諦めて恋心
机の上には、装飾が施された木製の小箱がある。
手がゆっくりと伸びて来た。パカリ、と開いた中には皺の寄った手紙。それと銀のチェーンが通された銀の指輪だ。とても大切に保管されていた。
「……返さないとね」
箱の中身を見下ろすのは、持ち主のサリア。慈しみにあふれた視線を下ろしているが、その表情はどこか寂しげだ。
指輪に触ろうと指先を伸ばす。おそる、おそる。だが、指先は止まった。触れる直前で思い止まってしまう。指先を隠すように力なく握った後、そっと箱の蓋を閉めた。
「駄目ね。しっかり、しないと」
弱々しく首を振り、小さく呟いた。
箱を手に持ち、部屋を見渡す。
机の上に書類が乱雑に置かれ、資料の乗ったワゴンが壁際を占領していた部屋だった。今では綺麗に片づけられ、机の隣に一台のワゴンがあるだけ。乗っているのは手紙の束。以前と同じ日常がそこにあった。
それは今の恰好にも現れる。
藤色のワンピースに淡い灰色のショールを羽織り、緩くまとめた淡い亜麻色の三つ編みが背中で揺れる。下級貴族に相応しい、控え目な格好だ。目立たず、影に徹することができるもの。着飾るものは一切身に着けていない。
あとは気持ちを固めるだけ。箱を持つ手に少しだけ力を込めて、扉に向かって歩き出す。
「ひと月経ったんだもの、大丈夫よね」
言い聞かせるように呟き、扉の取手に手をかけた。
◇
廊下を通り、階段を下りる。
その間にすれ違う使用人たち。皆、複雑な表情を浮かべて見送っている。声はかけられないが、視線で留まって欲しいと訴えていた。しかし、サリアは全ての視線を見て見ぬ振りをする。つき従う侍女リースが訴える視線すら、どこ吹く風だ。
颯爽とエントランスに赴き、開いていた扉から外へ出た。
「お姉様!!」
外へ一歩踏み出すと、正面でカタリナが腕組をしていた。これから乗る馬車の出入り口を塞ぐように、仁王立ちしている。とても怒っている様子で、強い口調で問いただす。
「本心なんですか!? エリオット様を諦めるなんて、絶対に嘘でしょう!?」
あの日から毎日、カタリナは詰め寄っていた。だが、欲しい返答が聞かれないままこの日を迎えてしまう。それでも、その目は信じていない。
しばらく見つめ合うと、カタリナの目に動揺が見られ始める。サリアはそれを見逃さなかった。
「大丈夫です」
いつもと同じ、柔らかく微笑んだ。
「自分で就職先、見つけますから」
「ですから! そうやって、はぐらかさないで下さい!!」
表情は変えず、ふざけて言い切った。
これにカタリナは怒り、地団駄を踏んで睨んだ。一方でサリアはあらら、と困ったように頬に手を当てるだけだ。
いつもなら、これで気が逸れたカタリナが諦めてくれる……はずだった。
「……もし、もしもです。そうなってしまった時は、お姉様がここに残るべきです」
はぐらかした話題を続け、食い下がった。まだ話し合いを止める気はない。時間稼ぎをして蒸し返すつもりだ。カタリナができる、精一杯な言葉の反抗。
「コンナート家としては、カタリナが相応しいでしょう。私の場合、ラインハーツの血が強いですから。相応しくないです」
しかし、ばっさりと切られる。
「お姉様!!」
思わず声を上げて、すぐ目の前まで詰め寄る。少しだけ見上げた目に怒りを込めるが、次第に潤み出してしまう。サリアは気まずそうに視線を外し、カタリナの肩に手を置く。
「……お願いです。ここで待っていて下さい」
らしくない態度だ。それが余計に火に油を注いだ。
「お姉様の馬鹿っ!! 私は……信じないで待ってますからね!!」
いつも信じてくれていた。だけど、今回は頑なに信じない。何年も近くで姉を見てきた妹だから、余計に強く思っている。
カタリナの思いを背にして、サリアは逃げるように馬車に乗り込んだ。その時、足がもつれてしまう。態勢を崩し、思わず箱を手離してしまった。
「あっ!」
両手を差し出し、態勢を崩しながらも宙で受け止めた。なんとか落ちずにすんだ。
「……ほっ」
心からの安堵をした。
その感情に気づき、緩んでいた表情が複雑に歪められる。辛そうに目を固く閉じ、首を強く振った。
「これは返すものだから。壊れたらいけないもの……だから」
自身の感情に言い訳をした。だけど、それが余計に想いを助長させる。高ぶる想いが苦しくて、自然と唇を噛み締めてしまう。箱を持つ手にも力が入ってしまっている。
「……しっかり、するのよ。決めたんでしょ」
叱咤してから、座席に腰を下ろす。開いた目には動揺は見られない。頑ななサリアがそこにいた。
様子を見ていた御者が、複雑な面持ちで扉を閉める。馬を打つ音で馬車はとうとう動いてしまう。その足取りは重く、でも確実にダダルク邸に近づいていく。
◇
「お招き頂き、感謝申し上げます。エリオット様」
室内に一歩進んだ場所。サリアはワンピースの裾を持ち上げ、淑女の礼を取る。
「今日という日を心待ちにしていたよ。さぁ、座ってくれないか」
重い腰を上げ、立ち上がるエリオット。目の前に用意されたテーブルに手を差し伸べ、着席を促した。
顔を上げて、その姿を視界に入れると――――――息が止まる。
白いワイシャツに、亜麻色のスカーフが垂れ下がり。濃藍色の上着を羽織っているせいか、温かな表情が魅力的に引き締まって見えた。
久しぶりに見る凛々しい姿に、胸が高鳴って全身が熱くなる。諦めようと思っていても、まだ恋は終わっていない。サリアはこみ上げる熱に堪え切れず、視線をテーブルへと移す。
真っ白なテーブルクロスがかけられた、赤茶色の丸テーブル。同色のイスには深緑色の柔らかそうな布地が張りつけられていた。その傍にはクライムもいて、穏やかな笑みを向けている。
視線を外したおかげで、なんとか気が静まったサリア。平常心を保ちつつ、近づいていく。すると侍従クライムがイスを引き、導かれるままに腰を下ろした。
「お茶を淹れさせて頂きます」
見計らったようにメイドが現れ、ワゴンをクライムの隣まで押してきた。クライムは慣れた手つきでポットにお湯を注ぎ、しばらく蒸らす。その間、無音となる室内。数分のことだが、サリアの荒れていた気分を落ち着かせるには十分だった。
時間を計っていたクライムが、ポットからカップに紅茶を注ぐ。紅茶の香りは湯気に移り、宙で消えて広がった。香り高い紅茶の匂い。
無音と匂いが、サリアの頑なな心を解していく。固くなった表情すら緩んでしまいそう。
「では、ごゆっくり」
「あぁ、ありがとう」
カチャリ、とソーサーと共に置かれたティーカップ。クライムがゆったりとお辞儀をすると、少しだけ足早に部屋を後にする。音もなく扉を閉められ、あっという間に二人だけの空間になった。
久しぶりの対面に、顔を直視できないサリア。視線をずらし、戸惑いながら口を開く。
「……お体は大丈夫ですか? ソファーに座り直された方が」
「ドーグ先生の指示の中で生活しているおかげか、体調が良くなってきているんだ。だから、イスでも大丈夫」
穏やかで優しい声色。切望していた声に視線が惹かれてしまう。ゆっくりと視点が動いて、顔を見る。久しぶりに直視する顔に、目が離せなくなった。
痩せこけていた頬が少しだけ膨らみ、色白だった肌に少しだけ血が通っているように見えた。復調したのは本当らしい。確認できただけでも、サリアは内心ホッとした。
その時、エリオットの目を優しく細められ、緩やかに弧を描く口元。鼓動が激しくなる。
「ところで、今日は張り切って着こなしてみたんだけど……どうかな?」
「お、お似合いだと……思います」
そうか、良かった……とエリオットは柔らかい笑みをした。まるで、花開く瞬間。
心揺さぶられる笑顔に、胸が締めつけられる。とっさに俯いて視線を外すが、こちらを見つめている気配がして落ち着かない。気を紛らわすために紅茶を飲もうと、両手をテーブルの上に出す。
「そういえば、以前渡した指輪は……つけてないんだね」
「そ、それはっ……」
気まずい話題に勢い良く顔を上げた。が、すぐにぎこちなく顔を下に向ける。小箱は部屋に入る前に一度使用人に預け、今は用意されたサイドテーブルの上に乗っていた。
サリアは小箱に視線を向けた。これから言わんとすることを考え、緊張する。ゴクリ、少し震える唇が言葉を漏らす。
「今日は、その指輪を……お返ししようと」
意を決したように言うが、俯いたままで説得力に欠ける。だからだろう、エリオットは動揺しない。
「どうして? あれは貴女にあげたものだよ」
「でも、あれは……」
率直に尋ねられ、言葉が浮かばない。言い訳しようとも、口から言葉が出ない。机の上で手を力なく握る。
指輪なんて恋人に贈るもの。
恋を諦めるのに、つけられるはずがなかった。
(そうよ、私は……)
握った手に力がこもる。
その手に優しく添えられる手。それだけで力が緩んでいく。触れ合う肌の温かさは、頑なな心を緩やかに溶かしていった。
「僕を見て」
惹かれて顔を上げてしまう。
真剣な眼差し。目が合い、もう視線を逸らせなくなった。
高鳴っていく鼓動が熱を上げる。頭の中まで熱で犯され、何も考えられなくなった。息が詰まりそうになりながら、言葉を待った。
熱を宿した眼差しが向けられ中、その口が想いを紡ぐ。
「あの指輪は僕の覚悟と、気持ちそのものだよ」
うるさく鳴っていた鼓動が跳ねて、一瞬止まる。
体は震え、口も震え、目は驚きで見開かれた。
想いは、決壊する。
「やっぱり諦めるなんてっ……ムリィィィ!!」
突然叫び出し、重なっていたエリオットの手を鷲掴む。その手に凄い勢いで、頬擦りをし始めてしまった。
「好きすぎて、辛いぃぃぃぃっ!!」
「はやっ」
二人の本音が早々に漏れてしまった。
サリアは我慢に我慢を重ねた結果、歯止めが効かなくなっているし。
対してエリオットはサリアの奇行もなんのその。平常心で受け止め、好きなようにさせていた。
小声でサリアに呼びかけるが、全く反応を示さない。世界に浸りすぎて、戻れなくなってしまったようだ。
「最後に会ったあの日、いつもと様子が違うなって思ったんだけど……」
的が外れた、と苦笑いした。
それなりに長いつき合いのエリオット。確信はなかったが、何か思い悩んでいると見抜いていた。今日は時間をかけて悩みを聞き出す予定だったのだが……開始早々なくなってしまった。
「サリアらしいというか、なんというか……」
呆れて溜め息が自然と出ていく。でも、その目はとても優しく細められていた。
イスから立ち上がり、サリアの隣に移動する。頬擦りされていない方の手で、今度は慰めるように背中を擦り始めた。
「ほ、ほら。いつまでも泣いてないで」
「優しさが痛いぃぃぃっ!!」
今度は顔を両手で覆い、大泣きを始めてしまう。その間も落ち着けようと、優しく背中を撫でたり叩いたりしている。が、泣き止む気配はない。
どうやれば、落ち着くのだろうか?
エリオットは考えた後、少し気恥ずかしそうな表情をした。それからサリアの後ろに回り込み、そっと抱き締める。
驚いたサリアの泣き声が止まった。
「ちゃんとお話しできるよね?」
子供に言い聞かせるように、優しく問い掛けた。サリアは涙を拭きながら、何度も頷く。
「はいぃぃぃっ……」
了解しつつも温もりに酔いしれ、話すまでに時間をかけてしまうのだった。




