンが揺れ動くと、ゆっくりチャックが開いていく。中から180度近く首を曲げ、サリアが悲しげに見つめた。
「ヒィッ! や、止めて下さいよ、それ!」
「うぅ、だって……だってっ」
驚きと恐怖でクライムの顔が歪んだ。サリアはサリアで、素直に顔を元の向きに戻す。後頭部を晒しながら、くぐもったすすり泣きを始めてしまった。
「サ、サリア様。だ、大丈夫ですよ! エリオット様が理由もなしに、あんな酷いことを言うはずありません!」
「で、でも……どういった理由が?」
居た堪れなくなり、力を込めて励ました。でも、励まされてもサリアには疑問ばかりが浮かぶ。二人が黙り込み、考え始める。
その時、こちらに近づく複数の足音が聞こえてきた。慌ててサリアはチャックを閉じ、クライムは姿勢を正し歩き始める。
正面の角を曲がり、どんどん近づく足音。遠目からだが、その人物が分かった。
明るい茶髪を後頭部でまとめ、金や宝石で製作された眼鏡をかけている。シックな黒のAラインドレスを着こなす、ミーティア夫人だ。二人の侍女と執事、息子のヨハンを連れていた。
夫人はクライムに気づき、早速嫌味を言い始める。
「あら、こんな時間に珍しい。部屋にこもって出てこなければ宜しいのに」
「……はい、今日の分が終わりましたので」
会って早々、嫌悪を隠しもしない。クライムは少し腰を折り、視線を下ろした。掴み所のないその姿勢を見て、怪訝な顔をしながら続ける。
「ふん、当主様とコンナート家は何をお考えなのかしらねぇ。あの気持ちの悪い小娘のためでしたら、許さなくてよ」
あー、やだやだ! と、大げさにまくし立てて周囲に同意を求める。侍女と執事は曖昧に頷き、ヨハンは無表情に床を見つめるだけだ。それから一つ重いため息を吐き、ここぞとばかりに悪態をつく。
「部屋に閉じ籠ってばかりで、何もしない生活は羨ましいわ。次期当主としての心構えなんて、全くないくせにね。長男に生まれたからってだけよ、あれは。先に私のヨハンが生まれてこれば、誰も跡継ぎで悩まなくて宜しいのに。ねぇ、ヨハン?」
「はい、母上の仰る通りです」
「良い子ね、ヨハン。早く、くたばってしまえばいいのよ。あんな出来損ない」
憎々しい、と顔を歪ませて吐き捨てた。
夫人の言葉に誰もが息を呑んで、緊張からか声を上げられない。死ね、と大勢の前で言うのが初めてだからだ。コンナート家との内密なやり取りが、夫人の怒りや憎しみを高めてしまっていたようだ。
重い空気が漂い、沈黙が続いた。それを打ち破るのも、夫人だ。この状況に笑みを浮かべ、歩き出す。クライムの隣を通り過ぎる時、とあるお願いをする。
「危篤になったら一番に教えて頂戴ね、クライム。夜会用のドレスで見送って差し上げます。勿論、終わったらパーティーを開かなくてはね」
一番の微笑みを浮かべて、夫人はその場を去っていく。慌てて他の者たちが追いかけるが、皆一様に暗い表情を浮かべていた。
一人残されたクライム。手が白みを帯びるほど、カバンの取手を強く握りしめる。
◇
「ケートス商店に至急連絡いたします。しばらくお待ち下さい」
クライムはいつもの場所にカバンを置くと、足早に去って行った。残されたのは黒革のカバン。誰も見向きをしないそれは、そのまま放置されて時間が過ぎていった。
そこに近付く足音がある。
「あぁ? 今日はやけに早いな。……くっそ! 邪魔くせぇ」
料理長のルーベルトだ。不機嫌な態度を露わにして、行く道を塞ぐカバンを一蹴りした。衝撃を受けてもカバンはビクともしない。
中に何が入っていて、両当主は何を考えているのか。いくら考えても答えは出ない。不穏な影は数か月前から続いていて、ルーベルトの疑心が高まり不愉快にさせる。
「ったく、目障りだな。ミーティアの奴も早くやればいいんだよ」
舌打ちしながら、調理場の扉を開けた。
「毒なんて止めちまって、さっさと殺してしまえばいいんだ」
バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。人影が一切ない廊下は閑散としていた。
ただ一つ、カバンだけがそこに存在している。
◇
「お嬢様、お疲れ様でした」
数時間後、カバンはケートス商店に戻ってきた。応接室まで運ばれた後で、ようやくグレイは声をかける。本来ならすぐにカバンが開くはずなのだが、中々開かない。
「……お嬢様?」
思わずもう一言、声をかけてみた。すると、ようやくカバンがゆっくりと開く。
開けられたチャックから、熱い蒸気が立ち上がる。ほぼ密閉されたカバンの中は蒸れていた。
中からゆらり、と揺れながら立ち上がるサリア。髪の毛とワンピースは湿り気を帯び、崩れた三つ編みは首筋に吸い付く。顔は俯いたままで、表情が伺い知れない。
それでも、サリアの体が震え出したのが分かる。
息遣いが荒くなるのが分かる。
手をきつく握り締めているのが分かる。
ゆっくりと持ち上がる、顔。前髪の隙間から覗くその目は――――――
「絶対に許さない」
怒気に満ち溢れていた。