殺意の証明~悲劇の快楽に溺れた女~
放心状態の夫人。その表情は、虚無そのもの。何もない宙だけを見つめ、床の上にへたり込んでいる。誰も声をかけない中、マクスウェルだけが動く。肩に手を置き、声をかける。
「ミーティア・ダダルク。貴女を連行します」
擁護側からの一転。
統一王の金印を前にして、今までの立場を潔く捨てる。関係者たちが見ている前で、あからさまに立場を変更した。王家憲兵は統一王のために存在している、と言わんばかりだ。
これで夫人を守る存在はいなくなった。こうなってしまえば、夫人はどうすることもできない。関係者たちは複雑な思いで、夫人のいく末を見守る。
それで話は終わるはずだった。
「全部……」
夫人が呟く。とても小さな声。ゆらりと上げた顔は影がかり、悲壮感を匂わせる。だが、その表情は怒りで醜く歪んでいた。
「全部、あんたのせいだっ!!」
突然立ち上がり、駆け出す。サリアに向かって、一直線に飛びかかろうとした。
「これ以上、罪を重ねるな!」
それを止めるのも、マクスウェルだ。先程までの献身的な態度は消え去った。羽交い絞めにしてみるが、予想以上の力に体が揺さぶられてしまう。夫人は最後の力を振り絞り、抗うことを止めない。
整えられた髪は乱れ、ドレスには皺が寄る。顔は憎悪で充ちていた。
「あんたさえ、あんたさえ……いなければっ!!」
怒りの矛先はサリアだ。唾が飛び散らせながら叫ぶ。積年の恨みをぶつけるようだ。
対してサリアは冷静に夫人を観察していた。夫人をここまでさせた理由を、未だ見つけられていなかったからだ。少しでも夫人の姿から真意を探ろうとする。
その時だ。
「これ以上、サリア嬢を陥れるのはやめてくれっ!」
突然に響いたエリオットの声。
皆が驚いて振り向いた。エリオットは震える足で立ち上がり、ふらつく体のまま夫人に近づいていく。怒りなのか、悲しみなのか。その表情は複雑に歪められていた。
「一番に憎いのは、僕だろう!? なら、僕を罵ればいい!」
サリアを庇おうと矢面に出た。これ以上自身のせいで、サリアが罵られる状況を見ているのが耐え難いのだろう。満足に動けない体で夫人の前に立ち塞がる。
睨み合う両者。その背後でサリアは心配そうに見守っていた。
夫人の返答は――――――
「憎い? 一番憎いのは、そこの高慢な女だよ!!」
夫人の言葉にほぼ全員が驚いた。
今までの行いは全てダダルク家を陥れるため、と誰もが思っていたからだ。そういう噂も立っていた事実もあってか、一様に不可解だと顔をしかめる。
それはサリアも同じ。驚いた表情を引き締めると、エリオットの背後から夫人の前へと進み出た。心配げなエリオットの視線を受けながら、怒りを堪えて真意を探ろうとする。
「では、私が憎かったからエリオット様を殺害しようとしたのですか? 私は一度も夫人に対して、不利益になることはいたしておりませんが」
「不利益? あんたの存在そのものが不利益だよ!!」
質問が悪かったのか、欲しかった答えはない。ただただ憎い。歪んた感情だけがぶつけられるだけだ。理由は誰にも分からない、と怪訝に顔を歪めた。それが夫人の癇に障る。
「身分も立場も弁えない、庶民の血が混じった偽物の貴族が……粋がってるんじゃない!」
「……私が庶民の血が混じった貴族であり、由緒あるダダルク家に近寄ったことへの妬みでしょうか?」
庶民への差別は今も根強く残っている。新興貴族には元庶民の血筋が多い。歴史の長い貴族からは、差別を受けている新興貴族もいる。モルクティルク家は元東の国では歴史ある貴族。庶民には厳しい家柄だったという。
サリアはその線で考えていた。しかし、夫人は全く別の話題を出す。
「そんな当たり前なことじゃないさ。あんたが立場も身分も弁えず、恋だのと浮かれているのが……憎らしくて堪らないんだよ!」
頭を抱えて、今度はその場にへたり込んだ。それから胸の内を吐き出すように話し始める。
「二十歳になる前にダダルク家に嫌々嫁がされ、自由な恋を諦めざるえなかった。好きでもない男に抱かれて、望まない子まで産まされたわ。私がこんなに悲劇的なのに、どうして庶民の血が混じったあんたが幸せを掴むのよ!」
こんなに悲惨な境遇だった、と切実に訴える。家柄で優っているのに庶民の血が混じるサリアに対し、強い劣等感を抱いていた。
「十歳の交流会で見たあんたの嬉しそうな顔が、今でも憎らしい。ろくでなしにはお似合いだけど、身分が違いすぎるのも嫌だった。私だけが報われないこの世を、どれだけ恨んだか。自由なあんたを見ていて、どれだけ憎らしかったか。あんたには分からないでしょうね!」
きっかけは二人の出会いとなった、十歳の交流会。二人の仲睦まじい姿を見て、強い焦燥感が生まれる。それを周りの貴族が煽った。
――――――可哀想なミーティア、と。
その時、なんとなく流されて生きていた夫人に強い思いが生まれた。自分は可哀想な貴族なんだ、と。だからこそ、自分は報われるべき存在だ、とも。
「お友達は私のことを何度も慰めてくれたわ。可哀想なミーティア、仕返ししてやりましょうって。だからダダルク家も、ろくでなしも、望まない子も懲らしめてやったのよ! 私の人生を悲劇にした奴らは、生きて地獄をみればいいわ!」
周囲にいたお友達は、夫人に優しく甘い言葉をかけ続けた。可哀想、悲劇、無慈悲。夫人は報われるべきだ。仕返ししてやれ。
いつの間にか、ダダルク家とその血筋を恨むようになる。自身が悲劇だったように、ダダルク家の者たちを悲劇に陥れた。
全ては報われない夫人の優越感を充たすため。
「何にも縛られない自由は素晴らしいわ。家のことを気にしない言動や行動は、気持ちがいい。夜会に出ては、男だって好きなように漁れた。ようやく、報われた時が来たのよ。特にあんたらを引き裂くのは楽しかったわ! 私の報われなかった恋心が報われた気がしたわ」
お友達を渡り歩いては、好きなように振る舞い。夜会に出席しては、男を漁っていた。好きなようにすればするほど、焦燥感がなくなっていく。それは快感に近いものだった。
その中でも、二人の逢引を邪魔するのが堪らなく愉快。自分は報われなかった。だったら自分よりも家柄と血筋で劣るサリアも報われないはずだ。
怒り、悲しみ、笑い。
夫人の表情は様々に変化し、要領を得ない。正しく憎むべきものを見落とし、関係のないサリアを一番に憎むべき対象だと思い込んでいた。ただ一つ、恋という共通点だけで自己投影している。
夫人の様子は明らかに常人ではない。
そんな夫人に声がかかる。
「何を言っているんだ」
エリオットだ。真顔で夫人を見つめ、思わず言葉が漏れ出してしまった。だが、表情にだんだんと怒りがにじみ出て、今まで溜めた思いを吐き出す。
「貴女の意思で嫁いで来たと聞いていた。それに僕らはできる限りの歓迎して、受け入れたはずだ。父上も大切にしようと努力していた。それなのに、自分だけが報われない?」
統一王の勅命だとしても、どこの誰でも良かった。対立していた家柄であれば。その中でモルクティルク家が名乗り出て、夫人の了解を経て婚姻が結ばれる。あくまで強制ではなく、任意ある婚姻だったのだ。
それをエリオットは知っていた。だから、夫人の言っている矛盾に怒りを感じる。手を握り締め、気力を振り絞って怒鳴り散らす。
「多少の我が儘は全て通って、不自由ない暮らしだった。婚姻を止めることだってできたはず。そんな中で貴女は突然変わった。聞く耳も持たず、話し合うこともしない。貴女の望むままにダダルク家は動いていたのに。なぜ、報われないと言えるんだ!」
実母を内乱で亡くし、物心ついた時に継母が現れた。父と一緒に寂しさを押し殺し、悲しみを呑み込み生きてきた。病気がちな体では、外出して交流を深めることができない。どうしようもない孤独の中で、エリオットは生きてきた。それだけではなく、名もなき病気に苦しめられた絶望の日々が追いうちをかけた。
自棄になりながら懸命に生き、ようやく掴みかけた幸せがある。もう離したくはない。未来への光で輝きだした目を向け、真向から夫人の言葉を否定する。
「報われないからといって、何をしても許されるのか!? 僕らは貴女の未練を慰める人形じゃない!」
過去の自分を乗り越え、未来に進むことを決めた。それがサリアの手のおかげだとしても、立ち上がろうという意思がなければ立ち上がれない。
否定的な言葉を受け、夫人の顔から表情が抜け落ちる。そこへ、意を決した様子でヨハンが夫人に近寄る。二人の距離は三歩ほど開けられ、心が離れてしまっていることを表していた。
「私は望まない子、だったのですか?」
夫人の拗らせた考え方のせいで、感情表現のない子に育ててしまった。じっと真顔で夫人を見るヨハンだが、夫人の目にその姿は映らない。ヨハンという形だけの姿を捉えて、呆然としているだけだ。
「ヨハン……」
堪らずエリオットが近寄って、後ろから抱きしめる。そのままゆっくりと二人で退き、サリアの隣まで移動した。サリアもヨハンが気になっていたのか、慰めるように頭を撫でる。ヨハンは顔を俯かせ、そっとワンピースの裾だけを握り締めた。
サリアの周りにだけ集まる人。それが夫人の劣等感をさらに刺激する。
「どうしてあんたばかり!」
叫び声を上げた。頭を抱え、激しく頭を振る。
「なんで、私だけが報われない!? どうして、家柄も血筋も劣るあんたが報われる!? 私はこんなにも悲劇的なのに、どうして!?」
「どうして? それはこちらの台詞ですよ」
サリアの顔から愛想笑いが消え去った。怒りで鋭くなった目で、真っすぐに夫人を見つめる。
「夫人はどうして諦めたのですか? 一言の勇気があれば、未来は変わっていたはずです。時代は変わり、貴族のあり方も変わりました。自分の生き方は、自分の意思で変えられたはずです。だから、貴女に責められ恨まれる理由がありません!」
言葉でばっさりと切り捨てた。
報われないと嘆く夫人とは対照的なサリア。何か一つ行動をしていれば、何か一言でも訴えていれば変わったかもしれない。変えられたかもしれない未来なのに、ただ悲劇だと嘆いて浸っていただけだ。そのせいで、どれだけの人たちが苦しみもがいていただろう。
なぜ、そんなことでエリオットが殺害されそうだったのか。それが一番に許せなかった。
高ぶる感情を抑え。今にも殴りかかりそうな衝動を押し殺し。きつく手を握り締めて、堪えながら訴える。
「私は最後まで諦めなかっただけ。夫人、貴女は諦めてしまったのです。心地いい言葉だけ聞き入れて、それ以外は全て目を背け、耳を閉じていました。悪いのは、貴女の決意なき意思です!」
責められ、恨まれるのは自分ではない。恨みの拠り所を真向から否定した。
「違う!! 悪いのは私じゃなくて、こんな境遇にした人たちよ! 報われるはずなのは私であって、この家じゃない! あんたでもない! 私は、私は!!」
一番に拗らせていたのは、夫人自身だった。
手に入れたかったのは、一体なんだったのか? 夫人には答えが分からない。ただ分かっていることは、憎らしい。それだけだ。今では何が憎かったかも、正しくは分からなくなってしまっている。
夫人の嘆きは誰の心にも響かない。一人で喚く夫人に向かって、サリアはワンピースを摘まみ上げ淑女の礼をとる。
「ごきげんようミーティア夫人。もう会うことはないでしょう」
この悲劇を終わらせるため、サリアは別れの言葉を伝えた。




