1 白の世界
―――ここはどこだろう。
私は、目の前の景色に困惑していた。
見渡す限り、白一色の世界。白以外に、何もない。地平線すら白く塗りつぶされている。
上も下も、右も左もわからない。地面も見えないから、体が浮いているような感覚に陥る。
いや、そもそも体はあるのだろうか。自分の手も足も見えない。ただ、白が見えるだけ。
さっきまでは、学校への登校途中だったはずだ。何をどう間違えたらこんなところに来るのだろう。
こんな場所、現実に存在するわけがない。真っ白に塗りつぶした部屋でも、壁と床の境くらいは見える。ここはそれすらない。
まるで、夢の中だ。
ただの妄想かもしれない。しかし、私の頭は何故か妄想であることを否定している。これは現実なのだと、本能が訴え掛けている。
……妄想だったら良かったのになあ。既に私の中ではこの白い世界に実際に私がいるということに確信が生まれている。根拠はないけど……。
これが現実だとして、どうやったらここから抜け出せるのだろうか。
当然、出口のようなものは見当たらない。というか、何もない。ただ白いだけで、ものが存在していない。
歩き回れば見つかるだろうか。ここで立ち止まっていても仕方ないし、うごいてみよう。
まずい。自分が動いているのかがわからない。動く景色がないからだ。せめて自分の体を認識できればよかったのだが、それすらわからない。
せめて妄想でも、自分の体を作ってみよう。女子高生だった私の、地面を踏みしめる革靴とか、脚に触れて揺れる制服のスカートとか……。
……!?
想像を膨らませた瞬間、そこに本当にそれが現れた。間違いない、私の手足だ。
想像したら、ほんとに出てくるの!?まるで魔法だ。いよいよ、この空間がわけがわからなくなってきた。
うん、ちゃんと歩いてる。やっぱり進んでる実感はわかないけど、歩いてる足が見えると全然違う。
しかし、考えるだけでその物が出現するのか……。試しに、白い空間が北海道の草原の景色に変わるよう念じてみる。
変化はない。変えられるのは自分の体だけ?謎の制限だなあ……。
歩いている間暇なので、自分の衣装を色々変えて遊んでみた。ナース服、セーラー服、軍服、鎧兜などなど……。
やっぱり不思議だ。これはどういうことなんだろう。
遊んでいるとき、あることに気がついた。以前よりも、「想像すること」がしやすくなっている。どんなに奇抜な衣装でも、細部に至るまで精密に想像できるのだ。
忘れていた記憶も、瞬時に正確に思い出すことができる。小学生の頃の、何でもない日常の何でもない会話の一言に至るまで、映像を再生するかのように思い出せる。
異常だ。普通じゃない。ここは本当に、何なんだろう……。
どれほど歩いたっけ。もう、完全に時間の感覚は狂っている。
一時間しかたっていないのかもしれないし、一週間たっているのかもしれない。
ここでは、考えること以外に何もできない。
せっかく記憶を完全に思い出せるのだから、自分の人生を生まれたときから辿ってみることにした。
産声を上げた私。目はまだ見えないけど、周囲からは喜びの声が聞こえる。
ああ、これはお母さんの声だ。その声音は、抑えきれない喜びに満ちている。
……おや?今お母さんがなにか言ったが聞き取れなかった。いや、正確には思い出せなかった。
その思い出せない言葉で、お母さんは何度も私に呼びかけている。
これは………私の名前?
間違いない。お母さんは、私が生まれる前から名前を考えていたと言っていた。このときしきりに呼んでいたのは私の名前だ。
おかしい。私の名前だけが思い出せない。
他のどこの記憶を漁っても、私の名前とそれに関連する記憶だけなくなっている。
学校でつけていた名札も、テストに書いた名前も、病院で呼ばれた声も。
不意に、私は怖くなった。
まるで、あの世界から私の存在が消されたように感じた。
―――そうか、今私は一人ぼっちなんだ。
あの世界から消されて、この世界に私一人だけになったんだ。
―――この白い世界に来てから、もう何年かはたっただろう。
なんせ今までの16年分の回想が、もうすぐ終わりそうだから。
寝ている時間の記憶を飛ばしたとしても、人生をもう一周したわけだ。長い夢だった。
私の人生が、最終盤を迎えている。つまり、私がこの世界に来た直前の記憶。
暑い夏の日だった。夏休みも間近に迫る季節の、高校への通学路だ。
ああ、ふらついてるなあ。この日は記録的な猛暑に襲われて、熱中症気味だったらしい。照りつける太陽に文句を言いつつ、熱いアスファルトの上を歩いていく。
……あ〜あ、倒れちゃった。水分補給を怠ったせいだ。もともと体は強いほうじゃなかったから、この暑さに負けてしまったようだ。
目が回る。息が苦しい。段々と視界は白く曇り始め、やがて体中の力が抜けて……。
……どうやら、私は死んだらしい。熱中症で。
その後私はこの不思議な白い世界に飛ばされたわけだ。
つまり、ここは天国なのだろうか。天国だとしたら、あまりに殺風景すぎる。神様よ、もう少し退屈しない世界にしてほしかった……。
だが、天国なら納得できる。この白すぎる空間も、考えるだけで姿を変えられる不思議能力も。人の理解が及ばない点では変わらないが……。
やっぱり、これまで歩いてきた中で白い世界に変化はなかった。白くないのは、私の体だけ。だがおそらく、これも私の空想の産物だろう。
死んだあとが、こんなにもつまらないとは思わなかった。記憶を完全に思い出せるのはびっくりしたけど、考える以外に何もやることがない。せめて、転生して新しい人生を歩ませてほしい。
……なんだか、無性に腹が立ってきた。もしかしてここは、天国ではなく地獄ではなかろうか。地獄に落ちるほど悪人である自覚はなかったのだが。
ちくしょう。この退屈に負けるのは許せない。
私は、再び空想の世界に潜っていった。今度は、何を妄想しようか。長編小説でも作り上げてやろう。