空を飛びたい金魚
金魚は真夜中に空を飛ぶ夢を見る。
昼間の金魚はどこへも行けない。
「あの空を本当に飛ぶことができたら、わたしはどんなに幸せだろう」
昼間の金魚はいつもそう思う。
金魚は夜が待ち遠しい。
太陽のひかりが穏やかに降り注ぐ、静かな昼下がりなども金魚は嫌いではなかった。ゆったりとした時間は優しい気持ちになれる。そんな時金魚は、ひとり歌を歌ったりして過ごす。
でも軒下の、金魚の暮らしている小さな家からはいろいろなものが見えすぎた。 盗みをしている猫や残飯を漁るカラスや首を縛られた犬やなんかだ。
そういうものを見ると、金魚は胸のあたりに何か重いかたまりを感じた。
金魚はそのかたまりが好きではなかった。それは金魚の体から、いつもちょっとだけ力を奪いとるのだ。力を奪われると歌を歌う気にもなれない。そんな時金魚は、小さな家の底でじっとしているしかなかった。
だから金魚は自分の住んでいるこの場所をあまり好きになれなかった。
夢の中の金魚はどこまでも空を飛んでいった。
空には壁がないから、どんなふうにだって飛ぶことができる。ぐるぐると何度も回転したり、すごい速さで雲のあいだを昇ったり降りたりして遊んだ。
疲れることなんてなかったから、月にまでだって飛んでいくことができた。月には自分のほかにも空を飛べる金魚がたくさんいて、みんなで飽きるまで遊ぶことができた。そして実際のところ、金魚は飽きたことなんて一度としてなかった。
夢の中で遊ぶのが楽しければ楽しいほど、金魚は昼が嫌いになっていった。
金魚には嫌いなものがたくさんある。
自分を取り囲む透明の壁、明け方の夢を引き裂くカラスたちのとがった声、そして、金魚の小さな家の底に沈むもの。
金魚はその底に沈むものをがらくたたちと呼んでいた。
金魚がそこに住み始めたころにはがらくたなんかひとつもなくて、家は今よりずっと広く澄んでいた。でもいつからか、誰かが金魚の家を訪れては、いろいろなものを放り投げていくようになったのだ。
ぽちゃん、という音をたてて水の中に入ったそれは、ゆらゆらとゆらめいて底に落ちていく。
光が反射してきれいに輝くものもあった。
見るからに刺々しいものもあった。
どっちにしろ底に沈みきってしまえば、金魚にとってはただのがらくただった。
がらくたはどんどん積み重なり、金魚の家を少しずつ狭くしていった。
家は狭くなっていくというのに、反対に金魚の体は少しずつ大きくなっていった。金魚はちょっと泳いだだけで、すぐに壁に体をぶつけてしまうようになった。壁は硬く冷たく金魚を拒絶する。
頭の上にどこまでも広がる青色の空と、そこに気持ち良さそうに流れる雲を眺めて金魚は思う。
「あの空を本当に飛ぶことができたら、わたしはどんなに幸せだろう」
空を飛ぶことを考えると金魚の気持ちは空の色で満たされて、体はまた少し大きくなる。
「おやめなさい」
突然の声に金魚は驚いた。
振り返ると、そこに白色の猫がいた。
白色の猫はまるまると太っている。
「空を飛ぼうなんて思うのはおやめなさい」
白色の猫の声は、春の朝の風で運ばれてくる花の香りのように柔らかかった。
「あなたはどうしてわたしの思っていることが分かるの?」
「私には何でも分かります。私は二千年生きている猫。いろいろなものを見てきました。私は何でも知っています。羽を持たない者は空を飛ぼうなんて思ってはいけません。空を飛ぶ金魚が今までにいたと思う? そんな願いは自分を苦しめるだけ」
白色の猫は前足で金魚の家の壁を撫でた。
「どうして金魚は空を飛ぶことができないの? わたしはもうこの家には耐えられないの。意地汚いカラスでさえ空を飛ぶことができるのに、どうしてわたしは飛べないの? ねえ、あまりにも不公平だわ」
「決まりなのです」
白色の猫は言った。
「そういう決まりなのです。金魚は空を飛べません。飛ぶ必要もありません。ずっと昔から決まっていることなのです」
「そんなきまりなんて嫌よ。わたしは空を飛びたいの」
「叶わぬ願いは忘れなさい。ごらん、空を飛びたいと願うたびに、お前の体は大きくなっていくではありませんか。空を飛ぼうなんて考えるのはやめなさい。でないとお前の体はますます大きくなって、この小さな家に入りきらなくなってしまいます。家に入りきらない、空も飛べない。そうなったらどうするのです? 自分を苦しめるのは今すぐやめなさい。お前はそのままでいいのです」
白色の猫はそう言って微笑んだ。
「でも」
金魚はそう言ってみたけれど、あとに続く言葉が見つからなかった。
「私は正しいのです」
白色の猫は言った。
「私を信じなさい。大丈夫です。私を信じればお前は幸せになれるのですよ」
「信じるってどういうこと?」
「否定しないこと。何も考えないこと。私の言葉に従うということです」
「でもわたしは」
「強い思いは時に正しくないものを引き寄せます。あまり何かをしたがったり欲しがったりしてはいけない。気をつけなさい」
そう言うと白色の猫は軒下を去って行った。
金魚は白色の猫の言ったことを考えてみた。
白色の猫は、私は正しい、と優しく言った。
金魚は正しいということについて考えた。
正しいとは一体どういうことなのだろう。
わたしが空を飛びたいと願うことは間違っている?
空を飛ぶ夢を見るということは正しくないのだろうか。
きっと白色の猫の言うとおりなのだろうと金魚は思った。
わたしは小さな家に住む一匹の金魚。ここから出ることはできない。
白色の猫は、私を信じなさい、と言った。
優しいけれど、つよい力のある言葉だった。
それからしばらくしたある日、軒下に一羽のカラスがやって来た。
金魚はカラスが大嫌いだった。金魚はがらくたたちの陰に体を隠した。
そのカラスは、金魚がいつも見るカラスたちとは違っていた。ほかのカラスよりもとても大きくて、灰色だった。
金魚は恐ろしかった。胸の中のかたまりが膨らみはじめた。
灰色のカラスは金魚の家の淵に両足をかけて、家の中を覗き込んだ。
金魚は灰色のカラスを見ないようにした。
「飛び方を教えてやろうか」
灰色のカラスが言った。その太く低い声は金魚の家の中の水を震わせた。
金魚は思わず灰色のカラスを見上げた。
灰色のカラスは冷たそうな目で金魚を見つめている。
「空を飛びたいんだろう?」
金魚は灰色のカラスから目をそらした。
「いいえ、わたしは空なんか飛びたくありません」
「ほう」
そう言うとカラスは黙った。じっと金魚を見つめている。
「わたしは金魚です。金魚は空を飛べません。飛ぶ必要もありません」
沈黙に耐えきれず金魚は言った。
「嘘をつくな」
「わたしは嘘なんてついていません」
「お前は私を呼んだ」
「わたしはあなたを呼んでなんかいません」
「呼んだのだ。お前の空を飛びたいという思いが私を呼び寄せたのだ」
「いいえ、わたしはこのままでいいのです。叶わぬ願いはわたしを苦しめるのです。どうかわたしをそっとしておいてください」
「自分を偽るのは罪だとは思わないか?」
「いつわってなんか……」
「飛び方を知りたくないのか?」
金魚はもう一度灰色のカラスを見上げた。灰色のカラスは無表情で金魚を見下ろしている。
「わたしでも空を飛ぶことができるの? 本当に?」
「飛べる」
灰色のカラスは静かに言った。
灰色のカラスのその言葉だけで、金魚は自分の体が少し軽くなった気がした。
「いったいどうすれば飛べるの? 教えて」
「空を飛ぶには、自分は空を飛ぶことができると分かればいい」
「分かる? それは信じるということ?」
「信じるのではない。信じるということには信じないということも含まれている。信じないということが含まれている限り、信じるということで空を飛ぶことはできない。ただ分かればいいのだ」
「どうすればわたしは空を飛べると分かるの?」
「空を飛ぶことだ。空を飛べば自分は空を飛べるということが分かる。物事は信じるのではない、ただ、分かるのだ。お前は空が青いと分かっている。自分は水の中を泳げると分かっている。信じているのではない」
「分からないわ。空を飛べば空を飛ぶことができるだなんて」
「ただ飛べばいい。それだけだ」
そう言うと、灰色のカラスは大きな羽を広げて空へ飛び立った。
金魚は考えた。
いくら考えても灰色のカラスの言ったことはよく分からなかった。分からなかったが、灰色のカラスは飛べると言ったのだ。
本当だろうか? もしも本当に飛ぶことができるのなら……。
金魚の気持ちはどんどん空の色で満たされていった。
家の中にがらくたがまたひとつ増えた日、金魚は空をめがけて飛んだ。
息ができなくて苦しかった。体の自由がきかない。飛びたい。金魚は力の限り自分の胸ひれと尾ひれをばたつかせた。うろこがはがれるのが分かった。どんなに力をこめてひれを動かしても、金魚の体はちっとも浮きやしない。
自分の家へ帰ることさえできない。苦しい。地面とこすれて体が痛い。飛びたい。また一枚うろこがはがれる。その感触で金魚の気持ちはみるみるうちにしぼんでいった。かわりに胸の中の重いかたまりが大きく膨れあがった。
もうだめだ。
「助けて」
金魚は叫んだ。
誰からの返事も無い。
金魚の声はどこへも届かない。体が乾いていく。
「誰か助けて」
声にも力がなくなった。頭の中が白くなっていく。
その時、金魚はひかり輝くものを見た。
それは自分の家の底に沈むがらくたたちだった。がらくたたちは太陽の光を反射して、まぶしく輝いていた。
きれい。
わたしはあんなにきれいなものを持っていたんだ。
金魚の白くなった頭の中に浮かんだのは、そんなことだった。
「だから言ったではないですか」
白色の猫が言った。
「ここは?」
金魚は空の夢を見ていた。
ここがどこで自分が誰なのか、一瞬、金魚は分からなかった。
そうだ、わたしは家から飛び出して……。
「助かったの? わたし……」
「私が助けました。私はいつでもお前を見守っているのですよ」
「あなたが……。ありがとう、白色の猫さん」
金魚は自分が家の中にいるということが、とてもすばらしいことだと思った。
体のあちこちが痛かった。その痛みも今となっては、生きていることを感じさせてくれる嬉しいものだった。
「お前は私の言ったことを信じなかった」
白色の猫が悲しそうな目をして言った。
「ごめんなさい白色の猫さん。わたしやっぱりどうしても飛びたかったの。もしかしたらわたしでも飛べるかも知れないと考えたら、飛ばずにはいられなかったのよ。でもわたしが間違っていました。灰色のカラスの言うことを信じたわたしが愚かだったわ。全くなんて馬鹿なことをしたのかしら。もう空を飛ぼうなんて思わない。わたしはここで生きていきます」
「灰色のカラスには気をつけなさい。他のものを信じるのは危険です。お前は私だけを信じていれば良いのですよ」
「はい。それにわたし、ここのがらくたたちがとてもきれいだということも分かったの。そうでしょう?」
「ええ。お前はとてもきれいなものをたくさん持っています。それを大切にしなさい」
「ありがとう白色の猫さん」
金魚は自分の小さな家の大切さと、がらくたたちのきれいさを知った。
それから毎日、金魚はとても穏やかな気持ちでいることができた。
がらくたたちをつついたりながめたり、歌を歌ったりして過ごした。
胸の中のかたまりはなくならなかったけれど、かたまりの隣には小さな花が咲いた。金魚はその花を大好きになった。
「飛べなかったようだな」
しばらくして、また灰色のカラスがやって来て言った。
金魚は何も応えなかった。
「お前には迷いがあった。疑いがあった。私を信じようと思った。だから飛べなかったのだ。言っただろう、ただ飛べば良かったのだ」
金魚は何も喋りたくなかった。この灰色のカラスのせいで死んでしまうところだったのだ。金魚は家の底のがらくたたちを口でつついたりして、灰色のカラスに目を向けなかった。
「お前はもう、ただ飛ぶということはできない。一度失敗してしまったからな。お前の胸には恐怖が刻み込まれた。恐れる心がある限りもうひとりで飛ぶことはできない」
「もう飛ぶつもりなんかないわ」
相変わらずでたらめなことばかり言っている灰色のカラスに、我慢しきれなくなって金魚が言った。
「胸の中に花が咲いたの。小さくてかわいい花よ。わたしはそれを大切にして生きるわ。お願いだからもうわたしにかまわないでちょうだい」
「お前が私を呼んでいるのだよ。私はお前に呼ばれてやって来るのだ」
「がらくたたちだってあるわ。わたしはここが好きになったのよ」
「もうひとつだけ、お前が空を飛ぶ方法がある」
灰色のカラスが言った。
金魚は何も応えなかった。
「もっと簡単な方法だ。失敗もしない」
「お願いだからいなくなって」
金魚はもう心を悩ますのは嫌だった。
灰色のカラスの言うことは聞きたくなかった。
「嵐が来る」
灰色のカラスが空を見上げて言った。
嵐は花を散らす。
金魚の目の前を、風にちぎられたいろいろな色の花びらが舞い散っていく。金魚の胸の中のかたまりと同じ色の空に、それらはひらひらと線を引いては消えていった。
あの花たちは誰の胸の中に咲いていたんだろう。
そう考えると金魚は、かたまりがまた大きくなってうごめくのが分かった。
隣に咲いている花が、かたまりに押しつぶさてしまうのではないかと思った。
もしかしたらもう花は散ってしまったかも知れないと心配になった。
「ねえ、花さん、大丈夫?」
しかし小さく震えた金魚の声は、怒ったような風の音に飲み込まれてしまった。
花からの返事はない。
金魚の胸の中のかたまりがうごめく。
かたまりの動きを止めようとしても、金魚の力ではどうにもできない。それどころか止めようと思えば思うほど、かたまりは大きくなっていくみたいだった。
怖い。金魚はわけの分からない怖さを感じた。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。きっと胸の中の小さな花は散ってしまったんだ。
金魚はこんな時にはどうすれば良いのか知らなかった。
金魚はがらくたたちに体をよせた。かたまりは金魚から力を奪った。かたまりがもっとどんどん大きくなって、自分の体を破裂させてしまえばいいと思った。そうなればもう何も怖がらなくて済む。
金魚の小さな家のがらくたたちは、空の色を映してきれいではなかった。
やはりがらくたはがらくたでしかないのだ。
わたしは何も持ってない。
わたしはどこへも行けない。
金魚はそう思った。
その時、金魚は空にひときわ美しい花を見た。
その花はまるで風に逆らうように舞っていた。
花はひらひらと金魚の家に降りてきた。
その花は黒い色をしていて、紫の模様がついていた。表面の金色の粉が風に散らばって、あたりを輝かせた。
「なんて美しい花なんでしょう」
金魚は風の音が遠くなったような気がした。
「僕は花じゃない、蝶だよ。僕は黒色の蝶」
花だと思っていたものが言った。
「……黒色の、蝶?」
金魚はその金色に輝く黒い羽をじっと見つめた。
風の音は聞こえなくなり、金魚は金色に包まれた。
黒色の蝶しか見えなくなった。
「少しここで休ませてくれないかな?」
黒色の蝶は尋ねた。
その声はまるで青い空だ、金魚は思った。
「全然かまわないわ、黒色の蝶さん。わたしひとりで怖かったの。ひとりでどうしていいか全然分からなかったのよ。あなたにいてもらえるとわたしも嬉しいわ」
「怖い? 大丈夫、怖がることはないよ。ただの嵐だ。すぐに過ぎるよ」
「でもとても怖かったのよ。わたしの胸の中のかたまりが大きくなって暴れるの。きっと小さな花は散ってしまったわ」
「花はちゃんと咲いている。僕はその花を見つけてここに来たんだ」
「わたしの花を? あなたには見えるの?」
「見えるさ」
「ほんとに?」
「今はそのかたまりの陰に隠れてしまってるだけ。僕にはちゃんと見えるよ」
「良かった」
「安心して。嵐はすぐに過ぎる。かたまりも暴れなくなるよ」
金魚は胸の中のかたまりがおとなしくなっていくのを感じた。黒色の蝶の言うことは本当だった。黒色の蝶の不思議なちからのおかげなのだと思った。
「あなたはなんでも知っているのね」
「僕が? 僕は何も知らないよ。知らないから旅をしてるんだ」
「旅を? あなたは一体どこからやって来たの?」
「南の国。海を渡ってやって来たんだ」
「そんな小さな羽で? あなたのその羽は海を越えることもできるの?」
「風と友達なんだ。風に乗ればどこまででも行ける。今日はさすがに強すぎるけどね」
「あなたの羽、とてもきれい」
「君の花もきれいだよ。僕はきれいな花が好きなんだ」
「ありがとう、嬉しい。初めてよ、そんなこと言われたの」
金魚は黒色の蝶と話していると、自分の胸の中の花も金色に輝いているような気がした。
「ねえ、黒色の蝶さん、あなたの旅の話を聞かせて」
金魚は黒色の蝶にお願いした。
金魚は黒色の蝶からたくさんの話を聞いた。金魚の知らない国の知らないお話だった。金魚は自分が空を飛んで旅をしているような気持ちになった。自分が小さな家にいることも、ひどい嵐のことも忘れてしまった。
でもそれは長く続かなかった。
嵐はやがて去り、太陽のひかりがあたりを照らしはじめた。
黒色の蝶は、もう行かなくちゃ、と言った。
「楽しかったよ。ありがとう金魚さん」
「こちらこそ。とても楽しかったわ、黒色の蝶さん」
「次の風が吹いたら僕は行くよ」
金魚は風が吹かなければいいと思った。
風が吹いて黒色の蝶が去ってしまったら、わたしはまたひとりなのだ。
「ねえ黒色の蝶さん、わたしのこと、忘れないでね。お願いよ、他の国に行っても、他の誰かと出逢っても、わたしのことを忘れないでほしいの。たまには思い出してほしい。わたしには憶えていてくれる人が必要なの。わたしのこと忘れないで」
「大丈夫、僕は君を忘れない。安心して」
黒色の蝶は優しく言った。
風が吹いて、黒色の蝶は羽をひらいた。
「さようなら」
「さようなら、黒色の蝶さん」
それから毎日、金魚は黒色の蝶のことを思い出した。
金色に輝く黒い羽、明るくて優しくて、まるで空のような声。
彼が行ったといういろいろな国の話を思い出しては、自分がそこにいることを想像した。
いったい、この世界はどれくらい広いんだろう。いったいどれだけの色があるんだろう。黒色の蝶は今ごろどこにいるんだろう。
黒色の蝶のことを思い出すと、じっとしていられなかった。
金魚は小さな家の中を何度も行ったり来たりした。
風が吹くたび、黒色の蝶がやって来るかも知れないとそわそわした。
金魚は黒色の蝶に逢いたかった。
金魚は空を見上げていた。
灰色のカラスが空に現れた時、金魚は自分がそれを待っていたことに気がついた。
「もうひとつの方法って? どうすればわたしは飛べるの?」
金魚は灰色のカラスに尋ねた。
「私と飛ぶのだ」
灰色のカラスは言った。
「あなたと?」
「お前はもう自分の力で飛ぶことはできない。不安や恐怖を知った者はひとりでは飛べないのだ。私は空を飛ぶことができる。簡単だ、私の中に入れば良いのだ」
灰色のカラスの中に入る?
冗談じゃないと金魚は思った。あんな薄汚い灰色のカラスの中になんか絶対に入りたくない。だいいち灰色のカラスの中に入ってしまったら、全く自由に空を飛ぶことができないではないか。
「わたしはわたしのままで空を飛びたいのよ」
「それはもう無理だ」
金魚の小さな期待はなくなった。
「お前はお前のままでは飛べない」
「だったら」
金魚は叫んだ。
「だったらもうわたしの前には現れないで。わたしはわたしのままでいたいの。あなたの中になんか入りたくないわ。そんなの自由じゃない。黒色の蝶にだって逢えないじゃない。私は黒色の蝶に逢いたいの。それができないならもう空なんか飛べなくたっていいのよ」
「お前は腐りかけている。水が濁っていることに気がつかないのか? そこはもうお前のいるところではない」
「消えて。お願いだからもうわたしの前に現れないで」
金魚は叫んだ。叫ぶと胸の中のかたまりが大きくなった。かたまりが大きくなって、金魚はまた叫ぶ。
どんなに叫んでも、灰色のカラスはまるで表情を変えない。
「黒色の蝶なら」
灰色のカラスが言った。
「黒色の蝶なら、私の中にいる」
灰色のカラスが去ったあと、金魚は考えた。
灰色のカラスの中に黒色の蝶がいるというのは本当なんだろうか。灰色のカラスは黒色の蝶が望んだのだと言った。あの蝶は、時が来たのを知っていたのだと。
何事にも時がある。それを逃してはならない。
灰色のカラスはそう言った。
白色の猫が言った。
「灰色のカラスの言うことなどでたらめに決まっています。信じてはいけません。灰色のカラスの中になんて入ったら、真っ暗で何も見えないでしょう。それより、もしお前がその狭い家から出たいのなら、私の中にお入りなさい。私の中に入ればもう迷わなくてすみます。黒色の蝶のことも忘れられます。私の中に入れば、もう何も恐れるものはないのです」
「あなたの中に?」
「そうです。あのカラスと違って、私の中はひかりであふれています」
「でも」
「ずっと安らかな心でいられるのですよ」
「黒色の蝶のことは忘れてしまうの?」
「黒色の蝶なんて幻です。嵐がお前に幻を見させたのです。そんな幻は捨てなさい。私の中に入れば嫌なことは全て忘れられます。もう心を迷わさなくて良いのです。私は正しい。私の言う事を信じなさい」
白色の猫はそう言うと、小さな舌を出して口の周りを舐めまわした。
「教えてほしいの」
金魚は言った。
「あなたの中に入ることは正しいことなの?」
「正しい?」
灰色のカラスは不思議そうな顔をした。
「金魚が自分は正しいかどうかなんてことを考えるのか。ふん、どうせあの白色の猫の言葉だろう。あの猫はそうやってわざとお前を苦しめているのだ。お前を迷い苦しめて、自分の思いどおりにしようとしているのだ。どうして猫の言う事なんか聞こうとする? お前は金魚だ。空を飛びたい金魚だ。それで良いだろう。そしてお前は私の中に入れば飛べるのだ」
金魚は家の中をぐるぐるとまわった。
白色の猫と灰色のカラスと青色の空と黒色の蝶と透明な自分の家のことをかわるがわる考えた。
ぐるぐると何十周もまわり、また何十周もまわった。
目がまわって上も下も右も左も分からなくなって、しまいには何を悩んでいたのかも分からなくなった。それでも金魚はまわり続けた。
太陽と月が互い違いに空を入れかわり続ける。
金魚はまわり続けた。
「そんなところをまわっていたって、何も決められはしない」
灰色のカラスがやって来て言った。
「飛ぶか飛ばないか、それだけではないか。ぐるぐると小さな家の中をまわっていて何が分かる? そんなことをしていても、自分の体を腐らすだけだ」
金魚は止まらなかった。
「目をまわして悩みがなくなった金魚はいませんよ。止まりなさい。心を落ち着けるのです」
白色の猫がやって来て言った。
「灰色のカラスに騙されてはいけません。あのカラスは、手に入らないものを求めるお前の気持ちを利用して、誘惑しているのよ。灰色のカラスに騙されてはいけない。誘惑に負けてはならないのです」
金魚はまわり続けた。
月では空を飛ぶたくさんの金魚たちが自由気まま楽しそうに遊び黒色の蝶は風に乗り金色の粉をふりまく灰色のカラスと白色の猫はにらみあっているかぜとともだちになるんだよだまされてはいけないおまえはくさりはじめているただわかかればいいのだきんぎょのくせにわたしはにせんねんとべるとべるとべるただしいただしいわたしはただしいやすらかなこころわたしととぶのだだいじょうぶあんしんしてぼくはきみをわすれないわすれないわすれないきんぎょのくせにぼくはわすれないきれいなはななんてまぼろしですわたしはわたしのままでわたしのなかにいるまぼろしぼくはくろいろのちょうあんしんしてゆうわくにまけてはならないのですなにごとにもときがあるのですひかりであふれているのですしんじなさいあらしがくるだいじょうぶおまえのいるところではないおまえはおまえのままではとべない。
「あいかわらずうまいやりかただな」
灰色のカラスが言った。
「おだまりなさい。お前のほうこそ私のかわいい金魚を惑わすんじゃありません」
白色の猫が言った。
「飛びたいのはあの金魚の意志だ」
「身の程知らずな欲望だよ」
「二千年生きているくらいで正しさを説くな。お前も空を飛びたくないか?」
灰色のカラスはそう言って羽を広げた。
白色の猫は全身の毛を逆立てた。
「薄汚いカラスが私に指図するんじゃない」
白色の猫はそう叫ぶと、灰色のカラスに飛びかかった。羽を引っ掻き首筋に噛みつく。カラスの羽が飛び散った。
「醜く太った猫が」
灰色のカラスは大きくくちばしを開いた。
月が完璧に丸くなった静かな夜だった。
突然、金魚はまわるのをやめた。
灰色のカラスはもうそこにいた。
金魚には灰色のカラスがいつもよりもさらに大きく見えた。
「決心はついたか」
金魚はまだ恐ろしかった。胸の中の重いかたまりが大きく膨らむのを感じた。
やはりわたしは間違った事をしようとしているのだ。
そういう思いが大きくなった。
「時間がない。お前はもう腐りはじめている」
「ひとつだけ教えてほしいの」
金魚は力をふりしぼって声を出した。
「あなたの中に入っても、わたしはここのがらくたたちのことは忘れない? がらくたたちは相変わらずがらくただけど、それでも一緒に暮らして来たものなの。いつも一緒にいたのよ。見ているといろいろなことを思い出すの。ひとつひとつにわたしの記憶が入っているのよ。わたしの家に来た時の、音とか匂いとか光とか暑さとか寒さとか、一緒に暮らしていた時の、嬉しいとか恋しいとか哀しいとかの気持ちを思い出させてくれるの。空の夢を見ている時、いつもわたしのそばにあったのよ。それだけは忘れたくないわ。ねえそれだけは忘れたくないのよ」
金魚は体を震わせた。
「大丈夫だ」
灰色のカラスは静かに言った。
「そう願うかぎり、お前はがらくたたちのことは忘れない。忘れる事など出来はしないのだ。そればかりか、お前が思い出す時、それらは今よりずっと輝いて見えるだろう」
「本当に?」
「時間だ」
「待って。黒色の蝶には逢えるの? わたしはあなたの中で、あの黒色の蝶と本当にまた逢える?」
灰色のカラスは羽をひとふりして飛び、金魚の家の淵に鋭い爪のついた両足をかけた。固く冷たい音に胸を引っ掻かれて、金魚は目を閉じた。
「目を開けろ」
灰色のカラスは言った。
金魚は目を開いた。
そしてまっすぐに灰色のカラスを見た。
金魚は暗闇の中にいた。
今までに感じたことのない不思議な気持ちがした。体の感覚がなくなって、自分が暗闇に溶けていくのが分かった。胸の中のかたまりも柔らかくなって輪郭がぼやけていく。自分の意識も輪郭がぼやけていく。
金魚は笑うような叫ぶような泣くような声を聞いた。それは自分の声だった。
その虹色に染まった声は、灰色のカラスの声へ、それから白色の猫の声へと変化していった。そしてやがて黒色の蝶の声になり、黒色の蝶の声は歌になった。
その歌は、暗闇を青い空へと少しずつ変えていった。
おわり