軟体令嬢は恋愛成就を目指してカバンに隠れている
木の上で女の子が一人、座っている。微かな泣き声と共に、肩が何度も揺れていた。
小さな体を包むドレスの裾や足元は、土草で汚れ。淡い亜麻色の三つ編みは、ほつれていて。薄茶の目からあふれる涙は、ポロポロと落ちていた。
そんな女の子に声がかかる。
「ほら、もう大丈夫だよ。降りておいで」
とても優しい声だ。女の子は怯えながらも、ゆっくりと顔を上げる。涙はまだあふれていた。
「もう怖くないよ。受け止めるから、飛び降りておいで」
慌てて拭っても、じんわりとにじみ出る涙。拭いながら木の下を見渡す。そこには金髪が眩しい男の子がいた。先ほどまで追い回していた子供の中にはいなかった髪色だ。
女の子は警戒しながら問いかける。
「……貴方一人、ですか?」
「あぁ、そうだよ。だから、もう大丈夫」
「悪口を言っ――」
「僕は絶対、君を傷つける言葉は言わないよ」
力強い言葉と、優しい口調。悲しげだった女の子の表情に少しだけ笑顔が戻る。
さあ、と腕を広げて身構えた男の子。突然のことで戸惑いを見せ、顔を伏せた。優しい声は根気強く女の子を慰める、「大丈夫だよ」と。何の変哲もない言葉なのに、それは女の子の勇気となる。
「……いきますっ」
「うん!」
木の幹に両手をついて力を込める。前のめりに倒れるように、飛び降りた。
落ちるのは一瞬。
すぐに強い衝撃が二人に響く。下には男の子、上には女の子。精一杯抱き止めた男の子が衝撃を受け止めてくれていた。
「いててて……ごめんね、大丈夫?」
「い、いえっ……助かりました。ありがとうございます」
男の子は苦笑いを浮かべながら体を起こした。無事でホッと安心して、女の子の表情は緩んだ。束の間、気づいてしまう。
密着した体の温もり。
自覚した途端にふくらむ羞恥心。心臓が激しく脈打ち、息が上がる。あっという間に熱くなる顔や体。恥ずかしさで思考が止まる。
ポンポン
頭を優しく二回叩かれた。それだけで、不思議な魔法にかけられる。
「良かった、君を助けられたよ」
はっと顔を上げると、少し寂し気に笑っていた。
優しげに細められた青い瞳。太陽の光で淡く輝く金髪。慈愛に満ちた表情がキラキラと輝いて見える。
ストン―――――と、恋に落ちる。
ありきたりな恋は無自覚のまま、心の奥で芽吹いた。
サリア・コンナート子爵令嬢とエリオット・ダダルク伯爵子息。出会いは10歳の時だった。
◇
二人は数年後に再会し、交流を始めた。惹かれ合い、恋が実る。その日を夢見て、少しずつ恋を育てていった。
しかし、実り熟す前に刈り取る者が現れる。出会いから8年後、18歳の時だ。
エリオットの継母、ミーティア夫人。
療養目的でエリオットを邸宅に軟禁。当主長期不在を良いことに、独断で全ての交流を絶たせ、外界との接触を固く禁じる。それは異常な抑制。
その抑制にいち早く気づいたのは、親交のある子息令嬢だった。
「エリオットの解放を強く嘆願する!!」
ダダルク家の邸宅。外壁に備えている鉄門の前に、数名の子息令嬢が声を上げて訴えていた。鉄門の向こう側には、執事と思わしき中年男性しかいない。たった一言「お引き取り下さい」とだけしか言わず、誰も鉄門を突破できなかった。
そして時間が経つにつれて減っていき、子息と令嬢が一人ずつ残るありさまだ。その令嬢こそ、想いを寄せるサリアだった。夕暮れになっても、声を大にしてずっと訴える。
「ミーティア夫人を出してください!! 統一王の庇護下にいる方が、このような不当なやり方は許されません。名を落としますよ!!」
数百年と戦乱の世が続いていた大陸。その戦乱の世を静め、約50年前に東西に分断されていた大陸を統一した王。その統一王の勅命により、夫人はダダルク家に嫁いで来た。
絶大な後ろ盾を利用して、夫人は継母という立場でもダダルク家で我が物顔。今回の暴挙も当主不在を狙い実行した。
目に余る夫人の暴挙。サリアは真向から否定し、日が傾いても何度も訴え続ける。
西日が強く照りつける夕暮れ時。奥の方で邸宅の正面玄関が開く。現れたのは黒いドレスを纏い、明るめの茶髪を結い上げ、飾りつけをした夫人。特注の眼鏡は黄金に輝き、散りばめた宝石が西日で反射して怪しく光る。
後ろにバケツを持たせたメイドを控えさせ、鉄門に向かって真っすぐ歩いてきた。
「ミーティア夫人!! どうして突然エリオット様をっ!!」
サリアは叫んだ。
息を大きく吸い、力の限り訴えようとする。
しかし、その時――――――
バシャァッ!!
顔面に大量の水。強い水圧と共にぶつけられた。
「ゲホッ……ゴホッ」
苦しく咳き込み、うずくまって目をこする。
水が口にも、目にも入ってしまったようだ。
そこに容赦ない言葉が浴びせられる。
「品のない。これだから庶民の血が混じった下賤な小娘は」
低い声。這いつくばせられる威圧がある。
片手で髪をかき上げ、未だにじむ視界のまま、顔を上げた。次第に鮮明になっていく夫人の表情。
光のない黒い目で見下し、紅をひく閉じた唇。その手に水の滴るバケツを持って、無表情のまま口を開く。
「あんたには、その姿がお似合いよ」
そう言い捨てた夫人。バケツを鉄門に向けて投げた。甲高い金属を響かせた後、夫人は背を向け邸宅に戻っていく。
サリアはそれを黙って見送るしかできなかった。
濡れた地面を指が掴む。跡をつけながら握られた手。力強く握りしめて震え出す。
顔を俯かせると、濡れた髪が首筋や顔に張り付く。整えずに、目線だけを上げた。その目は飢えた獣のようにギラついた。
「あのっ、クソババァッ……絶対に諦めない」
令嬢らしからぬ言葉を吐き捨て、小さくなった夫人の背を睨む。だが、睨むのは一瞬。すぐに表情を緩め、ほくそ笑んだ。
「私は必ず戻ってみせます。エリオット様のお傍まで……」
執念は途切れるどころか、さらに高まる。
片想い歴8年。他家からの婚約打診を蹴って、実家を継ぐ安定した立場も捨てた。全ては未だ叶わぬ初恋の成就のため。
茜色に染まる空の下。業火の如く燃え上がった執念はひと月後に達成されることとなる。
それは常人では思いつかない形で――――――
◇
薄明りの室内に扉を叩く音がした。音を聞いたエリオットは力を振り絞り、寝台から体を起こす。
目が気力なく開かれ、くまが浮かんでいる。顔も青白く、寝具の上に力なく置かれた手は細い。少し肩にかかる金髪も今は輝きを失っていた。
「入れ」と声をかけ、ゆっくりと開かれる扉。一人の侍従がワゴンを押し入って来た。その上には一つの黒革のカバンがある。
ワゴンを寝台の横につけてから、侍従は浅く腰を曲げて口を開く。
「エリオット様、コンナート子爵家よりお見舞いの品が届きました」
「……僕に? 夫人は承諾したのかい?」
夫人の横暴な命令で外界からの交流を絶たれていたはずだ。信じられない、と怪訝そうに眉間に皺を寄せた。そんなエリオットに対し、侍従は穏やかな口調で伝える。
「どうやら、ご当主イーガ様が独自に結んだ協定内でのやり取りだそうです。夫人は当主同士の協定に口を挟むことはできませんから」
「そうか……不幸中の幸い、か」
統一王の庇護下にある夫人の影響力は強い。だが、当主が決定した契約などには手出しはできなかった。
遠くの地にいてでも、自分の身を案じてくれる父に感謝をするエリオット。
侍従の手を借り寝台の端に腰掛けると、ワゴンに乗った黒革のカバンを見た。
「コンナート家というと、サリア嬢かな?」
「はい、そのようです。お手紙も一緒に届けられましたし」
一体どんな手を使い、どんな物が届けられたのか?
久しぶりに心が躍る出来事を前に、エリオットの悲愴感漂う顔にも笑顔が浮かぶ。
侍従は手紙を先に読ませることを忘れ、意識はカバンの中身に移る。エリオットがカバンを開けようと手をかけた。その手が黒革に一筋通る銀色の線をなぞった。
「コンナート家傘下の職人かな。新作のチャック式カバンだね」
「良く知っておりますね。しばらくお会いしていないのに」
「……以前話していたからね。こういう細工を僕が好きなのを知っているから、興味深い話をしてくれて楽しかったよ」
少し茶化してきた言葉に、エリオットは複雑に表情を歪めそっぽを向く。子供っぽい仕草に侍従は微笑み、それを制すように咳払いをする。
伸ばされた手はチャックの取手を掴み、ゆっくりと引かれていく。
気が逸った二人は、カバンの中を覗き込む。
「お久しぶりです、エリオット様」
満面の笑みを浮かべたサリアの顔がこちらを向いてた。
「「ひぃっ!?」」
二人の悲鳴が重なり、後ろに仰け反る。
「あぁ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたね。お手紙は読んで下さいました?」
開いたカバンからひょっこりと起き上がるのは、サリアの顔。
エリオットは驚き過ぎてしまい、苦しそうに腹部を押さえている。代わりに侍従が鼓動の煩い胸を押さえながら、なんとか声を絞り出す。
「ももっ、申し訳ありませんっ……先にお渡しするのを、忘れておりました」
「そうでしたか。仕方ありませんね」
首だけ出したまま頷く。
そんなサリアに二人の戸惑いの視線が突き刺さる。それに気づくと顔をカバンの中に引っ込めて、もぞもぞと動き出す。その間、遠巻きにして見守る二人。
しばらく経つと、後頭部からゆらりと起き上がってくる。
どうやってその向きに?
驚愕に染まる二人の表情。それを知って知らずか、サリアはゆっくりと体を起こしていく。上半身がカバンから出ると、すくっと立ち上がった。ワゴンの上で。
藤色のワンピースで身を包み、背中には緩くまとめた三つ編みが揺れる。礼と取ろうとした時、重心がずれてワゴンが傾いてしまった。
「きゃぁっ」
体が倒れる。寝台の上にいるエリオットの方に。
受け止めようと貧弱な手を伸ばすエリオット。
合法的な接触の機会に手を伸ばすサリア。
二人の体は重なり合い、寝台の上で同時に弾んだ。
(あぁぁああぁっ、久しぶりのエリオット様ああぁぁぁぁっ!!)
サリアの心の叫びがうるさい。
しかも、エリオットにがっちりと抱きついて離れない。
(事故だから、これは事故だからいいですよねぇええええっ!!)
拗らせに拗らせた初恋の暴発。ここぞとばかりに欲求を満たしていった。
が。
下敷きになったエリオットが気を失っている。
それに気づいた時に激しい後悔に襲われて、泣きながらカバンの中に帰ったらしい。