退院2
ただ、そのことについては、彼が目覚めた何日か後に明石が言い訳がましくこう言った。
「院長はああ言ったが、とんでもない話だ」
内科に来たついでに立ち寄ったと言いながら、明石はベッドサイドに座った。
既にある程度回復していた村山は、ベッドを動かさずに腹筋で身体を起こす。
筋肉が一気に落ちたので、とにかくリハビリしないといけない。
病院内を歩き回ると視線が痛いので、一応部屋の中だけをぐるぐると歩き回っているが、それだけではやはり足りなかった。
「……本当に俺は困ってるんだ」
「どういう事です?」
一応社交辞令の言葉を発する。
「お前がやってた病棟勤務を代わりに彼らがやるってことは、それだけ俺のストレスが増すということだろうが」
明石のことだから、歯に衣を着せずにがんがん文句を言っているのだろうが、それで素直に言うことを聴くような相手でもない。その辺りがストレスの要因だろう。
「過去十年は少なくともそれでやってきたという自信で凝り固まってる。そして、そういう奴に限って、自分が時代遅れであることに気づかない」
医師が大変なのは技術の進歩が早すぎて、覚えたことが片っ端から過去の遺物になっていくことである。
検査機器についてもそうだし、日々変わるガイドラインもそうだ。
「患者診ないでモニターとにらめっこしたり、原理を理解しないで機器の数字を鵜呑みにしたり、何でもかんでも検査結果が遅いせいにする。そのくせアルゴリズム通りだって言い訳ばっかりするんだ」
「仕方ないですよ、外科技術は他のセクションよりも経験が物を言いますから、ついそんな感じになって……」
「手技だって一緒だ」
明石は眉間にしわを寄せる。
「間違いは誰にでもあるし、数だけの事を言えば、俺なんかそこいらの外科医の数倍以上失敗してる。……だが、同じ失敗は二度しちゃいかん」
彼は小さく溜息をついた。
「センスがない上に、学ぶ気もやる気も全然ない人間なんて外科にいるべきじゃない」
明石にしては珍しい愚痴だ。余程参っているのか。
それとも饒舌なのには、何か裏があるのか……
「先生が凄すぎるんです。もう少し寛容に見て頂かないと」
明石は肩をすくめた。
「言っておくが、俺にセンスは皆無だ。運とやる気だけで何とかやってる。……お前と違ってな」
村山は小さく首を振り、そして話題を変える。
「手術のローテーションは?」
「何とかはなってる。事情を説明して日を変えてもらったものも一つ二つあるが、部長の紹介患者を突然割り込ませたりすることに比べれば実害は少ない」
「ご迷惑をおかけして済みません」
言いながらも思う。
今でも何とかなっているのなら、今までもこれからも彼の不在は問題はないと……
「馬鹿野郎、何て顔してるっ!」
途端、明石がしかめっ面をした。
「迷惑かけてる自覚があるなら、とっとと治してさっさと働けっ」
「済みません」
言った途端に、笑い声が外で起こり、ノックと共に看護師が数人入ってきた。
「明石先生、患者さんを怒鳴ったら駄目です」
「そうそう、現場復帰する気力がどんどん失われますよ」
この三人の女性は時々彼の様子を見に来た。
明らかに勤務とは関係なしなので、何となく監視されているようで嫌だったが、うわさ話のネタになるような事をしでかしたのだから仕方ないと村山は諦めていた。
もちろん彼女らばかりではない。
病院中は知った人間ばかりだったので、彼が回復したという噂を聞きつけた同僚たちが頻繁に顔を見せた。
正直面倒くさかったので、寝たふりをしようかと何度も思ったが、後で考えると案外それは興味深い事実を示唆していたことに気づく。
割と親しかった整形外科の山中辺りは別としても、来る医師たちにはパターンがあった。
仕事でよく一緒になる、例えば麻酔科の医師たち。
その医師にくっついてくる、顔は知っているがあまり親しくはなかったような医師の集団。
篠田のような、ほとんど親戚の医師。
その親戚たちについてくる、まったく話もしたことがないような医師の一団。
そうして、見舞いに来ない集団……ある意味彼からは隔絶した位置を保とうとしている、例えば一外の部長や医長。
選挙運動ではないが、彼が院長になったときの繋がりを考えたり、あるいはなってもらいたいと思っている者たちがここに来た。
そして、一線を画しているのは明らかに志村派だ……
「……そんなに大勢で何しに来た? 暇なんだったら今から外科病棟に来い。吐くほど仕事をもらえるぞ」
明石の厭味も通じず、看護師たちは笑った。
「え、本当ですか? 明石先生が個人指導してくれるんだったら私、行きますっ!」
「わかった。師長にお前らを自由に使っていいと申し送りしておく」
「……って言うか、私たちもう勤務時間外なんですよ」
「だったら、とっとと帰れ、総師長を呼ぶぞ」
病院にあるまじき嬌声がする。
「そう、それが私たちのストレスの元なんですって」
一人が小声で言った。
「最近、頻繁にこの辺りをうろうろするから緊張して緊張して……」
「そもそも何で村山先生だけ、プライマリーナーシングなんです? みんな、総師長、ずるいって怒ってるんですからね」
プライマリーナーシングとは、一人の看護師が一人の患者を看るシステムだ。
村山は本当に特別のことだが、総師長が彼の看護を引き受けてくれていた。
そしてそれは、彼の身体の傷や、あるいは立場を考えた中田の気遣いだったろう。
「そりゃ、清拭とか尿瓶とか、知り合いの若い女にそんなのされるのはこいつだって嫌だろうが」
「看護は仕事なんだから、気を遣いすぎだと思います」
「妊娠したとき、この病院では内診が嫌だとか絶対言うなよ」
きゃあきゃあと喜ぶ女性達に、村山は曖昧な笑みを浮かべる。
以前だったら、自分の身体を同じ病院の看護師や医師に見られるなんて絶対に嫌だったが、今は正直どうでもいい。
(……どうやら俺は、恥を海に落としてきたらしい)
プライマリーナーシングで良かったのは、総師長が無駄話をしない女性だと言うこと、プライベートに口を出さないということ、引き継ぎ不足で何度も同じ事を聴かれなくてもいいと言う事だ。
そしてそれは、今の彼にはかなり重要だった。
「じゃ、俺は戻るが」
かしましい女性達に辟易してか、明石は彼をちらりと見て立ち上がる。
「面会謝絶の札が欲しけりゃ、取ってきてやるぞ? そうすりゃ、こういううるさいのが来なくて済む」
「ええっ、ひどーい」
女性達の応酬の中、村山は強いて微笑んだ。
「……こんな遠いところまで済みませんでした。忙しいのわかってるから、あまり気を遣わないでください」
「こっちに用事があったから来たと言ったろ? ほらっ、お前らもさっさと出て行け!」
明石は三人を追い立てるように部屋を出て行く。
そうしてちらりと村山を一瞥する。
「……?」
その眼は何故か不安げに見えた。
それが村山にはどうしてか不思議で……