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今日も放課後は図書室に向かう。
いつもと変わらぬ静かで落ち着いた空間。
ここへ来ると、いつもホッとする。笹本芹香にとって、図書室は学校で一番好きな場所だ。
棚にぎっしり詰まった蔵書には、様々な世界が広がっている。
本を開けばそこは異世界。物語に集中し、登場人物の感情や境遇を追体験する。
夢中になって読み進めるうちに、いつも外が暗くなってしまい、慌てて下校するのが芹香の日常だった。
でも今日は違う。来週に始まる中間テストに向けて、追い込みをかけるために来たのだ。
テスト前ということで、混んでいるのではないかと心配していたが、幸いにも小さなテーブルが空いており、一安心して芹香は席に着いた。
沢山並んだ蔵書の誘惑からぐっと目をそらし、歴史のノートとプリントを取り出す。
芹香には目標があった。前回のテストよりもいい成績をとり、ご褒美として前から欲しくてたまらなかったシリーズ本を揃えるつもりなのだ。
使命感に燃え、ノートを開く。静かな環境も相まって、芹香はどんどん勉強に集中していった。
テスト範囲のプリントをすべて解き終え、うーんと伸びをする。
腕時計を確認すると、図書室に来てから3時間以上たっていた。
うん、よく集中できた。満足して、芹香は机の上に散らばったプリントを片付ける。
いつもより混雑気味だった図書室も、気づけば閑散としている。
その時、ふと廊下が騒がしいのに気づく。
聞き覚えのある人の声がどんどん近づいてくる。
多分これは、同じクラスの中のいい4人グループの子たちの声だろう。
「ここになら絶対あるよね!」
愛らしいソプラノが図書室に響く。
芹香の予想に違わず、同じクラスの相原桃が茶髪のツインテールを揺らしながら駆け込んできた。
「早く資料探そう!桃、今日のテレビ見たいのあるの!」
大きな瞳をキラキラさせながら、じれた様子で他の3人を急かしている。
「だめだよ、図書室は静かにしなきゃ」
軽く桃をたしなめながら、佐々木要が入ってくる。
ライトブラウンの髪質や優しい笑顔が特徴的で、柔和な印象をもたらしている。
周りの女子がこっそり「王子」とあだ名をつけていることを芹香は思い出した。
「でも誰もいないみたいだね。これならゆっくり探せそう」
ラッキー、と続けて黒髪をボブカットにした二条蘭子が入口近くの本棚の上に、鞄をどさりと置いた。
切れ長の瞳と長い睫毛が印象的で、いつも落ち着いて物怖じしない美少女だ。
「パソコン使って探そうぜ。俺も早く帰ってサッカー見たい」
言葉通り急いだ様子で、橘健吾がマウスを操作する。
長身の健吾は、ディスプレイを見るためにやや背中を曲げている。
落ちてくる前髪にうざったそうに舌打ちする姿は、どことなく野性的で精悍だ。
まずい。芹香は微妙に焦った。
もともと喋るのが苦手でローテンション、友達は本だけ・・・とは言わないまでも、数少ない。
そんな自分が別に嫌いではないが、華やかなタイプでないことは自覚している。
それに引き換え4人はいつもクラスの中心にいて、きらびやかで賑やかな雰囲気だ。
いじめられたことはないが、芹香は何となく自分と正反対のこのグループが苦手だった。
幸い、貸出カウンター上の掲示物が障壁となって、4人は芹香に気づいていない。
話しかけられても面倒なので、芹香は4人が退室するまでひっそり静かにしていることにした。
まとめたプリントの束を整え、チェックシートを使って暗記の確認をしようとする。
次の瞬間、手の中にあったプリント類がかき消えた。
「え?」
プリントどころか、目の前にあった机も消えている。
慌てて周囲を見渡すと、整然と並んだ蔵書の代わりに数十人の人間に取り囲まれていた。
皆顔を隠すような深いフードがついた、色とりどりの丈の長い服を着ている。
全員芹香からは半円状に距離がある。その足元には、青く輝く魔方陣。
「成功した!成功したぞ!」
視覚に一瞬遅れて、聴覚が回復する。
周囲の人間が叫ぶ声が一斉に芹香の耳を貫く。
皆一様に大喜びし、滝のような汗を流している。
歓喜のあまり床に這いつくばって、泣き出しているものまでいた。
「勇者様!どれほどお会いしたかったことか・・・」
一人の女性が走り出てくる。
柔らかくウェーブした金髪、青くうるんだ瞳。可愛らしいピンクのドレスがとても似合っている。
まるで絵本の中から抜け出したお姫様のようだ。
「え?え?」
ぽかんとしている4人。その前にお姫様は進み出て、涙ながらに礼を言った。
「この王国の危機に本当に駆けつけてくださるなんて。
私たちを助けてくださり、さらなる繁栄を授けてくださる皆さん4人を歓迎いたします」
芹香はゆっくりと足を踏み出す。
これは、まずい。
頭の中で警報ランプが真っ赤に鳴り響く。
ゆっくりと薄らいでいる魔方陣。
あの4人は、円形の魔方陣の中心にまとめて立っている。
だが芹香は、端っこににぎりぎり自分が入っていたことに気づいていた。しかも、後ろ向きで。
芹香は本が好きだ。
王国の危機に勇者が召喚される・・・そんな場面は数多く見てきた。
戸惑っていた4人も自分が「呼び出された」ことを理解したらしい。
桃は激しく泣き出し、要は動揺した表情で桃をとっさに支えている。
蘭子が取り乱しつつも何度も質問をし、自分たちが勇者として、この国に出る魔物を倒すために呼ばれたことを告げられる。
「ふざけんな!そんな化け物と普通の人間が戦えるかよ!」
桂悟が激高して叫ぶ。普通の女性なら泣き出してしまいそうな権幕だが、お姫様の笑顔は崩れない。
「勇者様、あなたがたは普通の人間などではありません。
特別なスキルをお持ちのはずですわ」
パニックに陥っている4人を見つめ、優しい笑顔でお姫様は告げる。
「私はアビゲイルと申します。アビゲイル・ドナ・クレイン。
クレイン王国の第一王女です。
これからよろしくお願いしますね。
初めは戸惑うかもしれませんが、私がどんなことでもお力になります」
アビゲイル姫が涙ながらに4人を歓迎しているのを横目で見つつ、芹香はゆっくり慎重に歩を進める。
あとちょっと、あと一歩で魔方陣から抜け出せる。
そうしたら、もしもだけど、無関係だと思ってもらえるかも。
もっと運がよかったら、日本に帰れるかも。
ううん、なんでもいい。とにかくこの事態から離れたい!
「あら?あの方は?」
アビゲイル姫の優雅な声が芹香のそんな希望を打ち砕く。
広間中の視線が芹香の背中に集中するのがわかった。
その瞬間、足元の魔方陣がシュッと消え失せる。
「笹本さん!?」
絶望のあまり、ぺたりと床に崩れ落ちた芹香に要が声を上げる。
まさか自分たち以外がいるとは思わなかったのだろう。パニックになっていた4人も絶句している。
丈の長い服・・・きっと魔法使いが着るローブというのだろう。
血のような深紅の地に、豪華な刺繍が施されたローブを着た、一番位の高そうな魔術師がアビゲイル姫に近寄り何かをささやく。
アビゲイル姫の表情に、一瞬困惑が浮かぶのを芹香は見逃さなかった。
「すみません、今すぐ私をもとの世界に返してください」
芹香は震える声で、アビゲイル姫に言った。
先ほどの歓喜に満ちた空気は消え、困惑と疑惑の雰囲気が立ち上っている。
眉を寄せた姫を置いて、深紅のローブの魔術師が芹香に近づいてくる。
「娘、『ステータス』と言ってみよ」
何を言っているのか。元の世界に返してくれ――そういいかけた芹香を、魔術師の血のように赤い目が射貫く。
殺される。芹香は直感した。
本能でわかる。役に立つと認められなければ、この後始末される。
今まで感じたことのない、全身に恐怖がほとばしる感覚。
手も、足も震える。まるで麻痺したように。
「ス、ステータス」
名前:笹本芹香
種族:ヒューマン
属性:なし
レベル:1
スキル:暗記
芹香は目を閉じた。絶望感に包まれて、意識が遠のいていく。
クラスメイトの泣き声と叫びだけが、芹香の脳裏に焼き付いた。