論文の行方
散りばめた雲が空に広がる、鮮やかな朝焼け。青藍の夜空を押し上げるように、顔を出し始める太陽。
まだ太陽が昇り切らない時刻。一台の大きな幌馬車が貴族壁の門を越えて、市井の領域に入って来た。
巨躯の馬が一頭、馬車を引っ張って進む。前後は汚れた布で覆われ、中は一切見えない。ガタゴトと音を立て、人気のない通りを闊歩していく。
幌馬車は首都の中心である大通りを進み、ある角で曲がった。その先は戦争の爪痕が残る、古い街並みの場所。一般の庶民よりも少ない賃金で生活する者たちの住処だ。
道路は所々石が埋められた土くれ。住居はレンガを使ったものではなく、切り取った石材と木材で作られた二階建ての住居ばかり。衝撃を与えれば、今にも倒壊しそうだった。
戦前の哀感が漂う街。
人影のない道を進み、とある十字路に入る前に一度止まった。すると、物陰から汚れたマントを被った人影が飛び出してくる。御者に近寄り、小声で何かを話しているようだった。
話し終えた御者が荷台を隠す幕に顔を突っ込む。数秒後、幌馬車の後方からマントを羽織った人影が次々と降りてきた。それらは一直線に路地裏へと入り、あっという間に消えて行く。
マントの集団は先導され、迷うことなく突き進む。道端に乱雑に置かれた生活用品を避けながら、決して物音は立てない。
しばらく進むと、先導者が立ち止まりある建物に手をつく。後ろから着いてきた集団は十名ずつに分かれ、その建物の出入り口に向かう。裏口、表口。扉の前で待機し、その時を待っている。
そして、先導者が指を食わえてピュッと指笛を鳴らした。
蹴破られる扉。雪崩れ込むマントの集団。建物内はけたたましい足音と扉を蹴破るが聞こえてくる。時折、短い悲鳴が聞こえてくるが、すぐに止む。
時間にして数分。第一憲兵隊の特殊部隊が建物内の占拠に成功した。
取り押さえた屈強な男たちは気絶させられ、縄で縛られていた。第一憲兵がそれらを慎重に運び出し、幌馬車に次々と放り込んでいく。全てを運び入れると、一部の集団を残して馬車は撤退する。
朝日が首都を照らす前、不当に占拠された建物と人が解放された。
◇
周辺の住居よりも大きな二階建て。玄関先にロイドと第一憲兵、サリアにボルグが注意事項の確認をしていた。
「建物は占拠したが、まだ周囲には気づかれたくない。できる限り我らの存在は認知させないよう、注意してくれ」
「後は窓際にも注意ですね。無暗に近づいて、姿を見られないように。もし、疑いをかけられそうになった場合、成りすますことも重要です」
「一斉摘発は三日後だ。できる限り隠密に徹し、相手にこちらの動きを悟らせるな」
ロイドとサリアの提言に皆が真剣な表情で頷いた。
第一憲兵は所定の位置に散り、サリアたちは木の階段を軋ませながら上った。その先は大人二人が通れる廊下に、扉が左右に二つずつ。一番奥、左側の扉に近づいてロイドがノックをする。
「ドーグ先生、失礼します」
扉を開けると、部屋の隅で机に噛りついている後ろ姿があった。白髪混じりの茶髪を無造作に一本に縛り、清潔な白いワイシャツに黒いズボン姿。三人が中へ入っても、ペンが走る音だけが聞こえる。
「今は座って待ちましょう」
サリアが部屋の中央にあるテーブルと四脚のイスを指し、急かすことはせずに座って待った。ロイドとボルグは顔を見合わせた後、ロイドは座りボルグは扉の傍で立つ。
時間にして三十分。ようやくペンの音が止み、ドーグは顔を上げ振り向く。釣り目が印象的な初老目前の男性だ。
「すまない、待たせたな。奴らがいなくなって、書けるものが増えたのでな」
そう一言詫びを入れると、イスをこちらに向けて座り直す。
「それで、私に事情を話して貰えるのだろうか?」
ドーグは自分が助けられた意味を分かっていなかった。そこでロイドが伝えられる範囲で今回の経緯を話す。淡々と話し、ドーグは小さく頷きながら聞きに徹した。
話が終わり、ドーグは腕組をしながら考える。サリアたちは少し緊張した面持ちで、その時を待った。
「ミーティア夫人を捕まえるか……」
おもむろに呟き、深いため息を出す。
「今のままでは無理だろう」
「……理由を聞かせて頂いても?」
ゆっくりと首を振るドーグ。堪らずにサリアが少し身を乗り出して理由を求めた。
この場所はターマズ調剤店の支配人から教えられ、論文を求めて占拠に踏み切ったのだ。このまま引き下がることはできない。
しかし、現実は簡単に裏切られる。
「残念ながら、ミーティア夫人に奪われたんだ」
論文がない。その言葉にサリアたちは驚愕した。堪らずにサリアは立ち上がる。
「そんな! では、ミーティア夫人はこうなることを予期して」
「いいや、奪っていったのは半年も前。とてもじゃないが、今回のようなことは予期していない。それに彼はそれを知っていた」
彼、ターマズ調剤店の支配人。ここに論文がないことを知りながら、サリアたちを誘導したようだ。
サリアは嵌められたことに悔しさをにじませ、ロイドは眉を寄せる。そんな二人を慰めるようにドーグは苦笑いを浮かべて口を開く。
「まぁ、彼は悪い人ではないよ。少々、腹黒さはあるかもしれないがね。きっと私を助けたいがために、貴女に動いて貰いたかったと思う」
支配人のためを思ってドーグは弁解をした。だが、騙されたのは事実。支配人が素直過ぎたことに疑念を抱くよりも、目の前の餌にサリアが釣られたようだ。
「そう、ですか。ならば、ミーティア夫人から論文を取り返しに行きます」
愚かなのは自分の方だと責任を感じ、落ち着かせるようにゆっくりとイスに座る。しかし、これで諦めないのがサリアだ。ここにないのならば、と行動を移そうとした。それにはドーグも驚いて止める。
「ま、待ちなさい。貴女はそんな大それたことができるというのか?」
真っすぐな眼差しをサリアは向けた。確固たる意志を持ち、言葉には出せないが頷いて見せた。隣にいるロイドが少し心配そうに視線を向けるが、意志は変わらない。
ドーグはその態度を見て、再度腕組をして沈黙する。長い沈黙だ。空気が張りつめていくが、誰も喋らなかった。サリアが固唾を呑んで待っていると、ようやくドーグは口を開く。
「分かった。貴女を信じて、私もできる限り協力しよう」
解決へ向けた話し合いが始まる。




