不穏な影
黒いレースカーテンを閉め切った、圧迫感のある小部屋。西日がわずかに室内を照らし、うっとうしい熱気がこもる。
一人用のソファーに腰深く座った、ミーティア夫人。正面には怯えた表情を浮かべた細身の男。愛想笑いを浮かべるが、口角がわざとらしく上がっており印象は良くない。
「へへっ、奥様。この度は寛大なお心で失態をゆるしてくださって、ありがとうございます」
「それはいいのよ。貴方だけのせいじゃないわ」
「お、おぉっ! 奥様の仕事は必ず、このウィズめが完遂いたします!」
にこやかな夫人の表情を前に、ウィズは自信げに胸を叩く。
この男、モルクティルク伯爵家が管理する商会の経理を担当していた。今回の不審者侵入事件の騒動中、経費を着服したのが見つかってしまう。憲兵に突き出される前に着服の件を伏せ、夫人が呼び寄せたのだ。
「テーブルの上にある箱。開けてみなさい」
指を差され、ウィズは目の前に置かれた木箱を開ける。中には布に包まれた見慣れない物があった。布を開き中身を確認するが、分からない。
不思議そうに顔をしかめるウィズを見て、夫人が答えを伝える。
「小型化した銃よ」
「へっ? じゅ、銃って……大戦で使われたあれですか?」
「あれから五十年も経っているのよ、銃だって進化するわ。でも、それは開発されて二年っていうところかしら」
凄い品物なんですねぇ、とウィズは感心したように色んな角度から見回す。片手で収まる銃なんて見たことがない。相当高価なものだろう、そんなことを考えていると声がかかる。
「説明書は箱の中に入っているわ。しっかり読んでおいてね」
「えっ、奥様……」
「まぁ、それはいざっていう時の保険」
説明書? 保険?
ウィズの頭の中は疑問で埋め尽くされる。夫人は至極当たり前だと言わんばかりに、深い笑みを浮かべた。
「ふふっ、簡単よ。明日の夜、この邸宅に忍び込んでエリオットを殺して欲しいの」
――――――息が止まった。
体は動かず、目も見開いたまま。夫人の言葉を頭の中で何度も復唱するが、理解出来ない。
いや――――――理解したくなかった。
ウィズの心の動きに気づきながら、さらに言葉を続ける。
「大丈夫よ。邸宅の者は皆、睡眠薬で寝かせるつもり。それに手引きする者も配置するわ」
「でででっ、ですがっ……貴族殺しは」
「心配しないで。貴方を逃がす手筈は整えてあるから。それに多めの退職金がついてくるわよ」
戸惑い、声を震わせた。銃を布越しで持つ手のひらには、気持ちの悪い汗が滲む。殺すことへの恐怖なのか。逃走の手筈に金銭、という汚い欲がそうさせるのか。もしかしたら、あるいは。そんな都合の良い展開を想像した。
そして、悪魔が降りてくる。
「貴方があのまま一生仕事を続けても、手に入らない金額よ」
甘く囁く声。
喉がゴクリと鳴った。
視線は銃に釘づけになり、それしか考えられなくなる。
「明日の晩、宜しくね。私は夜会に出席する予定だから。手引きする者は料理長のルーベルトよ」
ウィズの様子を見て、満足げに微笑んだ。
部屋に差し込んでいた斜陽は弱まり、暗闇にゆっくりと包まれていく。
◇
二人がいなくなった小部屋。日も完全に沈み、暗闇と静寂に包まれていた。
カタッ
部屋の隅にあったドレッサーから物音が響く。扉がゆっくりと開いていき、小さな足が床を踏みしめる。少し俯き加減の表情は、金の髪で隠れていた。後ろで結んだ長髪を揺らしながら、扉まで近づく。
「……母上」
扉に手をかける直前、ぽつりと呟く。少し上げた顔つきは無表情でも、顔色は青白く悪かった。震える手でドアノブを回し、周囲を窺いながらヨハンは小部屋を後にする。
しかし、誰も知らない。もう一つの影が、ドレッサーの裏側からゆっくりと出てきたことを。一部始終を見ていた影は、ヨハンの後ろ姿を複雑な眼差しで見送った。
◇
ランプが灯り始めるダダルク邸。一つの影が飛び出す。姿勢は低く、時折止まって周囲を確認しながら走って行った。
(明日の夜、冴えない男、銃……)
頭の中で整理する。出来ること、出来ないこと。報告すること、しないこと。冷静でいようとしたのに、どんどんあふれてくる想い。
(エリオット様がっ……殺される!)
にじむ視界で走り続ける。
本当はあの場で飛びかかりたかった。一思いにネイルハンマーを振り下ろしたかった。……できない。できるはずもない。
コンナート家の長女であり、恋のために次期夫人の地位を蹴った親不孝もの。それを妹が継いでくれた。
あの場で一思いを成し遂げたとしたならば、家に迷惑がかかる。不法侵入に傷害罪だ。エリオットを守れたとしても、家を犠牲にしただろう。
自分の恋でこれ以上家を犠牲にできなかった。だけど、この想いは諦めてはくれない。
胸の中を焦がすのは、狂った恋心と狂気に近い憎悪。人としての正義と不義が激しく対立し、苦しい。逃げ出せばいいのに、心はそのようにできていなかった。
(家に迷惑がかからない、方法はっ……)
どうすればいい。何が正しいのか全く思いつかない。妹のカタリナに相談したら、きっと良い解決案を出してくれるだろう。そんな考えも浮かんでこないほど、心は追い詰められていた。
優しく見守り続けてくれた家族や使用人。離れていても、励まし支えてくれた愛しい人。
幸せでいて欲しいと強く願う、大切な人たちだ。
強い想いを抱えて、サリアは闇に溶け込んでいく。
◇
翌日、空模様はどんよりとした黒い雨雲に覆われていた。今にも小雨が降ってきそうなうっとうしさがある。
生憎の天気。廊下を歩きながら、カタリナはため息を吐く。湿気でおさげの毛先が丸まっていた。自分のお気に入りなのに、とため息が止まらない。
「あー、憂鬱。絶対今日一番の憂鬱だわ」
「ふふっ、そうですね」
頬を膨らまして不機嫌なカタリナ。可愛らしい姿に、侍女キュリーの表情が綻ぶ。いつもの執務室へ赴き、またいつも通り手紙の整理から始めるつもりだった。
だが、そんな思考も一瞬で吹っ飛ぶものを見つけてしまう。
「……何かしら、これ」
裏返しにした白い封筒。手に取って右下に目を向けると、サリアの名前が書かれてあった。
嫌な予感がする。
カタリナの表情が直ぐに強張り、勢い良く表面にひっくり返す。
絶縁状
「はぁぁぁあああああっ!?」
封筒の端を引きちぎり、中にある手紙を高速で読む。そこにはサリアが知りえたことの詳細が書かれてあった。
「はぁぁぁあああああっ!?」
驚きのあまりキュリーに顔を向けて叫んだ。キュリーは作り笑みを浮かべて頷く。
「本当にサリア様がお好きなんですね」
「はぁぁぁあああああっ!? 訳わかんないこと言わないでよ!」
その割には顔が少し赤い。何度か咳き込んで話を中断させ、気を取り直して声を上げる。
「とりあえず、お爺様のところへ急いで行ってくるわ!!」
憤慨しながらカタリナは部屋を飛び出し、キュリーがその後に続く。
コンナート家姉妹の長く憂鬱な一日の始まりだ。




