僕と彼女と夫人 前編
「エリオット様、毒見は済んでおります」
「いつもありがとう、クライム」
寝台の端に座り直したエリオット。その前には、高めのテーブルに並べられた料理の数々。
柔らかく温かそうなパン。香り立つミルクスープ。香ばしく焼き上げた、白身魚のムニエル。それにかかるレモンバターソースの酸っぱく、食欲を誘う匂い。温野菜の湯気に、バジルソースの爽やかな香りが混じる。
体はそれらを欲しているのは分かっている。が、頭が拒絶しようと嫌悪した。
それでも食べなければならない。食べなければ、また周囲に心配をかけてしまう。自信満々にクライムが毒味を済ませてくれたのだ。食べなければ。
悪い物は入ってなさそうに見える。今日は大丈夫、毎日のように思い込もうとした。だが、それでも吐き出してしまう。
視界の端ではメイドがもしもの時に、と桶を持って立っていた。それを見て、うんざりとした気分になる。
(どうせ、吐くと思っているんだ)
だけど、本心は顔には出さない。ナイフとフォークを持って、ゆっくりと食べ始めた。
口に含み、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。美味しい、とまだ感じることが出来るのは喜ばしい。そのまま、慎重に食べ進めていく。
だが、やはり起きてしまった。
「……うっ!!」
「エリオット様!!」
胃にかかる強い圧迫感と痛み。うずくまると、すぐにクライムが桶を差し出した。
(あぁ、まただ……)
どれだけ苦しめば、この地獄から解放されるのだろうか。
◇
僕は小さい頃から病弱だった。外で遊べば、次の日には必ず風邪を引く。食事も時々吐き出してしまうことがある。それは生みの母親セリアも同じだった。大人になったら健康になる。大人になったら丈夫になる。そう聞かされて、僕は育った。
だけど、そんな母上は亡くなる。
モリスの内乱で、僕を庇った後に体調が急変して亡くなった。
致命傷ではなかったのに、体が弱かったばかりに……
父上は自分を責めた。甘い話に釣られて、不正を働いてしまったから。浮かれてパーティに家族を連れて行ったことを、酷く後悔していた。自分だけ関われば良かった、と髪の毛を毟り取るほどに発狂した姿は……今も鮮明に覚えている。
数代前からダダルク家の家計は、少しずつ厳しくなっていく。大戦時の負債や新時代の洗礼。時代のうねりに、ダダルク家は漕ぎ方を間違ってしまった。
いや、僕の家だけじゃない。他にも沢山、本当に沢山いたんだ。それらが泥船に乗り込んで、見事に沈没だ。拾い上げられるには、相応の対価が必要だった。
ダダルク家に課せられたもの、罰金刑ともう一つ。
元東の国で貴族をしていた、モルクティルク伯爵家の介入。当主が再び不正した場合、乗っ取りを国が公認している体裁だ。
それが罰。ミーティア夫人は、ダダルク家の罰の象徴になった。
始めは思ったより酷い人ではない。厳しさの中にも、優しい所があった。淑女の手本、そんな印象。ヨハンが生まれても、夫人はしばらくは変わらない。
変わったのは、あの日。
彼女に会った、あの日からだ。
◇
「どうだ、凄いだろ」
十歳の節目を祝うパーティー。十人以上の集団の中から自慢げな声が聞こえる。僕は来ただけで疲れてしまったから、大人しい集団の中で果汁飲料とお菓子を食べていた。
「で、では! 次は私が!」
興奮した女の子の声。気になってちらりと見ると、果汁飲料を吹き出してしまった。体が……可笑しな方向に曲がっていた。
その場は阿鼻叫喚になる。僕の近くにいた子息令嬢も、逃げ出す始末。僕は咳が強くて、その場から動けなかったんだ。
「化け物だ! 退治しろ!」
誰かが叫んだ。声に反応した子たちが集団になって、その女の子を追いかけ始めた。その時、僕は見たんだ。女の子が酷く驚いた顔をしたところを。信じられない、そんな顔だった。
――――――なんか、無視できない。
そう思ったら、自然と体が動く。集団を追いかけて、女の子を探し回る。生まれてから一番、動いていたと思う。
そして、木の上で泣いている女の子を見つけた。
まあ、格好つけようとしたんだけど……失敗した訳で。二人で地面に転がった。笑われると思ったんだ。だけど、その女の子は凄く嬉しそうな顔を向けてくれた。
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
……しがみつかれて、揺らされた。大人しい子だと思ったら、ちょっと違っていたみたい。
それがトドメになって、体力のない僕は動けなくなってしまった。従者に担がれ、パーティを後にする僕。だから、気づかなかったんだ。
憎しみのこもった夫人の視線に。
少しずつ。周りを窺いながら、夫人は僕に冷たく当たり始めた。
ちく、ちく。一針、一針。
何かを確認しながら慎重に。決して激しくはしない。
だから、見逃した。誰もが可笑しいな、と思いながら過ごしていってしまった。僕の中で積もった精神的疲労も、時と共に踏み固められる。
ぎゅ、ぎゅ。
その足で――――――邪魔な雪を踏み固められるように。
彼女と出会ってから、2年弱。
僕の中には大きなしこりができた。
◇
「あの……お久しぶりです、エリオット様」
そんな日々の中で、僕は彼女と再会する。
父上に連れられて初めてきた場所。関りがなかった、フランシュペルズ公爵家のお茶会。久しぶりに見た彼女は以前に比べ、大人びた姿になっていた。あれから2年弱も経ったんだなぁ、と感慨深く思う。
懐かしい彼女。驚かせてくれた彼女。
どれだけ変わったのか知りたくて、僕らはずっと話をした。その時間は久しぶりに訪れた、人との温かな交流。
そして、始まる。
「このっ、出来損ないのくせに!!」
頬を叩く音。大きく響いて、周囲の時を止めた。
邸宅に戻った次の日。詳しい話を夫人に報告すると、一瞬で豹変する。凄まじい剣幕で腕を振りかぶり、僕の頬を叩いた。
何がなんだか分からない。が、その日から人が変わった。夫人の姿はまるで、親の仇でも見るかのように。
僕は逃げ道を作るため、彼女と交流を始めたんだ。本当にろくでもない話。ろくでもない、僕の心。
何度も思ったさ、何度も決意しようとした。
僕なんて構うのは止めて、って。
でも、でもね……できなかった。
彼女が日記につづる言葉。それが光の粒になって、僕の心を温かく照らし始めた。それが凄く心地よくてね。もっともっと欲しくなって、僕もつづった。
言葉に変化が欲しくて、しおりを作った。次の日記には四ページの喜びの言葉。
もっと欲しくて、手を針で傷つけながら本革のカバーを作る。次の日記には、商品開発の具体的な話に四ページも使われた。更に契約書までも挟み込まれていた。
奇想天外すぎて、本当に可笑しかった。だから、僕も真剣に考えるんだ。彼女がどうすれば、喜んでくれるかを。
二人だけの秘密。
強調するように、鍵をかけた。二人だけが持っている鍵。今まで感じたことのない、高揚感が沸き上がって体がそわそわした。
後から思ったけど、一番喜んだのは僕だった、かもしれない。
だけど、交流が深まるにつれて夫人の暴言と暴力は日増しに強くなる。心を抉る言葉、激しい教育、邸宅への軟禁。僕の世界はこんなに小さくなった。
そんな中でフランシュペルズ公爵家関連のお茶会などには、夫人は口出しできない。統一王の後ろ盾があっても、その公爵家が怖いらしい。でも、おかげで外と繋がることができた。
彼女と会うことのできる世界だ。
◇
唯一繋がることができる世界でも、僕の心を嫌にざわつかせることはある。
「気持ち悪い体だ」
「近寄るな、人間もどき! 貴族の真似事なんて」
「貴女の体の構造が気になるから、ここで脱いでみてくれないか?」
彼女に浴びせられる、思春期子息の陰惨な言葉の数々。
「あらいやだ、邸宅にお戻りになって。ここは庶民が来ていいところではありませんよ」
「新興貴族の癖に! この園庭に足を踏み入れるなんて、身のほどを知りなさい!」
「別に汚れても構いませんよね? 貴女は元々そういう血筋なのですから」
彼女に突きつけられる、令嬢の不快感極まる古臭い貴族概念。
「貴族のゴミが。中に入るな、会場が汚れる」
「戦前を知らぬ者が。ここにいる資格はないぞ!」
「おや、靴が汚れている。這いつくばって落とせよ、蛮人が」
彼女に降りかかる、戦後に庶民が叙位を授かったことへの妬み。
様々な悪意に包まれた。なのに、辛いはずなのに……
「お言葉を賜り、御厚情に深謝いたします」
静かに微笑んで、ドレスの裾をつまんで感謝の意を示す。
その姿に僕は胸を打たれた。
新興貴族への風当たりは強い。
大戦を乗り越えた自尊心の高い貴族たち。以前敵対していた貴族、戦後に増えた貴族を怨敵に見ている。
まだデビュタントも済ませていない彼女。それなのに堂々と貴族の妬みを、言葉と態度でひらりと躱した。
その後、僕に何事もなかったかのように話しかけてくる。満面の笑みで。
……肝が据わっているのか、鋼の精神なのか分からない。彼女の泣く姿は見たことがないんだ。もしかしたら、僕の目が届かないところで泣いているかもしれない。
だから、僕の目が届くところだけでもいいから。心からの笑顔を絶やして欲しくなかった。
逃げ道を求めていた卑怯な心は、彼女に触れ合うことで塗り替えられる。少しでも彼女の心が健やかであって欲しい。彼女と共にある時間は、僕も心穏やかになるのだから。
僕は一歩踏み出す。小さな一歩。
子息達が絡もうとすれば――――――
「サリア嬢の柔軟性に富んだ立ち振る舞いは、目を見張るよ。隣にいる僕が霞んでしまう」
称賛につぐ称賛をする。素晴らしい立ち振る舞いだったからね、素直に褒めたんだ。すると子息たちは、あからさまな嫌悪を示さず悪態をつかず、逃げるようにその場からいなくなった。
……時々、一人か二人は僕に着いてくるんだけど。どうしてだろう?
令嬢が貶そうとすれば――――――
「コンナート家は由緒あるラインハーツ家の系譜を受け継いでいるよ。素晴らしい血筋からの素質を持ち合わせ、監理官として一番に成功しているだろう。新興貴族でこれほどまでに成功した家は、他にはいない。そうそう、知っているかい?」
しつこいくらいにペラペラと、彼女の家柄や血筋について話し続けた。すると令嬢たちの表情が消え、散って行ってくれた。
……時々、一人か二人は残るんだけど。どうしてだろう?
戦前の功績を語る大人の貴族が侮辱をすれば――――――
「50年ほど前の大戦は正しく語り継いでいくべきでしょう。そして、統一王が繋いで下さった平和の絆。その絆は、統一国ゼルハラを支える全ての人の力があってこそ継続できます。ここにいる紳士淑女は皆、その絆によって繋がれている同志ではありませんか?」
正々堂々と諭そうとした。戦前の功績を語るより、戦後の絆を深めるほうが有意義だ。すると貴族は捨て台詞を吐きながら去って行った。
……後日、一通か二通の手紙が届く。若い紳士が集まる社交場へ招待されるようになった。同志がいてくれたのかな?
これで彼女の心が少しでも救われれば、僕は嬉しい。




