軟体令嬢は普通潜入を試みる
半月を隠す雲。弱弱しい月明かりが、レンガ造りの街並みを照らす。影は濃く、わずかな光さえも飲み込みそうだ。
少し肌寒い夜間。人の気配が静まり返り、遠くから男女が争う喧騒が微かに聞こえるだけ。夜陰に乗じるには、絶好の月夜だ。
商業地区、二つの影が走り抜ける。それは影から影へ、溶け込みながら進んでいた。迷いなく進むその様は、一つの獲物を定めている獣だ。
獣は二階建ての建物にまとわりつく。ゆっくりとした動作で、建物を窺い回る。そうして、二つの獣の影が重なった時、月明かりが姿を照らす。
一人は黒いコートでフードを被った、端整な顔立ちの男。もう一人は、全身黒いレザーで覆われた女。顔を隠す黒いマスクを頭から被っていた。
男が女に話しかける。
「本当にやるんですかい、お嬢」
「もちろんです。そのために、この時間を選びましたから」
「まぁ、見つかる確率は下がりますが。何かあったら声上げてくださいよ。俺が、助けに入りますから」
男はコンナート家が雇っている用心棒、名はボルグ。40歳手前の夢見がちな独身。自分の言葉に酔いながら、ニヒルな笑みを浮かべた。
そんなボルグに、真剣な表情のサリアは頷く。
「本当はエリオット様に助けて頂きたいのですが、仕方ないでしょう」
「……そんな本音はいらないです」
小さな夢すら見れないボルグ。少し泣いた。
それでも、仕事はしなくてはならない。コートの内側から鉤縄を取り出す。振り回しながら狙いを定め、建物の屋根目掛けて投げた。高く高く上がり、放物線を描いて煙突の中に入っていく。頃合いを見て引っ張ると、爪が引っ掛かり縄が張った。
「扉や窓に鍵がかかってたんで、この方法しかありませんが」
「煙突からの侵入ですね。シーツを頂けますか?」
ボルグは肩にかかった麻袋を開き、中から白いシーツを取り出して渡す。それをサリアは腰に巻いてから、縄を手に取る。
サリアの前にボルグが一歩進み出た。
「途中まで持ち上げますか、お姫様?」
わざとらしく、手を差し出してお辞儀をした。少し上げた顔は、やはりニヒル笑いでウィンクをしている。
「いえ、結構です。エリオット様以外の男性に、極力触れられたくありませんから」
「あ、はい」
ガラスのハートは、なんとか持ち堪えた。
自尊心と戦っているボルグを捨て置き、サリアは縄を握り締めてレンガの壁を蹴り上がる。細く身軽な体。意外と腕の力はあるのか、止まることなく登っていく。
その様子を注意深く見ているボルグは、こう思っている。
(うーん、素晴らしい……足と尻)
役得に甘んじていた。
そうこうしている間に、サリアは三角屋根に降り立つ。瓦屋根で足元は歩き辛い。音を立てず、慎重に進んでいった。
煙突に引っかかった鉤縄を外し、煙突にシーツを被せる。今度は鉤縄を屋根の端に引っ掛けた。縄を手に持ち、一辺50cmの煙突にゆっくりと身を沈めていく。
下がるとシーツが体を包んでくれて、煙突にこびりついた煤でレザースーツが汚れない。手慣れた様子で煙突の根本、暖炉に無事着地した。
その瞬間、注意深く部屋を見渡す。人影は居なかった。
(この部屋は、応接室ですね)
少ない月明かりだけの室内。置かれた家具を確認し、ここが目的の場所ではないことが分かった。すぐに立ち上がり、扉に近づく。できるだけ音を立てないように、ゆっくりとドアノブを回す。小さな金属音が鳴り、ドアがゆっくりと開く。
(玄関が向こうなら、反対側辺りにありそう)
暗闇に包まれる廊下。目を凝らして状況を判断した。室内は木造になっており、一歩進むごとに木が軋む音が鳴る。それでも、音は小さい。
一つ一つ、扉を確認していく。そして、一番奥……立派な錠前がぶら下がる扉を見つけた。一番、怪しい。
鍵開けの技術はない。さて、困った。と、手を頬に当てて首を傾げる。一応、錠前を確認しようと手で触ってみる。すると、あることに気づく。
(扉と壁を繋ぐ金具が……これは、アレが使えますね)
扉の掛け金部分が劣化していた。
きっと、使用者が乱暴に扱い続けたせいだろう。脛の横に手を伸ばし、備えつけていた一本のネイルハンマーを取り出す。先切りを掛け金に引っ掛けると、扉に足を押し当て、全身の力を入れて引っ張る。
ゆっくりと掛け金が変形し、扉と離れていき……ゴトリ、と重々しい錠前が落ちた。
扉を開けると、月明かりだけが照らす室内が見える。
(まずは、机の周辺から)
薄暗い部屋の奥、大きな机に標的を定める。
引き出しの中と裏。机の側面。イスの裏。手探りで調べたが、怪しいところは一切なかった。中に入っていた書類は正規のもので、明らかな不正の痕跡は見当たらない。
諦めずに壁際の本棚を調べたが、ここも怪しいものはない。
(ここは、外れだったのかしら……)
ここは薬効のある植物類の買いつけや卸し、薬の製造を請け負っているターマズ調剤店。毒取引ならば、一番怪しい所だった。
もう一度、部屋を歩き回り調べなおす。
(……ここ、怪しいですね)
布生地で作られた二人乗りの紺色ソファー。ソファー裏の床に接している生地が、不自然にめくり上がっていた
生地をめくり上げ、手を入れると固いものに当たった。掴んで外に出すと、それは一冊の本。南京錠つきだ。
(見つけました)
マスクの下で目元が笑う。
◇
「お嬢、問題なかったですか?」
「ええ、この通り」
サリアがボルグの下へ戻り、すぐにその場を後にした。脇道に入り、戦利品をボルグに見せる。
「はぁー……凄いですね」
「とりあえず、中身を拝見しましょう」
そう言ったサリアは、ネイルハンマーを取り出した。鍵の部分を何度か叩くと、掛け金が変形し南京錠が落ちる。少ない月明かりを頼りに、本を開き見た。ボルグはサリアの後ろから覗き見る。
一枚一枚ページを捲ると、どんどんボルグの表情が険しくなった。仕舞いには顔を両手で覆い隠すほど。
「これは支配人のポエム集ですね。はずれです」
「……良く読めましたね。俺は、心が痛いです」
「まあ、これはこれで使えるので。残しておきます」
「あ、悪魔だ……悪魔がここに居る!」
身に覚えがあるボルグ。物凄く、いたたまれなくなる。
結局この夜は、収穫がなかった。




