諜報令嬢ラストミッション 後編
二人がたどり着いたのは誰もいない応接室。ミーティア夫人の部屋から二部屋離れた位置にある。
「すいません。ここまでしかお運びできなくて」
袋から出たサリアに向かって、メイドが頭を下げた。この先の廊下は、ミーティア夫人の私的な空間ということになっている。何人足りとも進むことは許されなかった。
「いいえ、予想はしてましたし大丈夫です。私にはこれがありますので」
手に持ったカバンを持ち上げる。少し膨れたカバンを開くと、二つの鉤縄が出てきた。メイドは訳が分からず首を傾げる。
「まぁ、見ていてください」
そう言ったサリアはカバンを背負い、窓に近づく。音を立てないように全開にすると、窓枠に乗りかかった。それにメイドは驚く。慌ててサリアの腕を掴んで、落ちないように支えた。
「あ、危ないですよ! ここは三階です!」
「心配してくれてありがとうございます。でも、私はやるわ」
メイドの手を優しく離し、片手で鉤縄を持つ。視線を上げて、邸宅の外壁を確認する。隣の部屋は窓だけ。ミーティア夫人の部屋の前はベランダがある。距離にして五十メートル以上は離れていた。
地上を見ると、離れた位置で王家憲兵が見回りをしているのが見える。悠長にしている時間はなさそうだ。
「いけるわ」
「嘘っ……や、止めてください! 落ちたら軽い怪我では済みませんよ!」
サリアの言葉にメイドは顔面蒼白になる。すがって懇願するが、優しく体を突き放された。驚愕した表情を浮かべるメイド。
不安に思わせ、少しだけ痛むサリアの良心。少しでも気が楽になるように、と冗談を言う。
「私がダダルク伯爵夫人になったら、もっと驚くことを体験できますよ」
マスクの下から覗く口元は楽しそうな弧を描く。もう、メイドは何も言えなくなった。ただ心配そうに胸元で手を組んで見守っている。
それだけで十分。
一度深呼吸をして、道なき道を真剣な表情で見つめる。ゆっくりと鉤縄を回し、隣の部屋めがけて投げた!
勢い良く飛んでいく鉤縄。窓を通り越した直後、力一杯に引く。引かれた鉤爪は、窓枠の内角に食い込んだ。
「こんなものかしら」
縄をピンと張らせ、持ち手となるところに輪を作る。もう一つの鉤縄は片方の手に巻きつけ、しっかりと鉤爪を握った。
もう一度深呼吸をする。全身に力を入れて、ぐっと息を止めた。
――――――そして、窓から落ちる。
縄を必死で掴み、壁を駆け降りた。放射線状に下がり、一番下までたどり着くと今度は駆け上がる。その時、もう一方の鉤縄を投げた!
真っ直ぐにベランダに向かい、鉤爪は柵に絡まりガッチリと噛み合う。その感触が分かった途端、もう片方の鉤縄を捨てた。
体重は移動し、ベランダにかかる鉤縄へと変わる。両手でしっかりと縄を掴む。壁を走った勢いを殺せなくて、大きく揺れた。
前後に揺れるサリア。それも次第に収まりを見せると、縄を片足に絡ませた。腕と足の力を交互に使い、するすると縄を登り、とうとうベランダに降り立つ。
緊張が途切れたのか、一瞬体から力が抜けた。今頃になって震え出す体。じんわりとにじみ出る汗。サリアはしばらく動けなかった。
ふと、メイドが気になり振り向く。メイドは興奮したように窓から身を乗り出し、腕を振っていた。そこでようやく無事に成功した、と強く実感する。サリアも軽く手を振り返し、心に余裕が出来た。
気を引きし直すため、深く深く息を吐き出した。
(とうとうたどり着いたわ)
視線をベランダの窓に向ける。真っ黒なレースカーテンで隠され、中の様子ははっきりとは分からない。
だが、おかげで助かっていることがある。今のサリアは全身黒だ。レースカーテンは丁度いい隠れ蓑になっている。
足音を立てないように近づき、窓に耳を押し当てる。神経を研ぎ澄まし、中の様子を耳で窺う。
(誰もいないようね)
物音一つ聞こえなかった。取っ手に手をかけ、引いてみるが開かない。今度は窓の隙間を覗き込み、中の鍵の形状を確認する。
(一般的なかんぬきの原理ね)
良くあるスライドさせて開ける仕組みの鍵だ。サリアはカバンを下ろし、中から針金を出した。
(家で練習しておいて良かったわ)
針金に細工をすると、それを窓の隙間から差し込む。慎重に動かし、隙間から鍵の姿が消えた。今度は窓の下に差し込み、同じ鍵を開ける。
針金をカバンにしまい、再び背負う。ゆっくりと音を立てないように窓を開けた。腰を沈ませ、姿勢を低くして中へと入る。窓を閉め、レースカーテンを潜って部屋に潜入した。
わずかに差し込む弱弱しい日光。まだ目が慣れないため、部屋全体が暗闇に見える。目が慣れるまでサリアはその場でじっとしていた。
時間にして数分。室内の様子がはっきりとしてきた。
(さて、探しましょうか)
すくっと立ち上がり、部屋の中を物色し始めた。
目的の物は、紐でつづられた冊子。表紙は木でできているらしい。それを目印にして、まず先に机の内部から調べ始めた。
◇
(……中々見つからないものね)
どれだけの時間が経ったのだろうか?
目的の手作りの冊子は見つからない。机の周辺、本棚、絵画の裏、絨毯の下、ソファーの内部。怪しいところを調べ上げたが、それらしいものは見つからない。
心が焦り、意識が別の所にいきそうだ。
(……いえ、駄目よ。ミーテイア夫人が隠すなら、絶対に自分の手元に置くはずよ)
揺らぐ決意を叱咤した。
自分が罪に問われないように、と綿密に計画を考えていた夫人。そんな夫人が殺害の証拠たる論文を自分の手が届かない所に置くはずがない。一番信頼しているのが自分自身だから、なおさらだ。
パン! と両頬を叩き、今一度意思をしっかりと持つ。
だが、その時だ。
コツコツコツ――――――
小さな足音が近づいて来た。まだ見つかっていないのに。サリアは悔しげに表情を曇らせた。
(いえ、こんなことをしている暇は……)
何度か首を振り、邪念を振り払う。とにかく今は姿を隠さなければいけない。それならば、得意なものがある。自信ある表情を浮かべた。
◇
ガチャ
扉が開き、ミーティア夫人が自室に戻ってきた。
わずかな光でも輝く黄金の眼鏡。存在感は強烈で、眼鏡越しの目は以前よりも鋭さが増していた。不機嫌さを隠そうともしない。
「あと二日。それさえ耐えればっ……」
ポツリ。憎々しいと言葉を吐き捨てた。
表情は醜悪に歪み、化粧で隠した目元はうっすらと黒ずんでいる。夫人が精神的に追い詰められている証拠だ。自身の罪が露呈する可能性に、あの夫人が怯えていた。
辛い現実から逃れるために、夫人はある手段を取っている。手に持っているのは、蓋の空いたワイン。コップはない。
ふらりとソファーに近寄ると、力なく座り込む。衝撃で少し零れるが、それは夫人の知ったことではない。メイドの仕事だ。
虚ろな目が薄明りの中だとさらに淀む。うるさい思考を追い出すように、ワインをあおりながら飲む。部屋にゴクゴクと喉を鳴らす音だけが響いた。
何度か止めたり飲んだりを繰り返し、あっという間に夫人の体は酒気で熱を帯びるようになる。火照る体を覚まそうと、衣服に手をかけた時だ。
頬を風が撫でた。
「……風?」
可笑しい、夫人はふらつきながら立ち上がる。少し覚束ない足取りでベランダに向かって進み出た。目の前のレースカーテンがゆらゆらと揺れている。恐る恐る近寄り、カーテン越しに窓に触れる。
キィィ
音を立てて窓が開く。
「……締め忘れ?」
始めはそれを疑った。だが、考える時間が増えれば増えるほど様々な可能性が生まれてくる。それは夫人の思考を蝕み、最悪なことを予感させる力を持つ。
ベランダに出てみると、一見可笑しいところはなかった。だが、よくよく目を凝らして見ると……真新しい傷が柵にできているようだ。鋭利な何かを強く引っかけたような、不気味な傷。
「何よこれ」
急に襲ってくる焦燥感。後ずさりして、部屋に戻る夫人はしばらく呆然と立っていた。
満足な睡眠が取れていない。そんな頭で考えなどまとまるはずもなかった。考えは不安に引っ張られるように悪い方へと流れていく。
もしかして、でも……いいや!
定まらない答え。それだけで疲れ、ソファーに座り込んでしまう。
気分を落ち着かせるように俯き、何も考えないようにする。最初はそれで良かったが、やはり気になってしまう。顔を上げ部屋を見渡すと……視界の端に何かが見えた。
吸い寄せられるように立ち上がり、廊下に続く扉に近寄る。扉の横。存在感を消すように決して目立たず、黒革のカバンが置かれていた。
「これは、いつもクライムが持ち歩いていたカバン……」
見覚えのあるカバンに気づく。何故、こんなものがここに。そう考えた時、頭の中の霧が一瞬で晴れたような解放感が生まれた。
また、あの小娘が何かを仕出かしたに違いない。あれもこれも、全てあの小娘の仕業だ!
焦燥感は怒りに変わり、全身に力が漲る。心に余裕が生まれると、怒りの矛先はカバンへと向けられた。夫人の手がカバンへと伸び、チャックがゆっくりと開けられていく。
覗いた先にあったのは――――――
「……何よこれ、服?」
中から現れたのは、女性用のワンピースにショール。それから、メイドのカチューシャだ。
目の前でワンピースを広げて、あることに気づく。それは以前、水をかけた時に小娘が着ていた服に似ていた。いや、そのものだった。
なら、このカバンはあの小娘の?
と、次に夫人はメイドのカチューシャに意識が向く。手に取って観察してみると、ダダルク邸で働いているメイドのものだと気づいた。なぜカチューシャだけがここに?
はっとしたひらめきが降りてきた。
「……まさか、あの小娘っ!! メイドになりきって、この邸宅に!?」
夫人は疑い、さらに激高した。
「メイドの恰好をして、この邸宅を探っているんだわ!!」
考えは誘導され、夫人はそれしか考えられなくなった。カチューシャを手に持ち、騒々しく部屋を出て行ってしまう。
◇
遠くで夫人が叫ぶ声が、部屋まで聞こえてくる。扉の中から安全を確認して、サリアはクローゼットから姿を現した。
「ふふっ、可愛い人」
騙されているとも知らずに。と、内心ほくそ笑んだ。
クローゼットから出たサリア。その手には一つの宝石箱。サリアはその宝石箱を見つめて、嬉しそうに口角を上げた。それから宝石箱を元の位置、クローゼットの中に戻す。
「さぁ、メイドたちを助けにいきましょうか」
きっと何食わぬ顔をして姿を表せば、夫人の面白い顔が見れるかもしれない。
「水のお礼、しっかりと返さないとね」
呟いたサリアはベランダへと進んだ。鉤縄を柵に引っかけると、夫人の騒ぎでいなくなった王家憲兵の目を盗み、悠々と地面に降り立った。
その姿はすぐに見えなくなる。




