毒卯木2
「神尾さん」
身震いした萌を気遣うように伊東が声をかけた。
すると川上が笑い出す。
「何だよ? どうして未だ神尾さんなんだ?」
「え」
「俺だって萌ちゃんって呼んでるんだ。君もほら、萌ちゃんって呼びなよ」
どうしてか伊東は赤くなった。
「え、でも、神尾さんが嫌がったら……」
「別に嫌じゃないよ」
ショックを隠そうと萌は再び無理矢理笑った。
「それより、あたしが萌ちゃんで、伊東君が伊東君って言うの、川上さんこそ変じゃない?」
「おう、言われりゃそうだ。じゃ、俺も君を下の名前で呼ぶよ。えっと、櫂?」
「はい」
「萌ちゃんも、櫂って呼ぶんだぞ」
「ええっ」
少し気恥ずかしい。
「櫂……くん? 櫂ちゃん?」
ちゃん付けすると、高津と少し似た響きになる。
「いいよ、呼び捨てで」
にっこり笑った顔に、仕方なく頷く。
「でも、学校では伊東君ね?」
かつて、高津をうっかり圭ちゃんと呼んだときの周囲の反応は、思い出しただけでもぞっとする。
「俺は学校でも萌って呼ぶよ」
「え……」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……」
少し笑った伊東は、しかしすぐに真顔になった。
「この間、連絡くれなかったときに入院した人って、その人だったんだね」
「……うん」
川上が肩をすくめた。
「俺、見舞いにも行ってないんだよ。失敗したなあ」
「あたしも行ってないですよ」
「え、そうなんだ」
「何か、来て欲しくなさそうだったし」
それを思うと少し胸が痛んだ。
「そりゃまあ、医者が入院なんて恥ずかしいだろうさ」
伊東が目を丸くした。
「その人、お医者さん? 業界の人じゃなくて?」
「うん」
「あんなに格好いいのに?」
川上が顔を上げた。
「君もあいつを知ってるのか」
「ちらっと見たことがある程度ですけど、目立つ人だったから」
川上が肩をすくめた。
「ほんと、あいつを見るとやるせなくなるよな。二枚目で頭が良くて金持ちで、運動も出来て、ステータスもあって。だからたまに呪ってやるんだ」
「え?」
「水虫になって苦しめ、とか、鼻の頭を蚊に噛まれろ、とかさ」
二人は笑った。
「いいじゃないですか、川上さんは料理が上手いから」
伊東が言うと、川上はじろりと睨む。
「あいつも多分、無茶苦茶器用な奴だから料理は上手いと思う。店を出したときに手伝ってもらったけど、少し練習しただけでプロ並みにニンジンカットしてたし」
萌は思わず口を挟む。
「詩織さんが上手だから、自分は作らないって言ってましたよ」
「そう言ってるだけで詩織より旨い物を作れる腕を持ってる。そもそも刃物の扱いは常人よりは上手だろう、毎日肉をさばいてるんだからな」
「村山さんってお医者さんなのにお肉屋さんも兼ねてるの?」
怪訝な顔の伊東に首を振る。
「ううん、外科医だから」
「……へえ」
伊東が眉をしかめる。
「で、詩織さんて、その人の彼女か何か?」
「奥さん」
「……あ」
ばつの悪そうな顔をされたのが嫌で、萌はにっこりと笑う。
「とっても素敵な人なの、気さくでふんわりした感じで」
「そうそう、あの子は本当にいい子だ」
頷きながら、川上は顎をしゃくった。
「ま、前座はそんなぐらいにして、そこの机を見ろ」
振り向くと、端にあった二人席にノートが二冊置いてある。
「頼まれてたのを出しておいた」
「ありがとうございます!」
萌は喜んだ。
川上のノートは、土地の年寄りから聞き取った伝承の宝庫だ。
彼はどうしてかテープ起こしをしない。
その場で、自分の手で言葉を文字にする。
「うわ、変体仮名だ」
「むしろくさび形文字じゃないかな」
「……うるさい」
そのため、文字は時に乱れ、読む際に想像力を働かせないとわからないことも多い。
「青いノートの三つ目ぐらいに大蛇の話がある」
「八岐大蛇?」
「いや、頭は二つ……いや、舌が二つに分かれてるんだったかな?」
伊東が笑った。
「それって普通の蛇です」
「うん、でも大きさは半端なさそうだから、そっち系の話には違いない」
時々彼は色んな話が交錯することがあるので、本当のところは読むまでのお楽しみだ。
「緑のノートは終わりの方に、二本足で立つヤモリに守られた陸の竜宮城もどきの話がある。とりあえずはこんなのでどうだ?」
「ありがとうございます!」
萌は再び礼を言って、青のノートをめくる。
解読に時間がかかるので、短い話でも手応えがあった。