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ファァァッ(恍惚)幸せがっ(愕然)お、おのれぇぇ!!(抜刀)

 そわそわ。エリオットは視線をさ迷わせ、落ち着かず。

 にこにこ。サリアは満面の笑み向け、幸せオーラを振りまいた。


 寝台で体を起こすエリオット。その傍でイスに座るサリア。以前と同じ訪問の形。なのだが、二人を包む空気は変化している。

 それを少し離れた所で眺めるのは、感極まって泣きそうなクライム。未だ感情の見えない、無表情のヨハンだ。


 あの一触即発の場面から、エリオットたちは別室に移動していた。以前より狭い部屋だが、十分な広さがある。

 シックな赤茶色の絨毯に、年季を感じさせる戸棚。少し濁った白色の壁紙に描かれる灰色の草花。モダンな黒茶色のカーテンが窓の端にまとめられている。


 落ち着いた雰囲気なのに、当の本人たちは一向に落ち着いた様子を見せない。


「エリオット様」


「えっ!? な、何かな?」


 体を跳ね上がらせ、表情を固くするエリオット。直視するのが恥ずかしい、と顔だけを向けて視線は外している。


「体のお加減はいかがですか?」


 何度もかけられた言葉と優しい声。視線が誘われて、直視する。


 温かな薄茶の目は細められ。口元に貼られたガーゼは痛々しいのに、形の良い唇は喜びの弧を描き。少しだけ白い顔色が疲労の蓄積を物語っている。

 一悶着後の緊張感さえ感じさせない、穏やかなサリアがそこに座っていた。


 エリオットは少し目を閉じながら、仰ぐ。


(僕は……本当にどうしようもない奴だ)


 小さく呼吸をした後、ゆっくりと顔を向けた。力強く開けられた目。口元は決意の表れか、固く結ばれていた。それがゆっくりと解けていく。


「サリア嬢」


 澄んだ声で真っすぐに、名を呼んだ。


「貴女に怪我を負わせ、無茶な真似をさせてしまった。本当は合わせる顔がない、と思っていたんだ」


 視線を逸らさず、サリアに訴えかける。嘘のない真実。


「でも、こうして再び会えたことを……僕は心から喜んでいる」


「おいたわしやぁぁ、エリオット様ぁぁっ!!」


 突然、クライムがハンカチを取り出し泣き始めた。部屋に騒がしい泣き声が響く。が、エリオットやサリアは二人の世界に入っているので届かない。


「そして、何よりも……僕らを窮地から救ってくれたことに、言い尽くせないほどの感謝をしているんだ」


「うおぉぉんっ!! ようやく、ようやくっ……ふごごごっ!!」


 膝から崩れ落ち、大泣きを始めてしまう。うるささに耐え切れず、隣にいたヨハンが動く。黙らせるためにハンカチを口の中にねじ込んだ。


 ずっと寝台の上にいたエリオットが動き出し、白く細い足先を絨毯に下ろす。少しよろめきながら、サリアの前で片膝をついた。伸ばした両手はサリアの手を優しく包み込み、額に手の甲を引き寄せた。感じるのは相手の体温。


「ありがとう、サリア。どうか、僕の感謝を受け取って欲しい」


 少し震える両手。顔を動かし、触れるだけの口付けを爪先にする。途端にエリオットの頬が赤く染まり、それはすぐに離れた。今になって羞恥心がこみ上げてきたようだ。


 恐る恐る顔を上げ、サリアの様子をうかがうと――――――


「……ファァァァァァァァァァァァァァァァァァ」


 恍惚の境地に達し、今まさに昇天せし愛の信者が生と死の狭間で戦っていた。肉体的な恥ずか死を迎えようと、止めどなく流れ出す鼻血。顔は青白く変貌する。一方で現実の幸福を捨て置けず、必死に意識を繋ぎとめている理性。


 相対する二つの必然が複雑に絡み合う。サリアは白目を剥いたまま、止まない奇声を上げ続ける。一体どこで息を整えているか分からない。

 そこに慌ててやってくる、無表情のヨハン。大量のハンカチを持ち、せっせとサリアの鼻血を拭いたり、押し込んだりした。


「えっと……」


 一人困惑するエリオット。すると、ヨハンが間に割り込み、寝台を指差す。


「刺激が強いので戻って下さい」


 その言葉に納得ができない、と表情を歪めた。目の前には明らかに体調を崩しかけているサリア。鼻に栓をしたハンカチが、どんどん赤く染まる。


「サリア嬢、このままの状態は危険だ! 医者の所に連れて行こう」


 見ているだけはできない。想いが体を動かす。背と膝裏に手を添え、持ち上げようと力を入れた。だが、昨晩受けた腹部の痛みがエリオットを襲う。


「うっ」


 必死に耐えながらサリアを持ち上げた。しかし、今度は全身の筋肉が足りない。浮いた体を支えきれずに、後ろに転倒してしまう。


 鈍い音が響いた。


 仰向けに倒れたエリオット。それに覆い被さるサリア。二人の頬がピタリとくっつき、温かな人肌が必要以上に熱く感じる。


 それは未だかつてない、接近と接触。

 サリアの煩悩が弾けだす。


「ああああああああああああああああ!!」


 全身が小刻みに振動し、奇声を発するサリア。

 これは危険な状態なのでは!? と、色んな意味で焦りだすエリオット。


「す、すまない! 怪我はないか!?」


「はいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」


「また鼻血が増えたよ! は、早く医者の所へ!!」


 覆い被さるサリアを起こそうとするが、筋肉が足りなかった。もぞもぞと動くことしかできない。その間にも失われていく血液。サリアの顔がどんどん青白くなっていく。


 様々な精神錯乱な人々に囲まれたヨハンはというと。


(うわあぁぁぁぁぁっ……)


 無表情のまま心の中で一人、感情表現のない阿鼻叫喚する。こんな時に泣きたい感情が、少しずつ蘇ってきた。


 ◇


「さぁ、召し上がってください。全てケートス商店より取り寄せた食材で作らせました」


 サリアが少々青白い顔色で微笑む。先ほどのワンピースから、白いワイシャツと黒いスボンに衣替えをしている。


 一騒動で時間が経ち、ランチの時間を迎えていた。サリア、エリオット、ヨハン。一緒に四角いテーブルを囲んでいる。薄い若草色のテーブルクロスの上、様々な料理が並び食欲をそそる匂いを放っている。


 匂いに釣られてヨハンのお腹が鳴った。無表情のまま、恥ずかしいと顔を俯かせた。


「はしたなくて、すいません。こんなに豪勢な食事は、あまり見たことがなくて……」


「ヨハン……」


 小さい頃から交流のなかった、腹違いの弟。エリオットは複雑な思いで、その姿を見ていた。

 不健康には見えない体。だが、十二歳少年の体つきには遠かった。手足も首も細く、まるでエリオットの写し鏡だ。明らかに違うのは感情が欠如していること。


 どう言葉をかければいいのだろう?

 あまり話したことのないエリオットは悩み、表情を曇らせる。それでも、意を決して口を開く。


「ミーティア夫人は、厳しかったのか?」


 恐る恐る聞いた。ヨハンの表情は変わらないが、ゆっくりと頷いて肯定をする。


「お勉強は毎日朝から夜まで。休息は授業の終わり、食事の時です。食事は太らぬよう、見栄えが良くなるよう、質素なものを用意されていました」


「……そうか」


 淡々と話す姿にエリオットは顔をしかめ、口を噤んだ。

 重い空気に包まれる部屋。そこに、パン! と手を叩く音が響く。


「さぁさぁ、食べましょう! 体の基本は食事から、ですよ。しっかり食べて、元気を取り戻しましょうね」


 にこやかな表情で場を仕切り、急かすように二人にスプーンを握らせる。


 サリアとヨハンの前には、色とりどりの生野菜サラダ。甘い香りのカボチャのポタージュ。ニョッキと粗挽き肉のトマトソース。ラムチョップと根野菜のロースト。季節のフルーツ乗せクレープシュゼット。ハチミツ入りの野菜ジュース。


 対してエリオットには、野菜と鶏肉のミルクパン粥。二種類の果物ソース添えヨーグルト。ハチミツ入りの野菜ジュース。

 量は少ないが、普段食事をまともに取れないエリオット専用の食事だ。サリアは満足げな微笑みを向け、安心させるように話す。


「憲兵の監視の中、エリオット様の体調に合わせて作らせました」


「そこまでしてくれたんだね。本当にありがとう」


 これなら食べられるかもしれない。久しぶりのまともな食事に、エリオットは期待を膨らませた。


 まずは野菜ジュースに手を伸ばし、ゆっくりと飲み込む。ごくり、と喉を通るジュース。爽やかでいて、少しの甘みを感じることができる。


 次に湯気の立つパン粥をスプーンですくう。一息、二息とかけて冷ます。いよいよ、と口に含んで飲み込んだ。温かで優しい旨味が広がって、胃が温かくなる。二口も三口も、少し急ぐように飲み込む。


「……美味しい」


 自然と口から出る感想。顔に喜びがあふれる。ヨーグルトを手に取り、ソースに絡めてヨーグルトを口に含む。酸味の中にほのかな甘みがある。一つ一つ、素材の味を確かめながら食べれたのは一体いつぶりだろう?


 穏やかな表情を浮かべ、食事を進める姿。サリアはその様子を見て、ホッと胸を撫で下ろした。自身も一口、二口と食事を進める。二日ぶりくらいのまともな食事だ、体に力がみなぎっていく。


(まともに食事を取れない、というのは精神的にも辛いものですね)


 エリオットが体調を崩してから、既に半年以上が経っていた。食事がまともに取れない日々は辛かっただろう。その日々を想像し、胸を痛める。


(でも、もう大丈夫。毒なんて絶対に入れさせない)


 決意を今一度、固める。

 が、その時だ。


「うっ!」


 エリオットが口元を押さえ、立ち上がった。顔は蒼白になり、体が震えている。


(そ、そんなっ……)


 目の前でえづく姿は信じられなかった。


 ◇


 バン! と、大きな音を立てて扉が開いた。

 開かれた扉には、両手を広げて立つサリア。顔は俯かせていて、表情は分からない。荒い息遣いで上下する肩。唸り声が漏れ出す呼吸音もする。怒りが爆発寸前だ。感情を抑えもせず、力強い一歩を踏み出す。


「裏切り者は誰だぁぁっ!!」


 悪鬼の憤怒の如く、火のように赤くなる顔面。先ほどの死にかけた面影は一切ない。目は血走り、鼻息は荒く、噛み締めた奥歯はギリギリと音を立てる。優しく温かみのある風貌は一掃された。


 廊下を疾風怒濤に突き進む。その中央で憲兵二人が立ち話をしていても、気にも止めない。


「ん?  ……サ、サリア様!?」


「な、なんか……こっちに突進してくるぞ!!」


 戸惑いの声を上げつつ、危険を察知しその場から飛び避けた。間一髪、すれ違うサリア。しかし、あろうことか憲兵の帯剣を掠め取っていった。


 両手に光る銀色のレイピアは意外と重たい。剣先を時々床に叩きつけてしまう。だが、今のサリアはそんな小さいことなど気にしない。


 考えることは一つ。

 裏切り者にレイピアを突き立てることだ。


 階段を段飛ばしで降りていき、角は速度をそのままに体を曲げて突き進んだ。一階の廊下を猛然と走り、ひたすらあの部屋を目指す。サリアが秘密のやり取りをしていた場所、厨房だ。


 そして、今。目の前に厨房の扉がある。

 肩を上下に動かし、呼吸を整えた。ゆっくりとドアノブを回し、扉を開く。


「あ、サリア様! エリオット様は無事に料理を食べられましたか?」


「サリアお嬢様、ケートス自慢の果物や野菜はお気に召しましたか?」


 にこにこと笑う見張り番の青年憲兵。少し表情を緩めたケートス商店のグレイ。急な呼びつけで来た二人だが、嫌な顔一つしない。


 二人は始めこそ穏やかであったが、サリアのただならぬ雰囲気を察して表情を曇らせる。戸惑いながら視線をさ迷わせると、見つけてしまった。両手に持ったレイピア。


 驚愕して、再びサリアに視線を向ける。目を血走らせ、憤怒の悪鬼が誕生していた。


「サ、サリアお嬢様?」


「いかがされたのですか?」


「……裏切り者はっ」


 酷く怯えながらも話しかけると、とんでもない言葉が返ってくる。勢い良く上げた顔は言葉では表せないほど、怒りで歪んでいた。


「裏切り者は二人かぁぁ!!」


「「きゃあぁぁぁぁぁっ!!」」


 両手に持つレイピアが、素早い動きで突き出される。二人は叫びながら、お互いの手を掴み、体を仰け反らせた。


 瞬時に通り過ぎるレイピアの剣先。空を切り裂く、鋭い突きだ。とっさに動いた二人の重心がずれ、耐え切れず床に背をぶつけた。

 仰向けになる二人。視界の中で、サリアが逆手持ちのレイピアを振り上げていた。


 ギラリ、と光る剣先が更なる恐怖をあおる。繋がった二人の手に汗がにじみ出て、離さぬようにしっかりと握りしめた。


「覚悟は、いいですか?」


「「い、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」」


 動き出す剣先に、二人は目を閉じて祈ることしかできなかった。


 この後、極度の疲労と栄養不足でサリアは倒れ、二人は事なきを得たのだった。


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