4 自由の翼
夜も老け、辺りは既に闇に閉ざされていた。
広大な草原の中にポツリとある、小さな神殿。数本の柱が円形に立っているだけの質素なこの神殿に、多くの騎士たちの姿があった。
この地下で、彼らの守護すべき人物がある儀式に立ち会っている。騎士たちには、この儀式が終わるまで地下に立ち入ることは許されていない。
この儀式は、魔力の濃度が高い場所で行う必要がある。このような辺境の地が儀式の場なのは、ここが最もその条件に適しているからだ。
「……おかしい。儀式が長すぎる。」
一人の騎士が遂にこの言葉を呟いた。
否定する者はいない。全員がわかっていたことだった。ただ、その言葉の意味を誰もが理解したくなかっただけである。
儀式に参加した王の帰りが遅い。
悪魔召喚の儀。これの危険性を正確に理解できている者は少ないが、命の保証はないことぐらいは子供でもわかる。それが、この世界の常識だ。
彼らの主たる王の身に何かあったのかもしれない。それを口に出すことは騎士としてはばかられた。だが……。
「儀式に失敗したのか?それにしても、何らかの知らせはあるはずだ。」
「……準備に手間取っている可能性もある。ただでさえ精密な儀式だからな。失敗はゆるされん。」
「『悪魔』との戦闘を行っている気配もないしな……。」
騎士たちは口々に仮説を言い合った。最悪のものを除いて。
しかしどの仮説も、悪い事態であることには変わりない。早急に現状を確認する必要がある。
「………私が様子を見てこよう。」
一人の勇敢な騎士が名乗りを上げた。
下手をすれば命を失いかねない役目だ。彼の提案に反対するものはいなかった。皆、自分の役目にならなかったことに安堵した。
地下へと続く階段を降りていく。
コツ、コツ……という無機質な足音が響く。暗闇の中で、頼りになるのは手に持つ松明の明かりだけ。
彼の不安感はその松明の炎のように揺らめいていて………。
(待て、何故火が揺れている!?)
地下に、風は吹いていない。それにもかかわらず、火は騎士の歩みによる揺らめき方とは明らかに違う動きを見せていた。
冷や汗が止まらない。間違いなく、この先で何か起きている。
彼の中で、最悪の状況がより鮮明に浮かび上がった。
全滅。
「クソっ!」
彼は思わず悪態をついた。
もう引き返せない。もしそれが本当なら、逃げ帰ったとしても生き残れない。
肉体を持たない『悪魔』には、物理的な攻撃は意味がない。ならば魔法で戦わねばならないが、魔術師たちが倒されているなら対抗する手段は失われている。
果たして、魔術師たちを皆殺しにするような『悪魔』が、自分たちを見逃してくれるだろうか。
地下室の入り口に着いた。騎士は、震える手で扉に手をかけ、一息に開け放った。
突如、暴風が彼を襲った。膨大な量の魔力の波だ。
松明の火が揺れたのは、この魔力の余波によるものだったらしい。彼は改めて、この異常性を確信した。
波に飲まれそうになりながらも、彼は己の任務を全うするためにその先を睨みつけた。そこで見たものとは……。
倒れ込み、ピクリとも動かない王の傍にかがみこむ、黒髪の少女の姿だった。
騎士はその瞬間に、全ての異常の根源がこの少女であることを悟った。
間違いない。あれが『悪魔』だ。
息が止まりそうになった。あれと絶対に敵対してはならないと、本能が訴え掛けている。
地下室にこだまするかと思えるほど、心臓が大きく鳴り響く。騎士として欠いてはならない心の余裕は、微塵も残っていなかった。
少女は静かに立ち上がった。騎士からは背を向け、その表情はわからなかった。
少女はふと、天井を見上げた。騎士も、上に何かあるのかと思いつられて見上げる。その瞬間……。
少女は一気に飛び上がり、天井を突き抜けていった。
わずかの間であったが少女から目を離していた騎士は、何が起こったのかわからなかった。ただ、混乱するばかりである。
少女のいなくなった地下室は、嵐の去ったあとのような不気味な静けさに包まれていた。
安堵、恐怖、困惑………これらの感情に押しつぶされるが如く、騎士は力なく地面に座り込んだ。
王の死亡の知らせが広まるのは、もう少しあとのことである。
◇◇◇
どうやら、肉体はないようだ。
私の体は天井をなんの抵抗もなく通り過ぎる。ここはどこか、それを知るために、あの部屋を出て上空へと向かっていた。
体の使い方は白の世界と変わらない。まさか、この世界に出てからも自由に飛び回ったり完全な記憶能力を使えるとは思わなかった。便利だからいいけど。
………あの人たちは死んでいた。
人形のように動かない死体は、生きている人にはない不気味さがある。人は、それを無自覚にも感じ取って、自然と恐怖を覚える。
私にも、そんな感情がなかったわけではない。だけど……私は、ひどく落ち着きすぎている。
あの白い世界から出たとき、心の中は感情の波に溢れていた。当然だ。今までずっと、待ち望んでいたことだから。
だけど、今私は冷静そのものだ。言葉にできないあふれる感情を、一瞬で整理できてしまったようだった。
死体を見たときもそうだ。動揺することもなく、感情に大きな波は起きなかった。
生きていた頃ならば、考えられないことだ。
なにか……人間らしいものを失った気分だった。
こうして肉体を持っていないことといい、私はもう人間ではなくなったようだ。
いや、あの白の世界に来た時点で、人間はやめていたのだろう。
ちょっと、虚しい。
地上に出た。もう夜だったようで、暗くて周囲はよく見えない。
古代ギリシャの神殿みたいな建物だ。地下の祭壇の邪悪な感じとは真逆で、どこか神々しさを感じる。
たくさんの甲冑を着た騎士らしき人たちがいる。初めて生きている人を見た。
とりあえず、上空から様子を見ていると、騎士たちはおびえたように後ずさりしながらも私に剣を構えてくる。
ああ、対話は無理のようだ。どちらにしろ、彼らの話している言葉は私の知らない言語なので、話すのは不可能だが。
彼らにとって私は敵らしい。ここのことは何もわからないので教えてくれたらと思ったのに、そうはいかなかった。
………ああ、空だ。白くない夜空だ。
夜空を眺めるなんて、いつ以来だろう。この黒を見て、やっと実感が持てた気がする。
私は白の世界から出ることができた、ということを。
久しぶりに、泣きたくなった。
私は、この空を自由に飛んでいいんだ。何もなかったあの世界と違って、空からいろんな物を好きに眺められるんだ。
世界の果てもなかった白の世界。それに比べればここは狭いのかもしれない。
だけど、ここには空がある。大地がある。人がいる。文明がある。
そして、自由がある。
気持ちの整理はついていたと思っていたが、そんなことはなかった。私は今、感情を抑えきれない。
溢れ出た感情が、私の自由への喜びが、心の中で形となる。
私が、歪み、蠢き、感情の形になってゆく。
―――イメージするのは、翼。自由の象徴。前へ進むための、己の道を貫くための力。
―――イメージするのは、瞳。識見の象徴。知ることの喜びであり、溢れる好奇心の表れ。
―――イメージするのは、心臓。生命の象徴。喜び悲しむことのできる、生きる者としての証。
―――イメージするのは、漆黒。闇夜の象徴。日は常に輝かず、即ち示すのは時間の流れ。
無数の心象が混ざわり、合わさり、一つの影を生み出した。この姿こそが、感情の具現化であり、あるべき姿だ。
気がつくと、私は黒い翼で羽ばたいていた。
羽で風を掴むたびに、心が満たされるようだ。なんていい気持ちだろう。
私は思いっきり叫んだ。静かに溜まっていた鬱憤を、一気に吐き出すように。
私は、じ・ゆ・う・だぁぁーーー!!
「キュイィィィイイイィ――――!!」
騎士たちは、この日を忘れることはないだろう。
恐ろしい『悪魔』が、姿を現したこと。
その『悪魔』は、恐怖を忘れるほど美しかったこと。
『悪魔』は漆黒の大鷲に姿を変え、夜に溶けるように飛び去ったこと。
その後ろ姿は、何故か歓喜に満ちあふれているように見えたこと。
これらは彼らの記憶に深く刻まれた。後に、この出来事は歴史の1ページに残ることとなる。
しかしこれは、まだ序章に過ぎなかった。