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守りたい人 前編

 その日、首都の空は朝から厚い雲に覆われていた。いつ降り出すか分からない空模様。外出を控える貴族も多い。


 生憎の天気だというのに、ダダルク邸の鉄扉が開き馬車が出て行く。黒塗りで金色の装飾が目を引く、二頭立ての馬車。閑散としている貴族街の広い道を、悠々と進んでいった。


 降り始めたのは昼を過ぎてから。始めは霧雨のような細く軽いもの。次第に雲は黒く膨らみ、雨脚は強くなる。首都に等しく雨が降り、激しく屋根や地面を打ちつけた。


 薄暗い一日。夜が近づくにつれ、暗闇が首都を包み込む。夕方から家々のランプが灯り、街をほんのり照らす。それは時間と共に広がっていった。


 ◇


 歩いている人影のない貴族街。茶革の小さなジャケットを頭に被り、男が走る。誰も見ていないというのに、人目を避けながら雨の中を必死に走った。息を切らし、足をもつれさせながら、前へと進む。


 やがて男は一つの邸宅にたどり着く。邸宅を囲む壁をつたって歩き、裏に回り込んだ。本来閉まっているはずの低い鉄扉。手で軽く押すだけで開いてしまう。注意深く辺りを見渡し、体を滑り込ませて中へと入る。

 今度はゆっくりとした足並みで、扉に近寄った。


 トトン トントン


 リズムを刻んで叩いた。遅々と開く扉。ランプの光に照らされた隙間の向こうで、人の目が覗く。


「……ウィズか?」


 疑いの言葉にウィズは強く頷く。被っていたジャケットをめくり上げ、顔を向けた。


「入れ」


 厨房の扉を開けて、中へとルーベルトが誘う。日中は騒がしい厨房も、夜になると薄気味悪い静けさに包まれていた。


「ほら、タオルと景気づけのホットワインだ」


 投げ渡される白いタオル。テーブルに置かれた、湯気の立つ木製ジョッキ。ずぶ濡れの体を拭き、丸椅子に腰を下ろす。ホットワインは冷えた体に熱となって染み渡る。空になると、更に注いでくれた。何も疑いもせず、再び飲み干す。


 様子を見ていたルーベルトは、廊下へ続く扉を開く。テーブルに置かれた、火の灯ったランプを差し出してきた。


「道は分かっているな。終わったら、ここに戻ってこい。銃を回収する。もし遅くなるようなら、様子を見に行く」


 淡々とした説明。一つ一つ頭の中で復唱し、ランプを受け取る。廊下に出ると、先が見えない暗闇に包まれていた。

 ぶるっ、と体が震える。ただの寒気か、それとも……


「大丈夫だ、心配することはない。簡単な仕事だ」


 思考を巡らす時間もない。ため息を堪える。二度頷き、ランプを前にかざしながら歩き出した。


 それを見守るルーベルト。不意に口元が釣り上がり、厨房へと戻っていく。

 しばらくの後、厨房から金属を擦り合わせる音が聞こえ始めた。


 ◇


 月明かりもない、真っ暗な廊下。頼りは手元にあるランプの灯り。聞こえるのはうっとうしい雨音。重なって聞こえるのは自身の足音。

 道を間違えないように、慎重に照らしながら進む。一つ一つ扉を確認し、時折背後を振り向いて警戒を怠らない。見つかり捕まってしまえば、全て終わりだ。


 ようやく、目的の扉までたどり着く。本来なら一人くらい見張りがいるものだが、誰もいなかった。用意周到さに助かりつつも、少しの恐怖も感じる。


 一つ深呼吸をした。手を伸ばし、ドアノブを回す。


 ――――――開いた。


 鼓動が跳ね上がる。できるだけ音を立てずに開く。……暗闇しかない。


 一歩踏み入れると、鼓動が速く脈打つ。ランプをかざし進むと、少しずつ息が上がっていく。部屋の中央まで来ると、手のひらや額に嫌な汗がにじみ出る。


 あった、目的の寝台だ。


 少し足早に近寄り、目的の人物を確認する。顔色の悪い男が寝ていた。


(こいつだ、こいつを殺れば!)


 沸き上がった殺意。


(金だ、腐るほどの金だ!)


 込み上げる腐りきった欲。


 もう、頭を下げなくても。

 嫌な仕事をやらなくてもいい。

 上の奴らの機嫌を伺うこともしなくて。

 誰の言いなりにならなくてもいい。


 計算を偽って、隠れながら金をくすめることもだ。


 顔が歪む。歪んだ笑みだ。知らぬ間に上がった息。整えることはせず、腰にぶら下げたダガーナイフを取り出す。だが、濡れた柄が滑って落としてしまう。


 ちっ、と舌打ちをする。ランプを床に置き、しゃがんで拾う。

 顔を上げた、その時――――――


 寝台下の隙間に、人の目が浮かんでいた。


「ひいいぃぃっ!!」


 尻餅をついて、後退る。浮かんでいた目が闇に溶けるようにスッと消えた。信じたくない、と動揺が止まらない。確認しようにも怖くて近寄れない。


 震える手でなんとかランプを回収し、寝台から離れる。ランプを目一杯に突き出し、ダガーナイフを構えた。


「だっ、だだ誰だっ!?」


 聞こえるのは雨の音。荒い息遣いと激しく脈打つ鼓動。意識を集中させても、それ以外は聞こえない。緊張が高まっていく。


「そそっ、そこにいるんだろう!?」


 虚しく声が響くだけ。緊張に耐えきれなくなり、ランプを四方に向け始める。正面、右左、後ろを振り向くと――――――


 暗闇に浮かぶ両目。

 銀色に光る何かが振り下ろされた。


「いっ!」


 とっさに避けたが、腕を掠めてしまう。痛みに一瞬怯むものの、急いで距離を開けた。


(なんだ、なんなんだ!? ルーベルトの奴、嘘をついていたのか!?)


 大丈夫だ、と言っていたのに。この様はなんだ!

 予想だにしない展開に混乱は収まらない。わずかな灯りを頼りに姿を探す。が、暗闇に溶け込んでおり、姿を見つけることができない。物音も全く聞こえず、更に緊張が増していった。


 その時、思い出す。銃の存在。

 ダガーナイフを捨て、腹に括りつけていた銃を取り出す。


「これを見ろ! お、俺にはな……この銃があるんだぞ!」


 灰色の銃身。後方には円筒形のシリンダー。連発式小火器だ。


 ◇


(あれが……銃? 小さすぎる)


 サリアは目を凝らし観察する。

 銃の形状は本で見たことあるが、実物は初めてだ。片手で構えられる小さな銃。見慣れない銃に警戒心を強める。ここで失敗しては、今までの努力が水の泡だ。


 今朝からエリオットの寝室に忍び込み、公言通りに寝台の下などに潜んでいた。勿論、ただ潜んでいただけではない。


 食事の妨害、エリオットの警守、呼吸音や心臓音を寝台下で聴診、差し水の使用済みコップによる毒見、寝顔の監視。


 忙殺されても可笑しくない内容だ。疲労が残る体。だが、気力は十分。気を引き締め、ウィズとの距離感に気をつける。


 暗がりの中、灯りを持っているウィズの姿は分かりやすい。今もランプと銃を前に突き出し、落ち着かない様子で探している。なんとか、近づいてネイルハンマーを振り下ろしたい、が――――――


(やはり、人に向けて鈍器を振り下ろすのは……)


 今まで故意に人を傷つけたことがない。だから、殺傷能力がある鈍器を使おうとすると尻込みしてしまった。

 高まる鼓動と息遣い。しっかりと握ったネイルハンマーが微かに震える。


(……ここで、引く訳にはいかないわ。しっかりするのよ)


 深呼吸をしてから、体に力を入れる。もう一度、心を強くもって視線を向けた。


(絶対にエリオット様を助ける)


 それがサリアのおまじない。


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