播種3
「どうする? どうしても嫌ならウーロン茶でもいいぞ?」
「……いえ、生中を」
いいチャンスかもしれないと彼は思った。
篠田には聴きたいことがあったのだが、きっかけがつかめなかったのだ。
「とりあえず焼き鳥盛り合わせと、唐揚げ、海の幸のシーザーサラダ、ゴーヤチャンプル、それと快気祝いに鯛づくし三点セット」
篠田がドラゴンズの話を始めたが、村山が野球をあまり知らないことがわかると、何となく厚労省の通達や学会の話になった。
と言っても篠田が好んだのは学術的な話ではなく、海外の学会で壮年の脳外科の医師を見るとほとんどが禿げているから、万が一頭を開くことになったら、縫い目はさぞかし気を遣わねばならないだろう、などの与太話だ。
「……にしても、頭だけ見ても年齢がわからんのは困る。日本人なら、禿げてたら俺より年上だと思ってあまり間違いはないしな」
そうして話題は髪の話から、篠田が散髪に行くと決めている曜日の話や年齢の話、そして引き時の話に変わる。
「……ま、医師に定年がないのは多少の問題があるよな」
早い段階で焼酎に移行していた篠田がそれを一口飲んだ。
「特に外科なんて無理がある、俺も五年後くらいにはきっと引退を考えると思うよ」
寡黙な明石が自分から進んで話すことはなかったので、会話は自然に篠田と村山が主体となった。
「四十代はまだ全然大丈夫でしょう」
「いや、腰は痛いし、スタミナもない。これで老眼が入ったらもう駄目さ」
「拡大鏡があるじゃないですか」
「問題は疲れ目だ。俺も内科にしときゃあよかったな」
村山はかすかに目を細める。
「……院長はあと十年ぐらいやってそうですよね」
席の近くは人がいない。
入り口にサラリーマンの一団が陣取り、大きな声で笑っていたが会話の内容まではわからない距離だ。
「村山の一族は平均寿命より長生きだし、死ぬ直前まで差配してるようなのが多いからな」
「桐原は早い?」
「女は長いが男は短い。そのくせ健康に無頓着な奴が多い。桐原の小父さんがいい例だ」
「はい」
村山は一口ビールを飲んだ。
「その、院長の役職の件ですが」
「おお、ついにやる気になったか」
彼は軽く笑って見せた。
「俺、思ったんですが、篠田先生がなさってはいかがでしょう?」
焼き鳥を持った手を止め、相手は驚いた顔でこちらを見た。
「はあ?」
そうして、何を言ってるんだというような顔で肩をすくめる。
「有資格者が無資格者に対して、そういう無責任なことを言っちゃいけない」
「先生は有資格者です」
篠田は何故か、横にいた明石をにらみつける。
「お前、ICUで涼君の頭をハンマーで殴ったんじゃないか?」
「滅相もありません」
「でなきゃ、おかしな薬を盛ったかだ」
「妄想癖は治してください」
村山は首を振った。
「前から漠然とは考えてたんです。具体的に形になったのは入院中ですが」
彼はコップをおいた。
「元々、村山と桐原は順番に院長を務めてきました。だから次は桐原がやらやきゃいけない」
「お前と話してると、院長職がババみたいだな」
彼は焼き鳥をようやく口に入れた。
「……あと、言っておくが、俺は桐原じゃない、篠田だ」
「桐原の一族じゃないですか」
篠田は焼き鳥を一串食べ終わると、彼の方をゆっくりと見やった。
「一つ、昔話をしようじゃないか」
「え?」
「我々も、昔は直系かその近くの桐原が次に院長職を継ぐと思ってた。だから詩織か、あるいは同じ又従姉妹の弥生ちゃんか市子ちゃんが院長になるのだと小さい頃から聞かされていた」
彼は店員を呼んで、全員の分のドリンクを頼んだ。
「しかし、弥生ちゃんも市子ちゃんも英文科だか法学部だかに入っちまった。そして本家の桐原では真由子おばさんが亡くなり、お祖母さんも具合が悪くなった」
弥生と市子は詩織の祖父の弟の孫、真由子おばさんと言うのは詩織の母親の名だ。
「桐原のおじさんは、本来なら再婚でもするか、あるいは住み込みの家政婦でも雇って詩織にそれなりの教育をつけるべきだったんだが、そうしなかったんだよ」
「ハウスキーピングを頼んだのはその頃からだったように記憶していますが」
「ああ、だが、食事や洗濯の負担は全部詩織に行ったんだ。あいつは馬鹿ではないが、そんな状態で今どき医学部に入れる訳もないからって、親戚中で桐原のおじさんをなじったんだが、彼はそれをやめさせなかった。詩織は医者になりたくないって言ってるから、今のままの学力でいいし、それより家庭教育が大切だって」
そんなことがあったかもしれない。
「まあ、桐原は昔から女の躾には厳しい家ってのもあって、あんまり外に娘を出すことを良しとしない。それもあって親戚は黙ったんだが」
篠田はふと顔をしかめる。
「今にして思えば、おじさんは詩織に甘えてたんだろうな。下宿させてまで医学部に入れるのも嫌だし、ずっと手元に置いておきたいってさ」
彼は村山を見やった。
「あいつが高校生の時、お前と婚約するとかしないとかあって、あのとき、おじさん、もの凄く反対しただろ?」
「はい」
「あれ、相手が他の誰でも反対したと思うぞ。おじさんからしたら、詩織の周りの男なんて、みんな蠅に見えたろうから」
それは事実とは違う。
桐原は彼が頼りないから反対したのだ。
(あるいは、哀れで無力な生け贄の羊に同情しこそすれ、娘を与える気にはなれなかったか……)
今ならわかる。
桐原は彼と修造の関係に気づいていた。だから彼をずっと憐れんでいた……
「ま、そういう訳で、桐原の一族は詩織を院長にするのを諦めた。だが、桐原のおじさんが亡くなってからは、自分たちで次の一手を強引に画策しようとしたんだ」
「次の一手?」
彼は緊張してその言葉を待つ。
その名がわかれば、彼はその相手をバックアップすればいい。
「ある一派は志村を推した」
「……ああ」
村山は頷く。志村は篠田よりももっと遠いとはいえ、一応桐原系と言えなくもない。
「だが、明らかにあいつは野心家だったから、この病院の理念からは遠いと考える者も多く、その他の派はおじさんの生前、生後を問わず、詩織にいい婿養子を探した」
「え?」
「何だ、知らなかったのか?」
「……俺はその頃京都にいたし、詩織は何も言いませんでしたから」
言いながら村山は明石に視線を送る。
こんな内輪同士の会話では退屈だろうと思ったのだ。
「ああ、こいつなら大丈夫だ。酒の量が一定を越えない限り、どんな話題でもこんな感じだからな。それに口は固い。相手を見て物を言うから心配ない」
さらっと篠田が彼の懸念を切って捨てた時、頼んでいた焼酎とビール二つが届いた。